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尒しかして、速はや湏す佐さ之の男をの命みこと天あま照てらす大おほ御み神かみに白まをししく、 「我あが心こころ清きよく明あかし。 故かれ、我あが生うめる子こは、手た弱わや女めを得えつ。 此これに因よりて言まをさば、自おのづから我あれ勝かちぬ。」と云いひて、 勝かち佐さ備び[此の二字は音を以ゐる。]に、天あま照てらす大おほ御み神かみの営つくり田たの阿あ[此の阿の字は音を以ゐる。]を離はなち、 其その溝みぞを埋うめ、 亦また其その、大嘗おほにへを聞きこし看めす殿とのに屎くそ麻ま理り[此の二字は音を以ゐる。]散ちらしき。 故かれ、然しか為すれども、天あま照てらす大おほ御み神かみは登と賀が米め受ず而て告のらししく、 「屎くその如ごときは、酔ゑひて吐はき散ちらす登と許こ曽そ[此の三字は音を以ゐる。]。 我あが那な勢せ之の命みこと、如か此く為しつらめ。 又また、田たの阿あを離はなち、溝みぞを埋うむるは、 地ところを阿あ多た良ら斯し登と許こ曽そ[阿より以下七字は音を以ゐる。]、 我あが那な勢せ之の命みこと、如か此く為しつらめ」 登と[此の一字は音を以ゐる。]詔のりて直なほせども、 猶なほ其その悪あしき態わざ止やまずて転うたたす。 天あま照てらす大おほ御み神かみ、忌いみ服はた屋やに坐いまして、神かむ御み衣そ織おら令しめし時ときに、 其その服はた屋やの頂いただきを穿うがち、天あめの斑ふち馬うまを逆さか剥はぎに剥はぎて、堕おとし入いるる時ときに、 天あめの服はた織おり女め見み驚おどろきて、梭ひに陰上ほとを衝つきて死しにき。 故かれ是ここに、天あま照てらす大おほ御み神かみ見み畏かしこみ、 天あめの石いは屋やの戸とを開ひらきて、刺さし許こ母も理り[此の三字は音を以ゐる。]坐ましき。 尒しかして、高たか天あまの原はら皆みな暗くらく、葦あし原はらの中なかつ国くに悉ことごと闇くらし。 此これに因よりて常とこ夜よ徃ゆきき。
○我が心清く明し 前文の天照大御神の言葉、「然あらば、汝が心の清く明かきは何を以ちてか知らむ」に対応する須佐之男命の発言。「手弱女」を得た故に「我が心清く明し」というのは、皇統を継がせるべき男児を産んだのではない故という趣旨の発言かも知れないが、須佐之男命の「清明」が客観的に保証される性質のものであるのか否かは明確ではない【注釈(十五)「須佐之男の昇天」・補注七(『古事記學』第三号)参照】。 ○手弱女 なよなよとした、たおやかな意の「たわや」に「め(女)」がついたもの。「たわや」は「たわむ」「たわわ」と同源の語。景行記の倭建命の歌(記27番歌)に「多和夜賀比那袁(撓や腕を)」とあるのは、女性(美夜受比売)のしなやかな腕を表現した例である。『万葉集』には九例見られるが、男性が女性を讃美して歌った例はなく、女性の立場で「たわやめの身なので」と自己規定する表現として使われている。「手弱女」は当時の語源解釈を示すもの。『万葉集』には他に「幼婦」(4・五八二、六一九)という文字表記の例も見えるが、この場合には幼妻の意が込められているという指摘もある。 ○勝佐備 この「勝佐備」という表現が、須佐之男命が〈うけひ〉に勝ったのか否かを判断する鍵となっている。『万葉集』に見える「さび」の例、「貴人さび」(2・九六)「翁さび」(18・四一三三)などが、「貴人」「翁」ではない者がそれらしく振る舞うという意味で使用されているところから、この「勝さび」も、実際には勝っていないにも関わらず勝手に勝者の振る舞いをしていると理解する説がある。一方で、「娘子さび」「壮士さび」(5・八〇四)の場合は、娘子が娘子らしく、壮士が壮士らしく振る舞うことを意味し、それに従えばやはり須佐之男命は勝者ということになる。