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故、あめわかしたでる比売ひめこゑかぜひびきてあめいたりき。 ここに、天にる天若日子がちちあまくにたまのかみ聞きて、 降り来てかなしびき。すなはを作りて、 かはかりをきさり持ちとし、さぎははき持ちとし、そにどりびととし、さざきうすとし、きぎしなきとす。 おこなさだめて、日八日夜八夜もちて遊びき。 の時にたかねのかみいたりて、天若日子がとぶらふ時に、 天よりくだいたる、天若日子が父また其のみなきてひしく、 は、なずてありけり」「きみは、死なずていましけり」とひて、 手足にかりて哭き悲しびき。 其のあやまちしは、此の二柱の神の容姿かたちいとたり。 かれここを以て過ちき。 是に、阿遅志貴高日子根神、おほきにいかりてひしく、 うるはしきともるが故に弔ひ来つらくのみ。 何とかもきたなしにひとなそふる」と云ひて、 かしせるつかつるぎを抜きて、 せ、足をもちはな遣やりき。 ののくにあゐみのかはかはかみる、やまぞ。 其の、持ちてれるおほはかりと謂ひ、またの名はかむどのつるぎと謂ふ。 故、阿治志貴高日子根神は、忿いかりてりし時に、 其のたかめのみこと、其のあらはさむとおもひき。 故、うたひてひしく、 あめなるや おとたなばたの うながせる たますまる 御総に あな玉だまはや  み谷たに ふたわたらす たかねのかみ 此の歌はひなぶりそ。

喪屋 西郷注釈に「モヤは屍を納めて葬儀を行なう所、殯宮に同じ」、思想に「死体を仮りに安置して葬式を行なう小屋」とする。『日本書紀』では天稚彦の天上の父・妻が、「疾風を遣し、尸を挙げて天に致さしめ」(九段正文)「天より降来て、柩を将ち上去きて」(九段一書一)天上界に喪屋を作り、葬儀を行うことになっている。また正文に「喪屋を造りて殯す」、一書一に「喪屋を作り殯し哭く」とみえる。いずれにも「喪を弔ふ」「喪を弔ひ」とあるので、「殯」と「喪」とは区別されていない。 河鳫をきさり持ちとし、を掃持ちとし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とす。 『日本書紀』九段正文には次のように記されている。
「即ち川雁を以ちて持傾頭者きさりもち持帚者ははきもちとし、一に云はく、かけを以ちて持傾頭者とし、川雁を以ちて持帚者とすといふ。又、雀を以ちてつきとす。一に云はく、乃ち川雁を以ちて持傾頭者とし、亦持帚者とし、そにを以ちて尸者ものまさとし、雀を以ちてつきとし、鷦鷯さざきを以ちて哭者なきめとし、とびを以ちて造綿者わたつくりとし、烏を以ちて宍人者ししひととし、凡て衆の鳥を以ちて任事ことよさすといふ。
 「河鳫」は、川に居る雁かと言われるが、不明。「きさり持ち」は、『日本書紀』に「持傾頭者」とあり、『釈日本紀』引用の私記説に「師説、葬送之時、戴死者食、片行之人也」とあるのを参考に、西郷注釈は「死者の食を捧げ持ち頭を傾けて行くもののことらしい」とする。しかし喪屋を前にしての「遊」とは直結しない。「掃持ち」は諸注に喪屋を掃く箒を持つ役で、鷺の頭に長い冠毛があることによる連想とされる。翠鳥はかわせみで「御食人」は死者のための調理人。「碓女」は米を舂く女の意で、スズメとの音の連想によるとする見方もあるが、補注解説にある通りこの注釈では「雀」はサザキと訓んでいるので、スズメ・ウスメの連想説は採らない【補注解説三】参照。
『日本書紀』には「雀」を「舂女」とするところから見ても、音による連想ではなさそうである。西郷注釈は、「雀が尻尾を立てたり地につけたりする様子から、かくいったのだろう」とする。「哭女」は葬送儀礼において哭く役割を持つ女の意。先に高天原から遣わされた雉は「鳴女」であったが、雉はその鳴き声が特徴的であったことから選ばれたのであろう。『日本書紀』の一云には「鷦鷯を以ちて哭者とし」とあり、新編全集『日本書紀』頭注では「みそさざいが美声でさえずることから」としている。その他『日本書紀』に見える役割には「尸者」「造綿者」「宍人者」がある。「造綿者」「宍人者」はそれぞれ死者の衣装や食事に関わる役だと見られるが、具体的には良くわからない。「尸者」については、大系『日本書紀』の頭注に「祖先を祭るとき、神霊の代りに立って祭りを受ける者」とある。
 松本信広は、「天の鳥船」が南洋に広く見られる鳥船信仰に関連しているとし(『日本の神話』至文堂、一九五六年四月)、大林太良も松本説を踏まえた上で、ここに鳥による葬儀が描かれるのは「天の鳥船」の観念の反映であり、「地上において非業の死をとげた若い太陽神、天若日子の魂を天界につれもどし、慰めるためであったろう」と説いている(『葬送の起源』角川書店、一九七七年八月)。
遊び 「遊ぶ」には複数の意味が見られる。『時代別国語大辞典』「遊ぶ」の項には、語義として、「①遊楽する。くつろぎたのしむ。②ある範囲内をゆったりとあちこちする。③猟をする。遊猟する。④音楽を奏する。宗教的・神事的なものを含む。」と説明し、【考】において「アソブの本義は、遊楽や遊宴ではなくて、すべて祭祀・葬礼などの神事に端を発し、それに伴う芸能としての音楽・舞踏や、巫女より起った遊行女婦との交通など、さまざまなものを包含するものであった、といわれている」と記している。例えば『常陸国風土記』行方郡に、「杵を鳴らし曲を唱ひ、七日七夜、遊び楽しみ歌ひ舞ふ」とあるが、これは荒ぶる賊をおびき寄せるために味方の将の葬儀を装った場面と見られるものであり、『古事記』の当該場面の「遊び」と共通する例と見られる。律令「葬送令」に「遊部」の名が見え、『令集解』にはその出自に関する伝説的内容が見られる。 阿遅志貴高日子根神・阿治志貴高日子根神 大国主神の系譜条には阿遅鉏高日子根神とあったが、この場面では阿遅志貴高日子根神となっている。単なる音韻変化などではなく、神名の意義自体が異なっている可能性がある。この点については、【補注解説四】で触れる。なお、注釈(三十三)「大国主神の系譜」の語釈でも若干この点に触れている。また、神名表記で言えば、歌の中では「阿治志貴多迦比古泥」と記され、歌の直前の表記も「阿治志貴高日子根神」となっていて「治」の表記が一致している。居駒永幸は歌の表記を散文部でも用いたものであり、歌に関わる場面とそれ以前の場面とでは話題が転換していると説いている(「出雲・日向神話の歌と散文―歌の叙事による表現世界とその注釈―」『明治大学人文科学研究所紀要』七八、二〇一六年三月)。歌が「夷振」という歌曲名を伴っていることとも併せて、元資料のあり方を考えさせる問題である。 容姿、甚能く相似たり 天若日子と阿遅志貴高日子根神とが瓜二つであったということから、この神話を神の死と再生の神話とみる見方がある。土居光知はこの神話の母胎を農耕祭儀(年毎に死んで復活する穀神の祭り)に求め、ある種の歌謡劇が元になっていることを想定する(『古代伝説と文学』岩波書店、一九六〇年七月)。松前健は、農神・水神・雷神として弥生時代後期から崇拝されていた味耜神の信仰から、祭祀における歌謡劇へ、そして記紀の神話へと繋がる道筋を論じている(「天若日子神話考」『日本神話と古代生活』有精堂、一九七〇年一二月)。また吉井巌は、天若日子伝承について、「若日子なる初々しい存在が聖なる弓矢をたずさえて出現し、巫女的女性に迎えられて変身し、阿遅志貴高日子根神として我々の前に登場する、この阿遅志貴高日子根神出現の物語であった」と捉えている(「天若日子の伝承について」『天皇の系譜と神話』二、塙書房、一九七六年六月)。 喪山 『古事記』では「此は美濃国の藍見河の河上に在る喪山ぞ」、『日本書紀』正文に「今し美濃国の藍見川の上に在る喪山、是なり」、一書一に「此則ち美濃国の喪山、是なり」とする。葦原中国平定神話が始まってからここまでの間には具体的な地名は記されてこなかった。出雲を舞台とするとみられる神話の中で突然美濃国の地名が記載されることには何かしらの意図があると見られる。その場合、『古事記』では地上の何処からか阿遅志貴高日子根神によって蹴り離たれた喪山が飛んでいった先であるのに対し、『日本書紀』では天上界から落とされた先が美濃国であったという相違があり、注意される。【補注解説四】参照。 大量・神度剣 オホハカリのハカリは「刃+刈り」とみられる。『日本書紀』正文に「大葉刈」とあり、訓注に「刈、此には我里と云ふ」と記す。『時代別国語大辞典』に「大は美称、ハはおそらく刃であろう。カリはツムガリノタチのカリと同じく、刈ると同源の語である」とする。亦名の「神度剣」は、「度字以音」と音注があるのでカムドノツルギと訓む。ドは諸注にトシ(鋭し)の語幹の濁音化したものとする。『日本書紀』正文に「神戸剣」。大系『日本書紀』頭注に、「出雲風土記の神門郡から出る剣の意か。或いは、神度剣は、大葉刈の例から推せば、カムハカリノツルギと訓むべきではないか。度はハカルと訓む。それを書写して伝承するうちに、誤読してカムドノツルギとしたものであるかもしれない。或いはカムは称辞、ドは鋭(ト)の意かもしれない」というように複数の可能性を述べている。 伊呂妹高比売命 大国主神と多紀理毗売命との子。阿遅志貴高日子根神の同母妹。高比売命の亦名は前出の下照比売(系譜条では「下光比売命」)。天若日子の妻としては下照比売の名が使われるのに対し、阿遅志貴高日子根神の妹としては高比売の名が使われている。『日本書紀』九段正文では天若日子が地上で娶る女神の名として「顕国玉の女子下照姫」が見え、亦名として「高姫」「稚国玉」が記されているが、後文で亦名は使われていない。また味耜高彦根神と下照姫との関係も特に触れられていない。九段一書一では、「或云」として、味耜高彦根神の名を知らせる歌を詠む者を「妹下照媛」とするが、この女神は天若日子の妻とは明記されていないなど、天若日子・アジスキ(シキ)タカヒコ・下照ヒメ(タカヒメ)三者の関係は一定していない。 天なるや おとたなばたの 天上界の若い機織りの乙女。「たなばた」は七夕伝説と関わり、『万葉集』巻一〇秋雑歌の七夕歌にも多く見られる。天の石屋神話には服織女が登場していたが、ここで天界の「たなばた」が詠まれる理由はよく分からない。なお次項参照。また、この歌の受容と展開については、【補注解説五】を参照願いたい。 あな玉はや 「あな玉」は、赤玉説(記伝・西郷注釈など)、管玉説(古代歌謡全註釈)などがあるが、中村啓信説に従って、「足玉」説を採る(「あなだま考―『記』『紀』と『萬葉集』の玉をめぐって―」『古事記の本性』おうふう、二〇〇〇年一月、初出は一九九一年七月)。「はや」は詠嘆の助詞で「既にないもの・まさになくなろうとするものへの哀惜」(『時代別国語大辞典』)を表すとされるが、この「あな玉はや」は飛び行く阿遅志貴高日子根神の姿を喩えるもので、賛嘆の意でとることができる。しかし、天に居る弟棚機が身につけている玉を阿遅志貴高日子根神の姿に喩える意味はいま一つ不明瞭である。天の石屋神話には天の服織女の死が描かれており、その後には天上の神々による「楽」が行われていた。ここでは地上における喪が行われ、鳥による「遊」が行われている。ここに弟棚機が歌われ、その身につけていた玉が阿遅志貴高日子根神に喩えられているのは、天上界の「楽」と地上界の「遊」とを対応させる意図があったのかも知れない。だとするならば、「はや」と歌われる弟棚機の玉は哀惜の対象であり、それを喩えとすることで飛び去っていく阿遅志貴高日子根神をも哀惜の対象としているのかも知れない。 夷振 歌曲名。『日本書紀』九段一書一に「夷曲」。『古事記』の中では他に、「夷振之上歌」「夷振之片下」(允恭記)が見える。また、『上宮聖徳太子傳補闕記』に「此歌以夷振歌之」、『聖徳太子傳暦』に「是夷振歌也」と見える。 【補注解説六】 【補注解説七】参照。

