古事記ビューアー

古事記の最新のテキストを見ることができます。
諸分野の学知を集めた
注釈・補注解説とともに
古事記の世界へ分け入ってみましょう。

目次を開く 目次を閉じる

ここあまてらすおほかみあやしとほし、あめのいはほそめにひらきて、うちよりらししく、 こもいますにりて、あまのはらおのづからくらく、またあしはらのなかつくにみなくらけむとふを、 なにゆゑにかあめのあそびをし、またよろづのかみもろもろわらふ」とのらしき。 しかして、あめの白言まをししく、 みことしてたふとかみいまゆゑに、歓喜よろこわらあそぶぞ」と、 まをあひだに、あめのやのみことたまのみことかがみで、あまてらすおほかみしめたてまつときに、 あまてらすおほかみいよよあやしとおもほして、 やくやくよりでて、のぞいまときに、 かくてるぢからをのかみだすにすなはち、 だまのみことしり[此二字は音を以ゐる。] なはちてしりわたして白言まをししく、 れよりに、かへりまさじ」とまをしき。 かれあまてらすおほかみいまししときに、たかあまのはらあしはらのなかつくにと、おのづからあかること得たり。

○「内告」「白言」 「内告」の「内」は、現在、殆どのテキストは「ウチヨリ」と訓み、天の石屋の中からと解釈している。諸本では、兼永本以降「内告」に「ヒソカニツケ玉ヘハ」という傍訓を付しているが、これは宣長も指摘するように、「ウチヨリ」と訓むのであれば、「自内」という文字の並びになるのが自然なので、敢えて「ヒソカニツケ玉ヘハ」という訓を採用しているのかも知れない(宣長は「自」を補うべきとし、「ウチヨリノリタマヘルハ」と訓ずる)。「ヒソカニ」と訓むのであれば、これは独白文となり、それに対して天宇受売が返事をするという流れに少々不自然さが生じる。ただ、天宇受売の言葉に関しても、「白言」とあるが、これが天照大御神の言葉に対する返答であるならば、通常のパターンとしては「答白」「答白言」となるはずであるということで、問答としては成立していないとする見方もある。天照大御神の発話に「問」が無い点も、問答ではない可能性を示す。その場合、天宇受売は天照大御神の言葉を「感じた」「認識した」ということになり、それに対して天宇受売が発言をしたということになるが、果たしてどうか。【→補注三、『古事記』『日本書紀』の描写方法】 ○我が隠り坐すに因りて 所謂「自敬表現」は、『古事記』『日本書紀』の歌や会話文、『万葉集』の歌、また平安以降の文学作品に認められる。『古事記』『日本書紀』の歌を対象として自敬表現を考察した山口佳紀は、『古事記』『日本書紀』歌の自敬表現には「真正自敬表現」「疑似自敬表現」が見られるとする。「疑似自敬表現」は、人称の転換が起こっている場合、伝達者の存在が想定される場合に見られるという。また「真正自敬表現」では非関係敬語(御・坐・見す・着す等)が用いられていて、関係敬語(給ふ・参る等)のみ見られる平安時代のものとは異なると指摘する(山口佳紀「『古事記』『日本書紀』歌謡における人称転換と自敬表現」『古事記年報』五十五号、二〇一三年一月)。
 『古事記』の会話文中でも、神の発言、例えば「我が御心須々賀々斯」(須佐之男命)、「是は我が御心ぞ」(大物主神)のように、神の御心を示す場合があるが、さほど多くは見られない。『出雲国風土記』にはこの種の表現、つまり神の独白的表現の中に「御」の付く例はしばしば見られる(「我が御心は安平けくなりぬ」意宇郡安来郷・「吾が御心、照明く正真しく成りぬ」秋鹿郡多太郷)。「坐」については、これも『出雲国風土記』には何例か見られるが(「吾が静まり坐さむと志ふ社」意宇郡屋代郷・「吾が敷き坐す山口の処なり」嶋根郡山口郷)、『古事記』の中では、「何地に坐さば、天下の政を平けく聞こしめさむ。猶東に行かむと思ふ」(神武記冒頭)、「吾明日還り幸でまさむ時に、汝が家に入り坐さむ」(応神記・矢河枝比売)という例があるくらいである。応神記の例の場合は、或いは伝達者が想定し得る例かも知れない。なお、『古事記』の会話文中には、
  尒して、天照大御神・高木神の命以ちて、太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に詔らししく、「今、葦原中
  国を平げつと白す。故、言依さし賜ひし随に降り坐して知らしめせ」とのりたまひき。(天孫降臨条)
という例が見られる。山口説に従えば、歌の中の真正自敬表現には見られない関係敬語が使われている。歌と散文とでは異なるということなのかも知れないが、これも伝達者を想定し得る例として考えることが可能なのかも知れない。
 天照大御神の発言は天宇受売に対する問いかけなのか、独白文なのか、本文校訂で揺れが生じているのは、この点と関わっていよう。「坐」の用法がそれを説く鍵となるのかどうかは今のところ不明であるが、伝達者の存在が想定し得るかどうか、「神懸」の捉え方とも関わる問題であるのかも知れない。
○天原 『古事記』神話中「天原」はこの一例のみ。他は「高天原」若しくは「天」で示される。「高天原」は『万葉集』などに見える「天の原」に「高」が付くことで獲得された天上世界であると解かれるが(太田善麿『古代日本文芸思潮論(II)』桜楓社、一九六二年一月)、ここに「天原」とあるのは、その前段階の名残かとも言われる。しかし、他は地の文において客観的に示される世界として「高天原」と記述されているのに対して、ここでは「高天原」内部の存在である天照大御神の科白として記される箇所なので、「天原」という言い方が選択されたものと思われる。
○楽 通常、アソブと訓まれるが、思想大系は「ヱラク」と訓んでいる。続く「歓喜咲楽」の箇所の「歓喜咲」にヱラクの訓を当てる記伝・西郷注釈の訓み方もある。記伝に、ヱラクは咲み栄え楽しむを言うとする。思想大系は、『日本書紀』の該当箇所の「■(口+虐)楽」の箇所、乾元本の訓にヱラクとあること、及び記伝も挙げている『続日本紀』宣命三八詔に「恵良伎」をとあるのによっているが、宣命の例がこの箇所の例と意味的に合致するかどうか定かではない点、また『日本書紀』の場合は「■(口+虐)」の字義との関わりでヱラクの訓が付されている可能性がある点などから、ここはアソブで訓む。 ○尻久米縄 注連縄のこと。『日本書紀』七段本書に「端出之縄」とあり、注記に「縄、亦云く、左縄端出といふ。此には斯梨俱梅儺波と云ふ」と記す。藁の端を出したままにした縄を言ったもの(新編全集)という。「クメ」については、多くは「組む」の意と取る(評釈その他)が、「籠」の意と取る説(次田新講)、「出す意の下二段他動詞クムの連用形」と取る説(新編全集)もある。