『万葉集』にしばしば見られる「神ながら 神さびせすと」(1・三六、1・四五など)という表現は、天皇讃美表現として使われているが、これを、神ではない者が神として振る舞う意とみるか、神である本性そのままに、神として振る舞う意とみるかで、「さび」の理解の仕方は異なる。いずれの場合も「さび」によって表されるものは視覚的に確認し得る事柄であり、その本質がどうであるかには関わらないのではないか。従って「勝さび」の語の解釈によって須佐之男命の「勝」が認められるか否かを判断することは出来ないものと思われる(神野志隆光「「神にしませば」と「神ながら」」『柿本人麻呂研究』塙書房、一九九二年四月。多田みや子「「神ながら神さびせす」の意味」『古代文学の諸相』翰林書房、二〇〇六年一月。谷口雅博「「勝さび」の文脈と須佐之男命の清明心」『古事記の表現と文脈』おうふう、二〇一〇年十一月、参照)。なお、このように理解の仕方にゆれが生じるのは、〈うけひ〉を行う際に前提条件を設けないという『古事記』〈うけひ〉神話の特異性と関わっている【注釈(十五)「須佐之男の昇天」・補注七(『古事記學』第三号)参照】。 ○阿離・溝埋 「阿」は「畔」で、「アハナチ」は田の畔を毀すこと。「溝埋」は田に水を引く灌漑用の溝を埋めることで、ともに稲作の妨害行為となる。須佐之男命の乱暴行為は大祓祝詞との関連が深いが、『延喜式』に載る「六月晦大祓」の「天つ罪」の最初に「畔放ち・溝埋み」を挙げている。この後に記される「逆剝」「屎戸」も『古事記』の須佐之男命の行為に共通し、また「樋放」「頻蒔」「串刺」「生剝」は『日本書紀』の素戔嗚尊の乱暴行為として見えるものである。『古事記』仲哀天皇条の「国の大祓」の場面にも「生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸」が大祓の対象として記述されている。天照大御神の営田のことは『古事記』には特にこれ以上詳しく載せないが、『日本書紀』七段本書に「天照大神、天狭田・長田を以ちて御田としたまふ。」一書二に「日神尊、天垣田を以ちて御田としたまふ。」とあり、一書三にはもう少し詳しく「是の後に、日神の田、三処有り。号けて天安田・天平田・天邑幷田と曰ふ。此は皆良田なり。霖旱を経と雖も、損傷るること無し」と記す。この一書三では、素戔嗚尊の田は質が悪かったので、天照大神の田に嫉妬して妨害行為を行ったことになっている。なお『日本書紀』では第五段一書十一に、月夜見尊が保食神を殺害する穀物の起源神話を配しているが、その場面に「乃ち粟・稗・麦・豆を以ちて陸田種子とし、稲を以ちて水田種子としたまふ。又因りて天邑君を定む。即ち其の稲種を以ちて、始めて天狭田と長田とに殖う」という描写が見え、七段の記述との対応を見せている。 ○大嘗を聞こし看す殿 この「大嘗」については、天皇即位儀の大嘗祭との関連が指摘されるが、その意義については必ずしも明確ではない。『日本書紀』七段一書二に「新嘗」とあるところから、年ごとの新嘗祭と関わらせる見方もある。「阿離・溝埋」などの須佐之男命の乱暴行為が農耕妨害に関わるところからすれば、「大嘗」の妨害行為も一連のものと考えられる。天照大御神が新穀を食する行為を行っているのであれば、天照大御神が高天原を統治する存在であることになるし、これを天皇即位の大嘗祭と関わらせるならば、ここで始めて天照大御神が高天原を統治する神として君臨することを表す儀式であるということになる。須佐之男命は天照大御神に国を奪う心は無いと言い、そして〈うけひ〉の勝利宣言で自らの清明を証明したことになっているが、「阿離・溝埋」「大嘗聞こし召す」ことへの妨害は、行為としては国を奪うことにも等しいとも言える。