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いやはてに、いもみのみことみづか来つ。 しかして、びきのいは黄泉よもつさかへ、 いはなかきて、おのおのちてことわたときに、 みのみことひしく、「うつくしきせのみことば、くにひとくさひとかしらくびころさむ」。 しかして、きのみことらししく、「うつくしきものみことなれしかば、あれひとうぶてむ」。 ここちて、ひとかならたりに、ひとかならたりまるるぞ。 かれみのかみのみことなづけて、黄泉津よもつおほかみふ。 またはく、[此三字以音]をちてしきのおほかみなづく。 また黄泉よもつさかさやりしいはがへしおほかみなづけ、 またさや黄泉よもつとのおほかみふ。 かれ所謂いはゆる黄泉よもつさかは、いま出雲いづものくにさかふ。

○事戸を度す 「事戸」は語義未詳。絶縁の言葉と取って、それを相手に言い渡す意ととる説が多い。この場合は「戸」を「呪言」ととるわけだが、言葉の意ではなく、場所ととる見方もある【→補注七】。 ○出雲国の伊賦夜坂 島根県松江市東出雲町揖屋の地に揖屋神社があり、また同地域にヨモツヒラサカの遺称地がある。揖屋神社については、『出雲国風土記』意宇郡に「伊布夜社」、『延喜式』神名帳「揖屋神社」と見える。『日本書紀』斉明天皇五年(六五九)是年の条に、出雲国造に命じて、神の宮(熊野大社・出雲大社説あり)を修造させたという記事があり、その後に、「狐、於友郡の役丁の執れる葛の末を噛ひ断ちて去ぬ。又、狗、死人の手臂を言屋社に噛ひ置けり[言屋、此をば伊浮瑘といふ。天子の崩りまさむ兆なり]。」と記す。狐や狗の不可思議な行動と、神の宮修造の話とが関わるものかどうか、よくわからないが、不吉な事柄を表すこの記事に言屋社が関わっているのは、やはり死の世界との繋がりを連想させるものではある。
 なお、イフヤ坂という場所の持つ意味合いについては、比婆山、比婆山の近くに位置していると思われる伯伎国手間之山本(八十神の迫害条)、また、黄泉坂黄泉穴(『出雲国風土記』出雲郡)、そして黄泉坂黄泉穴の近くと思われる宇迦能山之山本(根の堅州国訪問条)等の地と併せて考える必要があるように思われる。