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『古事記』における「雀」字の訓読について

 『古事記伝』以下の諸テキストが『古事記』上巻・天若日子葬送記事における「雀為碓女」の「雀」字を「スズメ」と訓むなかで、神田秀夫・太田善麿校注の朝日古典全書『古事記』(以下、全書)と神田秀夫校注『新注古事記』のみが「サザキ」と訓み、全書は「みそさざい。ここの「雀」は一般にスズメと訓まれてゐるが、古事記ではオホサザキ(仁徳天皇の諱)に「大雀」とあててをり、外に「雀」をスズメと訓ませた例を見ない。」と指摘する。
 『古事記』中に「雀」字は全例二十四例あり(序を除く)、仁徳天皇を指す「大雀」の例が十四例、武烈天皇を指す小長谷若雀命が三例、崇峻天皇を指す長谷部若雀命が三例、雀部臣が二例、雀部造が一例、そして当該条の「雀」が一例である。
 大雀の名は応神天皇の発話「佐耶岐、阿芸之言、如我所思」や、吉野の国主らの歌「本牟多能 比能美古。意富佐耶岐 意富佐耶岐」(応神記・記四七)のなかに一字一音の表記が確認でき、少なくとも大雀の名において「雀」字を「サザキ」と訓んだことは揺るがない(1)。
 武烈・崇峻両天皇の名に用いられる「若雀」についても、同じく「サザキ」と訓むべく想定されていたと考えてよいだろう。雀部もまた「サザキベ」と訓むものであるから、全書の指摘はもっともと言える。それを踏まえつつ、スズメ説の嚆矢である本居宣長の『古事記伝』を確認しておきたい。

雀、和名抄に、雀和名須々米とあり、下巻朝倉天皇大御歌に、爾波須受米とよませ給へり、【記中に雀字は、大雀命雀部など、佐邪伎に用ひたれども、書紀に佐邪伎には、鷦鷯と書て、此は以舂女とあれば、なほ須受米なり、】(2)

 確かに『日本書紀』では天皇名などのサザキを通常「鷦鷯」と表記し、神代下第九段本書の天稚彦葬送条では、鷦鷯と雀とが別々に描かれている。

便ち喪屋を造りて殯す。即ち川雁を以ちて持傾頭者と持帚者とし、一に云はく、鶏を以ちて持傾頭者とし、川雁を以ちて持帚者とすといふ。又、雀を以ちて舂女とす。一に云はく、乃ち川雁を以ちて持傾頭者とし、亦持帚者とし、鴗を以ちて尸者とし、雀を以ちて舂者とし、鷦鷯を以ちて哭者とし、鵄を以ちて造綿者とし、烏を以ちて宍人者とし、凡て衆の鳥を以ちて任事すといふ。而して八日八夜、啼哭き悲しび歌ふ(3)。

 右の記事にみえる「雀」と「鷦鷯」とは、別の鳥と解さざるを得まい。その場合、鷦鷯は神代上第八段一書第六にみえる訓注「鷦鷯、此には娑娑岐と云ふ。」を以て「サザキ」と訓むべきであるし、そうであるならば雀は「スズメ」と訓むべきであろう(4)。『日本書紀』においてはそのような訓みわけがなされて然るべきであるが、『古事記』に「鷦鷯」の語はなく、『古事記』の「雀」字は問題となる当該例を除き、いずれもサザキの訓が適当である。
 とはいえ、雀を碓女としたという『古事記』の記述について、宣長が谷川士清の説を引いて「雀取躍而不歩如一レ舂也と云る、信にさも有べし」といい、それを受けたと思しい次田潤『古事記新講』の「雀が餌を啄む樣が米を舂くさまに似てゐるので、この役を雀にあてた」という理解や、「スズメをあてたのは、ウスメとの音的連想によるか」とする新編全集『古事記』などの指摘に対し、サザキ(ミソサザイ)は食性が動物食で稲を啄む雀とは異なり稲に縁が無く、名による音的連想も難しいなど、碓女には適さないようにも思われる。
 しかし、サザキの名と食膳とが全くの無縁であったわけではない。サザキを名に負う雀部は、佐伯有清『日本古代氏族事典』によれば、大膳職・内膳司の膳部を世襲する負名氏であったという。雀部朝臣の由緒について記す『新撰姓氏録』左京皇別上には「星河建彦宿禰。謚應神御世。代於皇太子大鷦鷯尊。繋木綿襷。掌監御膳。因賜名曰大雀臣。」とあり(5)、雀部朝臣と食膳との関わりが説かれる。このことを踏まえて考えれば、食膳を掌る氏族と同じ名をもつ「サザキ」が「舂女」とされる蓋然性は、決して低くないといえるだろう。
 以上に述べてきたとおり、『古事記』『日本書紀』において「雀」字を「サザキ」と訓む例があること、とりわけ『古事記』においては「雀」字を「スズメ」と訓む確例がなく(『古事記』一〇二番歌には「爾波須受米」の例が認められるが、「雀」字と対応する保証はない)、「サザキ」と訓む確例があること、記紀にみえる「雀部」が膳部を掌る氏族であったと思しいことなどを踏まえて、当該条の「雀」は「サザキ」と訓むべきと考える。
  

 (1) 『古事記』の引用は、新編日本古典文学全集『古事記』(小学館、一九九七年)による。
 (2)  本居宣長『古事記伝』(大野晋編『本居宣長全集』十、筑摩書房、一九六八年)。
 (3)  『日本書紀』の引用は、新編日本古典文学全集『日本書紀』一・三(小学館、一九九四・一九九八年)による。
 (4)  ただし、『日本書紀』の雀字すべてが「スズメ」と訓まれるべきということではない。たとえば雀部臣(天武十三年十一月・持統五年八月)はサザキベ以外の訓をもたないため、『日本書紀』において雀字の和訓にはスズメ・サザキのふたつが存在しうるとみるべきであろう。また、仁徳天皇の名にみえるサザキが「鷦鷯」と表記されることの意義については山田純に論がある(「「鷦鷯」という名の天皇―鳥名と易姓革命―」『日本書紀典拠論』新典社、二〇一八年。初出二〇〇八年二月)。稿者も『古事記』『日本書紀』における「雀」「鷦鷯」の用字とその意義については、本補注解説を踏まえつつ別に論じる予定である。
 (5) 『新撰姓氏録』の引用は、佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』(吉川弘文館、一九六二年)による。
〔小野諒巳 日本上代文学〕

喪山

 注釈書の類では、この「喪山」が具体的にどこを指しているのかの説明に終始しており、何故この地が選ばれ、描かれているのかについては殆ど言及が無い。実在の土地に何らかの伝承的な背景があったが故に、それが神話の記述の中にあらわれたのみ、ということもあるかも知れないが、神話の中の地名が記される場合にはやはり何かしらの意図が込められていると考えることが出来るであろうし、或いは地名を記載したことによってそこに意味が生じるということもあり得る。
 西郷信綱は以下のように述べている(『古事記注釈』)。

なぜここに突如、美濃国の喪山なるものが出てくるかが分からない。しかも記だけでなく、紀の本文と一書の若日子譚にもそれが出てくるのだ。それは天若日子が謀反人であることとかかわる点があるのではなかろうか。大山守命は大和国が山城国と堺する奈良山に葬られ(応神記)、大津皇子は大和と河内の堺なる二上山に葬られた。堺は坂で、それは同時に黄泉比良坂でもありうるが、これらの場合にはその荒ぶる魂を大和の国内から追い出し、逆にそれを外に向けるという気持ちが働いているようだ。東国への要路を扼する不破の関がそこにあるのを考えると、蹴とばされた天若日子の喪屋が美濃国の喪山になったとする話も、いわくありげである。奈良山、二上山、喪山と、みな山であるのも、かりそめではあるまい。