しかし須佐之男命が意図的に国を奪おうとしているとは読めない。そのあたりに『古事記』の読みの複雑さ、難しさがあるように思われる。 ○登賀米受而告らししく……詔りて直せども、 天照大御神が須佐之男命をとがめずに「詔直」をするのはなぜか。「詔直」若しくは「詔りて直す」という行為が、悪い状況を良い状況に転換させるための言語呪術的役割を持つ行為であるとするならば、先の「大嘗聞こし召す」行為との関連でこれを考える必要があるのではないか。天照大御神は〈うけひ〉に負けた後ろめたさや、姉としての温情で須佐之男命をとがめなかったのではなく、大嘗を聞こし召すという大事な儀式を続行すべく、「詔直」を行ったと読むべきではないか(谷口雅博「古事記「天の石屋戸神話」における「詔直」の意義」『古事記年報』三十七号、一九九五年一月参照)。 ○転す ウタテアリ・ウタテシ・ウタテス・ウタタアリ・ウタタス等、「ウタテ」「ウタタ」両用の訓が施されている。宣長は、ウタテアリを支持して「是は本より有ルことの愈進て、殊に甚しくなるを云フ言なり」とし、『万葉集』から「得田直此来戀之繁母」(12・二八七七)「宇多弖家爾花爾奈蘇倍弖」(20・四三〇七)等を例として挙げている。そして「轉」の字は、「轉り進む意を取ルなるべし」という。それに対して思想大系訓読補注では、安康記の「宇多弖物云王子」の例をあげ、「ウタテ」は副詞的な用法で、ナゼカ不思議ニなどの意であるとして否定し、大東急文庫蔵大乗広百論釈論承和八年点の「転化」の訓を「ウタタシ」と解読し、この「転化」がマスマス進ンデの意を表すことを例として、「ウタタシ」を採る。ウタタの確例が上代に無く、訓点資料も限定的にしか見られない点に問題は残るが、安康記の「宇多弖」とはかなり意味が隔たるということもあり、ここでは「ウタタ」を採用する。 ○忌服屋・神御衣 忌服屋は神の召す衣を織る神聖な建物。神御衣はそこで織られ、神が召す衣。ここに忌服屋・神御衣が記されることについては、宮中の神御衣祭との関係で説かれることがある。機織りの女神については、磐長姫と木花開耶姫とを「手玉も玲瓏に紝織る少女」と表す例(『日本書紀』神代下九段一書六)や、神を祭る者の夢に機織りの道具が現れたことからその神を「織女神」だと知ったと伝える『肥前国風土記』基肆郡姫社郷の説話などの例がある(なお「天服織女」の項参照)。 ○天斑馬を逆剝ぎに剝ぎ 倭名類聚抄に「駁馬 説文云 駁[補卓反駁馬俗云布知無萬]不純色馬也」(元和三年古活字本巻十一の十三丁表)とある。記伝をはじめ多くの注釈書は、これを引用する。集成は、「神供には不適」と注する。「逆剝ぎに剝ぎ」については、これも記伝はじめ多くが、尾の方から剥ぐ意とするが、その他、生きながら剥ぐ(標注)、生きた馬のもだえに逆らって剥ぐ(新講など)、呪的観念的な語とする説(全書)、異常な剥ぎ方の意とする説(集成)などもある。 ○天服織女 忌服屋で機を織る女性。神・命などの尊称が付かないのは、「死」と表現されることと関わるか。同じく「死」と記される天若日子も尊称が付かない。天上界に機織りの乙女が居るという発想は七夕伝説と通じる。天若日子の葬儀に現れた阿遅志貴高日子根神が飛び去った際に妹の高比売命が詠んだ歌の中に「天なるや 弟棚機の……」(記6番歌)と見える。この場面、天照大御神自身も忌服屋にいるところから、天照大御神が高天原の司令神的存在となる以前の、太陽神に仕える巫女的な存在であった段階の面影を残す物とする見方もある。『日本書紀』第七段本書では、天照大神自身が梭で身を傷めたことが石窟に入る原因となっている。一書一では稚日女尊が機から堕ちて梭で身を傷めて神避っている。