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事戸を度す

諸注釈の見解は以下の通り。
  ①離れて別戸に渡り往く意、「別戸」〈『古事記伝』師(賀茂真淵)説〉

  ②夫婦の交を絶つ證の事・若しくは詔琴(夫婦交の品)を渡す、「事解言の約」〈『古事記伝』本居宣長〉

  ③絶縁を言い渡す、「異處」〈新講〉「別所」〈『古事記評釈』中島悦次〉

  ④絶縁の言葉、「別+呪言」〈小学館日本古典文学全集『古事記』荻原浅男〉

⑤誓いの言葉をいいわたす、「言+ド=言立て」〈『古事記全註釈』倉野憲司〉

  ⑥「戻るな」と死者へ言い渡す呪言、「別+呪言」〈『古事記注釈』西郷信綱〉

  ⑦離縁を言い渡す+生死の訣別、「離縁+呪的な言語・行為・事件につける接尾語+言い渡す」〈新潮日本古典集成『古事記』西宮一民〉

  ⑧一方の側から他方の側へ呪言を送る、「コトド=夫婦絶縁のための呪言」〈『古事記注解』神野志隆光・山口佳紀〉

 「コト」について言えば、「琴・別・異・言・事」など、見方が分かれるが、『全註釈』が指摘するように、「別・異」の意で「事」の字を当てた例が『古事記』中に見られないことや、『注解』が指摘するように、「言」の意ならば「言」の字を当てたであろうことを考え合わせるならば、「コト」はやはり「事」である可能性が高い。次に「ド」の場合は、「戸・所・言(呪言)」等の意の名詞、若しくは接尾語と見られている。「戸」の字は使用法にあまり限定性がないように見えるので、確定は難しい。そして「ワタス」だが、こちらの方は、「言い渡す」などの渡すと見ることでだいたい一致している。『注解』が指摘するように、「各対立而、度事戸之時」という本文から、これを二神相互の行為として捉えるならば、『注釈』のような「死者へ言い渡す呪言」という理解は成り立たなくなるが、果たしてどうか。
 『日本書紀』神代上第五段一書六には、「建絶妻之誓」と見え、同じ五段の一書七に「絶妻之誓、此をば許等度と云ふ」という訓を示している。それが『古事記』の「事戸」の解釈にも影響を与えているようであるが、『日本書紀』では「絶妻之誓」という具体的な意味合いを示す言葉で記されている点、また「妻」が伊奘冉尊を指すならば、伊弉諾尊からの一方的な行為になっている点において『古事記』とは文脈が異なっている。
 「事」について言えば、「事+○○」という語構成は、神名の大事忍男神・事代主神以外では、「事依(コトヨサシ)」(四例)・「真事登波受」「真事登波牟」(垂仁記)があるくらいで、どちらも動詞が下接しており、名詞と見られる「戸」のような語が続く例は見えない。「事依」には「言依」の例もあり(五例、他に「言因」一例)、また「真事」の方は「言葉」の意味合いが感じ取れる。コトが言の意であるならば、例えば「言立者」(仁徳記)「言向」(九例)「言趣」(二例)などのように「言+○○」という動詞が下接するパターンのほか、「言挙」(景行記)「言離」(雄略記)などの例もあるが、これらも「言」+動作を表す語という構成である。ただし『古事記』以外に広く用例を見るならば、コトワザ(諺)・コトダマなど、言+名詞の例と見られそうなものもあるが、コトワザのコトが「言」に限定しうるかどうかは問題もあろうし、コトダマにしても『萬葉集』には「言霊」(5・八九四)「事霊」(11・二五〇六、13・三二五四)両方の表記が存する。
 『古事記』の用字法から見た場合、「言」字が「事」字の借字として使われた例は原則として無いという分析がなされている。同一の語句で両方のコトが使われている場合、書き分けの意識があるという指摘もなされている。だが、「事」字が「言」の意を含み持って記されている例はあり得るともいう。要するに、言葉のコトと事柄のコトとは区別されているが、言葉から事柄へという展開を持つ場合には、即ち言葉と事柄と両方の意を含み込む場合には、「事」が使われるということである。「言」であらわされるものが言葉に限定されるのに対し、「事」の場合には、「言→事」という展開を持つのである。先の「真事」の場合に「事」が使われるのもその故であろう。「事戸」の場合にもそのように「言→事」という展開を含み持つ例である可能性はある。
 次に、「戸」の用例は多岐に亘るが、神名、人名、扉の意等で多く使われるものを除いた場合に、⑴「詔戸」⑵「千位置戸」⑶「詛戸」といった例が注意される。
 ⑴天兒屋命、布刀詔戸言祷き白して (上巻・天の石屋戸)
 この文の訓義だけでも相当の問題となるが、とりあえずここでは簡略に触れることしかできない。「のりと」は後々神に奏上する言葉を指すが、この用例にそれが当てはまるのかどうかは疑問である。「詔」の『古事記』の用法からするならば、ここは天照大御神の「詔」を導くための行為と見られるのではないか。天照大御神の「詔戸言」を「祷」く、つまり願うという意味合いではないか、ということである。「のりと」の「と」は未だ語義が明確ではなく、呪言説・場所説が併存している。トナフ・トゴヒ等を例として言葉の意と解する説もあるが、ホト・クミド・ミナト等を参考とすれば、場所と取ることも可能となる。「詔戸」の後の「言」の前で句切るのか否かは見解が分かれるが、「詔戸」のすぐ後に「言」が来ること自体、「戸」が言葉の意味ではないことを示しているのではなかろうか。ただ、仮に「と」が場所を意味するとした場合でも、「のりと」の意味は「神の言葉を聞く場所」ということになり、文脈上は不明瞭なものとならざるを得ない。
