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かれおほとしのかみかむいくびのかみむすめめとりて生みし子は、 おほくにたまのかみ 次にからのかみ 次にりのかみ 次にしらひのかみ 次にひじりのかみ[五神]。 又、かぐ[此の神名は音を以ゐる。]を娶りて生みし子は、 おほかぐやまおみのかみ 次にとしのかみ[二柱]。 又、あめ[天を訓むこと天の如し。亦、知自り下六字は音を以ゐる。]を娶りて生みし子は、 おくこのかみ。次におくめのみこと 亦の名はおほめのかみ。此は諸人の以ちをろがかまのかみぞ。 次におほやまくひのかみ、亦の名はやますゑおほぬしのかみ 此の神はちかつ淡海あふみのくにえのやまいまし、亦、かづまつのいまして、なりかぶらを用ゐる神ぞ。 次ににはひのかみ 次にはのかみ[此の神名は音を以ゐる。]。次にきのかみ[此の神名は音を以ゐる。]。 次にかぐやまおみのかみ 次にやまとのかみ 次ににはたかひのかみ 次におほつちのかみ、亦の名はつちおやのかみ。九神。  かみくだり大年神の子、大国御魂神より大土神よりは、并せて十六神。 羽山戸神おほめの[下四字音を以ゐる。]神を娶りて生みし子、 わかやまくひのかみ 次にわかとしのかみ 次にいもわかめのかみ[沙自り下三字音を以ゐる。]。 次にきのかみ[弥自り下四字音を以ゐる。]。 次になつたかひのかみ。亦の名はなつめのかみ 次にあきめのかみ 次にとしのかみ[久々二字音を以ゐる。]。 次にわかむろつなねのかみ [久々紀三字音を以ゐる。]。  上の件、羽山の子より、若室葛根よりは、并せて八神。

