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かれしかして、おのおのあめのやすのかはなかきて、ときに、 あまてらすおほかみたけはやをのみことけるつかつるぎわたして、 きだりて、 の八字はおむちゐる。しもれにならふ。]あめすすきて、 つるぶきぎりれるかみは、 めのみことかみおむちゐる。]。またおきしまめのみことふ。 つぎいちしまめのみことまたよりめのみことふ。 つぎめのみこと。[はしらかみおむちゐる。]。 はやさのをのみことあまてらすおほかみひだりかせるさかのまがたまるのたまわたして、 あめすすきて、 つるぶきぎりれるかみは、 まさかつかつかちはやあめおしみみのみこと またみぎかせるたまわたして、 つるぶきぎりれるかみは、 あめみことしも、三字おむちゐる。]。 またみぎかせるたまわたして、 つるぶきぎりれるかみは、 あまねのみこと またひだりかせるたまわたして、 つるぶきぎりれるかみは、 いくねのみこと またみぎかせるたまわたして、 つるぶきぎりれるかみは、 くまびのみことしも、三字おむちゐる。]。 あはせていつはしらぞ。 ここに、あまてらすおほかみはやをのみことらししく、 の、のちまれしいつはしらをのこは、ものざねものりてれり。 かれおのづからぞ。 さきまれしはしらをみなは、ものざねものりてれり。 すなはぞ。」 と、きき。 かれの、さきまれしかみめのみことは、むなかたおきみやいます。 つぎいちしまめのみことは、むなかたなかみやいます。 つぎめのみことは、むなかたみやいます。 このはしらかみは、むなかたきみまへおほかみぞ。 かれの、のちまれしいつはしらなかに、あめひのみこと たけとりのみこと 出雲いづものくにのみやつこ 无耶志むざしのくにのみやつこ かみつうなかみのくにのみやつこ しもつうなかみのくにのみやつこ むのくにのみやつこ しまのあがたのあたひ とおつあふみのくにのみやつこおやぞ]。 つぎあまねのみことは、 おほし川内かふちのくにのみやつこ ぬかべのゑのむらじ きのくにのみやつこ やまとのなかのあたひ やましろのくにのみやつこ うまたのくにのみやつこ みちのしりへのくにのみやつこ はのくにのみやつこ やまとのあむちのみやつこ たけちのあがたぬし かまふのいな さきくさべのみやつこおやぞ]。

○乞度 「乞度」は表現として異例。『日本書紀』では「乞取」「索取」とある。そのため、記伝のように「乞取」と同義であるとするものや、西郷注釈のように本文を「乞取」に改めるものもあるが、本文に異同がなく、繰り返し「乞度」と表記されている以上、この表記での理解を求めるべきであろう。この場合、天照大御神と須佐之男は天の安の河を間に挟んで〈うけひ〉を行っているので、河の双方に物実が移動するという意味で「度」が使われているという見方がある(西宮修訂)。その場合、乞う動作があって、それによって物体が移動するという意味合いになるのは不自然である。お願いをして渡したというのもやはり不自然ではあるが、物実の交換は生まれた子神の帰属に関わる重要な要素を孕んでいるので、一方的な意思によって「取った」のではなく、お互いの要求によって双方に渡したということを示そうとする特殊用語であったと考えたい。そのように考えた場合、全註釈が、「「乞ふ」はこちらから、「度す」は先方からで、こちらから乞ひ、先方からそれを渡す意味で「乞ひ度し」と言ったのではあるまいか。」と述べるような解釈になるであろう。「乞」は他にも「矢刺乞」(八十神の迫害)、「乞帰」(建御名方神の服従)、「乞遣」(木花之佐久夜毗売)など、動作の主体・客体の関係が不明瞭な用例があるのを見ると、「乞」という言葉自体に特殊な用法を可能にさせる要素があるのかも知れない。 ○奴那登母々由良迩 三貴子分治条に、「玉緒母由良邇〔此四字以音〕」とあったのによれば、「奴那登母+々由良迩」という語構成であると見られる。「奴那登」は「ヌ(玉)+ナ(の)+ト(音)で、モユラはその音を表す擬声語と説かれるが、玉はともかく、剣をすすいだ際の音に対して「奴那登母々由良迩」と言うのは不自然であるとも言われる。玉の描写が剣にも影響を及ぼしたと考えるべきか。或いは剣も玉と同じような音をたてたと取るべきか。