 基本的にこの西郷信綱の考えには同意できるのだが、より『古事記』なり『日本書紀』なりの神話内容に即して考える必要があるように思われる。
 天若日子の喪屋が阿遅志貴高日子根神によって切り伏せられ、「足を以て蹶ゑ離ち遣」られて「美濃国の藍見河の河上に在る喪山」となるのは、「蹶ゑ離ち遣」った阿遅志貴高日子根神と喪山とを関連付けようという意図があってのことではないか。喪屋のあった場所は特定されない故、どこからどのようにこの喪屋が移動したのかは分からないままであるが、「美濃国」に位置付けることに意味があるのならば、それは大和から見て東側の、周縁に位置するところであり、先の西郷説によるならば、東方からの守りの役割を持つということにもなろうか。
 葬と山との関連から見た場合、『古事記』の中では既に伊耶那美命が葬られた比婆山が挙げられる。伊耶那美命の神避りの際には西方の周縁地として比婆山が葬の地となり、天若日子の場合は東方の周縁地として喪山が葬の地として位置付けられたように思われる。
 この喪屋が何処から移動したのか、可能性として考えられることがある。伊耶那美が葬られた比婆山の場合、「香山」を提示することで、中心と周縁という位置関係を示していたと考えられるわけだが、この場合にもやはり中心を示す要素が隠されているのではないか。アヂシキタカヒコネノカミは、『古事記』系譜部では阿遅鉏高日子根神、『日本書紀』では正文・一書一ともに味耜高彦根神、『出雲国風土記』では阿遅須枳(伎)高日子命、「出雲国造神賀詞」では阿遅須伎高孫根乃命とあるように、他の箇所・文献では悉くアヂスキタカヒコであり、「スキ」は農耕具を表し、かつこの神が雷神・蛇神であることを示すものであると捉えられる。ところが『古事記』のこの箇所のみは、歌も含めて「アヂシキタカヒコ」と記される。この問題については、歌の言葉に「シキ」とあるところから神名もそれに影響を受けて「シキ」となったという見方も成り立つかもしれないが、『日本書紀』の歌が「スキ」となっているところから見ても、そうした見方は成り立ちにくい。『古事記』はこの箇所にのみ、「シキ」にこだわる理由があったのではないか。「スキ」の「キ」は甲類で、「志貴」の「貴」は乙類であるところから、単純な音韻変化とは考えにくく、異なる意味を担うものとする見方が強い。西宮一民は、「シとの音節結合でキが乙類になったにすぎないとすると、「シキ」は鉏の意」であるとする(修訂版頭注)が、シとの音節結合でキが乙類になる場合があるといったような例があるのかどうか、現状では確認が取れていない。一方で「シキ」を大和の地名「シキ」と関わらせる見解も多く見られる。アヂスキタカヒコは「カモ大御神」とあるように、カモ氏の祀る神であり、カモ氏はミワ氏とともに大物主神の子孫でこの神を祀る神主となったオホタタネコの末裔であるとされる。大物主神が祀られる三輪山がシキ県主の勢力範囲であり、大物主神を祀った崇神天皇がシキの水垣の宮で天下を治めたとされる点などを関連させていけば、阿遅志貴高日子根神の「志貴」が大和の「シキ」地域と関連を持つ名称であったと考えることは、決して突飛なことではないように思われる。つまり、何故に『古事記』のこの場面にのみ、神名が「スキ」ではなく「シキ」になるのか、と考えた場合、この「シキ」が大和のシキ地域を指し、それによって大和と美濃国の「喪山」とを対比させる意図があったのではないかということであり、それは「香山」と「比婆山」とを対比させた場面と共通する意図が読み取れるのではないか、ということである。なお、阿遅志貴高日子根神と地名「シキ」との関連については、三谷栄一が次のように述べている(「阿遅鉏高日子根神の性格」『日本神話の基盤』塙書房、一九七四年九月、初出は一九七〇年一〇月)。

大和国磯城郡(城上郡)には『延喜式』神名帳に宗像神社三座が見えるように、後述する如く、宗像氏が畿内に進出し、宗像徳善の女が天武天皇の後宮に入り、高市皇子を生んでおり、高市皇子は壬申の乱の大功労者であるばかりでなく持統天皇にも信任厚い方であった。宗像氏はその祖タギリビメが大穴持神との間にアヂスキを生んでいるのであるから、「志貴」の音字を用いた歌謡は、宗像氏が自分の居住地(磯城=志貴)に附会させて伝えた宗像氏の伝承によるのではなかろうかと思われる。

 仮に三谷氏の説くような経緯があったとして、しかし『古事記』の他の箇所にも『日本書紀』その他の話にも使われていない「シキ」名を、『古事記』がこの場面で用いた理由は、もし本当に地名の「シキ」と関わるものであるならば、やはりこの神話の舞台設定として大和の地名を取り上げようとする意図があってのこと、ということになるのではないか。そして「喪山」はそれとの対応において位置付けられるのではないか。
 このように「喪山」と「シキ」とを捉えてみた場合、これらの地名は、神話世界で描かれる空間に、単に実態を持たせることを意図しているのではなく、それぞれの空間の持つ意味合いを提示する役割を持っているのではないか。
喪山は、天若日子の喪屋が移動したものであるが、後に阿遅志貴高日子根神が忿って飛び去ると描写される。飛び去った先は不明であるものの、天若日子の喪屋を美濃国の方向に「蹶ゑ離ち遣」ったのは阿遅志貴高日子根神であるし、天若日子と阿遅志貴高日子根神とが「甚能く相似たり」とされるところなども参考とすると、阿遅志貴高日子根神自身が喪山と関連するものとして描こうとの意図があったのではなかろうか(新編全集『日本書紀』①頭注は、正伝の父神の名等から、この二神が本来同一神であり、天上と地上とを二重写しにしたもの―天国玉・天稚彦・高姫/顕国玉・味耜高彦根神・下照媛―との考え方を示している)。
 参考までに言えば、松前健は阿遅志貴高日子根神と喪山との関連を、阿遅志貴高日子根神話の伝承地という観点で捉えている(「天若日子神話考」『日本神話と古代生活』有精堂、一九七〇年一二月)。喪山がそもそも阿遅志貴高日子根神と関連する地であるとするならば、この神話は、大国主神の子(系譜上では最初の子)である阿遅志貴高日子根神が、葦原中国平定神話において最初に登場し、そして退場していったことを示すものであり、退場した先の地が美濃国に位置付けられていると見ることが出来る、ということである。
 喪山が実際にどういう場所にあるのか、実態として捉えることに意味があるのかどうかはわからないが、荻原浅男の説く喪山古墳(送葬山古墳・不破郡垂井町)説が有力か(「美濃の喪山」旧全集月報31 一九七三年一〇月、及び「古事記神話の伝承地について―岐神の鎮座地、天若日子の美濃の喪山などの場合―」『古事記年報』23号一九八一年一月参照)。以下に『古事記』の空間認識に関わる問題として少し考えてみたい。『和名抄』巻七の美濃国条には「不破郡」に「藍川」があり(元和三年古活字本)、これを「藍見川」と関連付けて考える見方がある。「不破郡」関連で言えば、『延喜式』巻十「神名帳下」美濃国三座に「伊富岐神社」が見える。倭建命が言挙げをした伊吹山は、美濃国と近江国との堺にあるとされ、同じく神名帳近江国坂田郡五座にも「伊夫伎神社」が見える。
 東征を終えて討伐すべきものがもはや存在しない状況で、敵対するものではない伊吹山の神に対して言挙げをする倭建命の行為は、吉井巌の言葉を借りるならば「王権に対する真向からの対決を示したもの」とも見られるものである(『ヤマトタケル』学生社、一九七七年九月。なお吉井巌は、伊吹山の神を息長氏の祭る神であったと捉えており、それ故に「王権に対する対決」という見方を持ってきている)。つまり不破関に近いこの場所は、大和の外部から大和へと向かう境界のような場所に位置するということが考えられ、倭建命が生から死へと向かい始めるのがこの場所であるというのも、その点と関わるものと思われるのである。天若日子の喪屋がここに飛ばされて喪山となったという点、阿遅志貴高日子根神とこの地を関わらせようと意図された可能性のある点(前掲松前健は『延喜式』神名帳の美濃国安八郡四座の中に加毛神社があることに注目している)などから考えて、先に述べたように大和の東方、周縁の地にこの喪山を設定したのではないかと思われる。なお、『続日本紀』文武天皇大宝二(七〇二)年一二月一〇日の記事に、「始めて美濃国に岐蘇の山道を開く」と見え、和銅六年(七一三)七月七日の記事に「美濃・信濃の二国の堺、径道険隘にして、往還艱難なり。仍て吉蘇路を通す」とあり、『古事記』撰録の十年前から、撰録の翌年にかけて、岐蘇(吉蘇)路開通工事が行われていたようである。
 『日本書紀』景行天皇二十七年冬十月、日本武尊の熊襲征伐に同行する人物として、「弟彦公」という者が召されるが、その場面では或者が「美濃国に善く射る者有り。弟彦公と曰ふ」と言って推薦している。この場面の新編全集の頭注を見ると、「美濃は、建部・矢集に関する人名・地名が多く、皇室の軍隊供給地であった」と説明されている。『和名抄』を見ると、美濃国の多芸郡・石津郡に「建部」が、可児郡に「矢集」の地名が見える。この点、ヤマトタケルの兄オホウスが記紀において美濃国と関連を有すること、特に『日本書紀』においては美濃国に封じられることと何らかの関係があるのかも知れない。美濃国の位置づけ、神話・説話との関係については、まだまだ検討の余地がありそうである。
 以上、美濃国の「喪山」の記載意義を中心に検討してきた。葦原中国平定の神話は、高天原側の視点によって描かれ、唯一見られる美濃国の地名は、大和から見た東方の周縁の地を意味し、天若日子、及び阿遅志貴高日子根神をこの地と関連付けることを意図していたと考えられるということについて述べてきた。葦原中国平定神話の舞台は当然ながら出雲であると捉えられてきたわけだが、アメワカヒコ派遣の話までを見る限り出雲という限定はなされていない。それはヤマト(若しくは天)と美濃という位置上の対比を示す意図をもっていた故、ということを考えてみた次第である。
〔谷口雅博 日本上代文学〕