 ⑵ 是に八百萬の神共に議りて、速須佐之男命に千位の置戸を負せ、亦鬚を切り、手足の爪も拔かしめて、神夜良比夜良比岐。 (上巻・天の石屋戸)
 「千位の置戸」は祓の時に罪を贖う代価物を指しているが、本来はその代価物を置く場所を意味していたと見て、場所を意味する語が、その場所に置かれる物を意味するように転換した例だと見ることも出来るかも知れないが、文脈上、この例が物を指しているのは確かである。
 ⑶ 尓して、愁ひて其の母に白しし時、御祖答へて曰ひけらく、「我が御世の事、能く許曾神習はめ。又宇都志岐青人草習へや、其物償はぬ」といひて、其の兄の子を恨みて、乃ち其の伊豆志河の河島の一節竹を取りて、八目の荒篭を作り、其の河の石を取り、鹽に合へて其の竹の葉に裹みて、詛はしめて言ひけらく、「此の竹の葉の青むが如く、此の竹の葉の萎ゆるが如く、青み萎えよ。又此の鹽の盈ち乾るが如く、盈ち乾よ。又此の石の沈むが如く、沈み臥せ」といひき。如此詛はしめて、烟の上に置きき。是を以ちて其の兄、八年の間、干萎え病み枯れぬ。故、其の兄患ひ泣きて、其の御祖に請へば、即ち其の詛戸を返さしめき。是に其の身の如く安らかに平ぎき。(中巻・応神天皇)
 母神が「詛ひ」のために「伊豆志河の河島の一節竹を取りて、八目の荒篭を作り、其の河の石を取り、鹽に合へて其の竹の葉に裹」んだものを作り、竈の上に置いて「詛ひ」をした、この物のことを後に「詛戸」と言っている。これも「千位の置戸」と同じように、特殊な呪的意味を持つ物体に対して「戸」が使われている。
 『古事記』の「戸」の用例から言えることは、「戸」は境界的な場所を示す例があることと、呪的な具体物を示す例があるということである。「詔戸」は、「動詞+ト」という語構成から考えて、「置戸」「詛戸」の方に近いのではないかと思われるが、具体的な物ではないので、「のる」言葉の内容を指すということになろうか。ただ、「詔」を期待する天照大御神と他の神々を隔てているものが「石屋戸」である点からすれば、表記的な問題として「詔戸」の「戸」に「石屋戸」の意味を込めている可能性はある。ところで、「戸」には以下のような例もある。
  尓して、其の神の髮を握りて、其の室の椽毎に結ひ著けて、五百引の石を其の室の戸に取り塞へて、其の妻須世理毗賣を負ひて、即ち其の大神の生大刀と生弓矢と、及其の天の詔琴を取り持ちて逃げ出でます時、其の天の詔琴樹に拂れて地動み鳴りき。 (上巻・根の堅州国訪問)
 この「室の戸」は出入り口の「戸」だが、「五百引の石」を塞いで、逃げようとする点で「事戸」の場面と共通性がある。この石は須佐之男命によって越えられてしまうようだが、「戸」に石を塞ぐことが、二つの異なる世界を隔てようとするという意味では「事戸」とも「石屋戸」とも共通している。
 「度事戸」という表現の背後には、『日本書紀』の以下のような話があったのかもしれない。
  一書に曰はく、伊奘諾尊、追ひて伊奘冉尊の所在す處に至りまして、便ち語りて曰はく、「汝を悲しとおもふが故に來つ」とのたまふ。答へて曰はく、「族、吾をな看ましそ」とのたまふ。伊奘諾尊、從ひたまはずして猶看す。故、伊奘冉尊、恥ぢ恨みて曰はく、「汝已に我が情を見つ。我、復汝が情を見む」とのたまふ。時に、伊奘諾尊亦慙ぢたまふ。因りて、出で返りなむとす。時に、直に默して歸りたまはずして、盟ひて曰はく、「族離れなむ」とのたまふ。又曰はく、「族負けじ」とのたまふ。乃ち唾く神を、號けて速玉之男と曰す。次に掃ふ神を、泉津事解之男と號く。凡て二の神ます。其の妹と泉平坂に相鬪ふに及りて、伊奘諾尊の曰はく、「始め族の為に悲び、思哀びけることは、是吾が怯きなりけり」とのたまふ。時に泉守道者白して云さく、「言有り。曰はく、『吾、汝と已に國を生みてき。奈何ぞ更に生かむことを求めむ。吾は此の國に留りて、共に去ぬべからず』とのたまふ」とまうす。是の時に、菊理媛神、亦白す事有り。伊奘諾尊聞しめして善めたまふ。乃ち散去けぬ。(『日本書紀』神代上第五段一書十)
 この伝では、伊奘諾尊と伊奘冉尊との別離の場面において、伊奘諾尊が「族離れなむ」「族負けじ」と言い、その後、黄泉国の邪悪を一掃する神が「泉津事解乃男」と号されている。「事解」は「事・言を避る、離る意。黄泉国の事柄と離れること、つまり、その関係を断つことをつかさどる男神」(新編全集・頭注)という。「事戸を度す」という行為に近い意を持つ神名である。宣長の言う「事解言」説も見直す必要がありそうである(谷口雅博「「度事戸」の意義」『古事記の表現と文脈』二〇〇八年参照)。 〔谷口雅博 日本上代文学〕