○天之真名井 高天原にある神聖な井。北野達は、マナヰの語源はマヌナヰ(ヌは玉)であるとし、紀のアマテラス系所伝では「真名井」で統一され、玉・剣双方からの神出現を語るのに対し、日神系所伝では「天渟名井」を基本とし、玉からの神出現に限られることを指摘している(「天真名井」『古事記神話研究―天皇家の由来と神話―』おうふう、二〇一五年一〇月)。
○佐賀美迩迦美而 サは接頭語。噛みに噛んで。紀六段本書に、「■(齒吉)然咀嚼、此には佐我弥爾加武と云ふ。」とある。 ○多紀理毗売命 以下の三女神は宗像神社の祭神。紀六段本書・一書一に「田心姫」、一書二に「田心姫命」、一書三に「田霧姫命」。「田心」は「田霧」の転。霧(気吹之狭霧)から化成した女神。大国主神の系譜によれば、大国主神との間に阿遅鉏高日子根神と妹高日売命(下光比売命)を生む。
○奥津嶋比売命 沖にある嶋にいます女神の意。紀六段一書一に「瀛津島姫」、一書三に亦名として「市杵嶋姫命」を挙げる。
○市寸嶋比売命 イチキはイツク(斎く)の意か、という。紀六段本書に「市杵嶋姫」、一書二に「市杵嶋姫命」、一書三は「瀛津島姫」の亦名として「市杵嶋姫命」を挙げる。
○狭依毗売命 サは接頭語、ヨリは神が寄りつく意か。紀には見えない。
○多岐都比売命 タキツは水が激しく流れる意。後に「田寸津比売命」とも見える。紀六段本書・一書一に「湍津姫」、一書二・三に「湍津姫命」。 ○正勝吾勝々速日天之忍穂耳命 この名は、〈うけひ〉の勝敗と関わって問題とされる。後の須佐之男の「勝さび」のところでも触れるが、須佐之男は女神を生んだので自分の勝ちであると宣言をする。しかしこの男神の名の中には「勝」の字が三度も用いられている。『日本書紀』本書・一書で〈うけひ〉の前提条件が記されている場合は、例外なく男を生んだ方が勝ちであるとされている点と併せて考えるならば、この神名の「勝」は〈うけひ〉の勝利と関係あると見ざるを得ない。結局、男神を出現させたことによって須佐之男の「勝ち」が認定されるのかどうかが問題となるが、少なくとも『古事記』の場合、物語上では男神=勝ちを明示していない。女神の親として位置付けられることと、男神を出現させたこととの両方によって須佐之男の勝ちを描こうとするのならば、前提条件に男神を生む=勝ちがあっても問題はなかったのではないか。結局のところ、須佐之男が男神を出現させるという展開を変えることは出来ないものの、極力須佐之男と男神との関係を描かないという要請によって、このような形となったのではなかろうか。 ○天之菩卑能命 ホは稲穂、ヒは霊で、天上界の稲穂の神霊。紀に「天穂日命」。後に葦原中国平定の際に最初の使者として派遣されるが、大国主神に媚び付いて三年間何の報告もなかったとされる。紀九段本書もほぼ同じ。「出雲国造神賀詞」ではこの神が地上界の巡視をし、後に子神の天夷鳥が地上界の神を従わせるというように活躍が記されている。この相違は、この神が出雲国造家の祖先神として位置付けられていることに関わっているものと見られている(葦原中国平定条において詳述)。 ○天津日子根命 次の活津日子根命と対をなす神名。天の男神。ヒコを太陽(日神)の意と取る説(集成)もある。紀に「天津彦根命」。 ○活津日子根命 活は神世七代の「活杙神」の活と同じく、生命力に溢れる意。