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天地あめつち初はじめて発おこりし時ときに、 高天原たかあまのはらに成なる神かみの名なは、 天之御中主神あめのみなかぬしのかみ。[訓高下天云阿麻。下效此] 次つぎに高御産巣日神たかみむすひのかみ。次に神産巣日神かむむすひのかみ。 此この三柱みはしらの神かみは、並みな独ひとり神がみと成なり坐まして、身みを隠かくしき。 次に国稚くにわかく浮うかべる脂あぶらのごとくして、久羅下那州多陀用弊流くらげなすただよへる之時ときに、[流字以上十字以音。] 葦牙あしかびの如ごとく萌もえ騰あがる物ものに因よりて成なる神の名は、宇う摩ま志し阿あ斯し訶か備び比ひ古こ遅ぢの神かみ[此神名以音。] 次に天之常立神あめのとこたちのかみ。[訓常云登許、訓立云多知。] 此の二柱の神も、並独神と成り坐して、身みを隠かくしき。 上かみの件くだり五柱いつはしらの神は、別天神ことあまつかみぞ。
○天地初発之時 『古事記』神話冒頭の表現。「初発」については訓義が定まっていない。【補注一】創世神話のタイプと日本神話【補注二】「天地初発」の訓義 ○高天原 神々が出現し、存在する世界。『日本書紀』神代巻には一書に数例見受けられるが、本書には見えず、「天」「天上」としか記されない。それゆえ、「高天原」という明確な用語は『古事記』神話において確立したものであるとの指摘がなされている(中村啓信「高天原について」『古事記の本性』おうふう二〇〇〇・一)。持統天皇の和風諡号に「高天原広野姫天皇」とあるところから、この頃に形成された語であったかと見られている。訓注に「訓高下天云阿麻」と見え、「アメノハラ」ではなく「アマノハラ」と訓むことを指示しているが、「アメ」という露出系ではなく、「アマ」という被覆系で訓めとの指示は、「天」と「原」との密接度が高く、この語の語構成が「高天」+「原」ではなく、「高」+「天原」であったということを示している。序文に言及のあるこうした訓みの注は、語構成を示し、語句の意味に関わるものであると説かれている(小松英雄『国語史学基礎論』笠間書院一九七三・一)。『万葉集』等の、「振り放け」見る天空を示す「天原」に「高」を冠して神々の住む、天下支配の根源たる天上世界を表す言葉として成立したもののようである。 ○成 宣長は「なる」には三つの別があると説く。①「無りし物の生り出る」②「此物のかはりて彼物に変化」③「作事の成終る」の三つである。②は「化」で変化・変身、③は「成」で完成を意味する場合である。今の場合は①であるが、伊耶那岐と伊耶那美の「生む」行為によって神の出現を語る前段階としては、「なる」としか表現し得なかったものと思われる。「生む」場合には親―子の関係が生じ、また「作る」場合には作る側と作られる側との関係が生じる。「なる」場合にはそうしたいわば支配―被支配の関係を持たない存在を成り立たせることが出来る(丸山真男「歴史意識の古層」参照。『歴史思想集』丸山真男編・筑摩書房一九七二・一一)。 ○天之御中主神 神名によれば、天の中央に存在して支配する神となる。『日本書紀』では、次のタカミムスヒ・カムムスヒと併せて第一段の第四の一書の又曰にその名が見える(但し「神」ではなく「尊」。『日本書紀』第一段本書の分注には「至りて貴きをば尊と曰ふ。自余をば命と曰ふ。」とある)。また『古語拾遺』「伊勢国風土記逸文」等にも見えるが、どの文献も名のみでその活動は記されない。それゆえ、古来の祭祀・信仰から生まれた神ではなく、中国古代の道教思想の影響によって成立したと神であると説かれる。漢籍によれば天の中央は北極星であり、最高神として神格化され、天皇太帝とも呼称されている。この天皇太帝という呼称が天皇号の由来であるとの見方もあるところから、アメノミナカヌシ神の形成と天皇号の成立とが関わり合っていると考えられている(寺田恵子「天之御中主神の神名をめぐって」『古事記年報』二五号一九八三・一、福永光司『道教と古代日本』人文書院一九八七・二)。【補注三】天之御中主神と至高神 ○高御産巣日神 神産巣日神 『古事記』冒頭に出現する神々の中で、伊耶那岐・伊耶那美以前の神は基本的にはその後登場することはないが、このムスヒ二神は例外である。その点で、後述の「隠身」をどう理解するかという問題と絡んでくる。『日本書紀』ではタカミムスヒは第九段の国譲り・天孫降臨において天上界の指令神的位置におり、『日本書紀』本書では天照大神よりもむしろタカミムスヒの方が中心的立場にある。それ故にタカミムスヒと天照大御神とのどちらが本来の司令神であったと見るべきかで議論がある。カムムスヒの方は、『日本書紀』では前述の冒頭部の一書又曰に名が見えるのみで、以後登場しない。しかし、『出雲国風土記』の中では「神魂命」の表記で出雲の主要神として名が見えるゆえ、本来的に皇室に関わる中央神なのか、出雲土着の信仰基盤を持つ神であるのか、定かではない。『古事記』においては、タカミムスヒは天照大御神と共に高天原の司令神的役割を果たしている。一方カムムスヒは、「カムムスヒ御祖命」とも称され、出雲の神であるスサノヲ・オホクニヌシ等に関わり、これを守護するような役割を担っている。神話形成の過程はよくわからないが、少なくとも『古事記』が神話の冒頭において、高天原系と出雲系という、やがて国譲りの場面で関わり合う二つの世界の代表的、祖神的存在を対のようにして配置するという意図を持って記していたということは言える。なお、この両神の時間的、空間的変遷については、溝口睦子が多く論じている(『王権神話の二元構造』吉川弘文館二〇〇〇・一二など)。ところで、「ムスヒ」の語義だが、基本的には宣長の「ムス(生成力)+ヒ(霊力)」という語構成で捉えるのが一般的である。但し、ムスを自動詞として取るか、他動詞として取るかで見解が分かれる(宣長の見方にも揺れが見られる)。その他、倉野憲司は一語の動詞「結び」説を取るが(全註釈一九七四)、後世の文字遣いに拠っているところがあり、従いがたい。その他「ウムスヒ」を原形として「司命神」=「竈神」と取る中村啓信説(「タカミムスヒノカミ」『古事記の本性』おうふう二〇〇〇・一)、「生む」に対して自然発生的に生成する現象を「生むす」と言っていたという仮説を提示し、「ウムス+ヒ」という語構成を考える『古事記注解』の説などがあるが、いずれも「ムス」+「ヒ」説を否定し得ていないように思われる。 ○独神 後の「雙神」と対応関係にある語。「雙神」は男女対応する二柱一組の神々を指すので、この「独神」は、組となる相手のいない一柱単独の存在であることを示している。『日本書紀』の対応箇所には「純男」という表現が見られるゆえに「独神」も男性神であると捉えることも可能かも知れないが、ウヒヂニに対して「妹」スヒヂニというように神世七代から性別を明示する表現が用いられる点からするならば、むしろ性別を持たない神という捉え方をするべきなのではなかろうか。カムムスヒを女神と取る見方や、四番目に登場するウマシアシカビヒコヂ神の名に「ヒコ」という男性を表す言葉が窺えるなど問題は残すが、カムムスヒに関しては性別を特定することは出来ないものと思われるし、ウマシアシカビヒコヂが仮に男性神としての名を含み持っていたとしても、対となる神が存在しないこの段階で、男神であるのか女神であるのかという問題はあまり意味がないのではなかろうか。この、性別の定まらない神という捉え方は、次の「隠身」と関わる問題である。 ○隠身 卜部系諸本には「ミヲカクシマス」との訓が付されている。「カクリミニマス」(校訂)との訓みもあるが、富士谷御杖が「而隠身也」の語順から「~て~する。」という語構成になるはずなので、「カクリミ」という訓は成り立たないと説いて以来、「ミヲカクス」系の訓がほぼ定着している(『古事記における特殊なる訓法の研究』文学社一九二五・三)。【補注四】「隠身」 ○宇摩志阿斯訶備比古遅神 ウマシは美称。葦カビは、葦の芽のように萌え出る若々しい生命力の象徴。「葦牙の如く萌え騰がる物によりて」成るとあるように、神出現時の世界の状況と神名とが一致している。ヒコヂは、ヒメ・ヒコのヒコ+ヂであり、後に大国主神と火遠理命に対しても使われており、男性を意味する言葉であるようだ。但し先述の通りここではまだ性別というものが明確化していない神であることを示していると思われるので、本来的には男神であったのかも知れないが、『古事記』の構成上は性別を持たない神として捉えておくべきものであるように思われる。『日本書紀』の一書には、この神を最初に出現する神として記しているものがある(一書二・三)。『日本書紀』本書では国常立尊が最初である(一書一・四・五)。こうした相違は、国土の基の出現を語る型(『日本書紀』本書など)、生命の発現を語る型(『日本書紀』一書二・三)、天空の中心と万物生成の力を持つ神を最初に出現させる型(『古事記』)など、始発に据えるものの相違から生じた異伝であると思われる。但し、国常立尊を初めとする場合でも、「天地の中に一物生れり。状葦牙の如し。便ち神となる。」(本書)、「一物虚中に在り。状貌言ひ難し、其の中に自からに化生づる神有す。」(一書一)などのように、神の出現の前提となる「一物」が提示され、それが「葦牙」に例えられる場合がある点からみれば、最初の神の出現には殆どの場合「葦牙」が関わっていることになる。つまり、神はある「物」から発生するという観念があり、その「物」とは形は定まっていないが、葦牙のように成長する兆しを含んだものとして例えられていたということであろう(『古事記』のこの神出現の箇所や、「ウケヒ」神話等をもととして、「物」を神出現の根源的存在であるとする見方は、すでに益田勝実・壬生幸子・西條勉らによって指摘されている。なお谷口雅博「『古事記』神話の中の災害―災いをもたらすモノ―」『悠久』一二九号二〇一三・一参照)。そうすると、「成る」という発想も、全くの無から有を生じるというものではなくなってくるし、本来は「物」からの発現というのが最初の神の出現であったかも知れないが、『古事記』冒頭の三神のみは「無」から生じた「有」という特殊な位置づけになるのかも知れない。 ○天之常立神 次に出現する国之常立神と対をなす神名となっている。『日本書紀』本書では国常立尊を初めに出現した神として位置付ける。天常立尊という名は第六の一書に見えるに過ぎない。それゆえ、国常立尊に対して後事的に考え出された神ではないかと思われる。「常」は「床」で土台を指すとされるが、「常」は永遠の意で用いられるのが普通であるゆえ、仮に土台の意味があったにせよ、そこに永遠不変のという意味合いもこめて「常」字を用いたのではないか。「立」は現れる。国は未だ不完全な形でしか存在していないわけなので、国土の土台の出現とその永遠性を示す神は重要だと思われるが、すでに高天原世界が存在する点においては、特に「常立」の神の出現を語る意味合いが見出だしがたい。やはり「国之常立神」との関係で新たに作り出された神であるのだろう。 ○別天神 延佳本「ワケアメノ」、全書「ワケアマツカミ」と訓む他は『訂正古訓古事記』以降「コトアマツカミ」と訓んでいる。【補注五】「別天神」