ワカヒルメは天照大神の亦名オホヒルメと対応する名であるところから、機織りの女神は天照大神の分身のような存在として捉えられる。従って、分身の登場しない伝では天照大神自身が身を傷めるという展開となり、分身が存在する場合はその分身が死を賜るという展開となる。天石屋神話が天照大御神の復活・再生(新生)の意義を持つと言われる所以である。 ○梭に陰上を衝きて死にき 梭は機織りの道具。横糸を渡すのに使う舟型の器具。陰上を衝いて死ぬというのは、『日本書紀』崇神天皇十年九月の箸墓伝説と共通するが、一方で『古事記』神武天皇条の丹塗矢型神婚神話に代表されるように、陰上を衝くのは婚姻・懐妊に繋がる描写でもある。天石屋神話は本来聖婚の神話であったと説く守屋俊彦は、その痕跡の一つをこの表現に見ている(「常夜の中の聖婚―天の石屋戸神話への一つの照明―」『古事記年報』三十七号、一九九五年一月)。 ○天照大御神見畏み 『古事記』の「畏」は全十七例。その内「見畏」は七例ある。「畏」と共通する文字には「惶」「懼」「恐」があるが、「見」に下接する場合は全て「畏」であり、使い分けの意識が見られる。「見畏」は、多く異類婚姻譚で相手の本性を見た時の反応として記され、その後に見た側が逃走するという展開を持つ。壬生幸子は、「見畏」は、主として上位者が下位者の引き起こした何らかの状況によって、予想外の下位者の実態を知って、おそれて遠ざかろうとする、或いは遠ざけようとする、といった意識に基づく表現であると説く(「天照大御神の「見畏」―天石屋戸こもりをみちびく古事記の表現と論理―」『古事記年報』三十三号、一九九一年一月)。また、室屋幸恵は、「見+動詞」の型の語の分析から、「見畏」は、「畏」が「見」の結果であることを強く示唆したもの、それも間断なく行われたことを表す表現であると説き、加えてそれまで良好であった男女の関係が「見畏」を境にして劇的に変化する様を示すために選択された文字表現であったと説く(「「見畏」考―『古事記』の用事意識」『上代文学研究論集』一号、二〇一七年三月)。 ○天石屋の戸を開きて、刺し許母理坐しき 「開」について記伝は「閉」に改めて「多弖々」と訓み、「刺」を「闔たる戸に物を刺て固むるを云」とする。西郷注釈も「閉」改め「トジテ」と訓んで、「戸を開いてこもるといういいまわしは日本語としておかしい」と説く。しかし中に入るために戸を開いてからこもると考えれば特に問題とはならない。写本は皆「開」なので、「開」のままとする。【→補注一、天の石屋神話の意義―万葉集の「石室」「石室戸」「石戸」について―】 ○尒して高天原皆暗く、葦原中國悉闇し これを自然神話として解釈した際には、暴風雨の襲来によって太陽が覆われ、世界が暗黒になったことを表すとするが、近年では『古事記』神話の構造上の問題として、高天原での出来事が当然のように葦原中国にも波及する点について、「二つの世界を無条件に並べて述べる」ことは、「天照大御神が天地の世界にわたる原理であること」を示す(新編)、若しくは「天照大御神が日神として地の世界にも臨むことの伏線となっている」(新版)などと説かれる。 ○常夜徃きき 記伝に「常夜とは、常に夜のみにて晝なきを云り」という通りであろう。後文に「常世長鳴鳥」「常世思金神」「常世国」などが見えるが、「夜」は甲類、「世」は乙類で仮名が異なるので、語義・語源も異なるものと見られる。後に触れるが、高天原の存在に「常世」が付く理由は良く分からない。『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条に、「是の時に適りて、昼の暗きこと夜の如くして、已に多の日を経たり。時人の曰く、「常夜行くなり」といふ。皇后、紀直が祖豊耳に問ひて曰はく、「是の怪は何の由ぞ」とのたまふ。時に一老父有りて曰さく、「伝へ聞かく、是の如き怪は、阿豆那比の罪と謂ふといへり」とまをす。問ひたまはく、「何の謂ぞ」ととひたまふ。対へて曰さく、「二社の祝者を、共に合葬れるか」とまをす。」という話があるが、特に天石屋神話との関連性は窺えない。