紀に「活津彦根命」。 ○熊野久湏毗命 熊野は地名であるとすれば、出雲の熊野か紀伊の熊野を指す。普通名詞であるならば、奥まったところ、即ち神の宿るところを指す。クスビは「奇霊」でクシビと同じ。紀六段本書・一書二に「熊野櫲樟日命」、一書一・三に「熊野忍蹈命」。「忍蹈(おしほみ)」は「忍穂霊」(『日本書紀』新編全集頭注)だとすると、オシホミミと重なる神名となる。 ○告 天照大御神の発言は基本的に「詔」の字によってなされるが、この場面から、須佐之男の乱暴の場面における二箇所の会話引用のみ「告」字が使用されている。会話の後に「詔別」「詔直」という表現があること、「告」も古事記では上位者から下位者への発言引用に用いられることからすれば、問題はないとも言えるが、古事記における「詔」字使用への特別な意識と、古事記においては会話引用に関わる話手への敬意は、基本的に会話文の前に置かれた語によって判断されるという傾向を考慮した場合、やはり天照大御神への「告」字使用には意図があるように思われる。それは天照大御神がこの場面(及び石屋戸こもりの前の場面)において置かれている位置づけに関与しているように思われる(谷口雅博「「告」字の用法」『古事記の表現と文脈』二〇〇八年十一月参照)。 ○物実 材料としての物の意。紀一段本書冒頭に「天地之中生一物」、同一書一に「一物在於虚中」が国常立尊と化すとし、同一書二では「国中生物」が可美葦牙彦舅尊に化すとするように、「物」は神が出現する元となるものでもある。この場面では、天照大御神と須佐之男のどちらの物実から神が出現したかによって、子神の帰属が決まるということであるから、より物実の持つ意味は大きい。紀六段本書に「物根」とあり、日本紀私記乙本に「毛乃左禰」とあるのによって「モノザネ」と訓まれるが、上代文献に確例はない。紀崇神十年九月条に「倭国之物実」の例があり、「物実、此云望能志呂」との訓注が付いている。崇神紀の例を当該条の「物実」と同じと見るかどうかで見解が分かれる。崇神紀の方は「物+代」で、ある物の代わりとなるもの、という意味であるならば、意味的には多少のずれが生じるようにも思われる。【→補注八】 ○詔別 子神の帰属を決める重要な発言ゆえに、「詔別」という特殊な表現が用いられているらしい。後の「詔直」も含めて、発言内容自体の神聖性を保証するような意味合いを含み持っている(若しくは含み持たせようとしている)ように読める。『古事記』内では、他に一例、応神天皇条において、天皇が三皇子に対して、詔を発する場面で次のように使われている。
即ち詔り別きたまひしく、「大山守命は山海之政をせよ。大雀命は食国之政を執りて白し賜へ。宇遅能和紀郎子は天津日継知らしめせ」。
神話における三貴子分治との関連でも注目される記事であるが、「詔別」という表現に共通性を持つ点で、うけひ神話との関連も検討する余地のある記述である。なお、「別」の訓については、例えば西宮修訂の頭注は「精神的に弁別する意の時は四段のワクで訓む」と説く。
○胸形の奥津宮・胸形の中津宮・胸形の辺津宮 福岡県宗像市大島沖之島、同大島、同田島の三社を指す。現在の宗像大社。古代から朝鮮半島への海上交通の要衝に位置し、航海の神として信仰されていた。多くの祭祀遺跡が残されている。【→補注九】 ○胸形の君 紀に「胸肩君」、『先代旧事本紀』に「宗像君」とある。筑前国宗像郡を本拠とした豪族。天武紀十三年十一月に朝臣姓を賜る。『新撰姓氏録』右京神別に「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」、河内神別に「宗形君、大国主命六世孫吾田片隅命之後也」とあって、大国主神の子孫とする。 ○建比良鳥命 建は勇猛な意。比良は未詳だが、黄泉比良坂と同じ「比良」の表記であり、関連があるか。