大年神 初出は須佐之男命の系譜箇所(本注釈(二十四)須賀の宮②」『古事記學』第五号)。大山津見神の女、神大市比売との間に生まれた子。同じ女神との間に宇迦之御魂が生まれている。「其の大年神」とある「其の」は、須佐之男命の系譜記載箇所を受けていることになる。『古事記』には希に離れた記載内容を指示語「其の」で受ける場合がある。記伝に「年はヨシなり」「登志とはタナツモノのことなる、其は神の御靈以て田に成して、天皇にヨサ賜ふゆゑに云り」「此神は、此穀の事に大なる功坐し故に、此御名を負給へるなり」という。祈年祭祝詞の「皇神等の寄さしまつらむ奥つ御年を」とある「年」は稲の稔りのこと。祈年祭の「年」も同じ。『説文解字』に「秊(年)穀熟也」とある。『万葉集』巻18・四一二四「我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも稔【登思】は栄えむ」とある「登思」も「五穀、特に稲の稔りをいう」(新編全集頭注)とされる。大年神系譜全体については、【補注解説三】参照。
○神活須毗神 「活」は神世七代の「活杙神」、うけひ神話の「活津日子根命」の「活」と同じく「活き活きとした」の意でとることで諸注一致している。この「活」と「須毗」を合わせた「活須毗」を、次田新講・中島評釈・大成などでは「産霊」と同じ意とする。一方、西宮集成「神名の釈義」(以下、集成神名釈義)は「須毗」は、「巣霊」の意かとし、住居の神霊とみる。三浦佑之『古事記の神々』「付古事記神名辞典」(角川ソフィア文庫、二〇二〇年八月。以下三浦神名辞典)も「ス」は「巣」で住まいの意ととる。中西進『古事記を読む』(以下、中西『読む』)は「須毗」を「さぶ」と同じとみて「らしい」の意とし、具体性のない神と評する。堀内秀晃は「イクスビ」を「イククスビ」の略されたものとみて(この点は敷田標柱に指摘がある)、「奇び」で霊妙不可思議の意でとる(「大年神の系譜」(上)『東京医科歯科大学教養部研究紀要』八号、一九七八年三月)。
伊怒比売 『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷に「赤衾伊農意保須美比古佐和気能命」の名が見え、出雲郡伊努郷に意美豆努命の子として「赤衾伊努意保須美比古佐和気能命」の名が見える。記伝は「イヌ」を地名と見る。中西『読む』は厳の比売即ち神聖な比売とする。集成神名釈義は、親神の「巣霊」との関連から、「寝ぬ姫」即ち穀霊と結婚する巫女の意ととる。
大国御魂神 「国玉」については記伝に「何神にまれ國を經営坐し功徳あるを、其國々にて、國魂とも大國魂とも申して拜祀るなり、故諸國に某大國御玉神社と云多し」「然るに此は何國ともなきは、倭の大國御魂なり」とある。しかし、倭の大国魂神と見る必然性はない。『出雲国風土記』意宇郡飯梨郷に大国魂命が天降る記事がある。次に生まれる「韓神」とも併せて考える必要があるかも知れない。 韓神 諸説では概ね文字通り「韓国」(朝鮮半島)の神ととる。『延喜式』神名帳「宮中神卅六座」中の「宮内省坐神三座」に「園神社・韓神社二座」とあるが、この「韓神社」と関連があるか否かは未詳。【補注解説一】参照。 ○曽冨理神 『日本書紀』神代下第九段一書六では火瓊瓊杵根尊の降臨地を「日向襲之高千穂添山峰」としており、「添山、此には曾褒里能耶麻」と訓注を付す。諸説ではこの「ソホリ」と関係付けている。また神代上第八段一書四で素戔嗚尊が降った地が新羅国の「曾尸茂梨之処」とある「ソシモリ」も同義の語かとされる。いずれも古代朝鮮語で「新羅の王都」を意味すると指摘されるが、これは先述の神が「韓神」であることと関連付けての解釈となる。なお、西田長男は、この神は渡来氏族の秦氏が斎き祀った神であり、もと秦氏の居所であった平安京に遷都が行われた延暦十三年(七九四年)以降に祀られるようになったと考えられることから、この大年神系譜を後世の竄入とみる(「曾富理神―古事記の成立をめぐる疑惑―」『日本神道史研究』第10巻、講談社、一九八七年所収、初出は一九六五年六月)。この系譜を後世の竄入と見る説は多く、また『古事記』偽書説に繋げて見る向きもあるが、上田正昭は韓神・曽冨理神は奈良朝に既に祭られていたとし(「古事記の神々―大年神の系譜を中心として」『文学』48巻4号、一九八〇年四月)、中村啓信も平安遷都以前にこの神を祀らなかったとは言えないとしている(『新版古事記』解説558頁、角川学芸出版、二〇〇九年九月)。 白日神 記伝は、この神と『延喜式』神名帳山城国乙訓郡「向神社」(「大歳神社」と並記)とを関連付け、「白」は「向」の誤りであるとし、次田新講・中島評釈・西郷注釈もこれに従うが、諸本に異同は無く、「白」で理解すべきであろう。「明るい太陽の神の意」(全註釈)、「農耕文化に欠くべからざる輝く太陽の表象」(集成神名釈義)等と説かれる。松岡静雄はシラヒを「新羅起源のヒ(火)族」の神を意味すると言い(『紀記論究』神代篇四「出雲傳説」同文館一九三一年六月、73~75頁)、大成がこれを支持する。角川新訂・新版古事記も枕詞「栲衾」は白いので新羅にかかるところから「白日神」即ち「新羅神」説を採用している。「韓神」「曽冨理神」と朝鮮半島に関連する神名が続いているので、この神もそのように理解し得る可能性はあろうが、「白」字のみで「新羅」を意味すると取れるか否か疑問。伊耶那岐・伊耶那美の国生み神話において伊耶那美が生んだ筑紫島の中の筑紫国の別名を「白日別」と言い、松岡静雄はこれも新羅と繋げて考えているが、その点にも疑問がある。やはり字義通り「白日」で考えるべきではなかろうか。 聖神 大系が「日知りの神の意で、農耕を掌る神か」とし、他の注釈も多くこれに従うが、加えて全書は、「霊性を體した者の意かも知れぬ」と言い、堀内秀晃は「日」と「霊」は同根であるとして「暦日を知るということが、四時や自然の運行、更にはその奥にある霊的存在を領ることに深く関わってくる」と説く(堀内前掲論文)。また、全書が「聖」の語について、「外文化に對する畏敬感に関連して」産出されたものと言い、日野昭が「新文化への畏敬ないし憧憬の念が背後にある」と説くのは、「韓神」以下の神との関連によるものであろう(「穀物神と土地神―大年神の系譜について―」『龍谷大学仏教文化研究所紀要』一八、一九七九年六月)。『延喜式』神名帳和泉国日根郡に「聖神社」がみえるが、関連は不明。 香用比売 「香」の訓については、『日本書紀』の「伊香色謎命」(孝元紀)、「伊香色雄」(崇神紀)が、『古事記』ではそれぞれ「伊迦賀色許売命」(孝元記)、「伊迦賀色男命」(崇神記)とあるところ等から、記伝は「カガ」の訓をあて、その他の諸テキスト・注釈書も「カガ」を採用するものが多い(敷田標注・次田新講・西郷注釈などから、新しいところでは新校も含む)。一方で『万葉集』や『古事記』の「香山」の例から「カグ」と訓むものもある(尾崎全講・西宮修訂・思想大系・新編全集・角川新版など)。また全註釈はこの神名に「此神名以音」という音注が付されていることを重視し、『万葉集』巻20・四五〇〇「香乎加具波之美」の例をもとに、「カヨヒメ」と訓んでいる。しかし山口佳紀は「香」は古事記内ではカグと訓むことで統一されているとし、この「カグ」は音でもあり訓でもあると意識されていたと指摘した(「音読注に関する若干の考察」『古事記の表記と訓読』有精堂出版、一九九五年九月)。本注釈では「香山」の例に照らして「カグ」を採用した(仲哀記の「香坂王」の訓については保留にしておきたい)。
名義について、記伝は「容貌の美麗さをほめて、光耀くと云意か」とし、尾崎全講はこれを農耕神とみる立場から「雷光を発する女神」とする。その他西郷注釈は「輝く意を主にした名」だが、ここに出てくる所以はよくわからないとしつつ、「日知の「日」が輝くという連想か」と推察している。集成神名釈義は、神異の光を揺曳させる物とは、農耕祭祀のための稲魂を形象化した玉や農耕器具の光沢ある鉄をさし、その物に憑依する巫女と説く。