天照大御神が「天石屋戸」に籠るとき、『古事記』はそれを「開きて」籠ったと記しており、また手力男神が「戸」の脇に隠れたとあることからも、「石屋戸」は「石屋の戸」の意であると考えられる。後段、建御雷神派遣の条に「天安河の河上の天石屋」とあるのも、その推測を助ける。しかし、訓読としては「イハヤのト」とすべきか、「イハヤト」あるいは「イハヤド」とすべきか、判断が難しい。「イハヤ」は「イハ(石)」で出来た「ヤ(屋)」の意であるから、『万葉集』に見られる「屋戸(ヤド)」との関連も考えられなくはない。『出雲国風土記』出雲郡宇賀郷条、脳の磯と黄泉の坂・黄泉の穴の記事に、「窟戸」の語が見えるが、この訓読も同様の問題を抱える。 『日本書紀』神代第七段では、本書および三つの一書のすべてが、天照大神または日神が「天石窟」に籠ったと記し、その出入口にある扉を「磐戸」と呼称している。書紀には「天石窟戸」という語も見え、『日本紀私記』乙本は「安万乃伊波也止」という訓を附している。また兼方本・丹鶴本が「磐戸」に「イハヤト」の訓を附しているのも興味深い。 「イハヤ」「イハヤド」「イハト」の語は、『万葉集』にも見ることができる。そこで、これらの万葉歌における用法と意味とをひととおり確認しておくことにする。 万葉の「イハヤ」は、次の三首に見られる。 ①はだすすき久米の若子がいましける三穂の石室は見れど飽かぬかも(3―三〇七・博通法師) ②常磐なす石室は今もありけれど住みける人そ常無かりける(三〇八・同) ③大汝小彦名のいましけむ志都の石室は幾代経ぬらむ(三五五・生石真人) ①②の題詞には「紀伊国に徃き、三穂石室を見て作る歌」とある。「石室」は「いはむろ」とも訓めそうだが、音数律の観点から従来これを「いはや」と訓んできている。三例ともすべて伝承上の神や人の住居として「イハヤ」が歌われており、顕著な傾向が窺える。①②の「久米の若子」が住んだという「三穂の石室」も、③のオホナムチ・スクナビコナが住んだという「志都の石室」も、現在は誰もいないが、「石室」だけが変わらずに残っているというのである。これらは言わば名所旧跡となっているわけで、実態はおそらく自然の洞窟なのだろう。 ①②に続く博通法師のもう一首が、「イハヤド」の用例にあたる。 ④石室戸に立てる松の樹汝を見れば昔の人を相見る如し(3―三〇九・博通法師) 「石室戸」は、音数律からは「いはやど」あるいは「いはやと」と訓むと考えられる。しかし松の木が扉に生えるはずはなく、自然の洞窟に扉があるとも思えない。そうなるとこの「戸」は、洞窟の出入口という意味であろうか。『出雲国風土記』の「窟戸」も自然の洞窟と思われるが、その高さと広さが「各六尺許」とあるのは、穴の入り口の大きさを意味しているのであろうから、やはり「戸」は出入口の意と考えられる。いずれにしても、①②の「石室」と④の「石室戸」では意味に違いがあるようには見えず、「イハヤ」と「イハヤド」の用法上の差異はほとんどなかっただろうと思われる。 万葉の「イハト」には、「石戸」と「石門」の二種の表記が見られる。記の「石屋戸」や紀の「磐戸」により関連が深いと思われる「石戸」は、次の二首に見える。 ⑤豊国の鏡の山の石戸立て隠りにけらし待てど来まさず(3―四一六・手持女王) ⑥石戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく(四一七・同) いずれも手持女王による河内王への挽歌である。