最後其妹伊耶那美命身自追来焉 尒千引石引①其黄泉比良坂 其石置中各對立而度事戸之時 耶那②美命言愛我那③命④如此者汝國之人草一日絞⑤千頭 尒伊耶那岐命詔愛我那迩妹命汝④然者吾一日立千五百産屋 是以一日必千人死一日必千五百人生也 故号其伊耶那美神命謂黄泉津大神 亦云以其追斯伎斯[此三字以音]而号道敷大神 亦所①其黄泉坂之石者号道⑥之大神 亦謂①坐黄泉戸大神 故其所謂黄泉比良坂者今謂出雲國之伊賦夜坂也 【校異】
  ①真「寒」  道果本以下による。
  ②真「那奈」 道果本以下による。
  ③真・道果本「藝」 道祥本以下による。
  ④真・伊勢系「焉」 兼永本以下による。
  ⑤真「殺殺」 道果本以下による。
  ⑥真「及」  道果本以下による。

最後には、その妻の伊耶那美命自身が追ってきた。 そこで伊耶那岐命は千人かかってやっと動くくらいの巨大な岩を引っ張ってきてその黄泉ひら坂を塞ぎ、 その岩を間にはさんで、それぞれ向かい合って事戸を渡す時に、 伊耶那美命が言うことには、「愛しいわが夫の命よ。あなたがこんなことをするならば、私はあなたの国の人草を一日に千人絞め殺しましょう」と言った。 そうすると伊耶那岐命が仰って言うことには、「愛しいわが妻の命よ。お前がそんなことをするならば、私は一日に千五百の産屋を建てよう」と仰った。 こういうわけで、この世では一日に必ず千人死に、千五百人生れるのである。 それで、その伊耶那美神命を名付けて黄泉津大神という。 また言うことには、伊耶那岐命に追いついたことによって道敷大神と名付ける。 また、その黄泉坂をふさいだ岩は、道返之大神と名付け、 またふさいでいらっしゃる黄泉戸大神ともいう。 なお、その所謂黄泉つひら坂は、現在の出雲国の伊賦夜坂だという。

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