香山戸臣神 記伝は「山戸は、山なる民の居所にて、いはゆる山里なり」とし、新編全集は「山戸は山の入り口か」とする。ヤマトの香山に関わる名か。思想大系は『先代旧事本紀』地祇本紀に「大香山戸神」とあることを指摘して「偉大な香山の麓にいる神霊の意か」とする。単に母神の「香」からの繋がりであるとすると、「香山」を意識しているとは言いがたいが、この後の、母神を異にする子神の中にも「香山戸臣神」の名が見えることも併せて考えると、或いはヤマトの香山を意識した名であるのかも知れない。その意図は、国作り神話の範疇にヤマトも含み込めようということであった可能性があるのではなかろうか。御諸山の神の祭祀の話や、八千矛神の神語の歌詞「夜麻登能比登母登湏々岐」や、散文部の「倭国」についても、国作り神話とヤマトとの関連性を表出しようという意図を読み取る必要があるのかも知れない。 ○年御神 【校異】※(1)(本ページの「校訂本文」を参照)に記したように、延佳本・荷田春満書入本・記伝以降「御年神」とするものが多い。祈年祭祝詞に「御年皇神」、『古語拾遺』御歳神条に「御歳神」、『延喜式』四時祭上に「御歳社」など見えることによると思われるが、諸本に従って「年御神」のままとした。「年」は先述の「大年神」の項参照。名義としては「大年神」と重なる。 天知迦流美豆比売 この神名の下には「訓天如天亦自知下六字以音」という訓注、及び音注が記されている。【校異】の※(2)(本ページの「校訂本文」を参照)でも触れたように、「自知下六字以音」とあるのは、「七字」とあるべきで、数が合わない。延佳本では細注に「六當作七」とし、荷田春満書入本も朱の左傍書で「當作七」と記す。記伝は音注の「知」を「迦」の誤りとみて、アメシル・カルミヅヒメと読んで六字のままとするが、名義については未詳とする。毛利正守は、『古事記』の神名・名詞での「知」はすべて音仮名であるとして記伝説を否定し、またすべての諸本で一致している音注で数に誤りのある例が他に見えないことから、誤字説も考えづらいとし、六字というのは、元資料で正訓字で表記されていた箇所を太安万侶が音仮名に改めたその字数を示す数であり、安万侶による書き換えの痕跡を具体的に示す例であるとする(「『古事記』の音注について」『藝林』18巻2号、一九六七年四月)。これに対して西宮修訂頭注は、神名の最後の「売」は訓仮名的文字として認識されていた故に音仮名に数えられなかったとする。孝元記の「葛城之高千那毗賣」の音注が「那毗二字以音」となっており、「賣」を含めていない例を類例として挙げているが、「愛比賣(此三字以音)」「大宜都比賣(此四字以音)」(いずれも国生み神話)などのように「賣(売)」を音仮名としている例もあり、また「葛城之高千那毗賣」の場合は「那毗二字以音」というように音注の対象となる文字を明記している例でもあって、類例として捉えられるか否か、問題もある。「七字」に改めるべき可能性もあるが、諸本に従って「六字」のままとしておく。
 名義について、「美豆」は諸注「瑞」で「瑞々しい」の意ととる。集成神名釈義は、「天・領(しかる)・瑞日・女」で「太陽の女性を讃美した名」とする。新編全集は「知迦流」は「近る」で近づくの意かとする。三浦神名辞典は「アメ(ほめ言葉)チ(神霊)カル(飛翔する)ミヅ(瑞々しい)ヒメ(女神)か」とする。「知」は道祥本・春瑜本に「和」とあり、『本居宣長全集』(筑摩書房)の補注(大野晋)に「ワカルミヅヒメ」である可能性も示すが、音注部分は道祥本・春瑜本ともに「知」となっているので、やはり「知」でとるべきであろう。
奥津日子神 次に 奥津比売命 中島評釈に「「奥」は竈の下の餘燼や熱火をオキ・オキ火などいうオキで、元来「日置」つまり「火置」のオキの意味から出たことばであろう」とし「絶やさず燃やして置く火の意味から出たのであろう。つまり「奥」は竈の火をいふのであろう」と説く。「日」(甲類)と「火」(乙類)は上代特殊仮名遣では仮名違いとなるので、一緒には出来ないが、奥津比売命の亦名である大戸比売神が「竈神」であるところから、「奥」を竈の意でとるものは他にも見られる(旧全集・尾崎全講など)。また、大系はオキを「沖」ととって、「沖の彦」「沖の姫」とし、全註釈では「「奥」は空間的には遠い所、時間的には「最も遅い」意で、「津」は連体助詞で「の」と同意である。母神が若し「水姫」の意であったら「沖」を男女の神に分けたと見るのが自然である」と説いている。一方、祈年祭祝詞に「奥津御年」とあって、これがオクテの穀物、すなわち稲をさすところから、山口佳紀はこの男女二神を穀物乃至稲に関わる神であると指摘しており(「古事記における訓注の性格」『古事記の表記と訓読』有精堂出版、一九九五年九月、初出は一九九〇年一一月)、新編全集も「稲にかかわる神か」とする。大年神・年御神・若年神などの名が見える系譜の中に位置づけることを考えた場合、「奥津御年」との関連で考える妥当性は高いかも知れない。なお、女神の方の尊称が「命」となっているが、この系譜中に登場する神は他はすべて「神」であるゆえ、記伝以来不審がもたれている。天知迦流美豆比売の子は十神だが、後に合計数を記す際には九神となっており、数が合わない。諸注ではこの二神を一神として数えた結果であると捉えているが、女神の方のみ「命」となっていることも関連しているかも知れない。 ○亦の名は大戸比売神 此は諸人の以ち拝む竈神 「大戸比売神」は前項「奥津比売命」の亦の名。「竈神」とあるので、「戸」は「へ」(上代特殊仮名遣の乙類)と訓んで竈(へっつい)の意ととることでは諸注一致している。「黄泉戸喫」(黄泉国神話)の「戸」と同じ用法となる。「以ちをろがむ」については、「以ちイツク」と訓むテキストが多いが、『古事記』中には三例、「以伊都久」という仮名書きの例が見られるので(みそぎ・綿津見三神)(うけひ・胸形三神)(開化記・息長水依比売)、「以拝」とあるここでは異なる訓を採用した。西宮編になる集成・聚注・修訂はいずれも「いはふ」と訓み、その可能性もあるが、ここでは新全集・新校に従って「ヲロガム」を採用した。 大山咋神 山と咋の間に声注「上」があるので、語構成は大+山咋と判断される(小松英雄『国語史学基礎論』笠間書院、一九七三年一月、参照)。西郷注釈は、クヒは不明としつつ、山をうしはく神の意だろうとする。集成神名釈義は咋を「杙」とみて「山頂の境界をなす棒杙の神格化」と取る。「咋」の字からすれば、「山を喰らう」神と見ることも出来ようか。
山末之大主神 前掲「大山咋神」の亦の名。「山末」は山頂をさすので、山頂の偉大な主人の意とみることで諸注一致している。
○此の神は近淡海国の日枝山に坐し 諸説に、比叡山に鎮座する神の意ととる。『延喜式』神名帳近江国滋賀郡に「日吉神社」が見える。
○亦、葛野の松尾に坐して 諸説に、山城国の松尾神社のこととする。『延喜式』神名帳山城国葛野郡に「松尾神社」が見える。京都を中心とした場合、比叡山は東北、松尾は東で方角がかなり異なるが、その両地に大山咋神が坐すことについて、西郷注釈は、「大和の飛鳥から遙かに見た目には、それらが一団と映ったことを示すものか」と推察する。