喪山

 注釈書の類では、この「喪山」が具体的にどこを指しているのかの説明に終始しており、何故この地が選ばれ、描かれているのかについては殆ど言及が無い。実在の土地に何らかの伝承的な背景があったが故に、それが神話の記述の中にあらわれたのみ、ということもあるかも知れないが、神話の中の地名が記される場合にはやはり何かしらの意図が込められていると考えることが出来るであろうし、或いは地名を記載したことによってそこに意味が生じるということもあり得る。
 西郷信綱は以下のように述べている(『古事記注釈』)。

なぜここに突如、美濃国の喪山なるものが出てくるかが分からない。しかも記だけでなく、紀の本文と一書の若日子譚にもそれが出てくるのだ。それは天若日子が謀反人であることとかかわる点があるのではなかろうか。大山守命は大和国が山城国と堺する奈良山に葬られ(応神記)、大津皇子は大和と河内の堺なる二上山に葬られた。堺は坂で、それは同時に黄泉比良坂でもありうるが、これらの場合にはその荒ぶる魂を大和の国内から追い出し、逆にそれを外に向けるという気持ちが働いているようだ。東国への要路を扼する不破の関がそこにあるのを考えると、蹴とばされた天若日子の喪屋が美濃国の喪山になったとする話も、いわくありげである。奈良山、二上山、喪山と、みな山であるのも、かりそめではあるまい。

 基本的にこの西郷信綱の考えには同意できるのだが、より『古事記』なり『日本書紀』なりの神話内容に即して考える必要があるように思われる。
 天若日子の喪屋が阿遅志貴高日子根神によって切り伏せられ、「足を以て蹶ゑ離ち遣」られて「美濃国の藍見河の河上に在る喪山」となるのは、「蹶ゑ離ち遣」った阿遅志貴高日子根神と喪山とを関連付けようという意図があってのことではないか。喪屋のあった場所は特定されない故、どこからどのようにこの喪屋が移動したのかは分からないままであるが、「美濃国」に位置付けることに意味があるのならば、それは大和から見て東側の、周縁に位置するところであり、先の西郷説によるならば、東方からの守りの役割を持つということにもなろうか。
 葬と山との関連から見た場合、『古事記』の中では既に伊耶那美命が葬られた比婆山が挙げられる。伊耶那美命の神避りの際には西方の周縁地として比婆山が葬の地となり、天若日子の場合は東方の周縁地として喪山が葬の地として位置付けられたように思われる。
 この喪屋が何処から移動したのか、可能性として考えられることがある。伊耶那美が葬られた比婆山の場合、「香山」を提示することで、中心と周縁という位置関係を示していたと考えられるわけだが、この場合にもやはり中心を示す要素が隠されているのではないか。アヂシキタカヒコネノカミは、『古事記』系譜部では阿遅鉏高日子根神、『日本書紀』では正文・一書一ともに味耜高彦根神、『出雲国風土記』では阿遅須枳(伎)高日子命、「出雲国造神賀詞」では阿遅須伎高孫根乃命とあるように、他の箇所・文献では悉くアヂスキタカヒコであり、「スキ」は農耕具を表し、かつこの神が雷神・蛇神であることを示すものであると捉えられる。ところが『古事記』のこの箇所のみは、歌も含めて「アヂシキタカヒコ」と記される。この問題については、歌の言葉に「シキ」とあるところから神名もそれに影響を受けて「シキ」となったという見方も成り立つかもしれないが、『日本書紀』の歌が「スキ」となっているところから見ても、そうした見方は成り立ちにくい。『古事記』はこの箇所にのみ、「シキ」にこだわる理由があったのではないか。「スキ」の「キ」は甲類で、「志貴」の「貴」は乙類であるところから、単純な音韻変化とは考えにくく、異なる意味を担うものとする見方が強い。西宮一民は、「シとの音節結合でキが乙類になったにすぎないとすると、「シキ」は鉏の意」であるとする(修訂版頭注)が、シとの音節結合でキが乙類になる場合があるといったような例があるのかどうか、現状では確認が取れていない。一方で「シキ」を大和の地名「シキ」と関わらせる見解も多く見られる。アヂスキタカヒコは「カモ大御神」とあるように、カモ氏の祀る神であり、カモ氏はミワ氏とともに大物主神の子孫でこの神を祀る神主となったオホタタネコの末裔であるとされる。大物主神が祀られる三輪山がシキ県主の勢力範囲であり、大物主神を祀った崇神天皇がシキの水垣の宮で天下を治めたとされる点などを関連させていけば、阿遅志貴高日子根神の「志貴」が大和の「シキ」地域と関連を持つ名称であったと考えることは、決して突飛なことではないように思われる。つまり、何故に『古事記』のこの場面にのみ、神名が「スキ」ではなく「シキ」になるのか、と考えた場合、この「シキ」が大和のシキ地域を指し、それによって大和と美濃国の「喪山」とを対比させる意図があったのではないかということであり、それは「香山」と「比婆山」とを対比させた場面と共通する意図が読み取れるのではないか、ということである。なお、阿遅志貴高日子根神と地名「シキ」との関連については、三谷栄一が次のように述べている(「阿遅鉏高日子根神の性格」『日本神話の基盤』塙書房、一九七四年九月、初出は一九七〇年一〇月)。

大和国磯城郡(城上郡)には『延喜式』神名帳に宗像神社三座が見えるように、後述する如く、宗像氏が畿内に進出し、宗像徳善の女が天武天皇の後宮に入り、高市皇子を生んでおり、高市皇子は壬申の乱の大功労者であるばかりでなく持統天皇にも信任厚い方であった。宗像氏はその祖タギリビメが大穴持神との間にアヂスキを生んでいるのであるから、「志貴」の音字を用いた歌謡は、宗像氏が自分の居住地(磯城=志貴)に附会させて伝えた宗像氏の伝承によるのではなかろうかと思われる。

 仮に三谷氏の説くような経緯があったとして、しかし『古事記』の他の箇所にも『日本書紀』その他の話にも使われていない「シキ」名を、『古事記』がこの場面で用いた理由は、もし本当に地名の「シキ」と関わるものであるならば、やはりこの神話の舞台設定として大和の地名を取り上げようとする意図があってのこと、ということになるのではないか。そして「喪山」はそれとの対応において位置付けられるのではないか。
 このように「喪山」と「シキ」とを捉えてみた場合、これらの地名は、神話世界で描かれる空間に、単に実態を持たせることを意図しているのではなく、それぞれの空間の持つ意味合いを提示する役割を持っているのではないか。
喪山は、天若日子の喪屋が移動したものであるが、後に阿遅志貴高日子根神が忿って飛び去ると描写される。飛び去った先は不明であるものの、天若日子の喪屋を美濃国の方向に「蹶ゑ離ち遣」ったのは阿遅志貴高日子根神であるし、天若日子と阿遅志貴高日子根神とが「甚能く相似たり」とされるところなども参考とすると、阿遅志貴高日子根神自身が喪山と関連するものとして描こうとの意図があったのではなかろうか(新編全集『日本書紀』①頭注は、正伝の父神の名等から、この二神が本来同一神であり、天上と地上とを二重写しにしたもの―天国玉・天稚彦・高姫/顕国玉・味耜高彦根神・下照媛―との考え方を示している)。
 参考までに言えば、松前健は阿遅志貴高日子根神と喪山との関連を、阿遅志貴高日子根神話の伝承地という観点で捉えている(「天若日子神話考」『日本神話と古代生活』有精堂、一九七〇年一二月)。喪山がそもそも阿遅志貴高日子根神と関連する地であるとするならば、この神話は、大国主神の子(系譜上では最初の子)である阿遅志貴高日子根神が、葦原中国平定神話において最初に登場し、そして退場していったことを示すものであり、退場した先の地が美濃国に位置付けられていると見ることが出来る、ということである。
 喪山が実際にどういう場所にあるのか、実態として捉えることに意味があるのかどうかはわからないが、荻原浅男の説く喪山古墳(送葬山古墳・不破郡垂井町)説が有力か(「美濃の喪山」旧全集月報31 一九七三年一〇月、及び「古事記神話の伝承地について―岐神の鎮座地、天若日子の美濃の喪山などの場合―」『古事記年報』23号一九八一年一月参照)。以下に『古事記』の空間認識に関わる問題として少し考えてみたい。『和名抄』巻七の美濃国条には「不破郡」に「藍川」があり(元和三年古活字本)、これを「藍見川」と関連付けて考える見方がある。「不破郡」関連で言えば、『延喜式』巻十「神名帳下」美濃国三座に「伊富岐神社」が見える。倭建命が言挙げをした伊吹山は、美濃国と近江国との堺にあるとされ、同じく神名帳近江国坂田郡五座にも「伊夫伎神社」が見える。
 東征を終えて討伐すべきものがもはや存在しない状況で、敵対するものではない伊吹山の神に対して言挙げをする倭建命の行為は、吉井巌の言葉を借りるならば「王権に対する真向からの対決を示したもの」とも見られるものである(『ヤマトタケル』学生社、一九七七年九月。なお吉井巌は、伊吹山の神を息長氏の祭る神であったと捉えており、それ故に「王権に対する対決」という見方を持ってきている)。つまり不破関に近いこの場所は、大和の外部から大和へと向かう境界のような場所に位置するということが考えられ、倭建命が生から死へと向かい始めるのがこの場所であるというのも、その点と関わるものと思われるのである。天若日子の喪屋がここに飛ばされて喪山となったという点、阿遅志貴高日子根神とこの地を関わらせようと意図された可能性のある点(前掲松前健は『延喜式』神名帳の美濃国安八郡四座の中に加毛神社があることに注目している)などから考えて、先に述べたように大和の東方、周縁の地にこの喪山を設定したのではないかと思われる。なお、『続日本紀』文武天皇大宝二(七〇二)年一二月一〇日の記事に、「始めて美濃国に岐蘇の山道を開く」と見え、和銅六年(七一三)七月七日の記事に「美濃・信濃の二国の堺、径道険隘にして、往還艱難なり。仍て吉蘇路を通す」とあり、『古事記』撰録の十年前から、撰録の翌年にかけて、岐蘇(吉蘇)路開通工事が行われていたようである。
 『日本書紀』景行天皇二十七年冬十月、日本武尊の熊襲征伐に同行する人物として、「弟彦公」という者が召されるが、その場面では或者が「美濃国に善く射る者有り。弟彦公と曰ふ」と言って推薦している。この場面の新編全集の頭注を見ると、「美濃は、建部・矢集に関する人名・地名が多く、皇室の軍隊供給地であった」と説明されている。『和名抄』を見ると、美濃国の多芸郡・石津郡に「建部」が、可児郡に「矢集」の地名が見える。この点、ヤマトタケルの兄オホウスが記紀において美濃国と関連を有すること、特に『日本書紀』においては美濃国に封じられることと何らかの関係があるのかも知れない。美濃国の位置づけ、神話・説話との関係については、まだまだ検討の余地がありそうである。
 以上、美濃国の「喪山」の記載意義を中心に検討してきた。葦原中国平定の神話は、高天原側の視点によって描かれ、唯一見られる美濃国の地名は、大和から見た東方の周縁の地を意味し、天若日子、及び阿遅志貴高日子根神をこの地と関連付けることを意図していたと考えられるということについて述べてきた。葦原中国平定神話の舞台は当然ながら出雲であると捉えられてきたわけだが、アメワカヒコ派遣の話までを見る限り出雲という限定はなされていない。それはヤマト(若しくは天)と美濃という位置上の対比を示す意図をもっていた故、ということを考えてみた次第である。
〔谷口雅博 日本上代文学〕