河内王が鏡山の墳墓に葬られたことを「石戸」を立てて籠ったと表現している。「石戸」のみならず、「隠り」とか「手力」といった語からは、明らかに天石屋戸神話との類想性が窺える。⑤⑥の製作年代ははっきりしないが、配列等から持統朝の作と見られており、『古事記』『日本書紀』の成書以前と考えられる。従って記紀に記載されるような神話伝承からの直接的影響関係を考えるのは適切ではなく、記紀成書以前に流通していた伝承のイメージを断片的に窺う素材とすべきであろう。そう考えることによってはじめて、「石戸破る」というような記紀には見られない要素(むしろ後世の戸隠山伝説に接続するような伝承)の存在理由も明らかになると思われる。 ⑤⑥の「石戸」は、「立て」「破る」から読み取れるように、明らかに石で出来た扉の意である。そしてこれが古墳の横穴式石室と扉石のイメージを表していることもほぼ確実である。記紀の天石屋戸神話に死(仮死)と再生の儀礼的サイクルが投影されていることは見易いが、古墳の終焉以後に成立した記紀においてはすでにアクチュアリティを失ってしまった横穴式石室による「死」のイメージが、伝承世界の「石戸」にはもともと明確に存在していたのではないだろうか。⑤⑥の発想は記紀の記事とは齟齬があるが、本来の「岩戸籠り」の伝承は、リアルな古墳のイメージを伴っていたのではないかということを想像させる。「神さぶと 磐隠り座す やすみしし 吾が大王の」(2―一九九)の「磐隠る」も、そのような古墳のイメージに即して理解すべき語であろう。 「石門」は、次の一首に見られる。 ⑦ …天皇の 敷き座す国と 天の原 石門を開き 神上がり 上がり座しぬ(2―一六七・柿本人麻呂) この「石門」は天上にあるもののようだが、「開き」とあるので、扉の形状がイメージされているのであろうか。岩窟の印象はまるで感じられないが、「死」のイメージという点では⑤⑥と接点をもつ。「イハトを開く」というのは、死者の世界に入ることを意味しているかの如くである。この「天の原石門」に類似する語として、「あまのと(天の門)」という語も一例見られる。 ⑧ひさかたの あまのと開き 高千穂の 岳に天降りし すめろきの 神の御代より…(20―四四六五・大伴家持) ⑧の「あまのと」は、天孫降臨の際に通過したとあるので、開閉する「門」が天地の途中にあるという設定であるらしい。⑦の「天の原石戸」とほぼ同一のものかと思われるが、⑧の方は「死」のイメージが全く感じられない。後代には「あまのと」が歌語として一般化し、「あまのとわたる雁にぞありける」(『古今集』秋上・二一二)「あまのとわたる舟もなしやは」(『後撰集』秋上・二二八)「織女のあまのとわたる今宵さへ」(同・二三八)「あまのとの明くるはつらきものにぞありける」(『後撰集』恋六・九九六)などというように多様な用いられ方をするようになる。これらの「と」には扉のイメージは希薄であり、石屋戸神話との関連もほとんど認められない。 また、大祓の祝詞(『延喜式』)には「天磐門」という語が見られる。「天津神は、天の磐門を押し披きて、天の八重雲をいつの千別きに千別きて」とあり、家持の⑧とほぼ同様の発想である。おそらく家持が祝詞の影響を受けているのだろう。こうした「天の門を開く」発想は石屋戸神話とは異質のものであり、また記紀の天孫降臨条には「天の八重たな雲を押し分け」とか「天の八重雲を排分け」といった表現は見られるが、「門」を開けたというような記述は見られない。 なお付言すれば、平安朝に入ると「天の岩戸」という語が、当該神話を表す語として一般化する。