古事記ビューアー

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しかくしてあめの 佐具売さぐめの鳥のことを聞きてあめわかかたりてひしく、 の鳥は、の鳴くおといとし。 かれころすべし」とすすむるに、 すなはち天若日子、あめ波士はじゆみあめ加久矢かくやち、其のきぎしころしき。 しかくして、其の矢雉の胸より通りて、さかしまがり、 あめのやすのかはの河原にいまあまてらすおほかみたかきのかみもといたりき。 の高木神は、たか産巣日むすひのかみことぞ。 故、高木神、其の矢を取りて見れば、血、其の矢の羽に着けり。 ここに高木神、らししく、 「此の矢は天若日子に賜へる矢ぞ」とのらして、 即ちもろもろかみたちしめしてらししく、 「もし天若日子、みことあやまたず、 しき神を射むとせし矢のいたりしにあらば、 天若日子にあたらずあれ。 もしきたなき心あらば、 天若日子、此の矢にまがれ」と云ひて、 其の矢を取りて其の矢の穴よりかへくだししかば、 天若日子があさとこいねたるたかむなさかに中りて死にき。 れ、かへりもとなり。 また其の雉かへらず。 故、今にことわざに雉のひた使つかひもとこれなり。

天佐具売 『日本書紀』九段正文に「天探女」とあり、「此には阿麻能左愚謎と云ふ」との訓注を付す。諸注で「サグ」は「探る」の語幹とされる。「天」が冠されるのは、天若日子に従って天から降りてきたからとする説(西宮集成)もあるが、『日本書紀』一書一には「時に国神有り、天探女と号ふ」ともある。『神趾名所小橋車』(一七八九年)所引の「摂津国風土記逸文」に、「難波高津者、天稚彦天降臨之時、属天稚彦而降臨天探女、乗磐舟而至于此」と見えるが、『古事記』『日本書紀』では天若日子降臨の場面にサグメの記載が無いので、天から降ってきたと判断することは出来ない。しかし『万葉集』巻三・二九二に「ひさかたの天の探女が石船の泊てし高津はあせにけるかも」と歌われているので、磐船に乗ったサグメが難波高津に降臨したという伝えは古くからあったようではある。このアメノサグメは後世のアマノジャクに当たるとされる。 鳴く音甚悪し 雉の名を「鳴女」とすることと関わるか。後文の天若日子の葬儀の場面には「雉を哭女とし」とあって「哭」字が使われているのは葬儀の際の役割と関係していると見られるので、この場合も「鳴女」はその鳴き声が問題となることと関連しているのであろう。雉鳴女は天照大御神・高御産巣日神の「詔命」を「委曲」に伝えた筈なのだが、天探女には(天若日子にも?)それが悪しき鳴き声としか聞こえなかった。つまりは聞く能力の欠如によって、死を招くという展開として読むことが出来る。 【補注解説二】参照。 天之波士弓・天之加久矢 前文に「天之麻迦古弓」「天之波々矢」とあった。「鹿児」は鹿等の獲物を捕る弓・矢の意とされるが、「迦古」「加久」については「光輝く」意とするもの(新編全集)もある。「波々」は、宣長等は「羽張矢」の意とするが、『古語拾遺』に「古語に、大蛇を羽々と謂ふ」とあるのを参考に、大蛇の意ととるものもある(新編全集『日本書紀』)。「はじ」は「はにし(黄櫨)」でハンノキの古名とされる(諸注)。
 天孫降臨条には「天之波士弓」「天之真鹿児矢」がみえ、天忍日命(大伴連等之祖)・天津久米命(久米直等之祖)がこれを手にして天孫の御前に仕え奉る様が記されている。『日本書紀』九段正文に「天鹿児弓・天羽羽矢」、一書一に「天鹿児弓・天真鹿児矢」。