集成は同語とみて、縁(物の端、隣との境界)の意とし、異郷への境界を飛ぶ鳥とする。出雲臣ら七氏の祖とする。「出雲国造神賀詞」に「出雲臣の遠祖天穂比命の子天夷鳥命」とある。崇神紀六十年秋七月条に、「武日照命(一に云はく、武夷鳥といふ。又云はく、天夷鳥といふ。)の天より将来れる神宝」を出雲大神の宮に蔵めたことを記す。 ○建比良鳥命[此は出雲国造・・・遠江国造等が祖ぞ]。 『古事記』には、注記形式による始祖記述が十七箇所に見られる。これらの記述は、本文から直接文章が繋がっている形式であるところから、他の注記記事とは質の異なるものであるとして中村啓信は、注的本文と名付けた(『古事記の本性』おうふう、二〇〇〇年一月)。それらの用例を見ると、神・人名に続けて注的本文において単数・若しくは複数の氏族名を列挙する型となっている。『古事記』は各氏族と天皇家との繋がりを、天皇家の側から確定する意図を持って編纂されていると見られるので、これらの記述は付け足し的なものではなく、重要な意味合いを持っていたと思われる。また、これらの氏族名列挙は、『日本書紀』天武天皇条に見える賜姓記事と重なる部分がある故に、その内容は天武朝には整えられていたのではないかとの見方もある。なお、複数の氏族名を挙げた後で「等」の文字を付けている場合があるが、これは各神・人に繋がる氏族がまだ他にもありうるという許容を残しているのであるという(中村前掲書)。【→補注十】

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【補注八】「物実」からの誕生

アマテラスとスサノオは、誓約の際にそれぞれ剣と勾玉を交換し、それらを「物実」として子を産みあった。無生物からの出生という点では、通常とは異なっているということで異常出生のモチーフであるといえる。
 異常出生は、英雄など特別な力を持つ存在の誕生を描く際に多く見いだされるものである。たとえば剣や勾玉といったように、無生物から誕生した英雄といえば、中国の明代の小説『西遊記』の孫悟空を挙げることができるだろう。孫悟空は、花果山の頂上にある仙石が卵を産み、その卵が風を受けて誕生したとされている。
 また、このアマテラスとスサノオの「物実」による子産みの神話は、処女神であるアマテラスが五柱の男神を得て、皇祖神になることを描いている。「物実」は、処女神のまま子をもうける手段でもあった。こうしたアマテラスの神話は、ギリシャ神話のアテナの物語とも似た点を持つ。
 アテナは、あるときヘパイストスに犯されそうになるが、拒絶をする。そのときヘパイストスの精液が彼女の足にかかってしまった。怒ったアテナは、それを羊毛で拭き取り、大地に投げ捨てる。するとその大地からエリクトニオスが生まれた。エリクトニオスは、アテナの息子として育てられ、のちにアテナイの王になった。
 「物実」による子産みがなされた結果、処女神が王の祖先になったということができるだろう。
 さらに神話学では、このアマテラスとスサノオの子産みについて、オセットのナルト叙事詩のサタナの神話との共通点が指摘されている。
 あるときサタナが川で洗濯をしていると、対岸にいた羊飼いの男が、あらわになったサタナの股をみて欲情し、石の上に精液をもらした。それにより石が懐胎し、のちにサタナは赤ん坊をその石から取り出した。その子はサタナによって育てられ、ソスランという英雄になった。
 吉田敦彦は『日本神話と印欧神話』(弘文堂、一九七四年)でこの神話を取り上げ、「川の向岸にいる男神的存在によって、正常な性行為によらずに石(=玉)から生み出されているという点で、両話の間に一致が見られる」(二一九頁)と論じた。大林太良もまた『日本神話の構造』(弘文堂、一九七五年)において、このサタナの神話を取り上げ、川を挟んだ男女の間で超自然的な出産が行われただけでなく、男が超自然的に産んだ子を、対岸の女が養子としたという点でも、アマテラスの神話と類似していると述べた。