神話はさまざまな「はじまり」を語る物語であるといえる。世界そのものがどのようにできあがったかという大きなテーマから、人間の誕生、人間の死のはじまり、より身近な個別の山や川のはじまりを語るものまで、さまざまな物語が含まれる。 はじまりを語る神話の多くは、混沌(カオス)から秩序(コスモス)へ、抽象から具象へという流れを持つ。たとえばギリシャ神話を記すヘシオドスの「神統記」では、はじめにカオス(混沌)が生じ、そしてガイア(大地)、タルタロス(大地の底)、エロスが生じる。エロスとは、もともとは、あるものとあるものを結びつける力や衝動を表わすとされる。そして神々の結びつきがはじまり、ガイアはウラノス(天)を生むと、そのウラノスとの間に山や海を生み出していく。 『古事記』も天の中心を意味する天之御中主神が生じ、つづいて「ムスヒ」の神など、神々が生じ、イザナキ、イザナミという明確な性を持ち、性交を行なう神が現れ、国や山川草木を生み出していく。混沌から秩序へ、抽象から具象へという創世神話の一般的な傾向を持っていると考えることができるだろう。 世界のはじまりの神話、すなわち創世神話は、これまでいくつかのタイプに分類され、論じられてきた。「無からの創造」、「世界両親」、「アースダイバー」(潜水による創造)、「巨人の死体からの化生」、「宇宙卵からの発生」などのタイプがよく知られている。一つの神話が一つのタイプによって語るのではなく、複数のタイプが重なり合って創世神話が成り立つものも多い。『古事記』の神話についてもいくつかのタイプが含まれていると考えられる。まずイザナキとイザナミを両親として国生みがなされる点については「世界両親」(World Parent)の神話と共通している。「世界両親」の神話は、親が子を生み出すイメージで世界が形成されていくものである。たとえば先に述べたヘシオドスの「神統記」が描くガイアとウラノスの神話や、つづくクロノスとレアによる神生みの神話も世界両親の神話であろう。古代オリエントの「エヌマ・エリシュ」の場合は、アプスー(真水・男)とティアマト(塩水・女)が混じり合うことで神々が誕生していく。エジプトのヘリオポリスの神話では、ヌウ(混沌の水)からアトゥムが現れ、そのアトゥムが単独でシュー(大気)とテフヌト(湿気)を生む。そしてそのシューとテフヌトの間に大地の神ゲブと天空の女神ヌトが生まれ、さらにその間に神々が誕生する。兄妹が両親となって神を生み出し、世界が作り上げられていく。 ほかにもマオリの神話では天の神ランギと大地の神パパが堅く抱擁をすることで、神々が生まれ、その子たちが二人を引き離し、空間を作ったと伝えられる。 「アースダイバー」は、「土への潜り手」という意味である。「潜水型」とも称される神話のタイプで、北アメリカや北ユーラシアなど、広い地域にわたってみられる創世神話である。 地上が水で覆われていたときに、さまざまな動物が水の底にもぐって土をもたらして、大地を形成するという内容を持つ。古事記では、水にもぐって土を持ってくるという話はないが、 矛で海中をかき回し、引き上げたときに滴った塩が積もり、淤能碁呂嶋が形成されたとされており、潜水型と考えることができると指摘されている(大林太良『神話学入門』中央公論社、一九六六・三)。また、この神話については、松本信広らによって、英雄マウイが大きな魚のような大地をつり上げたとするポリネシアの創世神話との類似が指摘されてきた(松本信広『日本神話の研究』平凡社一九七一・二)。このマウイの神話を代表とするような大地をつり上げる神話は「島釣り型の神話」と呼ばれる。潜るか釣るかという方法の違いはあるが、原初の海に海中から土を獲得することによって大地をもたらすという点では、同じ神話的イメージに基づくものといえよう。 太陽や月については、『古事記』はまた異なった語り方をする。黄泉の国から戻ったイザナキが禊ぎをし、左目を洗ったときにアマテラスが、右目を洗ったときにツクヨミが、鼻を洗ったときにスサノオが成る。この神話については、「巨人の死体からの化生」タイプの創世神話との類似が指摘されてきた。 「巨人の死体からの化生」する創世神話は、北欧神話の「スノリのエッダ」にある巨人ユミルの話などを典型的なものとする。神々の王オーディンたちは巨人のユミルを殺害し、その死体の肉から大地を、血から海や湖を作り、骨から山、髪の毛から樹木、頭蓋骨から空を作ったという。古代オリエントの「エヌマ・エリシュ」でも、マルドゥクがティアマトの体を二つに裂き、体の半分から天を、半分から地を創造し、頭を固定して、山を築いたと伝える。彼女の両目はチグリス=ユーフラテス川の源となったという。 イザナキの神話との関係が指摘されてきたのは、古代インドと中国の神話である。インドの「リグ・ヴェーダ」に残された「プルシャの歌」によれば、千の頭、千の目、千の足をもつ巨人プルシャを神々が供物にするために殺害すると、「意」(思考器官)から月が、目から太陽が、気息より風が生じたという。中国の「述異記」によれば、天と地があらわれ陰陽が感じあって巨人盤古が生まれる。彼が死ぬと、息は風雲に、声は雷に、左目は太陽に、右目は月に、手足と体は山に、血は川に、肉は土に、髪や髭は星に、体毛は草木に、骨は金属や石に、汗は雨になったという。神、巨人の体が世界を形作るという話は特定の文化に固有のものではなく、広くみられるものであるが、『古事記』の神話については、直接的には中国の影響を考えることが自然であろう。〔平藤喜久子〕 Types of creation myths and Japanese mythology. Myths are tales that relate various types of “beginnings,” from the large story of how the world itself came into existence to accounts of the beginning of human life and death to more immediate accounts of the origin of a particular mountain or river. Many creation myths describe an evolution from chaos to cosmos or from the abstract to the particular. Hesiod’s Theogony, a key source for Greek mythology, for instance, relates that first Chaos appeared, followed by Gaia (earth), Tartarus (the depths of the earth), and Eros. Eros is held to represent the force and impulse that binds different entities together. The gods thereupon began to conjoin, and when Gaia bore Uranus (heaven), the two of them went on to bear the mountains and seas. In the Kojiki, too, Amenominakanushi no kami, whose name means “center of heaven,” appears first, and then the “musuhi” and other deities, and finally Izanaki and Izanami, who are clearly differentiated as male and female. Engaging in sexual intercourse, they go on to bear the land, mountains and rivers, and vegetation. One can see in this Kojiki narrative the common origin myth pattern of an evolution from chaos to cosmos, from the abstract to the particular. Researchers identify the creation myths found in world mythology as falling into several motif categories. Some of the most well-known include creation out of nothing, production through world parents, “earth-diver” (creation of the world out of something brought up from the ocean depths), transformation of the corpse of a giant, and generation from a cosmic egg. Often creation