高木神 神名の釈義について、記伝は「木は具比の切」で具比・具美・具牟と通う辞であり、「具牟は凡て物の初まり芽すを云辞」であって「芽ぐむ、涙ぐむ」のぐむだと説く。この見方からすれば万物の生成に関わる「ムスヒ」神と共通する意を持つ神名ということになるが、「木」をそのように解することは難しい。諸注では概ね神霊の依り代となる樹木の神としているが、神話との関係でこれを雷神とみる説(神田典城「高木神とタカミムスヒ」『記紀風土記論考』新典社、二〇一五年六月。初出は一九八二年一月)や、平定神としての高城神ととる説(坂本勝「高木神論」『古代文学』25号、一九八六年三月)もある。神話の途中で唐突に神名が変わる理由は明確ではない。記伝は、「強て云はば」として、元資料がこの前後で異なっている可能性を指摘し、高御産巣日神を太陽神として捉える西宮集成は、天照大御神と日神の神格が重なることを避けるためであるとしている。先の神田説では、矢を射返すのは落雷現象の神話化であり、天から矢を射るのは雷神である高木神でなければならないとする。また坂本説では反逆者(ここでは天若日子・後の神武記では熊野の荒神など)に対応する神である故に高木(城)神に名称が変わると説く。古事記ではこの場面以降は高木神で統一されているので、矢を射る行為のみで変換に理由を考えることは出来ないし、坂本説のように神武記にも共通の理由があるとしても、木を城で解釈する点には問題があろう。『古事記』に多く用いられる「亦名」ではなく、唯一「別名」が用いられる所以も含めて、更なる検討が必要である。なお、高御産巣日神と高木神と、どちらがより本来的な名であるかという点については、『日本書紀』が高皇産霊尊のまま変化しないことと、カムムスヒと対となる名であることにより、タカミムスヒを本来的な名ととる見方が多いが、戸谷高明は「巨木に対する信仰から生まれた『高木神』が造化神として昇格」してタカミムスヒが創出され、『日本書紀』はこの名で統一したのに対して、「『高木神』という名称をとどめたところに柔軟性をもった古事記の性格をみることができるかも知れない」(「ムスビ二神に關する考察」『古代文学の研究』桜楓社、一九六五年三月。初出は一九五九年一二月)と説いている。また三浦佑之も、ムスヒ神の元は神産巣日神の方であり、神産巣日神に並べるべく、高木神が高御産巣日神へと改名されたと論じている(「母なるカムムスヒ」『出雲神話論』二〇一九年一一月)。
 葦原中国平定から神武東征にかけて、高御産巣日神は天照大御神と並称される中で唐突な形で神名が変わるわけだが、やはりそれは天照大御神との関係性を抜きに考えることは出来ない。また、この場面から高御産巣日神が実質的に表側に出てきているのであり、それは「隠身」の神からの変質であるとする金井清一の見解も参考とすべきであろう(「身を隠したまふ神」『古事記編纂の論』花鳥社、二〇二二年一二月、初出は一九八五年九月)。
別名 『古事記』中で神・人名の異称を示す際は「亦名」が用いられるのが通例。「別名」はこの箇所の一例のみ。物語の途中で急に名称が異なる例には、大国主神の国作り神話内で「アシハラシコヲ」「オホナムヂ」の名が使われる例、天若日子の葬儀の場面における下照比売・高比売の例、下巻允恭記における軽大郎女・衣通郎姫の例などがある。しかしこれらの場合は、他の亦名提示の場合と同様に、系譜部分等の最初に名が記される場面において予め亦名は記されており、またそれぞれの場面においてその名を呼ぶ者の立場や呼ばれる者との関係性によって、異称が用いられる傾向にある(衣通郎姫の場合は歌の詠み手となる場面であることが関係していそうである)。亦名は、異なる神格・人格、異なる神話・物語を持つ別々の神・人の話を合体させる目的を持つと説かれるが、「亦名」と「別名」はそうした神話・説話の形成過程の相違によるものとして捉えられるのか、疑問。