「天なるや」歌の受容と展開

 記六および紀二の「天なるや弟たなばたの」歌謡は、「八雲立つ」(記一・紀一)のような短歌形式の歌ではないにもかかわらず、後代の和歌史言説においては相応に尊重されてきたと言える。その理由は明瞭で、「一書」中の歌であるとはいえ、『日本書紀』においては素戔嗚尊の「八雲立つ」に次いで二番目に登場する「歌」だからであろう。
 まず、序跋に宝亀三年(七七二)の成立と記される『歌経標式』の序文には「龍女、海に帰り、天孫、婦に恋ふる歌を贈ることあり。味耜、天に昇り、会へる者、威を称ふる詠を作ることあり。並に雅妙の音韻を尽す始なり」とあり、紀二・三番歌と紀五・六番歌とを双璧として和歌の起源に位置付けている。「龍女」「味耜」「会者」の表記を見れば、『歌経標式』序文の記述が『古事記』ではなく『日本書紀』に基づいていることは明らかである。
 『歌経標式』は、序文のみならず本文中においても当該歌謡に言及している。「歌体」の一に「長歌」を挙げ、その例歌として当該の「天なるや」の歌を掲げているのである。ただしその詞章は、

天なるや 弟たなばたの うながせる 玉のみすまろ みすまろの あな玉はや

み谷ふたわたる あぢすきの神

となっており、紀二番歌とも、記六番歌とも異同がある。「みすまる(ろ)」を二度繰り返すところや、「の神」が入るところは、紀二歌よりも記六歌に類似しており、『日本書紀』を単純に書承したものだとは考えられない。しかし「タカヒコネ」が抜けているところや、「みすま」とか「ふたわた」となっているところなど、『古事記』とも詞章が異なっているので、書承ではない歌の伝承ルートを別に想定すべきことになろう。だとすれば、『琴歌譜』所載の大歌と同じく宮廷に伝承された歌謡の中にこの「夷振」の歌もあり、『歌経標式』はそのような声の歌から直接本文を採ったのではないかと考えられる。
 次いで、序に延喜五年(九〇五)の奏上と記される『古今和歌集』の仮名序には「この歌、天地のひらけはじまりける時よりいできにけり。しかあれども、世に伝はることは、ひさかたの天にしては下照姫にはじまり、あらかねの地にしては素戔嗚尊よりぞおこりける」とあり、紀二・三番歌と紀一番歌とを双璧にして、和歌の起源に位置付けている。スサノヲの歌が順番を後にされ、シタデルヒメの歌が「天」の歌とされているのは不思議だが、この点については粕谷興紀「『人の世となりて素戔嗚尊よりぞみそもじ余りひともじはよみける』攷」(『粕谷興紀日本書紀論集』燃焼社・令3)や、橋本正俊「下照姫と『からころも』歌」(『歌詠む神の中世説話』和泉書院・令3)が詳しく論じている。
 古今集撰上よりほぼ一世紀後に附され、公任の筆になることが有力視されている仮名序の「古注」には、「下照姫とは、天稚御子の妻なり。兄の神のかたち、岡谷に映りて輝くを詠めるえびす歌なるべし」とある。基本的には記紀に拠っているようだが、「あめわかみこ」となっているところなどすでに口伝化しているようにも見える。また「ひなぶり」が「えびすうた」に変化しているところを見ると、「ひなぶり」の語がすでに忘れられ、『日本書紀』の「夷曲」の文字がどこかの段階で「えびす」の歌だと解されるようになったことが窺える。
 また、古今集撰上の翌年に開かれた延喜六年(九〇六)の日本紀講書とその竟宴和歌においては、「からころも下照姫の背な恋ひそ天に聞こゆる鶴ならぬ音は」という歌が、「下照姫を得て」という詞書のもと、源当時によって詠まれている。その後この歌はしばしば中世の歌論書にも採り上げられ、また定家撰の『新勅撰和歌集』においては神祇部の巻頭歌にも撰ばれている。中世における「からころも下照姫」歌の受容史については、橋本氏前掲書に詳しく論じられている。
 さらに、仮名序や日本紀竟宴和歌の影響を受けつつ、なおかつ「下照る」の名から紅葉をも連想して、平安末期の家隆や定家といった歌人が「下照姫」を題材にして和歌に詠んでいるのも興味深い。この点については兼築信行「藤原定家とシタテルヒメ」(『汲古』76号、令1・3)が論じている。
 総じて中世における「下照姫」への注目は、歌人、特に古今集仮名序の注釈や歌論書・歌学書を執筆するような知識人層の知的関心に拠るところが大きかったであろうと思われるが、それだけではなく、『狭衣物語』や『天稚御子草子』などに見られるように、記紀から離れた「天稚御子」説話が中古・中世に流布していたことも考え併せる必要があるだろう。中古・中世の和歌言説における記紀神話の受容と、それを受けて創出された新たな神話的言説は、さまざまな文献とその多様な解釈を通して重層的・複合的に形成されていることにも注意しなければならない。
〔土佐秀里 日本上代文学〕