○鳴鏑を用ゐる神ぞ 記伝に、「さて此は、鳴鏑を用ひて祭ることと聞ゆめれど、然ては言足ず」として「用字は、成又は化などの誤か」として、鳴鏑に成る神と解する可能性を説いている。「山城国風土記逸文」、及び『本朝月令』引用「秦氏本系帳」、松尾大明神にまつわる丹塗矢伝説を参照の上での推察であるが、諸本に異同はなく、従えない。西郷注釈は「用」を削って「鳴鏑の神」とする可能性を示す。また集成神名釈義は鳴鏑そのものが神体であったとする。このように鳴鏑の神とする説があるが、「用」の字を尊重した場合、諸説は否定的だが、鳴鏑を用いる神となる。「大山咋神」という神名を「山を喰らう」神と取れば、狩猟をする神と見て「鳴鏑を用いる神」と見ることも出来ようか。神が狩猟をする話としては、『出雲国風土記』意宇郡宍道郷に、所造天下大神が猪を追う話があり、また秋鹿郡大野郷に、和加布都努志能命が「御狩」をして猪犀を追う話がある。
庭津日神 記伝に「庭は家庭の意なるべく、日は産靈の靈なるべし」とする。集成神名釈義は「「庭」は今日のような植込みの庭ではなく、家屋の前の広場をいう。穀物を干したり、農耕祭祀をしたりする場所であるから、庭そのものを神格化した」と説明する。 ○阿湏波神・波比岐神 この二神、記伝に名義未詳としつつ、阿須波は「足場の意にや」とし、「足蹈立る地を守神なるが故に、家毎に祭しにや」といい、「波比岐」は「波比入君の意か」として「門より舎屋内に入までの間の庭を、波比入と云しなり」「其波比入の庭を守神にやあらむ」として二神を関連付ける。『延喜式』祈年祭祝詞に「座摩御巫辭竟奉、皇神等、生井・榮井・津長井・阿須波・婆比伎、御名者白、辭竟奉者」とみえ、同巻七践祚大嘗祭式にも「於斎院祭神八座。[御歳神。高御魂神。庭高日神。大御食神。大宮女神。事代主神阿須波神。波比伎神。]」とみえている。また同じく『延喜式』神名帳、宮中神卅六座の中の座摩巫祭神五座にも「生井神 福井神社 綱長井神 波比祇神 阿須波神」とあり、井の神との関連を示している。『万葉集』巻20上総国防人歌に「庭中の阿須波の神に小柴さし我は斎はむ帰り来までに」(四三五〇番歌)とあり、庭中に坐す神として祭られている。【補注解説二】参照。 香山戸臣神 先掲「香山戸臣神」と対をなしている神。「大」の有無以外に相違はなく、ほぼ繰り返しの神名となっている。「大」に対して「若」などの語が無い点で不審が残る。 羽山戸神 伊耶那岐による火神被殺条で殺された迦具土の右手から出現した山神の名に「羽山津見神」とあった。『日本書紀』神代上第五段一書八では、迦具土の手より「麓山祇」が化生しており、「麓、山足を麓と曰ふ。此にはと云ふ」と記す。「戸」を入り口とみると、山の麓の入り口の神となる。 庭高津日神 前掲「庭津日神」に「高」が加わった名。阿須波・波比岐神も含めて、「庭」の神が繰り返し記されるところに意味があるか。 大土神 亦名 土之御祖神 記伝に、「こは殊に民の佃る田地などの土のことに功徳のありし神なり」とし、諸注も土の神、大地の神ととる。また多く大地の母神(尾崎全講など)、土の母神(西郷注釈など)とするのは、亦の名による。「御祖」については、本注釈(二十六)八十神の迫害(『古事記學』第五号)参照。『延喜式』神名帳、伊勢国度会郡に「大土御祖神社」が見える。
○九神 実数は十神。奥津日子神奥津比売命を合わせて一神としたものと解するものが多いが、そのように数える必然性があるのか否か、不明。
○大気都比売神 これまで、伊耶那岐・伊耶那美の国生みにおける粟国の別名に「大宜都比売」、伊耶那美の神避り前の場面で火の神生みの直前に生んだ神に「大宜都比売神」、須佐之男に殺害される女神に「大気都比売神」「大宜津比売神」というように見え、今回が四度目の登場となるが、これらがすべて同一の神とは見られない。整理すると、①粟国の別名、②伊耶那美の生んだ女神、③須佐之男に殺害される女神となって、今回登場する神を②と同一とするべきか。いずれの場合も穀物の女神であることは共通するものと見られるので、ここに登場する所以はこの神が生む子神八神が基本的に穀物神としての性質を有することを示すものか。なお、オホゲツヒメについては、本注釈(二十)五穀の起源(『古事記學』四号)補注解説四「大気都比売神被殺神話(五穀の起源神話)の位置付け」参照。 若山咋神 前掲「大山咋神」と対の名で、名義も同じとするものが多いが、「大山咋神」の場合は「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝山に坐し、亦、葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用ゐる神ぞ」というように多くの情報を付随させる神であり、単純に対の名として見ることは出来ない。付随情報によれば「大山咋神」は狩猟との関連が考えられるが、こちらは農耕との関わりにおいての「山咋」、即ち作物の収穫と関連すると取るべきか。 若年神 大年神・年御神の繰り返し、言い換えの神名か。「年」は先述の通り稲を中心とする穀物の稔りを示す。 ○妹若沙那売神 サを早乙女・早苗・五月のサ、ナを助詞、メを女ととれば、岩波大系その他の諸注が説くように、早苗の女で田植の乙女となる。但し新編全集は、サナをサネ(実)の交替形で、果実の種の意か、とする。これ以降の神々について、旧全集は「田植から収穫までの過程を表した神名と解される」とし、思想大系も「田植から稔り、そして新嘗の祭りのための新室を作るまでの過程を表す神名がならぶ」とする。 弥豆麻岐神 記伝は「名義未得ず」としつつも、若年神から久々年神に至る神々を連ねて解した場合の名義として「田に水をまかするなり」と説いている。『類聚名義抄』「漑」にマカスの訓があり、『日本書紀』神功皇后摂政前紀「引」、安閑天皇元年「漑」に水を引き入れる意でそれぞれ「マカセ」「水マカセ」の傍訓(寛文九年版本)がある。このマカス(下二段)の自動詞マク(四段)を想定しての解釈として、殆どの注釈書は「水撒」の神で田に水を引き入れる意で取り、潅漑の神と解している。しかし上代にマク・マカスの確例が無い点で問題は残る。新編全集は「弥豆」はみずみずしいの意で、「麻岐」は種を蒔くことの意とする。 夏高津日神 亦名 夏之売神 中島評釈などは、夏の高い日の神ととる。集成神名釈義・新編全集も同様に「夏に高く照らす太陽」と解する。尾崎全講は「五穀の成育途上における夏の季節の神格化」との説明を加える。亦名の「夏之売神」については、全註釈に「「夏の女」で、夏の田で草取りなどをして働く女性の神格化であろう」とし、新編全集に「生育の夏の季節をつかさどる女神の意」とする。 ○秋毗売神 前項の「夏之売神」と対応する名。全註釈に「文字通り「秋姫神」で、秋に稲の取り入れなどをして働く女性の神格化であろう」とし、新編全集に「収穫の秋の季節をつかさどる女神」とする。なお記伝に「ここに夏と秋との御名ありて、春冬と云は無きを以て思ふにも、稻によることと聞ゆるなり」とある。 久々年神 ククは茎の意とされる。伊耶那岐・伊耶那美の神生み条で生まれた「木の神、名は久々能智神」の「久々」と同義とし、記伝には「莖にて、草木のタチノブサマを云」「稻の快く長るよしの御名なり」とする。中島評釈に「生々と成長する状態の年穀の神であろう」と言い、大成に「稻が速かにのびるをいう」、角川新版に「良い茎の良い稲の神格化」と言う。また集成に「稲幹がしゃんと立っているのは稲穂の豊穣の表象」と言い、三浦神名辞典は「稲穂を収穫したあとの茎も重要な生活必需品であり、さまざまなものに加工された」と加える。 久々紀若室葛根神 ククは前項と同じく茎。但し稲の茎ではなく木の幹をいう。紀は樹木。若室葛根は、顕宗天皇即位前紀の室寿の詞に「築き立つる 稚室葛根、築き立つる 柱は、此の家長の 御心の鎮なり。……」とあるところから、新室寿ぎの表現と見られる。大殿祭祝詞に「古語に番縄の類、之を綱根と謂ふ」と見え、記伝に「凡ていといと上代の家造は、いづこをも〳〵、繩葛を以て結固めしものなり」と記す。「刈り稲を収めるための新屋の柱を結ぶ縄の神格化」(角川新版)であり、この神名全体が「新嘗祭用の新室の神格化」(集成神名釈義)とされる。