少なくとも『古事記』の叙述の上での問題として、「亦名」と「別名」で何か相違があるのか否か、検討の余地がある。 「亦名」と異なる面があるとすると、初出の箇所に於いて異称が記されていないこと、そして突然の名称変更の場面において、それが「別名」であることを明記していることが挙げられる。景行記の小碓命はやはり初出の場面に倭建命の名を「亦名」として記してはいないのだが、倭建命の場合は名の変更の事情が説話内で説かれているという点において、高木神の場合とは異なる。いずれにせよ、名の変化が神格の変化を示すものであることは確かであろう。 耶心 現行テキストではこの「耶心」を多く「邪心」としている。これより以前、須佐之男命の昇天の場面にも「耶心」が見える(注釈(十五)参照)。「耶」は「邪」の俗字であり、字義としては同じであるのだが、例えば西宮集成は須佐之男命の昇天の場面の頭注に、「正訓字は「邪」の字で、ザの仮名は「耶」で別」とし、「邪」に改めている。確かにイザナキ・イザナミのザは「耶」であるし、中巻崇神記、下巻安康記に見える「邪心」は「邪」を用いていて、使い分けがあるようにも思われるが、前記須佐之男命昇天の場面とこの場面とでともに「耶心」が使われている以上、少なくとも真福寺本の上巻において「邪」と「耶」とは使い分けられているとは言えず、故に『古事記』原文に使い分けがあったと結論付けることはためらわれるため、「耶心」のままとした。 まがれ(麻賀礼) 「中らずあれ」に対応する言葉。「禍(まが)あれ」で、災いあれの意。伊耶那岐命のミソギの場面で登場する神に禍津日神がいたが、禍を直そうとして出現したのが直日神であった。即ち直に対するのが禍であるので、禍は曲でもある。『日本書紀』九段一書一には「若し悪心を以ちて射ば、天稚彦必当ず害に遭はむ」とある。 朝床 「朝」字は前田本・寛永版本では「胡」となっており、延佳本・記伝も「胡」を採用している。記伝以降、標注・評釈・新講も「胡」とする他、西郷注釈も「胡」説を取って「胡床」でアグラと訓んでいるが、『古事記』中ではアグラは「呉床」と表記されているので、「胡」説は取れない。『古事記』中のアグラは応神記に「詐りて舎人を以て王と為て、露に呉床に坐せ」「弟王其の呉床に坐すと以為ひて」と見え、反乱者である大山守命を欺すために、皇子のウヂノワキイラツコが呉床に座っているように見せるという場面で登場する。また、雄略記では天皇の吉野行幸の場面に「大御呉床を立てて、其の御呉床に坐して」とあって、天皇が座る場所として記される。応神記の話は応神天皇崩御後のことであり、ウヂノワキイラツコはこの時点では次期天皇の第一候補である。「胡床」でアグラと訓む説は、このようなアグラの性質と関わるが、それはまた『日本書紀』九段正文で天稚彦が射られた際の場面描写が、「新嘗して休臥せる時なり」とあることとも関わっている。天稚彦は自らが地上世界の主になろうとしていたわけであり、「新嘗して休臥せる」という表現は当に天稚彦が新たに王となろうとするための儀式であると見るのである。その『日本書紀』の描写に対応させるならば、『古事記』の場合は「アグラに寝たる」と取る方が適切だと考える故である。しかし、先述の通り、『古事記』の他の箇所ではアグラは「呉床」と記されることと、写本の状況から考えて、「朝床」の方を妥当とする。朝寝の床の意。『万葉集』巻十九・四一五〇に「朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唱ふ舟人」とある。