myths present not just one of these motifs but combine elements from several. Researchers hold this to be true of the Kojiki myths as well. The Izanaki-Izanami myth, for instance, shares elements with the world-parent motif, which conceptualizes the formation of the world as analogous to the process of human birth. The myth of Gaia and Uranus found in Hesiod’s Theogony may also be said to fit the world-parent pattern, as does the following Theogony story of Cronus and Rhea producing the gods. In the ancient Babylonian Enuma Elish myth, the mingling of Apsu (fresh water, male) and Tiamat (salt water, female) leads to the birth of deities. The Egyptian Heliopolis myth depicts Atum as emerging from Nu (the waters of primordial chaos). Atum produces by himself Shu (air) and Tefnut (moisture), who jointly produce the earth deity Geb and the female sky deity Nut. The latter two then give birth to other deities, including Osiris, Isis, and Set. Siblings become parents and give birth to deities, and out of this process the world takes shape. Apart from these examples, Maori myth relates how the sky deity Rangi and earth deity Papa were locked in a tight embrace. The deities they produce pull them apart, creating space and light. The earth-diver motif is found widely throughout North America and Northern Eurasia. Examples of this motif typically depict the world as originally covered by water. An animal of one sort or another dives deep into the water and brings up earth, out of which the land takes shape. The Kojiki does not include an account of diving into the water to gather earth, but the Izanaki-Izanami myth describes the two deities stirring the sea water with a spear and Onogoroshima 淤能碁呂嶋 island forming from the brine that drips from the spear. As Ōbayashi Taryō 大林太良 has pointed out, this episode can be seen as incorporating elements of the earth-diver motif. 1 Matsumoto Nobuhiro 松本信広 has similarly noted that the same episode shares aspects of the Polynesian creation myth in which the hero Maui catches and pulls up islands from the sea much as if the land were a large fish. 2 Researchers describe creation myths like that of Maui as examples of the island-fishing motif. The earth-diver and island-fishing motifs differ as to the action that secures land, but they can be said to invoke a similar mythological image in that both involve obtaining earth from a primeval sea. The Kojiki presents yet another kind of motif in its description of the creation of the sun and moon. In its account, Izanaki performs ablutions after returning from the Land of Yomi, and Amaterasu appears when he washes his left eye, Tsukuyomi when he washes his right eye, and Susanoo when he washes his nose. Researchers have noted similarities between this myth and the creation-myth motif of transformation from the corpse of a giant. A typical example of this motif is the northern European story of the giant Ymir found in the Norse Snorri Edda. Odin, the leader of the gods, and his brothers kill the giant Ymir. From the flesh of Ymir’s corpse they fashion the land, from his blood they make the ocean and lakes, from his bones they make the mountains, from his hair they make trees, and from his skull they make the sky. In the Babylonian Enuma Elish, too, Marduk, after killing Tiamat, splits her corpse into two, making one half into the sky and the other half into the earth. Her head becomes the mountains, while her two eyes become the sources of the Tigris and Euphrates rivers. Researchers have also noted parallels between the Izanaki myth and ancient Indian and Chinese mythology. According to the “Hymn of Purusha” incorporated in the Indian Rig Veda, the gods kill the giant Purusha, who has a thousand heads, a thousand eyes, and a thousand legs, to offer in sacrifices. Thereupon the moon is born from his mind, the sun from his eyes, and the wind from his breath. According to the Chinese Shuyiji 述異記 (late fifth century?), the giant Pangu 盤古 was born when heaven and earth appeared and yin and yang began their interaction. When he died, his breath became the wind and clouds, his voice the thunder, his left eye the sun, his right eye the moon, his hands and feet and body the mountains, his blood the rivers, his flesh the soil, his hair and beard the stars, his body hair grass and trees, his bones metal and stones, his sweat the rain. Stories of the world forming from the body of a deity or giant are found widely rather than being unique to a particular culture, but in the case of the Kojiki myths it makes sense to presume that the most direct influence came from China. Hirafuji Kikuko 平藤喜久子, Comparative Mythology Notes 1:Ōbayashi, Shinwagaku nyūmon. 2:Matsumoto Nobuhiro, Nihon shinwa no kenkyū.