『古事記』の歌曲名

 天若日子葬儀の場面を締め括る高比賣命の歌(記六)には、歌謡詞章の直後に「此の歌は夷振なり」という注記が附される。このような歌謡に対する左注型の注記は、歌を直接指示していない「此を神語と謂ふ」の一例を別にすると、『古事記』には十八箇所見られる。さらにそこから「是の四歌は皆、其の御葬に歌ひき」(記三四~三七)の一例を除けば、残る十七例はすべて歌謡の名称あるいは種類を示す注記となっている。賀古明「古代歌曲名考」(『琴歌譜新論』風間書房・昭60)や斎藤英喜「『古事記』―歌曲名からの視点」(古事記研究大系9『古事記の歌』高科書店・平6)に倣って、これを「歌曲名」と呼んでおく。
 その歌曲名の内訳を見てみると、当該の「夷振」(記六)の他にも「夷振の上歌」(七九・八〇)と「夷振の片下」(八六)があり、 「夷振」という歌曲名に広がりがあることがわかる。さらに「宮人振」(八二)と「天田振」(八三~八五)があって、「〇〇振」という歌曲名は五例見られる。うち三例は「夷振」として一括できるので、実質は三種類となる。また、「思国歌」(三〇・三一)「片歌」(三二)「酒楽の歌」(三九・四〇)「志都歌」(九二~九六、一〇四)「志都歌の歌返」(五七~六三、七四)「本岐歌の片歌」(七三)「志良宜歌」(七八)「読歌」(八九・九〇)「天語歌」(一〇〇~一〇二)「宇岐歌」(一〇三)のような「〇〇歌」という歌曲名もあり、こちらは十二箇所十種類見られる。このうち記三二の「片歌」については、「本岐歌の片歌」という呼称例から推すと、三〇・三一の「思国歌」に附属する「思国歌の片歌」であったと想定できる。逆に記七三が「本岐歌の片歌」と呼称されていることから推せば、歌曲名注記のない七一・七二が「本岐歌」の本体であったと見るのが自然である。神野志隆光「『片歌』をめぐって」(『萬葉』106号、昭56・3)はこうした推測の仕方には批判的だが、「片歌」が歌群末尾に位置する「歌いおさめ」の形式であることは認めており、それが音楽的に形成された様式であるとも論じている。いずれにせよ「〇〇歌の片歌」という形式の呼称が存在するからには、「片歌」は「〇〇振の片下」や「〇〇歌の歌返」と同じく歌曲名の下位分類とか細目と言うべきものであって、独立した歌曲名ではないと見るべきであろう。そう考えると「〇〇歌」の実数は八種類ということになり、「〇〇振」の三種を合わせて、合計十一種類が『古事記』に記載された歌曲名となる。
 歌曲名には「〇〇歌」と「〇〇振」の二種類があったことがわかるが、この二分類は『琴歌譜』の歌曲名とも一致している。「振」という語については、本居宣長『古事記伝』が「人にまれ、物にまれ、動く貌を云て、歌にては、奏ふ音声の長短巨細低昂などの貌なり」と注しており、身体的動作や音楽的な調子の意であることを指摘している。舞楽や舞踊では「舞の振り」とか「振り事」「振り付け」「振り上げ」などといった用語もあり、また能楽や浄瑠璃では「声を振る」という唱法・発声法もあって、「振り」は所作や声調についての技術用語として音楽芸能の分野では広く用いられてきた語でもある。
 「ふり」と「うた」の違いについては、折口信夫「万葉集講義(飛鳥藤原朝)」(『短歌講座 第五巻 撰集講義篇』改造社・昭7)が、「ふり」には「魂を体にくつつけるうた」「魂触りの歌」という意味があり、「訴ふ」を原義とする「うた」には「自分の魂を捧げる」歌という意味があったと説いている。しかしその原義は時代の推移とともに忘却され、記紀に載る「うた」と「ふり」にはもはや本質的な相違はなくなっていると言い、「宮廷に長く伝へられたものがうたと称せられ、民間から奉られるものは、総てふりと称せられ」て、「うたは宮廷詩に、ふりは民謡」に分類されるようになったと述べる。そして平安時代以後になると「うた」も「ふり」も「歌」に一括されるようになると論じている。この理解に従うなら記紀における「〇〇振」歌謡は、土着的な民間歌謡だと認識されていたということになる。
 『日本書紀』においては、「夷振」が「夷曲」と書かれている。これも「ひなぶり」と訓むのだとすれば、『日本書紀』は「ふり」を「曲」字で表記したことになるが、この点について曹咏梅「上代日本における『ふり』と『曲』」(『歌垣と東アジアの古代歌謡』笠間書院・平23)は、「曲」表記が「中国の楽府の用語を用いたもの」だと指摘している。
つまり「曲」字の表す概念が倭語「ふり」の概念と一致しているわけではないが、宮廷歌謡の曲名という意識からこのような表記が選択されたということになる。ただし「〇〇曲」という表記は、『続日本紀』など他の文献にも多少は用例を見ることができるものの、『日本書紀』には「夷曲」のただ一例しか見ることができない。その一方で、宮中の大歌所伝来である『琴歌譜』の歌曲名は「〇〇振」または「〇〇扶理」と表記されており、「曲」という歌曲名表記は全く見られない。「〇〇曲」が中国楽府に倣った格調ある用字であるにしても、それは史官が選好した中国風の表記であって、雅楽寮・大歌所において管理された歌曲名の正式な表記には採用されなかった。歌曲名表記の正統性ということで言えば、『日本書紀』の「夷曲」よりも『古事記』や『上宮聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝暦』に見られる「夷振」表記の方に、より正統性があったということになろう。倭語の語形を保つ表音表記を選ぶことは、「ふり」および「大歌」が外来楽に対置される土着の楽であり、古風な楽であったことを意識したものであろう。楽家の意識と史官の意識は異なっているということである。
 『古事記』よりもやや多い数の歌謡を掲載しているにもかかわらず、『日本書紀』の歌曲名注記は極端に少ない。「夷曲」(紀二・三)「挙歌」(五・六)「来目歌」(七~十四)「思邦歌」(二一~二三)のわずか四例しか見出すことができない。このうち「挙歌」は「夷振の上歌」の「上歌」と同じものであろうから、独立した歌曲名ではないと見れば、実数は三種しかないことになる。『古事記』の十七箇所十一種が特に多いとは言えないとしても、『日本書紀』の四箇所三種というのは明らかに少ないと言える。『日本書紀』は、『古事記』よりも歌曲名の記載に消極的であると見てよいだろう。
 そのため斎藤氏前掲論は、『古事記』の歌曲名記載に積極性を認めようとする。そしてその記載に楽家としての多氏の「実践的な行為」が表れていると言う。また神野志氏前掲論は、『日本書紀』の論理は歌詞重視の論理であり、「音楽性を捨象したところにある」論理だと述べる。つまり『古事記』は音楽性を尊重しているということになり、斎藤氏前掲論にかなり近い見方が示されている。さらに賀古氏前掲論は、編纂の主旨から『日本書紀』は歌曲名を不要と判断し、その大部分を「削除した」のだと論じている。これらの指摘からは、歌曲名記載の比重の違いが記紀両書の編纂方針の違いを反映していることが窺える。
 しかし、歌曲名の管理が雅楽寮の所管事項であったとすれば、『古事記』よりも律令制的志向を持った書物に見える『日本書紀』が、律令官制機構における認識の枠組みや情報を重用しないというのはいささか不思議なことにも思える。この疑問については、歴史記述の根拠を記述の「外部」の事象や「現在」の事象に求めることに『古事記』がかなり積極的であるのに対し、『日本書紀』はやや消極的であるという編纂方針の違いの表れとして理解することができるだろう。その方針の違いこそが、「振」と「曲」の表記意識の違いにも反映しているわけである。漢籍を志向して「曲」字を選んだ『日本書紀』は、文字の外部にある現実に存在する「音楽性」を、確かに「捨象」しているということになる。つまり歌曲名こそが「音楽性」を顕示する指標なのである。
 また『古事記』には、軽太子説話や女鳥王説話に顕著なように、極端なまでに歌に比重を置いた記述を行うという面もある。収録歌数だけを見れば記紀の間にさほどの違いはないようにも見えるが、歴史記述の中で歌謡をどう扱うかという考え方にはかなりの懸隔があるのではないだろうか。記紀の歌曲名記載に粗密があることも、歌謡をめぐる両書の方針の違い、すなわち歴史書編纂の方針の違いを反映したものとして理解すべきであろう。
 さらに、『古事記』の歌曲名注記にも明らかな偏在が認められることが注意される。歌曲名注記十七箇所のうち、允恭記の軽太子説話中には歌曲名が八箇所も注記されており、雄略記にも歌曲名が四箇所に見られ、明らかに集中が見られる。また神代記は歌謡そのものが少ないということもあるが、歌曲名は当該の「夷振」一例だけしかない。つまり『古事記』はすべての歌謡に対して一律に歌曲名注記を附しているわけではないということがわかる。『古事記』の歌曲名注記には粗密があり、特定の説話記事に歌曲名注記が集中するという傾向が認められる。この歌曲名の偏在という現象には、おそらく古代宮廷歌謡の伝来形態や伝承意識、原資料の性格が影響しているのであろう。歌うための楽譜としてあるはずの『琴歌譜』にも記紀などを資料とする説話記事(「縁記」)がわざわざ併記されていることを考えても、宮廷歌謡と歴史伝承との結びつきが強固なものとしてあったことが窺える。歴史記述の中においても物語的な叙述の存在には明らかな偏りがあり、また歌謡の引用記載にも明らかな偏りがある。この偏りは原資料・原伝承の段階においてすでに生じたものであり、その存在形態に規制されているのであろう。
 『琴歌譜』は記紀成書以後に成立した書物ではあるが、古代宮廷歌謡の存在形態を窺うことのできる一等資料である。『琴歌譜』には二十一首の歌が掲載され、十九種の歌曲名が記される。順に挙げれば「しづ歌」「歌返」「片降」「高橋振」「短埴安振」「伊勢神歌」「天人振」「継根振」「庭立振」「あふして振」「山口振」「大直備歌」「慶歌」「盞歌」「片降」「長埴安振」「あゆだ振」「酒坐歌」「しらげ歌」となるが、このうち「歌返」「片降」は独立した歌曲名ではないので、実質は十六種となる。「歌返」「片降」の語が『古事記』と共通するのも注目されるが、「しづ歌」「うき歌」「しらげ歌」といった歌曲名が一致するのも、『古事記』の記述が音楽的に正統なものであることを窺わせる。『琴歌譜』の歌曲名十六種のうち、「〇〇振」が九種、「〇〇歌」が七種となっていて、「歌」の方が多い記紀の歌曲名記載とは傾向が異なり、どちらかと言えば「〇〇振」の方が主流を占めている。これは「ふり」の古態性が大歌の古態性に合致しているからであろう。
 また『古今和歌集』巻二十の「大歌所御歌」には、「おほなほびの歌」「近江ぶり」「みづぐきぶり」「しはつ山ぶり」の四例が見られ、こちらも「歌」よりも「振」の方が主流となっている。大歌所に伝来し教習された「大歌」には、「〇〇振」という歌曲名のものが多くあったことがわかる。ここからは、「ふり」は「うた」に対して、より音楽的側面を強調した呼称であったということは言えそうである。
 他文献との比較から言えば、『古事記』に記載される歌謡および歌曲名は、基本的に大歌所に保管されてきたものに基づいていると見て大過なさそうである。すでに斎藤氏前掲論が示唆していたように、『琴歌譜』が「大歌師多安樹」が伝来した資料を転写したものであることと、『古事記』の撰者太安万侶が多安樹の祖先に当たることとが、全く無縁であるとは考えにくい。『琴歌譜』の「縁記」には『日本書紀』だけではなく『古事記』も引用されていることが注目されるが、敢えて『古事記』を提示することにも多氏としての氏族意識が作用しているのだろう。景行記・允恭記・雄略記などに集中的に見られる『古事記』の歌謡重視の姿勢と、その詞章の入手経路を考えたときに、多氏が楽家であるという事実はやはり重い意味を持ってくるのではないか。この点については、すでに山上伊豆母『古代祭祀
伝承の研究』(雄山閣・昭48)『日本藝能の起源』(大和書房・昭52)が重視するところでもあった。
 『古事記』においては、全く異なる詞章に対して「夷振」とか「志都歌」といった同一の歌曲名を注記している。このことからは、これらの呼称が詞章に対するものではなく、曲節に対するものであったことが推測できる。そのことは、『上宮聖徳太子伝補闕記』に見られる歌謡注記の「此の歌は夷振を以て歌ふ」という言い方からも補強されよう。「夷振」には「夷振の上歌」「夷振の片下」という歌曲名もあり、『琴歌譜』に「しづ歌の片降」や「盞歌の片降」という類似の呼称があることを考え併せてみても、「上げ」や「下ろし」が音階に関わる指示であることは充分に推測可能である。こうした音楽面を重視した呼称のありかたからすれば、『古事記』に記載される歌曲名は、それぞれの曲節の違いや特色を表す呼称と考えてよさそうである。そのことは、楽譜である『琴歌譜』の歌曲名との一致や類似という点からも確認できる。
 従って、歌曲名を記載するという記述行為は、歌謡を作中人物による一回的な創作歌の範疇に留め置くことを潔しとせず、『古事記』の外部に存立の根拠や正統性があることを示唆し、文字の外部である音声や音楽に還元可能なものであることまでも示してしまうという機能を担うことになる。「故、今に至るまで其の歌は天皇の大御葬に歌ふなり」という注記が大御葬歌の正統性に根拠を与えているように、その歌謡が現在も歌われ、歌い継がれているということが、歴史記述の正統性の根拠とされているわけである。『日本書紀』がそうしたように、歌曲名注記を省略したとしても本文の趣旨に影響はない。むしろ歌曲名そのものは説話展開には直接関係しないものであり、夾雑物と言ってもよいものである。にもかかわらず歌曲名を敢えて記述することは、『古事記』の記述の外部にある「現実」に歴史記述の根拠があることを示唆する意識的な方法であったと見るべきであろう。
 文字の外部に音声としての伝承歌謡が存在することを示唆し、その音声に記述の正統性の根拠を求めるという方法は、『古事記』における仮名書き語句の挿入という方法とも通底しており、音声=伝承の存在を重視する序文の主張とも一致していると言える。
〔土佐秀里 日本上代文学〕