比較的古い例としては、「思兼たばかりごとをせざりせば天の磐戸はひらけざらまし」(延喜六年日本紀竟宴和歌)「天の岩戸を立ちもこめなむ」(『うつほ物語』あて宮)「中将も天の岩戸さしこもり給ひなむや」(『源氏物語』行幸)などがあり、院政期以後は「神楽」の歌題のもとに「天の岩戸」が詠まれる機会が増え(『堀河百首』など)、「天照神の岩戸にこもらせたまはざりけんもことわり」(『讃岐内侍日記』下巻)「神楽は天照御神の天の岩戸を押し開かせたまひける代に始まり」(『梁塵秘抄口伝集』巻一)というように、神楽と結びつけて石屋戸神話が想起されるようになる。かくして「岩戸」や「岩戸開き」といった語は、祝祭性を帯びたものとして受容されてゆくことになる。 しかし万葉の「石戸」はそのような享受史的イメージとは異なり、即物的に横穴式古墳の扉石を連想させるものであり、本来は「石床」「石枕」などとともに、「死」や喪葬の印象が強い語であったと考えられる。記紀の「石屋戸」「磐戸」にもそのような印象が揺曳しているようにも思われる。 〔土佐秀里 日本上代文学〕
尒、速湏佐之男命白①レ于二天照大御神一、 「我心清明。 故、我所レ生之子、得二手弱女一。 因レ此言者、自我勝。」云而、 於②二勝佐備一[此二字以音]、離二天照大御神之營田③之阿一[此阿字以音]、 埋二其溝一、 亦其、於下聞二看大嘗一之殿上屎麻理[此二字以音]散。 故、雖二然為一、天照大御神者登賀米受而告、 「如レ屎、酔而吐散登許曽[此三字以音]、 我那勢之命、為レ如レ此。 又、離二田之阿一、埋レ溝者、 地矣阿多良斯登許曽[自阿以下七字以音]、 我那勢之命、為レ如レ此」 登[此一字以音]詔雖レ直、 猶其悪態④不レ止而轉。 天照大御神、坐二忌服屋一而、令レ織二神御衣一之時、 穿二其服屋之頂一、逆二剥天斑馬一剥而、所二堕入一時、 天服織女見驚而、於レ梭⑤衝二陰上一而死[訓陰上云冨登]。 故於レ是、天照大御神見畏、 開二天石屋戸一而、刺許母理[此三字以音]坐也。 尒、高天原皆暗、葦原中國悉闇。 因レ此而常夜徃。 【校異】 ① 真・伊勢系「自」。兼永本以下卜部系諸本によって「白」に改める。 ② 真「勝云而於勝云而於」。道果本以下によって改める。 ③ 真「因」。道果本以下「田」とあるのによって改める。 ④ 真「熊」。道果本・道祥本・春瑜本なし、前田本・曼殊院本「熊」、兼永本・猪熊本「態」。 『古事記』中、文脈上「態」の意となる箇所他に四例、真福寺本はすべて「熊」に作る(神道大系参照)。 道祥本及び前・曼・猪を除く兼永本以下による。 ⑤ 真「援」。「梭」の異体字か(神道大系参照)。
そこで、速湏佐之男命は天照大御神に申して、 「私の心は清明である。 私が生んだ子は手弱女であった。 この結果によって言えば、当然私の勝ちだ」と言い、 勝者の振る舞いとして天照大御神のつくった田の畔を壊し、 その溝を埋め、 また天照大御神が大嘗を召し上がる御殿に糞をしてまき散らした。 そのようにしたけれども、天照大御神はとがめもせずに仰ったことには、 「糞のようなものは、酔って吐き散らそうとして 私の弟の命がこのようにしたものでしょう。 また、田の畔を壊し、溝を埋めたのは、 土地がもったいないと思って 私の弟の命がこのようにしたのでしょう」 と(儀式続行のために)詔をして(清浄な状態に)直されたが、 やはりその悪い行いは止まらず、ますますひどくなった。 天照大御神が、忌服屋にいらっしゃって、神御衣を織らせていた時に、 (速須佐之男命が)その服屋の天井に穴をあけ、斑模様の馬を逆剥ぎに剥いで落とし入れたところ、 天の服織女がこれを見て驚き、梭で女陰を突いて死んでしまった。 それで、天照大御神は見て恐れ、 天の石屋の戸を開き、中にお籠りになった。 そうして高天原はすっかり暗くなり、葦原中国も全く暗くなった。 こうして夜がずっと続いた。