『古事記』神話冒頭ではまず世界全体が「天地」として提示されるが、そのうちの「天」はほぼ「高天原」に繋がっていき、「地」は「国」として後の葦原中国へと繋がっていく。そして「高天原」主導で「国」の生成・支配が描かれていくことになる(青木周平「大地の起源」「天の起源」参照『古代文学の歌と説話』若草書房二〇〇〇・一〇)。「国」は支配領域、支配を前提とした空間を示す語という面を持つ。後に天照大御神が高天原を「我が国」と発言するのもその点と関わっていよう。須佐之男命が統治すべきであった「海原」を「国」と呼ぶのも同様である。初めに「天地」の「地」として提示されたものが次に「国」と呼ばれうるのは、高天原に神々が「成」ったことと関係しているのかも知れない。「初発」の訓には諸説があり、確定していない。伊勢系諸本(果・祥・春)「ヒラケシ」、卜部系諸本「ヒラクル」(兼・前・曼・猪)とあり、近世から現代にかけての諸テキスト・注釈書類でも「ヒラク」系統で訓むものが多い。これは、序文の『古事記』の概要を記した箇所に「乾坤初分」とあり、また「天地開闢」とも見え、世界のはじまりを天地の分離・分割として表現している点、また『日本書紀』冒頭部でも「開闢」「初判」などと『淮南子』『三五歴記』等にみられる漢籍の天地開闢神話を踏まえた表現を用いている点から支持されている訓みかたである。しかし本居宣長は『古事記』の文字の背後に古言の世界を見るという立場から中国思想を背景に訓むことを批判し、日本古来の独自の創世神話の表現として捉える立場から「初発」二字で「ハジメ」と訓む説を提示した。これは『万葉集』二・一六七番歌の「天地之初時之」という歌い出しなどを参考にしつつ導き出された見解であった。『古事記』の文章・内容に漢籍の影響があるのは今や否定し得ないし、特に神話冒頭部には道教思想の影響などが指摘されるところだが、そのことと、「天地初発」をどう捉えるかは分けて考える必要がある。中国の創世神話には見られない「初発」という表記を用いている以上、宣長のいうように独自の創世観が示されていると見る余地はある。ただ、「発」の字が添えられている点を無視することは出来ないし、そこにこそこの表現の特質があると思われるゆえ、二字で「ハジメ」と訓む説は受け入れられない。その他の訓みでは、「発」の字が『古事記』内では「オコル」「タツ」と訓まれているところから、「ハジメテオコリシ時」という訓も提示されている(西宮一民編『古事記修訂版』おうふう、初版刊行は一九七三、など)。これに対して具体物には「オコル」という言い方はしないというところから、平安朝の訓点資料などを基に「アラハル」と読む説が近年提示された(注解一九九三・新編全集一九九七)。しかし天地創世の世界を具体物として捉えるのが妥当か否かは問題であるし、『日本書紀』では「発露」「発顕」などで「アラハル」と訓む例はあるが、「発」単独で「アラハル」と訓める例が見られないなど、問題が残る。明確な結論を出すのは困難だが、「ヒラク」ならば何故「開」「闢」などの文字を用いなかったのかという点、『古事記』内では「オコル」と訓み得る場面で「発」が使われている点などを考慮し、「ハジメテオコリシトキニ」と訓んでおきたい。意味内容については、「天地の活動が始まった時に」と捉えておきたい。『古事記』の神話世界の出発を示す表現として「発」の字が用いられたとするならば、出発の意で使用されている『古事記』内での他の用例とも意味的には共通する。『常陸国風土記』香島郡には、八百万の神々が高天原に集って相談をするという話が「天地草昧以前」として記されるなど、特に「天地開闢」ということに捉われない場合があることも併せて考える必要があるかも知れない。〔谷口雅博〕 The reading and meaning of the four graphs 天地初発. The opening phrase of the Kojiki represents the universe through the graphs 天地 ( ametsuchi, heaven and earth). The graph 天 ( ame, ten) corresponds largely to Takamanohara 高天原 (“high heavenly plain”), named in the following phrase, while 地 ( tsuchi, chi) is linked conceptually to “land” ( kuni 国) and through this term to Ashihara no nakatsukuni 葦原中国 (“central land of reed plains”), which figures in later chapters as the main arena for the unfolding of the Kojiki narrative. The Kojiki goes on to depict the formation of the “land” and rulership over it as directed from Takamanohara. 1 The term “land” ( kuni) carries the implication that it is a region over which some entity exercises authority; it presupposes a ruler. This point bears on Amaterasu ōmikami’s later declaration that Takamanohara is “my land” and also on the description of the seas ( unahara 海原) that Susanoo was supposed to govern as a “land.” 2 The text’s shift from referring initially to the earth as 地 in 天地 to “land” (国) is perhaps related to the fact that in the phrase following the opening reference to ametsuchi 天地, the deities are described as coming into existence in Takamanohara (see the next two text notes). Different readings of the digraph shohatsu 初発 have been proposed over the centuries, and there is as yet no definitive consensus. The medieval Ise-bon 伊勢本lineage manuscripts adopt the reading hirakeshi (“opened up”), and Urabe-bon 卜部本 lineage manuscripts the reading hirakuru (“open”). 3 Many early modern and modern editions and commentaries likewise opt for some form of hiraku. Such readings and interpretations draw from the sinified wording found in the Kojiki preface and the Nihon shoki. The Kojiki preface describes the beginning of the world as a process of separation or division, using the expressions kenkon shobun 乾坤初分 (“the initial separation of yang and yin”) and tenchi kaibyaku 天地開闢 (“the opening up of heaven and earth”). The first passage of the Nihon shoki similarly uses the expressions kaibyaku 開闢 (“primordial opening”) and shohan 初判 (“initial division”) found in Chinese creation stories such as those in the Huainanzi 淮南子 or Sanwu liji 三五歴記. In contrast to this approach, Motoori Norinaga 本居宣長 (1730−1801) called for trying to recover the worldview expressed in the ancient Japanese language underlying the Chinese graphs used to record the Kojiki. He rejected reading the digraph shohatsu as hiraku, seeing that reading as reflecting abstract Chinese theories of how the universe had come into being. Instead, he proposed, the digraph should be read simply as hajime (“beginning”), in line with the outlook expressed in the cosmogony myth particular to ancient Japan. He thus read the initial six graphs 天地初発之時 as ametsuchi hajime no toki (“at the beginning of the world”). He found support for this approach in phrases such as the first verse of Man’yōshū 万葉集 poem 167: “At the time of the beginning of heaven and earth . . .” ( ametsuchi no hajime no toki no天地之初時之). 