「夷振」の名義

 『古事記』六番歌「天なるや」の類同歌は『日本書紀』にも見える(紀二番歌)のだが、しかしそれは正伝中には記載されることなく、第九段の第一の「一書」中に引かれるに留まっている。改めて『日本書紀』神代巻の歌謡を見てみると、一番歌は本文にはなく、細注に「或云」として記されるのみであり、二・三番歌は第九段の一書第一、四番歌は第九段の一書第六、五・六番歌は第十段の一書第三にあって、すべて異伝中にのみ記載されていることがわかる。つまり神代紀には正伝中に記載された歌謡が一首も存在していないのである。少なくとも神代巻については、『日本書紀』は歌謡を重視しない方針が貫かれているように見える。全体としては『日本書紀』の収録歌数は『古事記』とほぼ変わらず、また『古事記』に記述のない七世紀代の記事に「童謡」が数多く見られるなど独自の傾向もあり、『日本書紀』が歌謡を軽視しているとまでは言えない。しかし、歌曲名の記載が極端に少ないことを見ても、「歌」に対する認識やその資料的な扱いについて、記紀両書間に考え方の違いがあることは確かであろう。
 当該の「夷振」歌謡の記載についても、『古事記』と『日本書紀』の記述にはさまざまな違いが見られる。『日本書紀』第九段一書第一における当該歌謡引用の記事は、アメワカヒコの葬儀という場面と、その弔問に訪れたアヂスキタカヒコネが激昂して去るという展開は『古事記』とほぼ同一なのだが、『古事記』には見えない歌がもう一首附け加わっているという違いがある。そして二首をあわせて「夷曲」であるとの注記がある。また紀二番歌は記六番歌の詞章とは小異があり、「みすまる」の繰り返しがなく、末尾の「の神ぞ」もない。

かれ、喪に会へる者の歌ひて曰く、(或は云はく、味耜高彦根神の妹・下照媛の、衆人をして丘谷に映く者は是れ味耜高彦根神なりと知らしめむと欲ふが故に、歌ひて曰く、)

天なるや 弟たなばたの うながせる 玉のみすまるの あな玉はや み谷 二渡らす 味耜高彦根 (紀二)

又歌ひて曰く、

天離る ひなつめの い渡らす瀬戸 石川片淵 片淵に 網張り渡し めろよしに よし寄り来ね 石川片淵(紀三)

此の両首の歌辞は、今、夷曲と号く。


 当該「一書」の記事は、歌詠者および詠作事情に異説があると述べており、葬儀の参会者が歌ったとする説と、『古事記』と同じくアヂスキタカヒコネの名を知らしめたいと思って「妹」が歌ったとする「或云」の説との二説を並記している。後者の「或云」の説は『古事記』の記述に一致しているが、「妹」の名が『日本書紀』では「下照媛」となっており、『古事記』の「高比賣」とは違っている。ただ、いずれの作歌事情を選んだとしても、紀三「石川片淵」の歌は文脈に整合せず、その存在理由がうまく説明できない。宣長『古事記伝』や守部『稜威言別』は、紀三は誤って混入したものだとしている。それに対して、アメワカヒコ葬儀神話の原型が民間の七夕説話であったとする尾崎知光「記紀歌謡覚え書」(『国語と国文学』昭28・2)は、紀二・三はどちらも織女を詠んだ七夕歌という共通性があり、一括されて民間に伝承されていた歌であったと考えている。
 また、戸谷高明「『古事記』の物語と歌謡」(高岡万葉歴史館叢書4『上代の物語』平6・3)は、二首一組が「夷振」歌謡の本来の伝承形態であり、『日本書紀』は「資料を尊重する」立場から本来の形態をそのまま記載したが、『古事記』は歌と物語の内容的一貫性を重視する立場から紀三番歌を「省略」したと考える。この説明は合理的ではあるが、『日本書紀』が歌詞の内容を重視し『古事記』が音楽性を重視するという神野志隆光「『片歌』をめぐって」(『萬葉』106号、昭56・3)の把握とは対立する。その一方で、岸正尚「『夷振』私考」(『並木の里』19号、昭55・6)は、逆に『日本書紀』の方が「独特のさかしら」から「潤色」意識を強め、「ひなぶり」の名にふさわしい都鄙対比の一組にすべく紀三番歌を挿入したとの見方を示す。しかしこの二首に「都鄙対比」の趣向があるのかどうかも疑わしいし、『日本書紀』の歌謡引用の全体傾向にそのような「さかしら」があるのかどうかも疑わしい。
 「夷振(夷曲)」の呼称の由来を紀三の「天離るひなつめの」の詞章に求めるという通説の立場からすると、『日本書紀』は歌曲名の説明のために敢えて紀三を残したか、あるいは挿入したという見方がとられることになるだろう。しかし、だとすれば『日本書紀』は必ずしも書く必要がない「夷曲」という歌曲名をなぜかこの箇所に限ってわざわざ記し、しかもその書かなくともよい歌曲名の由来を説明するためにわざわざ「天離るひなつめ」の歌を記載したということになる。『日本書紀』が全体として歌曲名の記載には消極的であることからすると、このような想定にはかなり無理があるのではないか。
 「〇〇振」の名は、宣長『古事記伝』が「ただ其歌の首の詞を取て、仮に名けたるものなり」と指摘する通り、歌謡詞章の冒頭句から名付けられることが多い。「宮人振」(記八二)は「宮人の足結の小鈴」で始まり、「天田振」(記八三~八五)は「あまだむ(天飛)軽の嬢子」で始まっている。『琴歌譜』の「〇〇振」もその多くが詞章冒頭の語句から命名されており、『古今集』の「〇〇ぶり」も同様である。ところが当該の「夷振」は「天なるや弟たなばたの」で始まり、「ひな」という語はどこにも出てこない。「夷振の上歌」は「笹葉に打つや霰の」と始まり、「夷振の片下」は「大王を島に放らば」と始まるので、「夷振」はこの規則には当てはまらないことになる。そこで宣長は、紀三の「天離るひなつめの」から「ヒナ」という語を採り、「夷振」と名付けられたと説いた。この宣長説は定説化し、大多数の注釈書等が追随するところとなっている。
 しかし倉野憲司『古事記全註釈』はこの通説に疑問を呈し、歌曲名が「初句の『天放る』を捨てて二句の『鄙つ女』によつたとするのは変」であり、「仮に第二句によつたとしても、他の例に照せば、『ヒナツメ振』とでもあるべき」と言って、通説は「附会の説」だと断じている。また山路平四郎「ヒナブリの名義と記紀の旋頭歌」(『記紀歌謡の世界』笠間書院・平6)も同様の疑問を呈しており、歌曲名が紀三の詞章に基づいたのなら「アマサカブリ」であってもよいはずであるし、「『ヒナツメの』を『ヒナ』とするのは異例の省略」であって、それならばなぜ「ヒナツメブリと呼ばないのか、という疑問」が生じると述べている。これらの批判はすべてが尤もであって、通説はこの疑問に十全に答えられるものではない。
 そもそも『日本書紀』の方が歌曲名記載には明らかに消極的であったはずであり、「夷曲」の名を記しその由来を明らかにするためにわざわざ紀三を附載したという経緯は考えにくく、一方の『古事記』が「夷振」という歌曲名を記しながらその由来となるはずの歌を敢えて省略したというのも、不自然で無理のある想定である。また「夷振」と呼ばれている歌曲が複数存在し、資料的にもかなりの広がりがあることを考えてみても、『日本書紀』の一つの「一書」の中にしか存在せず、他文献に全く見られないただ一首の歌謡に「夷振」の由来があるというのは、やはり状況として不自然ではないだろうか。ちなみに『琴歌譜』の「〇〇振」九種のうち、約半数の「高橋振」「短埴安振」「長埴安振」「あゆだ振」の四種については、歌曲名と詞章との間に全く相関が認められない。ということは歌曲名と詞章との関係が絶対的なものとしてあるわけではないということになり、「天離るひなつめの」の歌詞が歌曲名「夷振」の由来であると無理に関係づける必要はないのではあるまいか。
 しかし、だとすれば「ひなぶり」という名称はどこに由来し、何を意味しているのかが改めて問題となる。この点については、諸注釈の中でも尾崎暢殃『古事記全講』の説が異彩を放っている。『全講』は通説に従いつつも、「ひな」は「幽顕両界の地堺・異境、またはそのような霊の世界からこの人界に訪れ寄る者の義」で、「ふり」は「異域の強盛な威霊を触れしめる意」であり、「ひなぶり」は「霊魂の復活再生を呪祷する意味をもった歌曲」であったと説いている。この説は、折口信夫「ひめなすびひなあそびと」(『水甕』昭8・10)や高崎正秀「『ひな』の国」(『國學院雜誌』昭30・6、昭31・2)の考えを承け、それをさらに発展させたものであろう。また熊谷春樹「葬礼と挽歌」(『國學院雜誌』昭51・7)もこれらの説を承け、「天なるや弟たなばたの」の歌は「鎮魂の歌」であり、「天離るひなつめの」の歌は「招魂の歌」であって、ともに死者復活の儀礼の場に歌われるものであったとしている。これらの説によれば「ひな」と「ひなぶり」の呼称には古代的かつ呪術的な讃意が込められており、肯定的な呼称として捉えるべきことになる。
 だがその一方で、『万葉集』における「ひな」の語について論じた中西進「夷」(『上代文学』18号、昭41・1)は、「ひな」が「中央貴族の自意識」に生じた「観念的」な語であり、華夷秩序という「外来文化によって生じたもの」であるとして、否定的な呼称として捉えている。「ひな」を外来的で観念的な新しい概念と捉える点で、右に挙げた「ひな」に古代性や呪術性を見る諸説と中西氏説は対照を成している。 中西氏説では「ひな」は中央の視点から否定的に捉えられるものとなるわけだが、鈴木貴大「『古事記』の歌曲名」(『上代文学研究論集』7号、令5・3)も「夷」を「天」に対比される無秩序な周縁部という否定的な語として捉え、アヂスキタカヒコネや軽太子の行動に表れた周縁性や野蛮さを「夷振」という歌曲名が暗示していると読み、『古事記』における歌曲名の記載を説話記事の一部を構成する表現と見る。しかし、だとすれば「夷振」以外の他の歌曲名もそれぞれの説話文脈に合致した表現意図を以て『古事記』に記載されていなければならぬことになり、歌曲名の記載に果たしてそこまでの表現意図があると言えるのかどうかはかなり疑わしい。あるいはまた、『日本書紀』にも「夷曲」という注記があるわけだが、それは同様の表現意図に基づく記載ということにはならないのだろうか。 説話と歌謡と歌曲名の三者の関係が可変的で選択可能であったのならば、そこに表現意識が働く余地があると言えるかもしれないが、その関係が固定的であったとすれば、そこに表現意識の介入しうる余地はないはずである。歌曲名そのものを変えることはできない以上、その記載をするかしないかのどちらかにしか記述者には選択の余地はなく、それをひとたび記載してしまえば、やはり記述の外部に既存の制度や文物が存在することを認めるしかなくなるだろう。歌曲名は、物語的文脈から切り離されても自立的に存在しうるものであり、また複数の文献にまたがって存在するものでもある以上、その記載の意味を個々の書物の文脈内部のみに限定して考えるという方法には明らかに無理がある。歌曲名を記すことは、その「歌」が書物の外部においても存在しうるものであることを証するものであり、すなわち歌われる声の歌として存在可能なものであることを証するものとなる。
 ここで一応の私見を述べておくならば、「ひなぶり」とは「くにぶり」に類した語であり、文字通り「田舎風」とか「地方風」の曲調を持った歌謡という意味ではなかったかと思われる。その根拠と言えるかどうかはわからないが、平安時代の舞踊および歌謡に「東遊び」と呼ばれる曲がある。この「東遊び」という名称は東国風の歌舞という意味であろうが、しかし詞章も都で作られた貴族の和歌を元にしていたり、装束や芸態も貴族的に洗練されていて、特に東国らしさは感じられない。「東遊び」は「大和舞」と装束や芸態や上演場面がよく似ており、一対のものと見られる。両者の楽器編成を比べてみると、ほぼ似てはいるが、「東遊び」には倭琴が加わっているという違いがある。つまり倭琴という古風な楽器が加わることで、「東国風」ということにされているわけである。なお『琴歌譜』の「琴」も、外来の七絃琴ではなく、八絃の倭琴である。倭琴という楽器と、それが奏でる伝統的な曲調が、唐楽に比べると古めかしいものに感じられるようになっていったのであろうし、それが原因となって大歌と大歌所は廃れてしまったのであろう。
 欧米の音楽には、「フォーク・ソング」や「フォーク・ダンス」とか「カントリー・ミュージック」といった、敢えて土着性・地方性を強調した呼称を持つ音楽ジャンルがある。「ひなぶり」もまたそれに類した「田舎風」の楽曲という意味の歌曲名だったのではないだろうか。そして実際のフォーク・ソングやカントリー・ミュージックが純正な地方民謡ではなく、都会人によって新作される歌謡であるように、「東遊び」や「東歌」も中央貴族が空想的にイメージした「田舎風」の歌であって、実際には都において貴族が作った歌も多く混じっていたわけである。中央貴族には、敢えて土着的なものや非洗練を愛好する「ひなび」趣味もあったことを見逃すべきではない。おそらくは貴族たちが「ひなびた、田舎風の」楽曲だと感じるような曲調や旋律やリズムや編曲に対して、「ひなぶり」という名が与えられたのではないかと想像される。
〔土佐秀里 日本上代文学〕