 吉田敦彦、大林太良、いずれもこのサタナの神話とアマテラスの神話の類似について、日本神話に印欧語族の神話が、アルタイ系の遊牧民文化を介して影響を与えたことを示すものだとしている。 〔平藤喜久子 比較神話学〕

【補注九】宗像三女神と祭祀遺跡

誓約(うけい)で須佐之男命の十(と)拳(つかの)剣(つるぎ)から生まれた宗像三女神の神名と祭祀の場「奥・中・辺津宮」との対応関係は、『古事記』『日本書紀』で一致せず、『日本書紀』の本文と一書においても統一がとれていない。しかし、三柱の女神を奥・中・辺津宮で祀ることは一致しており、この点については記紀編纂時点では、すでに伝統的な共通した認識であったと考えられる。その歴史を具体的に示すのが、『古事記』で多紀理毘売命が坐すとされる「胸形の奥津宮」、宗像沖ノ島の祭祀遺跡である。
 沖ノ島は玄界灘のただ中、大和地方と朝鮮半島を最短で結ぶ航路上に位置する。日本列島と朝鮮半島との人的交流が活発化する四世紀後半に、祭祀の痕跡(祭祀遺跡)が残されるようになり、十世紀初頭まで継続した。波荒い玄界灘の航路上にあり、真水を得ることもできる沖ノ島。その自然環境の働きに神をイメージし祭祀の対象としたと考えられる。記紀の「タギリ」「タゴリ」「タギツ」という宗像の女神の名は、水の激しい動きを示しており、まさに沖ノ島周辺の自然環境、玄界灘の激しい波の動きを象徴するといってよいだろう。
 祭祀遺跡は、沖ノ島の南側斜面、標高八五メートルほどの地点、南北約一二〇メートル、東西約八一メートルの範囲の巨岩群を中心に二三ヶ所が確認されている。四世紀後半から十世紀初頭までの間で、①五世紀前半から中頃、②六世紀後半、③七世紀後半の三時期に画期が認められる。
四世紀後半に成立する初期の遺跡(一六・一七号遺跡など)は、巨岩群内で最も高いI号巨岩の周辺にある(第1図)。多数の大型銅鏡を始め、石製腕輪や勾玉など玉類、鉄製の刀剣など武器が出土し、祭祀で捧げた供献品を納めたものと考えられる。その内容は大和地域の前期古墳の副葬品と類似する。宗像沖ノ島における祭祀遺跡の成立と、大和王権との密接な結びつきを物語る。
ところが、五世紀前半から中頃には、供献品を納めた場は、I号巨岩の南側、F号巨岩上へと移動し二一号遺跡が成立した。これに伴い、供献品は大きく変化する。銅鏡の数は減少し、代わりに鉄製の武器・武具、農具・工具などが増加、これに有孔円盤や剣形といった滑石製の模造品が伴うようになる。この構成は、質・量の差はあるものの、日本列島内に同時期に明確化する祭祀遺跡の出土品と基本的に同じである。五世紀前半頃を境に、列島内の祭祀遺跡と沖ノ島のそれは共通した方法で祭祀が行われるようになったと考えられる。
併せて、二一号遺跡から出土したと伝えられる銅鏡(画文帯同向式神獣鏡)は、宗像氏の墓域と考えられる福岡県福津市の津屋崎古墳群、その最初期(五世紀中頃)の前方後円墳、勝浦峰ノ畑古墳の銅鏡と同形鏡とされている。
また、沖ノ島祭祀遺跡の五世紀代の滑石製模造品は、九州産の滑石を使用しているとの指摘がある。これらの状況から、五世紀前半頃の二一号遺跡への変化は、地元勢力、具体的には後の宗像氏につながる人々が、沖ノ島祭祀に関与し始めたことを示していると考えられる。『古事記』が「胸形君等が、もちいつく」とする宗像氏の祭祀の伝統は、五世紀代に遡る可能性が高い。