4 Today the influence of Chinese texts on the wording and content of the Kojiki is taken for granted, and many have noted the presence of Daoist ideas in the opening passage. We should not, however, conflate this point with the question of how to interpret the wording 天地初発. Inasmuch as the specific digraph 初発 does not occur in Chinese cosmogony myths, there is room to see its use as evidence, as Norinaga held, of a view of the world’s formation particular to the Kojiki. At the same time, we should not ignore the implications of the compilers’ choosing to conjoin the graph hatsu 発 (“become active,” “start”) with that for “beginning” ( sho, hajime 初). The distinctive features of the expression lie precisely in its inclusion, and Norinaga’s elision of it and reading of the digraph 初発 simply as hajime is not sustainable. Elsewhere in the Kojiki the graph 発 is read okoru (“rise,” “become active”) and tatsu (“start up,” “set out”). Some commentators, such as Nishimiya Kazutami 西宮一民, have thus proposed reading the opening phrase as hajimete okorishi toki ni (“when [heaven and earth] first became active”). 5 In recent years Yamaguchi Yoshinori 山口佳紀 and Kōnoshi Takamitsu 神野志隆光 have criticized this approach, arguing that the term okoru is not used of concrete objects. Drawing from Heian-period reading glosses, they propose instead to read the graph 発 as arawaru (“emerge,” “appear”) and the phrase as a whole as ametsuchi hajimete arawareshi toki ni (“when heaven and earth first appeared”). 6 It is questionable, however, whether the world at the time of its origin can be considered a concrete object. Further, although examples exist in the Nihon shoki of reading the digraphs 発露 and 発顕 as arawaru, no instances can be identified of reading the graph 発 alone as such. Problems thus remain with adopting the reading arawaru here. It is difficult to reach a definitive conclusion, but among the other possibilities, hiraku also seems problematic. If the Kojiki compilers intended to use that term, with its connotations of opening up or separating out, the question arises why they did not choose a graph such as 開 or 闢. Since the Kojiki includes instances of reading the graph 発 as okoru, we have opted to read the graph combination at hand as hajimete okorishi toki ni. Based on this reading, we take the phrase to mean “when the activity of Heaven and Earth began.” The use of the graph 発 to express the starting point of the mythological world of the Kojiki corresponds to its use elsewhere in the text to convey a departure or start. The section on the district of Kashima 香島in Hitachi no kuni fudoki 常陸国風土記 speaks of the myriad deities gathering in Takamanohara in “the time before the beginning of Heaven and Earth” ( ametsuchi no hajime yori saki 天地草昧已前). 7 This passage should perhaps be considered as another instance of an attempt to avoid terms such as tenchi kaibyaku with its emphasis on the world forming through a process of separation. Taniguchi Masahiro 谷口雅博, Ancient Japanese Literature Notes 1:Aoki Shūhei, Kodai bungaku no uta to setsuwa, pp. 10–49. 2:For these passages, see below, chapters 14 and 15. 3:Ise-bon lineage manuscripts are held to be textually related to the earliest extant Kojiki manuscript copy, the Shinpukuji-bon 真福寺本 of 1371–1372; they date from the late fourteenth and early fifteenth centuries. Urabe-bon lineage manuscripts derive from a transcription made by Urabe Kanenaga 卜部兼永 (1467–1536). (TN) 4:Motoori Norinaga, Kojiki den, MNZ 9, pp. 121–23; Kojima et al., Man’yōshū, SNKBZ 6, p. 118. 5:Nishimiya, Kojiki shūteiban, pp. 26, 30. 6:Kōnoshi and Yamaguchi, Kojiki chūkai, vol. 2, pp. 12–24; Yamaguchi and Kōnoshi, Kojiki, pp. 28–29. 7:Uegaki, Fudoki, pp. 388–89.