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大年神系譜記載の意義

 大年神系譜の記載意義について考えたい。語釈でも触れたように、この系譜の中にみられる「韓神」「曽冨理神」が祭られるようになるのは平安朝以降であるという指摘や、秦氏の祭る山城国の松尾神社に関する記述が見られる点などから、『古事記』偽書説とこの系譜が関連付けて説かれてきた経緯がある。『古事記』序文偽書説は現在もとなえられているが(三浦佑之『古事記のひみつ 歴史書の成立』吉川弘文館、二〇〇七年四月等)、『古事記』本文の偽書説がほぼ認められなくなっている現状においては、仮にこの系譜に後世の要素が見られるとしても、それはこの系譜部分に後世の手が入れられたという可能性を示すものであって、偽書説の根拠とはならない。西郷注釈は、「古事記を平安初期に成ったものと断ずるのは、紛れもなく短絡である」としつつ、「大年神の系譜も平安朝に入ってからの加上である、とする見解がやはりいちばん的中しているように思われる。そしてそれを手がけたのは、おそらく松尾社の社人あたりであったろう」と述べている。勿論そうした可能性を全面的に否定することは出来ないにしても、これまでに須佐之男命から大国主神に至る系譜があり、また大国主神の後裔系譜を掲載してきた『古事記』が、ここに大年神の系譜を載せてきたことには、『古事記』成立時において意図を持って記載したと考えることも出来るのではなかろうか。西郷注釈が言うように後世の加上であるとみた場合に、なぜそれが出雲系の系譜、それも大年神の系譜に組み入れられたのかが明らかではない。以下、あくまでも現存する『古事記』の本文として、ここに大年神の系譜が記されている意図について、検討して行きたい。例えば中西進は、

この雑居的系譜は、従来の系譜があくまで神々の世界だけで完了する神話だったのに対し、この系譜が、現代人たちが祭りを実修する神々を集めたことを意味している。その点で、この系譜は、生活に密着した功利性、現実性を持つといえよう。しかも、その功利的、現実的な系譜は、実りの大神である大年神の横に広がる系譜として語られているのである。 (『古事記を読む1天つ神の世界』、角川書店、一九八五年一一月)

と説くが、人間を描くことに対して希薄とされる『古事記』神話の中において、生活への密着・功利性・現実性ということがどこまで言えるか、疑問もある。
 大年神系譜の記載意図を考えるには、やはりまずはここに登場する神々の神格を考える必要があろう。物語内に登場することの無い神々の神格を考える手掛かりとしては、神名の持つ意味から考えざるを得ない。西郷注釈は、

とくに農業と屋敷に縁のある神の名が多いのに注目したい。スサノヲの属性のうち生活的側面は、大国主神が政治化するとともに失われてゆかざるをえなかった。その疎外部分がこういう系譜として生き残ったのだとも考えられる。