本文に戻る

【補注三】『古事記』『日本書紀』の描写方法

『古事記』の文章は、あまり細かいことに拘らなければ、比較的問題なく理解をしたり場面を想像したりすることが出来るのであるが、よくよく注意して読んでみると、実は意味があまり通らない場合や、場面の想像がし難い場合が多くある。この場面で言えば、天照大御神は天石屋の中に閉じこもっていたわけだが、「戸を細めに開きて、内より告らししく」の後の科白を見ると、石屋の中に居ながらにして外の様子をよく把握しているようにも読める。すなわち、「何の由にか、天宇受売は楽びをし、八百万神諸咲ふ」とある部分である。「楽」の訓読と意義については、今後詳しく検討を加えなければならないので、現時点では明確なことは言えないが、天照大御神のいう「楽」が、宇受売の行為全体を示しているのであれば、天照大御神は内にいながら外の様子を把握していることになる。
『古事記』に比べて『日本書紀』はそうした読みの不安定さは少ないように思われる。この場面で言えば、『日本書紀』七段本書では、
又猨女君が遠祖天鈿女命、則ち手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)を持ち、天石窟戸の前に立ち、巧に俳優(わざをき)を作す。亦天香山の真坂樹を以ちて鬘(かづら)とし、蘿(ひかげ)を以ちて手繦(たすき)として、火処焼(ほところや)き、覆槽置(うけふ)せ、顕神明之憑談(かむがかり)す。是の時に天照大神聞しめして曰はく、「吾、比(このごろ)石窟に閉(こもり)居(を)り、豊葦原中国は必ず長夜(とこよ)為(ゆ)くらむと謂(おも)へるを、云何(いかに)ぞ天鈿女命は如此(かく) ■(口+虐)楽( ゑ ら)くや」とのたまひ、乃ち御手を以ちて細めに磐戸を開けて窺ひたまふ。時に手力雄神、則ち天照大神の手を承け奉り、引きて出し奉る。
とある。天鈿女命は「天石窟戸の前」に立って俳優を行い、「顕神明之憑談」する。天照大神はそれを「聞こしめし」て、天鈿女命がなぜ「■(口+虐)楽」であるのかと仰ってから磐戸を細めに開けて窺うという展開となっている。「■(口+虐)楽」については、「■(口+虐)」は「噱」に同じで大笑いすることという(新編全集頭注)。つまり天照大神はその笑い声を聞いて不思議に思って磐戸を開けたという展開である。一書二には、「時に、中臣が遠祖天児屋命、則ち以て神祝(ほさ)き祝きき。是に日神、方に磐戸を開けて出でます」としかないが、一書三では、
時に、日神聞こしめして曰はく、「頃者人多に請すと雖も、未だ若此(かく)言(いふこと)の麗美しきは有らず」とのたまひ、乃ち細く磐戸を開けて窺ひたまふ。是の時に天手力雄神、磐戸の側(わき)に侍ひ、則ち引き開けしかば、日神の光六合(くに)に満つ。
とあって、中臣・忌部の祖神のとなえる祝詞の美しさに惹かれて戸を開ける。これも「聞く」ことが石屋から出てくるきっかけとなっている。
このように、『古事記』は文字表記のみでは整合的に理解し難い場面が随所に見える。そして『日本書紀』は整合的に説明をしようという態度が見えるが、これは『古事記』と『日本書紀』の各々の書としての性格の相違であるのか、和文脈と漢文脈による相違であるのか。もし後者であるとするならば、それは和文と漢文、和語と漢語との背景にある思想的基盤・文化的基盤の相違に基づくものであると言えるのではないか。〔谷口雅博 日本上代文学〕