高胸坂 『日本書紀』九段正文に「胸上」、一書一に「高胸」とあり、訓注に「高胸、此には多歌武娜娑歌と云ふ」と記す。この訓注により、大系『日本書紀』・新編全集『日本書紀』は「胸上」「高胸」をともにタカムナサカと訓むが、記伝も指摘しているようにタカムナサカの訓は『古事記』の影響を受けてのものという可能性もあろう。「高胸」はともかくとして、「胸上」までもタカムナサカと訓むのは疑問である。高胸坂の語義については、記伝は「仰に臥たるさまの、坂如て高きを云名なり」とし、朝日全書はサカを境界の意で取り、「おそらく腹部との堺であろう」として「高くもり上った胸の堺の部分」を指すとする。また新編全集は「坂」は「先」の意のサカを表す借字として「高い胸先」と訳している。「胸」に「高」と冠されているところからすれば、「坂」は傾斜を意味すると見て、臥している胸が傾斜状になっているところと見て良いのではないか。
還矢 『日本書紀』九段正文・一書一には「此、世人の所謂「反(一書は「返」)矢畏るべし」といふ縁なり」とある。一度射た矢が再び自分の方へと射返されることで、全注は「射た矢が敵に中らず、逆に射返された場合には必中するという信仰からきたものと思われる」という。聖書や中東地域に見られる「ニムロッドの矢」の伝説との類似が、松村武雄『日本神話の研究』、金関丈夫『木馬と石牛』をはじめ諸注で指摘されている。天上の神に向かって矢を射たニムロッドであったが、神によって矢を射返され、胸板を射貫かれるという話である。「本」は、この神話が「還矢」の起源を表すことであり、次の「諺」とも関連する。  「諺」について、折口信夫は、神授の詞章、神の威力のこもった言葉であり、偶数句からなる等と説き(「日本文学の発生序説・詞章の伝承」中央公論社、旧全集七巻、初出は一九四七年)、高崎正秀は、「わざ言」の逆語序、神意の籠った詞、「一語誤たず繰り返すことにより言霊の発動が見られ、尊く無限の霊威を発揮する呪言」(「枕詞の発生―その基礎論―」『文学以前』桜楓社、初出は一九五五年)であると説く。また土橋寛は、後述の『常陸国風土記』の例等も踏まえた上で、神話・伝説・コトワザ・古語・俗語の総称であり、枕詞を含む地名の呼び方もその中に含まれる(「枕詞の概念と種類」『古代歌謡論』三一書房、一九六〇年)とする。小島憲之は「口頭による表現の修辞」「文学的律語的に凝縮されたことばの技術」(「古代に於ける修辞」『上代日本文学と中国文学』上、塙書房、一九六二年)と指摘する。折口・高崎の論は文学発生論の見地から「諺」を捉えるものであるが、『古事記』『日本書紀』に記載された「諺」を「神授の詞章」と言えるか否か、定かではない。新編全集『日本書紀』の頭注に「日常の言語を用いて、経験に基づく実際的な知識を短句の中に盛り込み、人々の心を動かし流通した言語作品としての連語を言う。コトは言葉、ワザは隠れた意味のこもっている行為の意」(後述⑤の頭注)とするのが穏当な見解であろう。
 『古事記』中の「諺」には、①雉之頓使(神代記・当該例)、②不得地玉作(垂仁記・沙本毘古と沙本毘売)、③堅石避醉人(応神記・百済の朝貢)、④海人乎因己物而泣(応神記・宇遅能和紀郎子の死)の四例がある。一方の『日本書紀』には、⑤天之神庫随樹梯之(垂仁紀八十七年二月)、⑥佐麼阿摩(応神紀三年十一月)、⑦有海人耶因己物以泣(仁徳即位前紀)、⑧鳴牡鹿矣随相夢(仁徳紀三十八年七月)の四例が見られ、記紀で対応しているのは④と⑦のみである。