この神は神話での活躍も語られず、また古くに崇拝された痕跡もないことなどから、道教の影響下に成立した神で あったとされる。しかし比較宗教学では、天の至高神への信仰がきわめて古いものである可能性が追求されてきた。 十九世紀イギリスの人類学者であるアンドリュー・ラングは、当時「未開」とされていたオーストラリアの先住民社会の研究を進め、そこに天の至高神への崇拝がみられることから、唯一の至高神への崇拝こそが宗教の原初形態であると論じた。その影響を受けたウィーンの歴史民族学者ウィルヘルム・シュミットは、『神観念の起源』(一九一二―五四)で、世界中の至高神の事例を収集して分析し、唯一の至高神への崇拝が最古の宗教の姿であると論じた。いわゆる原始一神教という説である。そしてミルチァ・エリアーデは、『太陽と天空神』で、天の至高神がその崇高さゆえに、人々が安易に祭祀を行わなくなり、ときに神話や祭祀から除外され、次第に他の宗教形態にその座をとって代わられ、「閑な神」(deus otiosus)になるという変遷を論じた。たとえばメソポタミアの天空神アヌ(シュメール語 ではアン)は、最高神の地位にあるとされるが、抽象的な神であり、神話では重要な役割も果たさず、崇拝されていない。有史時代にすでに閑な神になっていたとされる。ギリシャ神話の天空神で主権者とされるウラノスは、神話には登場するが、礼拝はされていなかった(ミルチァ・エリアーデ『太陽と天空神 宗教学概論1』久米博訳、せりか書房一九八六年)。こうした研究の影響を受け、天之御中主神も人界から隔絶した至高神の性質を持っており、それが記紀の段階ではすでに「閑な神」となっていた可能性が論じられた(吉田敦彦『日本神話と印欧神話』弘文堂一九七四・一)。「天之御中主神」という神名の成立の経緯についての問題とは別に、天の至高神という観念について検討していく必要があるだろう。〔平藤喜久子〕 Amenominakanushi no kami and notions of a supreme deity. The myths do not say anything about this deity’s activities, and there is no evidence from antiquity of its actual worship. It is thus generally held that the notion of it took shape under the influence of Daoist thought. Scholars of comparative religion, however, have investigated evidence from various parts of the world suggesting that beliefs in a heavenly supreme deity may be of extremely ancient origin. Investigating the world view of Australian Aborigines, regarded at the time as “savage,” the nineteenth-century Scottish folklorist Andrew Lang found evidence of worship of a heavenly supreme deity. On this basis he argued that worship of a sole supreme deity was the original form of religious belief. The Austrian historical ethnologist Wilhelm Schmidt, who was influenced by Lang’s ideas, gathered examples from around the world of an original belief in a monotheistic supreme deity and analyzed them in his Der Ursprung der Gottesidee (The Origin of the Idea of God), published in twelve volumes between 1912 and 1954. He, too, argued that such beliefs constituted the oldest form of religion, characterizing them as “primitive monotheism.” The scholar of the history of religions Mircea Eliade developed the hypothesis that the remoteness of the supreme heavenly deity made it difficult for people to engage in its worship, leading to its omission from myths and rites. As other religious forms gradually displaced the supreme deity, it became a deus otiosus (“inactive deity”). In the case of Mesopotamia, for instance, the sky deity Anu or Anum (Sumerian An) is held to have occupied the highest position in the pantheon, but because of its abstract nature, it did not play an important mythological role and was not worshiped. By the historical era it had already become a deus otiosus. The sky deity Uranus similarly figures in Greek mythology as a primordial central deity but was not the object of any cult. Under the influence of these approaches, Yoshida Atsuhiko 吉田敦彦 has proposed that Amenominakanushi, too, may have been a supreme deity separated from the human world that had already become a deus otiosus by the time of the compilation of the Kojiki and Nihon shoki.1 Hirafuji Kikuko, Comparative Mythology Notes 1:Yoshida Atsuhiko, Nihon shinwa to in’ō shinwa, pp. 152–53.
出現したばかりの神がここで「身を隠した」と表現することにはいかなる意味があるのか。身を持っていなかった、明確な形を持たない存在であった、という見方もあるが、それでは「カクリミ」の説明となってしまう。やはり見えない世界に移動する、もしくは見えない存在へと変質するという意味を担っているのではないか。ここで「身」という表現について考えたい。この後、イザナキとイザナミとの間での身体問答があり、そして生まれた国は「身」と表現される、男女神の身体が国という身体を生むのである。イザナキとイザナミは「雙神」十柱の完成形と見られるから、男女の身を持つ神々の前に位置する神が「独神」であり、身を隠したということになる。つまり、イザナキとイザナミが「身」を使って活動する存在であるのに対し、「独神」は男女の性別を持たずペアとなる相手のいない単独神である故に、「身」をもって行動することが出来ない(生殖による「生む」行為を実行し得ない)存在として位置づけられている。身を隠したというのは、身をもって行動しない存在である故に付された説明なのではなかろうか。後に高天原の中心となる天照大御神のために、敢えて表面には出ず、後ろ盾となるような存在であることを示すとする見解もあるが、それではタカミムスヒの存在が説明し得ない。冒頭からの神話文脈にこの語を位置づけるとするならば、やはり「身」が繰り返し話題となるイザナキとイザナミの神話との対応によって考えるべきものに思われるのである。なお、「身」によって行動するイザナキ・イザナミと、それ以前の神々との関係は、「命以」を受ける側と発する側との関係となっているので、端的に言えば、行動する神と指令する神という関係で捉えられるのかも知れない。『古事記』神話の中で「身」が言葉として表される場合、懐妊と関わる場面が多いのも、「身」と「生む」こととの関係を示唆している(谷口雅博「古事記神話の身を考える」『古代文化研究』三三号二〇一一・三参照)。〔谷口雅博〕 “Hid their bodies” ( mi o kakushiki 隠身) How should we understand the statement that deities who have just appeared “hid their bodies”? One interpretation might be that it presents them as bodiless entities without a definite form, but this presumes the syntactically problematic reading kakurimi (“remain hidden”). Was not the digraph 隠身 likely intended to indicate that these deities migrated to an invisible world or transformed themselves into something invisible? The expression mi 身 (body) offers a key to thinking about this issue. Izanaki and Izanami subsequently engage in a dialogue about their respective bodies, and the land ( kuni 国) to which they give birth is also described in terms of “bodies” (see chapters 4 and 5). In other words, the physical bodies of a pair of male and female deities give birth to the physical bodies of the land. Izanaki and Izanami represent the culmination of ten sets of “paired” ( tagueru 双) male and female deities. The entities preceding these paired deities are “solitary deities” ( hitorigami) who hide their bodies. Izanaki and Izanami act by making use of their bodies. The “solitary deities,” by contrast, have neither a definite sex nor a partner to couple with. They are presented as entities who cannot put their bodies to use (in other words, give birth through the act of procreation). Is not the expression “hid their bodies” intended to convey this circumstance? Some would argue that the phrase “hid their bodies” is intended to indicate that the first deities to appear refrained from claiming the foreground in deference to Amaterasu ōmikami, who would subsequently become the central figure in Takamanohara, and instead took parts as supporting figures. Such an approach, however, cannot account for the role played by Takamimusuhi. The reference to “body” in the opening passage of the text should rather be considered in relation to the repeated focus on the body in the Izanaki and Izanami myths. We might also note that the relationship between Izanaki and Izanami as deities who act with their bodies and the initial deities who precede them is also that between deities who receive a “command” and those who give it (see chapter 3). In other words, it might be understood as a relationship between “acting” deities and “commanding” deities. Also pertinent is that many references to the body in the Kojiki have to do with conception, suggesting a close association between “body” and “giving birth.” 1 Taniguchi Masahiro, Ancient Japanese Literature Notes 1:For further discussion, see Taniguchi Masahiro, “Kojiki shinwa no mi o kangaeru.”