是、天照大御①以為恠、細開天石屋戸而、内告 「因吾隠坐而、以為天原自闇亦葦原中國皆闇矣 何由以天宇受賣③者為樂、亦八百万神諸咲」。 尒、天宇受賣④白言、 「益汝命而貴神坐故、歓喜咲樂」、 此言之間、天兒屋命・布刀玉命、指出其鏡、示奉天照大御神之時、 天照⑤御神、逾奇而、 稍自⑦出而、臨坐之時、 其所隠立之⑧手力男神、取其御手引出即、 布刀玉命、以尻久米[此二字以音]縄、控度其御後方自言、 「従此以内、不得還入」。 故、天照大御神出坐之時髙天原及葦原中國自得照明
【校異】
① 真「神」ナシ。道果本以下により補う。
② 真に従う。道果本「問曰」とあり、「曰」の右傍書に「歟」、左傍書に「内因本ハ如此」、道祥本・春瑜本「内」の右下傍書に「曰歟」、左下傍書に「問歟」、次の「因」右傍書に「曰歟」、兼永本以下卜部系は「内告者因」とする。
③④現行テキスト類は「命」を付すものもあるが、諸本には見られないので無しとする。
⑤ 真「太」。伊勢系は「太」、兼永本以下卜部系は「大」、直前の「大」に合わせる。
⑥ 真「息」。道果本以下「思」とあり、これに従う。
⑦ 真「广」。道果本以下「戸」とあり、これに従うが、なお問題も残る。
「广」の字は、説文解字巻九下に「因广爲屋象對刺高屋之形凡广之屬皆从广讀若儼然之儼〈魚儉切〉」(中華書局版)とあるが、『訓読説文解字注』(尾崎雄二郎編、東海大学出版会)では、「厂に因りて屋を爲る也、厂に从ひ、對刺せる高屋の形に象る、凡そ广の屬は皆な广に从ふ、讀みて儼然の儼の若くす。」とし、ひとつめとふたつめの「广」を「厂」に校訂している。その「厂」については同じく説文解字巻九下に「山石之厓嚴人可居象形」とある。『字通』(白川静)には、「广」は「崖によって屋根がけした家。巌窟の家。」とし、その説明に続けて「厂」については「いわゆる「いわや」、その屋根がかりしたものを广という。古くは聖屋にその地勢を用いることが多く、巌窟そのものが聖所であったかも知れない。金文の广に従う字に、そのような建物が多い」と記す。真福寺本が「广」の字を用いているのは、或いは「广」の字義に関係している可能性が考えられるかも知れない。
⑧  現行テキスト類は「天」を付すものもあるが、諸本には見られず、後の天孫降臨の場面においても「天」は付いていないので、ここでも無しとする。

そこで、天照大御神は不思議に思い、天の石屋の戸を細めに開けて、戸の内側から仰ったことには、 「私がここに籠もっていらっしゃるので、天の原は自然に暗く、また葦原中国もすべて暗いだろうと思うのに、 どうして天宇受売は楽をし、また八百万神は、みな笑っているのか」と仰った。 そこで天宇受売が申し上げたことには、 「あなた様よりも貴い神がいらっしゃいますので、喜び笑って楽をしているのです」と、 こう申し上げている間に、天児屋命と布刀玉命は鏡を差し出して、天照大御神にお見せ申し上げた時、 天照大御神はいよいよ不思議に思って、 少しずつ戸から出て鏡に映ったお姿をのぞき見なさるその時、 脇に隠れ立っていた手力男神がそのお手を取って外へ引き出すやいなや、 布刀玉命が注連縄を天照大御神のうしろに引き渡して申し上げたことには、 「これから内へおもどりになることは出来ません」と申し上げた。 こうして天照大御神がお出ましになった時、高天原も葦原中国も自然と照り明るくなった。

先頭