続く画期、六世紀後半になると、D号巨岩の岩陰、七号・八号遺跡から豊富で装飾性が高い供献品が出土する。特に七号遺跡では、金銅装の馬具、組紐・錦で彩られた胡籙と矢、銅鏡(珠文鏡)、刀剣、盾、鉾、甲(挂甲)が、岩陰の狭い平坦面に整然と配置された状況で出土した。刀剣は、鉄芯に銀を巻いた捩り環頭と、水晶製の三輪玉が附近から出土しており、神宮神宝の玉纏横刀・須賀流横刀へと系譜がつながる倭系の装飾大刀であったと考えられる。さらに、鏡、盾、矢を入れる胡籙(神宮神宝は「靫」と表記)も神宮神宝と共通する。この段階には、神宮神宝の直接の祖型となるような華麗な品々が捧げられ始め、国家的に重要な祭祀の場としての性格を強めていたようだ。
そして、七世紀後半から八世紀、B号とC号巨岩の間の五号遺跡、露天の一号遺跡が成立する。そこから出土する品々には、紡織具や琴の金銅製模造品のように神宮神宝と共通するものがあるとともに、多数の滑石製模造品が伴う。滑石製模造品には伝統的な有孔円板、退化した勾玉・子持勾玉と、新たに人形・馬形・舟形が加わっている。さらに玄界灘式の製塩土器、須恵器の甕・杯・器台、奈良三彩の小壺といった土器・陶器類が多数出土した。
これと類似する遺物は、中津宮が鎮座する大島の最高峰、御嶽山々頂の大島御嶽山遺跡から出土している。この遺跡の年代は、七世紀末期から八世紀にかけてであり、沖ノ島の五号遺跡とほぼ並行する。また、辺津宮の周辺でも同時代の人形・馬形・舟形の滑石製模造品が採集されている。以上の状況から推測すると、おそらく、七世紀後半、沖ノ島の五号遺跡が形成され機能しはじめていたころ、宗像三女神の祭祀の場、奥・中・辺津宮の祭祀の場が最終的に整えられていったのだろう。それは、記紀の編纂作業と並行する時代である。
実は、七世紀後半、出雲(『日本書紀』斉明天皇五年条)と鹿島(『常陸国風土記』香島郡条)で祭祀の場が「神の宮」として整備されていく。さらに、鹿島神宮周辺の神戸集落と考えられる厨台遺跡群では、七世紀後半に竪穴住居数が増加するとともに、大型の有孔円盤、斧形・鎌形といった滑石製模造品が確認できる。香島(鹿島)郡は、宗像郡と同様、神郡となり、出雲は神郡、意宇郡が所在する地域である。出雲では「大国主神」、鹿島では「香島の天の大神、武甕槌神」が祀られる。いずれも記紀では重要な神格である。記紀の重要な神格を祀る祭祀の場の整備と記紀の編纂は、相互に対応する形で七世紀後半に進められ、その神々を祀る神社を支える神郡が併せて設定されていったのではないだろうか。そこに、宗像三女神と宗像沖ノ島の祭祀遺跡、神郡宗像郡の背景を見ることができるだろう。

参考文献
・第三次沖ノ島学術調査隊編『宗像沖ノ島』宗像神社復興期成会 一九七九。
・笹生 衛『日本古代の祭祀考古学』吉川弘文館 二〇一二。
・笹生 衛『神と死者の考古学 古代のまつりと信仰』吉川弘文館 二〇一六。
〔笹生衛 考古学・日本古代史〕

【補注十】古代の氏族系譜の意義

記紀にみえる古代氏族の系譜・伝承は、帝紀・旧辞の編纂や推古二十八年(六二〇)の天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部并公民等本記の編纂、壬申の乱に勝利して即位した天武・持統朝にいたる政治過程を経て成立したものである。そのため、系譜の虚構性やその間の氏族動向を反映して記紀編纂段階において王権より正当性を付与されたものとみる諸学説もあるが、杖刀人首として獲加多支鹵大王(雄略天皇)に仕えた「乎獲居臣」にいたる父祖の系譜を記した埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣銘によって、古代社会における氏族系譜の重要性が再認識されるようになり、今日に至っている。新撰姓氏録・粟鹿大神元記等の分析により氏族系譜の構造・機能を明らかにした溝口睦子の研究(『日本古代氏族系譜の研究』学習院、一九八二年)によれば、氏族系譜は、①重層的構造を内包しており、応神~崇神以前は他氏との共同系譜に連なる。②大和王権の建国神話・建国伝説上の人物を始祖とする。③氏姓・職掌の起源が書かれる。④大王・天皇への「奉仕」を伝える文章であるといった共通の特徴をもつ。神話・伝説中の先祖の役割は子孫の朝廷における地位・役割の基礎をなし、先祖が神話・伝説で語られることは子孫が大和朝廷の構成員であることの資格証明として機能した。大王・天皇への服従と朝廷の秩序社会への参加を表明するために作られた