宣長は、これ以後に出現する神々を国土になる神として捉え、それとは異なって天上界に成った「天神」として「別天神」を理解している。『日本書紀』の伝えでは天上界になった神のことには触れず、地上界の神の出現から語るゆえに『古事記』の「別天神」は登場していないと説く。また、天照大御神以降の天神とは異なる「天神」として理解する見方も紹介するが、その見方は斥けている。いずれにしても宣長は「別」を「異」の意で説いているのだが、果たして「別」にそのような意味用法があるのか否か。『古事記』中で「別」は神名・人名で使われる他、「因河海(山野)持別而」(神代記)、「詔別」(神代記・応神記)、「悉別賜国々之国造、亦和気及稲置、縣主也」(景行記)など、「分かれる」「区分・区別する」「分担する」という意味で使われている。「コト」と訓んで「異なる」若しくは「格別な」という意味で使われた例はない。字義からするならば、他と区別されたという意味で、それゆえ他とは異なっているし、他に比べて特殊だということにもなるのであろうから、いずれにしても他のものとの対比において「別」であるということには違いないであろう。その対比の対象が国之常立神以降の神々なのか、天照大御神以降の「天神」なのかは見解がわかれるところである。神話世界の中でこの五柱が他神と比べて絶対的な存在だというのか、或いは天照大御神に連なる天神とは区別されるべき「天神」だということなのか。『古事記』の神話体系を見通す上でも重要な語ではあると思われるが、判然としない。訓については、神名の初出箇所に「淡道之穂之狭別嶋[訓別云和気下效此]」と訓みの指示があるが、この「別天神」のところには訓注がない。冒頭部が後から加えられた結果、見過ごされてしまった可能性はあるが、ひとまず「ワケ」以外の訓であったからと判断し、「コト」と訓んでおく(神人名以外の「別」がすべて動詞として使われているところからすれば、「天神として別く」などのような訓みも考慮すべきかも知れないが、今は保留としておく)。〔谷口雅博〕 “Set-apart heavenly deities” (koto amatsu kami 別天神) Norinaga took the deities who appear from this point on as having come into existence in “this land”; as such, they were different from the “heavenly” deities who had appeared in the heavens. He argues that the term “set-apart heavenly deities” does not occur in the Nihon shoki because that text does not say anything about the deities who came into existence in the heavens and instead starts its account from the deities who appeared in the earthly realm. He introduces as well but rejects the possibility that the phrase “set-apart heavenly deities” was used to demarcate the five deities listed in the opening passage from Amaterasu and other heavenly deities. 1 In both instances Norinaga takes the graph betsu 別 as equivalent to i/koto 異(“different”). It is questionable whether the graph has this direct equivalence. Apart from in deity and human names, the Kojiki uses 別 elsewhere to mean to divide up jurisdictions or responsibilities. 2 There are no instances of its being read koto or used in the sense of “different” or “special.” The graph, on the other hand, incorporates the idea that one thing has been demarcated from another. In this regard it can be said to convey that something is different from something else or special in comparison to something else. Opinions divide as to whether the object of comparison in this case are the deities that appear from Kuninotokotachi on or the heavenly deities that figure later together with Amaterasu ōmikami. Within the world of the myths do the five deities of the opening passage have an absolute status in comparison to other deities? Or should they be distinguished as heavenly deities from Amaterasu and those heavenly deities associated with her? These are important questions in considering the overall structure of the Kojiki mythological world, but they are not easily answered. As for the reading of the graph 別, elsewhere, where it appears in names, the Kojiki compilers include glosses indicating it should be read as wake, but they do not do so here. It is possible that they simply overlooked providing a gloss because the opening section of the text was added at a later stage. Provisionally, however, we have assumed that they did not provide one because they intended the graph to be read differently here. We have thus kept the prevailing reading of koto. It may be noted that all other instances of the graph 別 in the Kojiki apart from here and its use in deity and personal names are verbal forms. It thus might be appropriate to take the phrase 別天神 to mean “are set apart as heavenly deities,” but we will reserve this possibility for future consideration. Taniguchi Masahiro, Ancient Japanese Literature Notes 1:Motoori Norinaga, Kojiki den, MNZ 9, pp. 141–42, 154. 2:See, for instance, Yamaguchi and Kōnoshi, Kojiki, pp. 38–39, 60–61, 214–15, 260–61.
天地初發之時、 於高天原成神名、 天之御中主神。[訓高下天云阿麻。下效此] 次高御産①巣日神。次神産巣日神。 此三柱神者、並獨神成坐而、隠身也。 次國稚如浮脂而、久羅下那州多陀用弊流之時、[流字以上十字以音。] 如葦牙因②萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遅神[此神名以音。] 次天之常立神。[訓常云登許、訓立云多知。] 此二柱神亦、並獨神成坐而、隠身也。 上件五柱神者、別天神。 【校異】 ① 真「座」 道果本以下による。 ② 真「固」 道果本以下による。
天地の活動が始まった時に、 高天原に出現した神の名は、 天の御中主神。 次に高御産巣日神。次に神産巣日神。 この三柱の神は、いずれも性別の無い神として出現して、身体をお隠しになった。 次に、国がまだ未熟で浮かんでいる肉脂のような状態で、クラゲのように漂っている時に、 葦の芽のように芽吹く物から出現した神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神。 次に天の常立神。 この二柱の神も性別の無い神として出現して、身体をお隠しになった。 以上の五柱の神は、特別な天神である。
When Heaven and Earth first became active (1), a deity came into existence (2) in Takamanohara 高天原 (3). Its name was Amenominakanushi no kami 天之御中主神 (4). Next Takamimusuhi no kami 高御産巣日神 appeared, and then, Kamumusuhi no kami 神産巣日神 (5). All three came into existence as solitary deities (6), and they hid their bodies (7). Then, at the time when the land was still young, like floating fat, and drifting about like a jellyfish, a deity came into existence from a thing that sprouted forth like a reed shoot. Its name was Umashi ashikabi hikoji no kami 宇摩志阿斯訶備比古遅神 (8). Next Amenotokotachi no kami 天之常立神 (9) appeared. These two deities also came into existence as solitary deities and hid their bodies. The five deities named above are the set-apart heavenly deities (10).