『日本書紀』には他に「諺」に近い例があり、神代紀の中から取り上げてみると、⑨今世人、夜忌一片之火、又夜忌擲櫛、此其縁也(神代紀上五段一書六)、⑩此世人、所謂反(返)矢可畏之縁也(神代紀下九段正文・一書一)、⑪此世所謂雉頓使之縁也(神 代紀下九段一書六)、⑫世人悪以生誤死、此其縁也(神代紀下九段正文)、⑬世人悪以死者誤己、此其縁也(神代紀下九段一書一)等を挙げることができる。この中の⑪は『古事記』当該の①に該当するが、「諺」とされていないのは、小島憲之が言うところの「律語的」という範疇に含まれないためかも知れない。他の⑨⑩⑫⑬は確かに散文的ではある。但しそれは『日本書紀』の判断・選択であって、「諺」全体に言えることではなさそうである。例えば『常陸国風土記』には「風俗諺」「俗諺」と記されるものが以下のように見られる。
  ⑭風俗諺云、筑波岳黒雲挂、衣袖漬国、是矣(総記)
  ⑮俗諺云、筑波峰之会、不得娉財者、児女不為矣(筑波郡)
  ⑯風俗諺云、葦原鹿、其味若爛、喫異山宍矣(信太郡)
  ⑰風俗諺云、白遠新治之国(新治郡・分注)
  ⑱風俗諺云、水泳茨城之国(茨城郡・分注)
 ⑮⑯は特に律語的と言えるものではなく、土地の言い習わしと思われるような内容が散文的に記されたものである。⑭も土地の言い習わしと言えるものではあるが、土地の名(国名)に纏わる修飾表現を伴うという特徴を持つ。この⑭の存在を媒介として⑰⑱のような例も「諺」と呼ばれるようになったのかも知れない。⑰⑱は、「枕詞+地名」の形を取るものであり、他の文献では「諺」などと言われることはない。律文的であり、⑭も含めて諺と歌との関係を窺わせるものではあるが、類似した表現を持つ⑲風俗説云、握飯筑波之国(筑波郡)、⑳風俗云、立雨零行方之国(行方郡)、㉑風俗説云、霰零香島之国(香島郡)㉒風俗説云、薦枕多珂之国(多珂郡)と併せて見ると、土地(⑰以降はすべて郡名)の名が固定的な修飾句を伴って在地に浸透していることを表明しようとする風土記編者の装いとして捉えられるのかも知れない(谷口雅博「『常陸国風土記』「風俗諺」の記載意義」参照、『風土記説話の表現世界』笠間書院、二〇一八年二月所収、初出は一九八七年三月)。
雉の頓使 諸注の説くように、行ったきり帰ってこない使いのことを言う諺であろう。何故雉なのかについて、西郷注釈は「飛び立つことあわただしく、翔舞するすべを知らぬこの鳥の習性と関係がある」と説く。その他、「雉」の字義と絡めて論じた先掲(注釈(三十八))松田浩論文の説がある。「頓」は『古事記』中唯一の使用例となる。『日本書紀』九段正文に「頓丘」の例があり、「毘陀烏」の訓注を付している。ヒタはひたすらのヒタ。『日本書紀』正文にはこの諺を記さないが、一書六に「乃ち無名雄雉を遣し、往きて候はしめたまふ。此の雉降来り、因りて粟田・豆田を見て、則ち留りて返らず。此、世に所謂「雉の頓使」といふ縁なり」という、『古事記』とは異なる由縁を載せている。

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「言」を「音」として受けとめる天佐具売

 大国主神による国作りを経た葦原中国の平定のため、天照大御神・高御産巣日神により遣わされた天若日子は八年の間「復奏」せず、高天原の神々はその理由を天若日子に問うため、雉である鳴女を遣わした。天降った鳴女は「言の委曲けきこと、天つ神の詔命の如し」(1)と記されるように、天つ神の詔命をそのまま天若日子に伝達する。しかし、天つ神の詔命を伝える鳴女の「言」を聞いた天佐具売は、「此の鳥は、其の鳴く音甚悪し。故、射殺すべし」と天若日子に告げ、天若日子は天つ神から賜った弓矢を用いて鳴女を射殺してしまう。天佐具売は、鳴女の「言」を「音」として受けとめているのである。