と言い、西宮集成頭注は、「大年神の系譜は、大国主神の神話の流れの中では必然性がないといわれているが、そう考えるべきものではない」とし、須佐之男命系譜・大国主神系譜については国作りに参画した土俗神の系譜化であると言い、大年神系譜については、「渡来人の奉斎神を始めとして、有名神社の祭神および農耕文化の表象による神々の系譜化という特色をもつ」と説いている。農業・農耕との関連で神々が記載されているのは、これが「大年神」の系譜であるところからすれば、肯けるところではある。しかし、「有名神社の祭神」との関わりが何故ここに出てくるのかは不明である。こうした神々の名義から考えられることと、それが大国主神の国作り神話に続いて記されるという、記載箇所の問題とを絡めて、志水義夫は以下のように説いている(引用文中に「大年神第一系譜」とあるのは、聖神の誕生までを言い、「第二系譜以下」はそれ以降の系譜部分を指している)。

要するに、大年神第一系譜というのは農耕生活をベースとした、時間空間の神々の総論的系譜であり、そこに第二系譜以下、各論的系譜とでも言うべき農業神や農業生活の場としての屋敷神などが組み合わされ、列島から半島まで広がるひとつの世界、人間の生活空間を作りあげているのである。そこから少し視野を広げたとき、この系譜は直前の大国主神の国作りの話と対応しているのだと考えることができる。(「大年神系譜の考察」『古事記生成の研究』おうふう、二〇〇四年五月、初出は一九九七年一〇月)

 志水は、第一系譜は大地と太陽と農耕暦の組み合わせであると言い、大国御魂神韓神・曽冨理神との関係を、「天皇の領土としての大八州(大国)と、その外側にある韓国という、いわば地理的文脈」として捉え、第二系譜以下を農耕生活との関わりで捉えることで大年神系譜全体のもつ意義を論じている。この系譜が大国主神の国作り神話の後に記されているところからすれば、国作りの話との対応で考えることも首肯できる。ただ、問題は何がどのように対応しているかであり、また、なぜここで須佐之男命の子神の世代に遡る形で、系譜としてここに位置づけたのか、ということではなかろうか。
 国作り神話、特にスクナビコナとの国作りにおいては、具体的な内容が記されていない。しかし風土記などの神話を参考にする限り、この二神の行動は農耕との関わりが深い(『出雲国風土記』意宇郡出雲神戸・飯石郡多祢郷、『播磨国風土記』揖保郡稲種山、「伯耆国風土記逸文」粟嶋など)。大年神系譜の中で農耕に関わる神名が多く見られるのは、それが二神による国作りの具体的内容を示すものである可能性はある。とするならば、それは対応というよりも、補足といった方が良いのかも知れない。抽象的にしか説明されない国作りの具体的内容を、神名の列挙で示すという方法である。
 ここで改めて神々の神名を確認すると、国土、それも国内と海外とを含める形での国土に関わる神々と、祭祀に関わる神々と、農耕に関わる神々とに分類できることに気づく。農耕に関連する神名は、先述の通りスクナビコナとの国作りに関わるものであると考えられるが、祭祀(それも宮中や畿内の神々の祭祀)に関する神名は、スクナビコナとの国作りに続いて記される、御諸山神との国作りに関わるものと見ることはできないだろうか。海を光らして依り来た神は、自らを倭の青垣の東の山に祀ることを要求し、それによって国が「成」るであろうと告げた。これはもちろん後の崇神記にも繋がる、天皇治天下の条件ともなっていくものであり、天皇統治の中心地であるヤマトの神を祀ることが重要視されている結果であると思われるが、神を祭祀することが国作り完成の条件であるということを明記しているわけであり、そして大年神系譜の中に祀られる神が複数見られることを(しかも宮中や畿内の)考えれば、これらの神々も大国主神の国作り神話との関連で見ることが出来るのかも知れない。そしてもうひとつは、国土(国内・国外)に関する神の出現であるが、支配領域の国土の掌握ということで考えることが出来るであろう。後の天孫降臨神話で「韓国」が記されるのは、それが天神―天皇の統治領域として意識されているからであり、また仲哀記における新羅平定によって国内・国外が統治領域として確定するという『古事記』の流れ(神野志隆光「応神天皇の物語―天皇の世界の秩序の確立―」古事記研究大系6『古事記の天皇』髙科書店、一九九四年八月)の中にあって、葦原中国平定に先立って、あらかじめ国外をも国作りの範囲に含める意図をもって「韓神」「曽冨理神」が登場しているのではないか。坂本勝は、大年神の系譜にみられる「韓神」「曽冨理神」について「渡来系の神々をまとめて大国主を含むスサノヲの系譜の中に定着させることに意義があった」とし、

大陸、半島からの人の渡来と定着という「歴史」の事実を一種の「同化」思想によって神話的に表現したものであり、天つ神と国つ神の二元的世界に「異国」を取り込んで国譲り神話の最終的な仕上げをもくろむ意図の現れではないか

と論じている(「応神記の構想」古事記研究大系3『古事記の構想』髙科書店、一九九四年一二月)。
 以上のように、国作り神話及びその後の『古事記』の展開と絡めて考えることで、大年神系譜記載の意義はある程度理解し得るのではないか。但し問題となるのは、何故大国主神の国作りに関わる系譜記述が、大国主神、若しくはその世代に直結するものとして位置づけられず、その数世代前の、須佐之男命の子神世代の系譜として記されるのか、ということである。縦ではなく、横に広がる系譜は、領有する国土の広がり、作られるべき世界の広がりを示すものであると思われるが、それが世代を遡っての系譜記述で示される意図を考えなければならない。それは須佐之男命の後裔系譜、大国主神の系譜、そして大年神系譜と三箇所に亙って系譜を記載している意義、及び、中巻以降の天皇系譜と同じ形式を以って出雲系の神々の系譜を記している意義と併せて、更に考えていかなければならない問題ではあるのだが、ひとまず今回のところは、以下のように考えておきたい。
 須佐之男命は八俣大蛇退治によって出雲世界の秩序化を果たした。その六世孫である大国主神が国作りを行うわけだが、その作るべき世界を、大国主神誕生よりも前の世代に位置づける、すなわち国作りの前提となる世界を予め提示するという意図を持っていたのではないか。八俣大蛇退治神話は、その登場する神の名(アナヅチ・タナヅチ・クシナダヒメ)からも農耕神話としての側面も見られ、また須佐之男命の出雲降臨前にオオゲツヒメ殺害による五穀の起源神話が位置づけられているところから見ても、須佐之男命から大国主神に至る間に農耕的な要素が地上世界に定着していることを前提として国作りが行われているのではないか。大国主神による国作りがきわめて抽象的に描かれるのは、この須佐之男命から大国主神に至る間の地上の進展というものが含意されているが故とも考えられる。
 それならば須佐之男命系譜が記されたすぐ後に大年神系譜を記載しても良さそうなものであるが、やはり大国主神の国作りとの相互補完関係ということが意図された結果として、ここに記載されたものと考える次第である。
〔谷口雅博 日本上代文学〕