ものが氏族系譜の共通部分であり、その下に諸氏独自の系譜が接続する。それゆえに系譜は重層的に構成され、先祖との血縁関係は擬制的であり、観念的な性格をもつという。さらに溝口によれば、氏族の出自伝承は皇別・神別に分類され、二元的な構造をもつが、それは歴史的には臣・連などで構成されるカバネ制度に対応して成立した。祖の名を継いで大王・天皇に永遠に仕えるという氏の理念を支えたのが奉事根源を伝える氏族系譜であり、各地の国造・県主らが等しく建比良鳥命・天津日子根命を祖とする本条割注の内容もこうした氏族系譜の性格をふまえて理解できるが、一方でそれらは大和王権による地方支配がいつ、どのようにして展開したのかを直接的に示すものではないという点にも留意する必要があろう。
〔山﨑雅稔 日本古代史・朝鮮古代史〕

故尒各中置天安①而宇氣②時 天照大御神先乞度建速湏佐之男命所佩十拳釼 打折三段而 ③那登母々由良迩[此八字以音下效此]振滌天之真名井而 佐賀美迩迦美而[自佐下六字以音下效此]於吹棄氣吹之狭霧所成神御名 多紀理毗賣命[此神名以音]④亦御名謂沖津嶋比賣命 次市寸嶋⑥賣命亦御名謂⑦依毗賣命 次多岐都比賣命[三柱此神名以音] 速湏佐男命乞度天照大御神所纒左御美豆良八尺勾⑧之五百津之美湏麻流珠而 奴那登母々由良尒振滌天之真名井而 佐賀美迩迦美而於吹棄氣吹之⑨霧所成神御名 正勝吾勝々速日天之忍穂耳命 ⑩乞度所纒右御美豆良之珠而 佐賀美迩迦美而於吹棄氣吹之⑪霧所⑫神御名 天之菩卑能命[自菩下三字以音] 亦乞度所纒右御手⑬之珠而 佐賀美迩迦美而於吹棄氣吹之⑭霧所成神御名 天津日子根命 又乞度所纒左御手之珠而 佐賀美迩迦美而於吹棄氣吹之⑮霧所成神御名 活津日子根命 亦乞所纒右御手之珠而 佐賀美迩迦美而於吹棄氣吹之⑯霧所成⑰御名 熊野久⑱毗命[自久下三字以音] 并五柱 於是天照大御神告速湏佐之男命 是後所生五柱男子者物實囙我物所成 ⑲吾子也 先所生之三柱之女子者物實囙汝物所成 故乃汝子也 如此詔別也 故其先所生之神多紀理毗⑳賣命者坐胸形之奥津宮 次市寸嶋比賣命者坐胸形之中津宮 次田寸津比賣命者胸形㉑邊津宮 此三柱神者胸形君等之以伊都久三前大神者也 故此後所生五柱子之中天菩比命之子 建比良鳥命 [此出雲國造 无耶志國造 上菟上國造 下菟上國造 伊自牟國造 津嶋縣直 遠江國造等之祖㉓] 次天津日子根命者 [凡川内國造 額田部湯坐 木國造 倭田中直 山代國造 馬来田國造 道尻岐閇國造 周芳㉕國造 知造 高市縣主 生稲寸 三枝部造等之祖也] 【校異】
➀真「阿」。道果本以下による。
➁真「有」。道果本以下による。
③真 ナシ。道果本以下による。
④真 ナシ。道果本以下により、補う。ただし、道果本は「多紀理」を「多化理」に作る。
➄「多紀理」は道祥本以下による。
➅真「」右傍補入。
⑦真「汜」(右傍「比」)。真福寺本の右傍と道果本以下による。
⑧真「侠」。道果本以下による。
⑨真「」。伊勢系諸本「瓊」。兼永本「」。祐範本「恐」。神道大系「これらの原型は『』または『』であると考えられるが、當本は『』を原型と推定した。」(一一四―一一五頁・注6)。神道の指摘に従う。
⑩真「侠」。道果本以下による。
⑪真「赤」。道果本以下による。
⑫真「侠」。道果本以下による。
⑬真「誠」。道果本以下による。