 『古事記』において「音」(音注を除く)と記されるものには、「鵠」という鳥の鳴き声(中巻・垂仁天皇)や「琴」の音(中巻・仲哀天皇、下巻・仁徳天皇)等が確認される。新編日本古典文学全集本は天佐具売が聞き取った「音」について、「上代語では、生物の声であっても、単に無意味な音響として聞く時にはオトという」(2)と注を付しており、天つ神の詔命のようなはっきりとした意味を持つ言葉(言)とは異なるものとして「音」を捉えている(3)。地上世界が天つ神の「言」によって正される『古事記』のあり方(高天原の「言」の秩序)を説く松田浩氏は、「言」を「音」として受けとめた天佐具売を介して、葦原中国の平定のために遣わされた天若日子が高天原側ではなく、「言」の秩序が及んでいない大国主神側の存在となったと論じる(4)。
 天若日子派遣の段階では、葦原中国は平定が果たされておらず、高天原の「言」の秩序が及んでいない世界として捉えられるだろう。ただ、葦原中国の国作りを行った大国主神には、天つ神側の言葉が確かに届いている。

是を以て、此の二はしらの神(稿者注:建御雷神・天鳥船神)、出雲国の伊耶佐の小浜に降り到りて、十掬の剣を抜き、逆まに浪の穂に刺し立て、其の剣の前に趺み坐て、其の大国主神を問ひて言ひしく、「天照大御神・高木神の命以て、問ひに使はせり。汝がうしはける葦原中国は、我が御子の知らさむ国と言依し賜ひき。故、汝が心は、奈何に」といひき。爾くして、答へて白ししく、「僕は、白すこと得ず。我が子八重言代主神、是白すべし。…〈上巻・建御雷神の派遣〉

 天若日子の派遣が失敗に終わり、第三の使者として建御雷神が遣わされた。建御雷神は「汝がうしはける葦原中国は、我が御子の知らさむ国」と、天照大御神の言葉を大国主神に伝え、大国主神はこの問いに対し答えを返している。大国主神は高天原側による葦原中国の平定に対して抗う姿勢は見せておらず、自身の御子たちが天つ神の御子に従う意思を示すと、「僕が子等二はしらの神が白す随に、僕は、違はじ。此の葦原中国は、命の随に既に献らむ」と国譲りに応じている。大国主神は高天原の「言」の秩序に応じる存在であるため、使者である建御雷神の言葉が正しく届いたのであろう。天佐具売に使者である鳴女の「言」が届かなかったのは、天佐具売が高天原の「言」の秩序に応じない存在であったためではないだろうか。
 天佐具売の進言に従い鳴女を射殺した天若日子の矢は、そのまま高天原に至る。そして、高木神が「或し天若日子が、命を誤たず、悪しき神を射むと為る矢の至れらば、天若日子に中らずあれ。或し邪しき心有らば、天若日子、此の矢にまがれ」という発言とともに矢を衝き返したところ、天若日子は矢に当たり死を迎える。天つ神により派遣された段階で天若日子は「其の国を獲む」と、葦原中国を獲ようと思っていたことが記されており、高天原側に背く態度を示している。そこに高天原の「言」の秩序に応じない天佐具売の進言が加わり、その進言に従うことで、天若日子は高天原側に対する反逆者として位置づけられていく。「言」を「音」として受けとめる天佐具売は、反逆者としての天若日子の立場を決定づける存在として捉えられると考える。
  

(1) 『古事記』の引用は、山口佳紀・神野志隆光校注・訳『古事記』(新編日本古典文学全集、小学館、平成九年六月)による。
(2)  前掲註(1)。
(3)  『古事記』の「音」には、他に〈上巻・三貴子の分治〉において次のような例を確認することができる。

故、各依し賜ひし命の随に知らし看せる中に、速須佐之男命は、命せらえし国を治めずして、八拳須心前に至るまで、啼きいさちき。其の泣く状は、青山を枯山の如く泣き枯し、河海は悉く泣き乾しき。是を以て、悪しき神の音、狭蠅の如く皆満ち、万の物の妖、悉く発りき。 〈上巻・三貴子の分治〉