故、天若日子之妻、下照比賣之哭聲、与風響到天。 是、在天々若日子之父天津國玉神及其妻子聞而、 降来哭悲。乃於其處喪屋而、 ①鳫為岐佐理持 [自岐下三字以音]、掃持、翠②為御食人、雀為碓女、雉為哭女 此行定而、日八日夜八夜以、遊也。 此時、阿遅志貴髙日子根神[自阿下四字以音]到而、天若日子之喪時、 天降到、天若日子之父、亦其妻、皆哭云、 「我子者、不死有祁理。[此二字以音下效此]「我君者、不死坐④理」云、 懸手足而哭悲也。 其過所以者、此二柱神之容姿、甚能相似。 故、是以過也。 是、阿遅志貴髙日子根神、大怒曰、 「我者有愛友⑤来耳。 何吾比穢死人」云而、 御佩之十掬釼 伏其喪屋、以足蹶離遣。 此者在美濃國藍見河之河上、喪山之者也。 其、持所切大刀名、謂大⑥量、亦名謂神度釼。[度字以音] 故、⑦治志貴髙日子根神者、忿而飛去之時、 其伊呂妹髙比賣命、思其御名 故、歌曰、 阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美湏麻流 美湏⑧流迩 阿那陁麻波夜 美多迩 布多和多良湏 阿治志貴多迦比古泥能迦微曽也 此歌者、夷振也。
【校異】
①真「阿」。道祥本以下の諸本に従って「河」に改める。
②真「馬」。道祥本・春瑜本も「馬」だが、兼永本以下卜部系の諸本に従って「鳥」に改める。
③真「即」。道祥本・春瑜本も「即」。兼永本以下卜部系諸本は「弔」の異体字とみられる字の右に「トフラヒ玉フ」との訓を記す。ここでは兼永本以下に従って「弔」に改める。
④真「礼」。道祥本・春瑜本も「礼」だが、兼永本以下卜部系諸本に従って「祁」に改める。
⑤真「予」。道祥本も「予」だが、春瑜本は「弔」に近い字体になっている。兼永本以下は③と同じく「弔」の異体字とみられる字の右に「トフラヒ」の訓が記されている。兼永本以下に従って「弔」に改める。
⑥真「犬」。道祥本以下の諸本に従って「大」に改める。
⑦真「河」。道祥本以下の諸本に従って「阿」に改める。
⑧ 真ナシ。以下諸本もナシ。延佳本・記伝をはじめとして諸テキスト類も「麻」を補う。直前の「美須麻流」の語を繰り返している箇所なので、「麻」を補う。「ミスマル」は天照大御神と須佐之男命のウケヒの場面に「五百津之美須麻流珠」とあり、『日本書紀』の当該箇所にも「多磨廼弥素磨屢廼」とみえる。

そうして、天若日子の妻である下照比売の哭く声は風に乗って響き渡り、天界にまで届いた。 天界に居た天若日子の父天津国玉神と、天若日子の妻子とがその哭き声を聞いて、 地上に降ってきて哭き悲しんだ。それで、喪屋を作って、 河雁をきさり持ちとし、鷺を箒持ちとし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とした。 このように役割を定めて、昼は八日、夜は八夜、遊びをした。 この時に、阿遅志貴高日子根神がやって来て、天若日子の喪を弔った時に、 天界から降って来た天若日子の父と、天若日子の妻とが、いずれも哭きながら言ったことには、 「我が子は、死なずに生きていた」「我が夫は死なずにいらっしゃった」と言って、 阿遅志貴高日子根神の手足に縋りついて泣き悲しんだ。 そのように誤った理由は、この二柱の神の容姿が非常に良く似ていたからであった。 それでこのように誤ったのだ。 それで阿遅志貴高日子根神はたいそう怒って言ったことには、 「私は(天若日子の)親しい友であったが故に弔いに来たのだ。 どうして私を穢らわしい死人に擬えるのか」と言って、 お佩きになっていた十掬剣を抜いて、 其の喪屋を切り伏せ、足でもって蹴って飛ばしてしまった。 これが、美濃国の藍見河の河上にある喪山である。 其の、手に持って切った大刀の名は、大量と云い、亦の名は神度剣と云う。 それで、阿治志貴高日子根神は、怒って飛び去った時に、 その同母妹の高比売命が、そのお名前を顕そうと思った。 それで、歌って言ったことには、 天上の若い機織女が、首に掛けていらっしゃる、 玉を緒で抜き通したもの、その連なった玉飾りよ、足玉よ、ああ。 その玉のように、二つの谷に渡っている、阿治志貴高日子根神よ。 この歌は夷振である。

先頭