韓神

 韓神は、『古事記』の大年神系譜において大国御魂神に次いで二番目に登場する神である。「からくに」「からひと」の「から(韓・漢・唐)」は異国の意であるから、韓神も異国の神、渡来神の意に解するのが通例である。そのような神がなぜ穀物神・食物神である大年神の神裔とされるのかという点については、福島秋穂「大年神の系譜について」(『記紀神話伝説の研究』六興出版・昭63)が「稲作の文化が朝鮮半島より我国へ伝来したこと」を系譜で示そうとしたのではないかと言い、志水義夫「大年神系譜の考察」(『古事記生成の研究』おうふう・平16)は系譜が倭国と韓国を対比する文脈を形成し「列島から半島まで広がるひとつの世界」を作り上げていると述べる。しかしこれらの説では、韓神の存在理由が単に「朝鮮半島の神」という意味しか担っていないことになり、その神の性格が明らかになっていない憾みがある。またその立論の前提となっている「韓神=朝鮮半島の神」という理解についても、改めて検証が必要であろう。
 『万葉集』では、朝鮮三国に対してではなく、中国に対して「韓国」と表記している(16―三八八五、19―四二四〇、 四二六二)ことは注意される。従って「韓」の字は広く外国を指し、朝鮮半島に限定されるものではないことがわかる。また『古事記』の神統譜上に位置を占めることからすれば、この「韓神」は一般名詞ではなく、固有名と考えなくてはならない。飯泉健司『古事記全講義』(武蔵野書院・令4)は、「百姓殺牛用祭漢神」(『続日本紀』延暦十年九月十六日条)や「依漢神祟而祷之」(『日本霊異記』中巻五縁)の「漢神」と韓神を同一視して、殺牛祭祀が雨乞い儀礼であるため農耕に関わり大年神系譜にも連なったと見るが、同じ「カラの神=異国の神」ではあるが用字が区別されており、神に対する扱いもかなり異なっていることからすると、「漢神」は一般名詞だが、「韓神」は固有名と見て、区別して考えることにしたい。
 「韓神」が一般名詞ではなく固有の神格と見做されていたからこそ、それを祭神とする神社も存在した。平安京の内裏には「韓神社」が鎮座し、韓神が宮中で祀られていた。『延喜式』神名帳・宮中神三十六座のうち、「宮内省に坐す神」三座が「園神社」と「韓神社」二座である。また四時祭式などに「園韓神祭」についての規定がある。春二月と冬十一月の丑の日に行われ、宮中祭祀の中でも比較的重要な位置を占めていたことが窺える。祈年祭と新嘗祭に連動しているところを見ると、農耕に関係がある祭儀であったかと思われる。園韓神祭とは別に、内膳司式に「園神祭」の規定があり、京北園・長岡園・奈良園・山科園・羽束志園・奈癸園・政所に園神が祀られているとあるので、園神は文字通りの「園」の神、すなわち庭園・菜園の神と考えられる。園の神ならば土地の神でもあり、また農耕にも深く関わる。「園池司」が宮内省所属であるので、園神が宮内省の祭る神となっているのであろう。諸資料において韓神と園神はしばしば一対のものとして扱われる。農耕に関わる大年神系譜に園神が登場しないのは不審だが、韓神が系譜に登場する理由は、園神に近い神として土地神的性格が附与されていたからなのかもしれない。系譜において韓神と並置される大国御魂神は、その名が明らかに地霊であることを意味している。
 韓神の地霊的性格については、『江家次第』が引く「口伝」に示されている。その伝えによれば、園・韓神は平安遷都以前から山背の地に鎮座していたが、遷都に際して造宮使が他所に移転させようとした。しかしその時託宣があり、二神はそのまま山背に留まって王都の守護をせよと命令があったので、宮中に祀られるようになったのだという。同様の話は鎌倉時代の『古事談』にも見える。折口信夫「序にかへて」(西角井正慶『神楽歌研究』畝傍書房・昭16)が、韓神は「平安京の地主神」だと言うのは、この伝えに拠っている。これによれば韓神にも園神と同じく地霊的性格があったことになる。
 『古事記』の大年神系譜が平安朝の加筆だとする説は古くからあるが、西田長男「曽富理神」(『日本神道史研究 第十巻』講談社・昭53)は、韓神が平安遷都を契機に祭祀されるようになった神であることを根拠として、『古事記』の平安朝成立説を唱えた。しかし『江家次第』が引く「口伝」を根拠にして、韓神の祭祀が平安遷都以前に全く行われていなかったとまで断定することはできない。『新抄格勅符抄』には「大祝詞命神一戸 大和国 天平神護元年奉充 園神廿戸 韓神十戸 並讃岐国 同年奉充」という神封(封戸)を定めた太政官牒があり、これによれば韓神はすでに天平神護元年には祀られていたことがわかる。さらに『大倭神社註進状』の「園韓神社三座」の項目に引かれた「大神氏家牒」には、「養老年中、藤史、亦建韓神、奉斎焉」とあり、養老年間に藤原不比等が園韓神社を創建したことが伝えられている。「亦」とあるのは、不比等が率川神社を創建したという記述を受けており、園韓神社は率川神社の近くに建てられたという。その園韓神社が、現在も奈良市内に鎮座する漢国神社である。『元要記』巻二十七「漢国社」の項目には、園韓神社の創建が養老元年だと記されており、貞観元年に大和の漢国社から平安京の宮内省に園韓神が勧請されたとも記している。これは『江家次第』が引く「口伝」とは、時期も経緯も全く異なる伝えとなっている。これらの諸資料の確実性については一様ではないだろうが、院政期の『江家次第』が引く口伝の方が、大神氏の伝承や漢国神社の社伝よりも信憑性が高いとは決めつけられない以上は、韓神の祭祀がすでに奈良時代に行われていた可能性をそう簡単に否定することはできない。従って『古事記』に韓神の名があることを格別不審視する必要はなく、むしろ『古事記』を起点にして韓神を考えるべきだと思われる。
 それにしても韓神がどのような神であるのか、またそれがなぜ大年神系譜に組込まれているのかといった疑問は、まだ充分に解明されていない。宣長『古事記傳』は「名ノ義未ダ考ヘ得ず」と放り出している。西郷信綱『古事記注釈』は、「カラが韓だとすれば、それは宮内省のつかさどる木工・鍛冶・土工等、カラ渡りの技術とかかわるのだろうか。しかしその祭り方にそうした気配がまったくない。あるいは韓人の祀っていた神が、遷都とともに地主神として遇されたものか。それともカラは茎で、園神が菜の神であるにたいし、韓神は稲茎・粟茎などの神か」と、三つの案を示して大いに判断に迷っており、さらに「補考」では「スサノヲが新羅に渡ったという伝承(紀一書)を古事記はこのような形であらわしたのだということになろうか」という第四の案も記している。
 ここで西郷氏が列挙している案のうち、第三案を継承し発展させた論が、今井優「神楽・東遊の新研究」(『武庫川女子大学紀要』31集、昭59・2)である。今井氏は「韓」を借音文字とし、 「から」は「いながら(稲幹)」「あはから(粟茎)」の「草木の幹」の意であり、韓神は「草木の成長を司る神」だと考えた。韓神が植物とくに穀物に関わる神であるならば、園神との繋がりも理解しやすく、また大年神との繋がりも理解しやすくなるという利点がある。しかしこの説では、どの資料でも常に「韓神」と表記され(中世以後には「唐神」と表記した例もある)、「柄神」「幹神」などと書かれることも、仮名書きにされることもない理由を説明し難い。
 西郷氏が挙げる第二案が現在の通説であり、平安京の立地はもともと秦氏の所有で、それゆえ地主神が秦氏の祀る韓神であったのだとする説である。この立場を主張する代表的な論としては、小林茂美「韓神の芸態論序説」(『國學院雜誌』昭41・1~2)や、上田正昭「大年神の系譜」(『古代伝承史の研究』塙書房・平3)などがある。しかし、韓神を秦氏の奉斎神と考えたときに支障となるのは、「から」というのが自称ではなく他称であるという点である。渡来系氏族が自らを「から人」と称することがないように、秦氏が自らの奉斎神を「外国の神」と呼ぶはずはない。韓神という呼称が「在来の人々」の視点によるものであり、秦氏がそのような名で呼ぶわけがないということは、古橋信孝「園神・韓神」(『平安京の都市生活と郊外』吉川弘文館・平10)がすでに指摘している。「から神」という呼称自体に外国を疎外あるいは蔑視あるいは対象化する視点が含まれていることには、やはり無視できない重大な問題が孕まれていると言わざるをえない。
 宮廷御神楽には「韓神」という曲があり、「採物」歌に続いて演奏されることになっている。その詞章は、近世期の伝本では「われ韓神韓招ぎせむや」となっているが、平安時代の複数の写本には「われ韓神韓招ぎせむや」「われ韓神韓招ぎせむや」となっており、後者が本来の型であったことが知られる。後世の型では、「私は韓神を招こう」となるが、古い型では「韓神である私が、韓流に神を招こう」となる。時代が経つにつれて、韓神自身が神招ぎをするという本来の型の意味するところが理解できなくなったため、「韓神は」が「韓神の」にわかりやすく改変されたという経緯が推測できる。
 韓神が「韓招ぎ」をするという本来の型から想像できることは、「韓招ぎ」なるものが正統の神招ぎに対する「もどき」であったという可能性である。このように見るなら、韓神の曲が「採物」に対置されるような位置にあることにも説明がつく。神降ろしの「採物」歌が神楽の中核であり正統であるとすれば、その「もどき」として演じられたのが韓神の「韓招ぎ」であったということである。そもそも神自らが神招ぎをするということ自体が不合理で不自然であるわけだが、これを滑稽さを狙った演出として見るなら理解することができる。その場合、韓神は道化役ということになるが、そのような演出法は隼人舞が溺れる仕草で笑わせるのと同じように、服属儀礼のひとつの型として見ることができる。この見方は高橋文二「『神楽歌』の世界」(『物語鎮魂論』桜楓社・平2)が「秦氏の、天皇に対する従属、忠誠の表明」と述べたところに近い。だが大化前代なら知らず、果たして平安朝の宮廷において、功労ある秦氏がそこまで卑屈になって服従を誓う儀礼を行う必要があったのだろうかという疑問は拭えない。秦氏が自らの奉斎神を「韓神」と呼ぶはずがないということと併せて考えるなら、韓神と秦氏とは関係がないと見た方がよいのではないかと思われる。
 「韓」という語は特定の国を指示するものではなく、漠然と日本(やまと)に対する「外国(外部)」という意味を担っていると考えられる。そして「韓神」という呼称には、山人や国栖や隼人蝦夷といった「蛮夷」に対する蔑視に類したニュアンスが籠められているのではないだろうか。朝廷はかれら服属民を蔑視しつつも、同時に化外の民が持つ呪的力能に対して期待してもいた。韓神に宮廷の守護を任せたというのも、隼人に宮廷の守護を任せたのと同じような考え方に基づいているのだろう。神楽の「韓神」が隼人舞や国栖奏などと同じ服属芸能であるとすれば、韓神とは、朝廷に服属した外来の神一般を象徴する存在であったと考えることができる。
 なお、『大倭神社註進状』が引く「旧記」には、園・韓神がスサノヲの子孫であり、疫病から守る神であるとも記されている。だとすると韓神は、『備後国風土記』逸文に登場する武塔神にも近似してくる。武塔神もその名から外来の神であると考えられる。防疫神は同時に疫神でもあり、そのあたりに外来の神たる「韓の神」と呼ばれる由縁があるとも考えられる。疫病は共同体の「外部」から来るものであり、それに打ち克つ呪力を持っているのは、疫病と同じ「外部」から来た神だという論理である。古橋氏前掲論は、夢告で「唐朝の神」が防疫を約束して祭祀を要求したという『春記』永寿七年五月廿八日の記事を挙げ、「威力のある疫神をカラから来たと幻想した」考え方があったことを指摘している。園韓神社の創建が三輪山祭祀の一環であったという大神氏の伝承を考えてみても、韓神祭祀が疫病鎮祭を目的として開始された可能性はありうるだろう。大物主祭祀は疫病鎮祭を目的として始まっているが、大物主神は大和の地霊・地主神でもある。地主神が祟りを起こすことがあり、その祟りが疫病流行という形をとるということを考え併せるなら、韓神が土地神である園神と対にされるようになった理由も、韓神が地霊である大国御魂神と兄弟関係にある理由も、疫神と地霊が習合され同一視されていたからだとも考えられる。しかしまだ謎は多く、その解明は後考に俟たなければなるまい。
〔土佐秀里 日本上代文学〕