 須佐之男命は統治を命じられた国を治めず泣きわめき、その泣く様は青山を泣き枯らし、河海を泣き乾すものであった。これにより、「悪しき神の音」が満ちる状態となる。多田一臣氏は「泣く」行為を「「言」以前の秩序化されない言語行為」として捉えられる可能性を指摘し、須佐之男命が泣き続けることで「混沌とした無秩序をこの世界に引き起こす」と説く。また、多田氏は「狭蠅の如く皆満ち」の表現から窺うことができるサバエの羽音を「意味として把握しえない、畏怖すべきざわめき」として捉えており、「古代においては、無秩序ないし混沌の世界は、直接的な生々しさをもつ「音」のイメージによって捉えられている」と論じる。(多田一臣「古代の「言」と「音」」『古事記年報』第五十三号、平成二十三年一月)。
 (4)  松田浩「天若日子と雉の「言」と―『古事記』の語る「言」の秩序をめぐって―」(『古事記年報』第五十九号、平成二十九年三月)。
〔小野寺紗英 日本上代文学〕

尒天佐①賣[此三字以音]、聞此鳥言而語天若日子言、 「此鳥者、其鳴音甚悪。 故、」云進、 即天若日子、持天神所賜天之波士弓・天之加久矢、射殺其雉 尒其矢雉胸通而、逆射上、 安河⑤之河原天照大御神・髙木神之御所 是髙木神者、髙御産巣日神之別名。 故、髙木神、取其矢見者、血、着其矢羽 是髙木神告之、 「此矢者所天若日子之矢」、 即示諸神等詔者、 「或天若日子、不命、 ⑥神之矢之至者、 ⑦日子 或有耶心者、 天若日子、於此矢⑧礼[此三字以音]」云而、 其矢、自其矢穴衝返下者、 天若日子寝朝床之髙胸坂以死。 [此還矢之本也] 亦其雉不 ⑨。 故、於今諺曰雉之頓使本、是也。
【校異】
①真「貝」。道祥本以下に従って「具」に改める。
②真「身」。道祥本以下に従って「可」に改める。
③真ナシ。 道祥本以下に従って「殺」を補う。
④真「白」。道祥本以下に従って「自」に改める。
⑤真「女阿」。道祥本以下に従って「安河」に改める。
⑥真「思」。道祥本以下に従って「悪」に改める。
⑦真「君(右傍「若欤」)」。真傍書及び道祥本以下に従って「若」に改める。
⑧真「買」。道祥本以下に従って「賀」に改める。
⑨真「遂」。道祥本以下に従って「還」に改める。

そうして、天のサグメが、この鳥の発声するのを聞いて、天若日子に説明して言ったことには、 「この鳥は、その鳴く声がとても悪い。 だから、射殺した方が良い」と進言したところ、 天若日子は、天神から賜った天のハジ弓と、天のカク矢を持って、その雉を射殺した。 すると、その矢は雉の胸を通って、逆向きに射上げて、 天の安の河の河原にいらっしゃる、天照大御神と高木神の御もとに至り着いた。 高木神というのは、高御産巣日神の別名であるぞ。 そこで、高木神がその矢を取って御覧になると、血がその矢の羽に着いていた。 それを見て高木神が仰ったことには、 「この矢は、天若日子に与えた矢であるぞ」と仰って、 周りの神々にその矢を示して仰ることには、 「もし天若日子がお言葉を誤らずに、 悪い神を射た矢が天に至ったものであるならば、 この矢は天若日子に当たらずにあれよ。 もし反逆の心をもって射たものであるならば、 天若日子は、この矢で禍を受けよ」と仰って、 その矢を取って、その矢が通ってきた穴から衝き返し射下ろしたところ、 朝床で寝ていた天若日子の高い胸坂に当たって死んだ。 (これが「還矢」のもとである。) また、その雉は還らなかった。 それで、今、諺に「雉のヒタツカイ」という所以がこれであるぞ。

先頭