⑭真「右御手」。真福寺本・伊勢系諸本・兼永本・卜部系第二類から第四類、及び、第九類祐範本は「右御手」に作る。寛永版本「右御美豆良」。延佳本「御迦豆良」。訂正古訓古事記・校訂古事記「御鬘」。神道は「底・道・果及び卜部系第四類までと第九類(祐範本の類)は『右御手』に作り、これが現傳諸本の原型であるが、この前に左右の『御美豆良』があり、後に左右の『御手』があるから、原型のままでは拙劣で文意もなさない。」(一二〇―一二一頁・注15)と指摘し、本文を「御〔右御手〕」に作る。真福寺本・伊勢系諸本・兼永本などにより、「右御手」を採る。
⑮真「侠」。道果本以下による。
⑯真「侠」。道果本以下による。
⑰真「御」。道果本以下による。
⑱真「御神」。道果本以下による。
⑲真「瀬」。道果本以下による。
⑳真「白」。兼永本以下による。
㉑真 ナシ。道果本以下による。
㉑ 真「三」。道果本以下による。道祥本は「之三」に作り、「三」に見せ消ちを付す。
㉒ 真「无耶志國造无耶志國造」。道果本以下による。
㉓ 真 虫損。道果本以下による。
㉔ 真「速」。道果本以下による。
㉕ 真「因等」。道果本「周茅」。道祥本以下による。
㉖ 真「俺」。兼永本以下による。
㉗ 真「遠」。伊勢系諸本「知止」。兼永本以下による。

さてこうして、それぞれ天の安の河を間に置いて〈うけい〉をする時に、 まず天照大御神が建速須佐之男命の腰に帯びた十拳の剣を乞い(須佐之男命から)渡され、 三つに打ち折り、 玉の音もさやかに天の真名井でふりすすいで、 噛みに噛んで吐き出した息の霧に成った神の御名は、 多紀理毗売命。またの御名は、奥津島比売命という。 次に、市寸島比売命。またの御名は、狭依毗売命という。 次に、多岐都比売命[三柱]。 (続いて)速須佐之男命が、天照大御神の左の御みずらに巻いた、数多くの八尺の勾玉を長い緒で貫き通した髪飾りの玉を乞い(天照大御神から)渡され、 玉の音もさやかに天の真名井でふりすすいで、 噛みに噛んで吐き出した息の霧に成った神の御名は、 正勝吾勝々速日天之忍穂耳命。 また、右の御みずらに巻いた玉を乞い渡され、 噛みに噛んで吐き出した息の霧に成った神の御名は、 天之菩卑能命。 また、右の御手に巻いた玉を乞い渡され、 噛みに噛んで吐き出した息の霧に成った神の御名は、 天津日子根命。 また、左の御手に巻いた玉を乞い渡され、 噛みに噛んで吐き出した息の霧に成った神の御名は、 活津日子根命。 また、右の御手に巻いた玉を乞い渡され、 噛みに噛んで吐き出した息の霧に成った神の御名は、 熊野久須毘命。 合わせて五柱である。 そこで、天照大御神が速須佐之男命に告げて、 「この、あとから生まれた五柱の男子は、私の持ち物をもととして成ったのだから、 当然私の子である。 先に生まれた三柱の女子は、お前の持ち物をもととして成ったのだから、 お前の子である」 と、このように仰せになって御子の所属を決められた。 なお、この先に生まれた神、多紀理毗売命は、胸形の沖津宮に鎮座されている。 次に、市寸島比売命は、胸形の中津宮に鎮座されている。 次に田寸津比売命は、胸形の辺津宮に鎮座されている。 この三柱の神は胸形君らが祭り仕える三前の大神である。 そして、このあとから生まれた五柱の男子のうちの、天之菩比命の子は、 建比良鳥命 [これは出雲国造・ 無耶志国造・ 上菟上国造・ 下菟上国造・ 伊自牟国造・ 津島県直・ 遠江国造らの祖先である]。 次に、天津日子根命は [凡川内国造・ 額田部湯坐連・ 茨木国造・ 倭田中直・ 山代国造・ 馬来田国造・ 道尻岐閇国造・ 周芳国造・ 倭淹知造・ 高市県主・ 蒲生稲寸・ 三枝部造らの祖先である]。

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