阿須波神・波比岐神

 大年神系譜に登場する阿須波神波比岐神の名義解釈とその研究史については、すでに藤本頼生「『古事記』神代巻に登場する異名同種神の解釈の再整理と地域分布」(『古事記學』6号、令2・3)に詳細に論じられているので、先行諸説の整理や祭神とする神社とその分布などの問題については同論文に委ね、ここでは古代文献の記述に現れた二神の性格に問題を限定して略述しておく。
 まず、『延喜式』神名帳・宮中神三十六座の中の「座摩巫(いかすりのみかんなぎ)の祭神」五座を見ると、生井神・福井神・綱長井神・波比祇神阿須波神の名が挙がっており、うち二神が大年神系譜の波比岐神阿須波神に一致する。これに呼応して「祈年祭祝詞」にも「座摩の御巫の称辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、生井・栄井・津長井・阿須波婆比支と御名は白して、辞竟へ奉らくは、皇神の敷き坐す下つ磐根に宮柱太知り立て、高天原に千木高知りて、皇御孫の命の瑞の御舎を仕へ奉りて、天御蔭・日御蔭と隠り坐して」とあり、座摩五神が宮殿造営に関わる神として登場している。『古語拾遺』を見ると「坐摩、是大宮地之霊。今、坐摩巫所奉斎也」とあり、座摩神とは宮中の地主神ということになる。座摩五神のうち生井神・福井神・綱長井神はその名から判断すれば井戸の神と推測され、土地との関りが窺えるので、阿須波神波比岐神も土地に関わる何かを意味しているのだろう。
 ちなみに『新撰字鏡』には「崩れた岸」を意味する「阿須」という語があり、『万葉集』にも東歌に二例「あず」という同義の語が見られるので、阿須波神の名と関係があるのかもしれない。あるいは、「あすか(明日香)」の語構成がア+スカであるとしたら、「あすは」もア+スハで、信濃の「すは(諏訪・須波)」と同一語源とも考えられる。また『万葉集』には意味不明の「葉非左」という語があり、あるいは波比岐神と関係がある語かもしれないが、意味はわからない。なお伊勢内宮に「屋乃波比伎神」が祀られており、その名からは家屋との繋がりが感じられるが、しかし資料上の初見となる『建久年中行事』には「矢乃波波木神」とあるので、これはもともとは波比岐神とは関係がなく、「箒神(ははきがみ)」であった可能性が高く、後世に至って波比岐神と習合したとも考えられる。
 践祚大嘗祭式の抜穂条には「斎院に祭る神」八座として、御歳神・高御魂神・庭高日神・大御食神・大宮女神・事代主神阿須波神波比伎神の名が挙がっている。御歳神(大年神)と庭高日神(庭高津日神)は大年神系譜にも現れており、また大御食神も大年神と関りが深い。大年神は穀物神と考えられるから、その神裔が大嘗祭の抜穂に関わることには必然性がある。祈年祭も豊穣祈願の祭祀であるから大年神の神裔が関わることに必然性があるが、祝詞の文脈上は農耕神というより宮殿造営に関わる神として登場している。『古事記傳』以来、阿須波神波比岐神は家屋の神と解されるのが通例となっているが、必ずしも建造物そのものを司るとは限らず、建造物を建てる土地の霊と捉えておくのがよいのではないか。土地の霊ならば、そこが農地となることもありうるので、穀物神やその祭祀に関わる必然性が見えてくる。阿須波神が登場する『万葉集』の防人歌も、地霊であることの裏付けとなろう。
  庭中の阿須波の神に小柴さし我は斎はむ帰り来までに(20―四三五〇)
     右の一首は、帳丁若麻績部諸人
 右は上総国の防人歌である。平安時代には宮中に祀られ、また天皇王宮の地霊とされる神が、東国の民間でも祭祀されていたことは注目に値する。先掲の藤本氏論文によれば阿須波神波比岐神を祀る神社は全国に分布しており、特に東国に多いことが知られる。また志賀剛「庶民的な宮中三神」(『神道史研究』8巻3号、昭35・5)は、阿須波神波比岐神を「庶民的」な神としている。宮中の神といっても天皇の系譜に連なる神というわけではなく、天皇の祭祀に奉仕する精霊的な神として捉えておくべきであろう。右の防人歌の阿須波神祭祀がどの程度の規模で行われたものであるかははっきりしないが、阿須波神が防人の出立に際して無事安全を祈願する対象となった神であるということは間違いない。
 この「庭」というのは「さ庭」「斎庭」などと同様に祭祀を行うための神聖な場所という意味であって(高崎正秀「『庭』其他」『万葉集叢攷』人文書院・昭11)、個人宅の庭園という意味ではあるまい。その点で西郷『注釈』がこの祭祀を「庶人宅神祭」と見て、阿須波神を「屋敷の神」としたのは適切ではない。この「庭」は個人の邸宅にあるものではなく、阿須波神も個人が祀っているわけではないだろう。ただ、「庭中の神」というのは変わった言い方で、神を斎場に勧請したのではなく、もともとその場所にいる神というニュアンスがある。これは特定の場所に鎮座する神霊ということを意味しているのであろうし、阿須波神を斎く「庭」が神のやしろであり、共同体にとっての神域であったことを意味していると思われる。「柴刺し」の神事は宇佐八幡や南島などで行われており、祭祀の場である「庭」に結界と潔斎を行う意味があろう。作者は、この場所にまた帰って来られるようにと願って祭祀を行っている。この歌は他の旅の歌と同じく道中の安全を祈る歌ではあるが、他の旅の歌が通過点である境界で祭祀を行っているのとは異なって出発の地において祭祀が行われており、「この場所」に無事に戻ってくることが祈願されている。この歌の阿須波神は、防人が帰ってくるべき故郷の地を守る神であり、その意味では産土神にきわめて近い性格の神であると言える。
 万葉の阿須波神からは家屋との関りは窺えないが、土地との強い結びつきが感じ取れる。大年神系譜では阿須波神の直前に配された神が「庭津日神」であり、大嘗祭式にも「庭高日神」の名が並置されていた。阿須波神も神聖な「庭」にいる神であり、土地の霊として宮殿や共同体を守っている神なのではないだろうか。波比岐神はその阿須波神と一対のものとして現れているので、おそらくは似たような性格の神なのであろう。土地の霊であるならば、穀物神・農耕神である大年神に関りがあることも理解できる。
〔土佐秀里 日本上代文学〕

故其大年神娶神活湏毗神之女伊怒比賣生 大國御魂神 韓神 次曽冨理神 白日神 聖神 五神 又娶香用比賣[此神名以音]生子 香山戸臣神 年御神※(1) 二柱 又娶天知迦流美豆比賣[訓天如天亦自知下六字※(2)以音]生子 奥津日子神次奥津比賣命 亦名大戸②賣神此者諸人以拝竈神者也 次大山咋神亦名④之大主神 此神者坐近淡海國之日枝山亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也 庭津日神 次阿湏波神[此神名以音]次波比岐神[此神⑤以音] 香山戸臣神 羽山戸神 次庭髙津日神 大土神亦名土之御祖神九神  上件大年神之子大國御魂神以下大土神以前并十六神 羽山戸神娶大氣都比賣[下四字以音]神生子 若山咋神 若年神 次妹若沙那⑥神[自沙下三字以音] 豆麻岐神[自下四字以音] 次夏髙津日神亦名夏之賣神 次秋毗賣神 久々年神[久々二字以音] 久々紀若室葛根神[久々紀三字以音]  上件羽山之子以下若室葛根以前并八神 【校異】
①真ナシ。道祥本以下に従って「子」を補う。
②真ナシ。道祥本以下に従って「比」を補う。
③真ナシ。道祥本以下に従って「山」を補う。
④真「未」。 諸本「未」。記伝・校訂以下に従い「末」に改める。神道大系に、「上代の「未」「末」は「旦」「且」、「巳」「已」「己」と同じで、ほとんど區別はなく、判讀すべき文字に屬する」とある。
⑤真「此神以音」。道祥本以下に従って「神」の下に「名」を補う。
⑥真「壹」。 道祥本・春瑜本は上の文字「那」の右傍書に「比欤」、「壹」の右傍書に「賣欤」とあり、「若沙比賣」か、としているようである。ここでは兼永本以下「賣」とあるのに従い、「若沙那賣」ととる。
※(1) 「年御神」は延佳本・荷田春満書入本・記伝が「御年神」に改めているが、真福寺本をはじめとして諸本は「年御神」。諸注は殆どが「御年神」に改めているが、ここは真福寺本及び諸本を尊重して「年御神」のままとする。朝日古典全書・神道大系・角川新版古事記は「年御神」。なお語釈の項参照。
※(2) 「知下六字」とあるが、「知」より下の音注であれば、「知迦流美豆比賣」で七字となるはずであるが、諸本は一致して「六」であるので、そのままとする。なお、語釈の項参照。

さて、その大年神が、神活湏毗神の娘の伊怒比売を娶って生んだ子は、 大国御魂神 次に韓神 次に曽冨理神。 次に白日神 次に聖神の五神であった。 また、香用比売を娶って生んだ子は、 香山戸臣神 次に年御神の二柱であった。 また、天知迦流美豆比売を娶って生んだ子は、 奥津日子神。次に奥津比売命 またの名は大戸比売神。この神は多くの人々が拝む竈神である。 次に大山咋神、またの名は山末之大主神 この神は近淡海国の日枝山に鎮座し、また、葛野の松尾に鎮座して、鳴鏑を使用する神である。 次に庭津日神 次に阿湏波神。次に波比岐神 次に香山戸臣神 次に羽山戸神 次に庭高津日神 次に大土神、またの名は土之御祖神の九神である。  上に述べてきた、大年神の子の、大国御魂神より以下、大土神より以前は、あわせて十六神である。 この中で、羽山戸神が、大気都比売神を娶って生んだ子は、 若山咋神 次に若年神 次に妹若沙那売神 次に弥豆麻岐神 次に夏高津日神。またの名は夏之売神 次に秋毗売神。 次に久々年神 次に久々紀若室葛根神  上に述べてきた、羽山の子より以下、若室葛根より以前は、あわせて八神である。

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