(1) “When Heaven and Earth first became active” (ametsuchi hajimete okorishi toki ni 天地初発之時) Various interpretations have been proposed regarding the reading and meaning of the digraph shohatsu 初発 found in this opening phrase of the Kojiki text. Further comment 1 Further comment 2 (2) “Came into existence” ( naru 成) Motoori Norinaga held that the verb naru is used with three different meanings in the Kojiki: (1) The emergence or birth of something that did not exist previously, (2) the transformation of one thing into another, and (3) the completion of something. 1 Here it has the first of these senses. The compilers seem to have used the term naru to express the advent of deities in a stage prior to Izanaki and Izanami’s producing deities by giving birth to them. The term “to give birth” ( umu 生) would imply a parent-child relationship and the term “make” or “create” ( tsukuru 作) would presume a differential relationship between creator and created. Use of the term naru, by contrast, made it possible to express the advent of entities existing outside the framework of such authority-based hierarchical relationships. 2 1:Motoori Norinaga, Kojiki den, MNZ 9, pp. 124–25. 2:See Maruyama Masao, Rekishi shisō shū, pp. 3–46. (3)Takamanohara 高天原 Several instances of this term for the realm where the deities come into being and exist can be found in the variants ( aru fumi 一書) of the Nihon shoki Age of Deities chapter, but it does not appear in the main text ( honsho 本書). There the term used is simply “heaven” ( ame 天) or “heaven above” (also read ame in the original, but transcribed with the digraph tenjō 天上). It thus has been argued that the specific term Takamanohara (“high heavenly plain”) emerged together with the formation of the version of the myths found in the Kojiki.3 As the Japanese-style posthumous name of Empress Jitō 持統 is Takaamanohara no hironohime no sumeramikoto 高天原広野姫天皇, researchers surmise that the term Takamanohara probably was coined in the period of her reign. The Kojiki includes a gloss indicating that the graphs 天原 (“heavenly plain”) should be read amanohara, not amenohara. In other words, the graph for “heaven” (天) should not be read as a single, discrete unit ( ame), but with the pronunciation used when it is part of a compound term ( ama). This suggests that “heavenly” and “plain” were understood to be closely linked and that the structure of the trigraph高天原 is not 高天 (“high heaven”) + 原 (“plain”), but 高 (“high”) + 天原 (“heavenly plain”). As Komatsu Hideo 小松英雄 has pointed out, the Kojiki preface indicates that such glosses are intended to clarify a particular term’s structure and meaning.4 The word amanohara 天原 appears in the Man’yōshū as a term for “sky” in phrases such as “looking up at the sky” ( amanohara furisake mireba 天原振離見者; MYS 289). By adding the prefix “high” (taka 高), the Kojiki compilers seem to have intended to convey the sense of a heavenly realm where the deities lived and that was the basis for ruling over what lay “below Heaven.” 3:Nakamura, Kojiki no honsei, pp. 73–75. In line with this gloss, the original Japanese version of Studies on the Kojiki reads the term as Takaamanohara. The translation preserves the elided transcription Takamanohara conventional in English. (TN) 4:Komatsu, Kokugo shigaku kisoron, pp. 217–23. (4)Amenominakanushi no kami 天之御中主神 This deity’s name means literally “the deity that exists at the center of and governs heaven.” An alternative version contained within the fourth variant of the first section of the Nihon shoki Age of Deities chapter mentions this deity in conjunction with the two deities that follow in the Kojiki, Takamimusuhi and Kamumusuhi. (The variant refers to them not as kami 神 but mikoto 尊, in line with the note appended to the main text of first section indicating that mikoto will be used as the appellation for the most exalted entities.) 5 This deity is also mentioned in Kogo shūi 古語拾遺 and Ise no kuni fudoki itsubun 伊勢国風土記逸文. In all such instances, however, only the name is introduced, and nothing is said about the deity’s activities. Researchers thus have held that this deity was not rooted in longstanding rituals and beliefs, but took shape under the influence of Chinese Daoist thought. Chinese works identify the center of Heaven with the Pole Star; which also was deified as a supreme divinity under the name Tianhuang taidi 天皇太帝 (Jp. Tennō taitei, “Heavenly Ruler Great Monarch”). Some scholars see the theonym Tennō taitei as the source of the title tennō assumed by Japan’s ruling lineage and have hypothesized that the idea of the deity Amenominakanushi took shape in conjunction with adoption of the title tennō.6 5:Kojima et al., Nihon shoki, SNKBZ 2, pp. 20–21. 6:Terada, “Amenominakanushi no shinmei o megutte”; Fukunaga, Dōkyō to kodai Nihon, pp. 178–81. Further comment 3 (5)Takamimusuhi no kami 高御産巣日神 and Kamumusuhi no kami 神産巣日神 Almost none of the deities mentioned in the opening section of the Kojiki prior to the advent of Izanaki and Izanami reappear in later sections. The two musuhi deities, however, are an exception. This point relates to the question of how to interpret the issue, discussed below, of deities who hide their bodies ( mi o kakushiki 身隠). In the Nihon shoki, Takamimusuhi appears in the ninth section of the Age of Deities chapter, which describes the “cession of the land” ( kuniyuzuri 国譲) and the “descent of the Heavenly Grandson” ( tenson kōrin 天孫降臨). There he acts as the commanding deity of the heavenly realm. Indeed, in the main text, he plays a more prominent role than Amaterasu. This circumstance has led to a debate as to which of these two deities, Amaterasu or Takamimusuhi, should be regarded as the original commanding deity. Kamumusuhi, by contrast, is mentioned in the Nihon shoki solely in the alternative version contained within the fourth variant of the first section of the Age of Deities chapter (the same subvariant in which Amenominakanushi is named) and does not reappear in subsequent episodes. This deity does figure, however, as a major Izumo deity in the Izumo no kuni fudoki 出雲国風土記, with the name transcribed as Kamumusuhi no mikoto 神魂命. It remains uncertain whether by origin this deity is a central deity related to the imperial house or a deity with roots in beliefs indigenous to Izumo. In the Kojiki, Takamimusuhi acts together with Amaterasu as the commanding deity of Takamanohara. At the same time, Kamumusuhi, who is also called Kamumusuhi mioya no mikoto 神産巣日御祖命, or, “August Parent Kamumusuhi,” appears in conjunction with Izumo deities such as Susanoo and Ōkuninushi, toward whom it acts as a protector. Although the process by which the myths took shape is not well understood, the compilers can be said to have structured the opening section of the Kojiki to juxtapose the Takamanohara and Izumo deity lineages, pairing the representative or ancestral deities of these two worlds that will eventually interact in the “cession of the land” episode. 7 Interpretation of the element musuhi generally follows Motoori Norinaga’s view of it as combining the two morphemes musu (“generative impetus”) and hi (“spiritual impetus”). 8 Opinion divides whether to consider the verb musu as transitive or intransitive (Norinaga, too, wavers on this point). Kurano Kenji 倉野憲司, by contrast, takes musuhi to be a single lexeme deriving from the verb musubu 結ぶ (“to bind,” “to produce,” “to form”). 9 This argument’s dependence on usages from later periods leaves it open to question. Nakamura Hirotoshi 中村啓信, regarding the hearth deity ( kamadogami 竈神) as the commanding deity, sees the original form as umusuhi.10 Kōnoshi Takamitsu and Yamaguchi Yoshinori postulate the existence of an intransitive verb umusu expressing the notion of spontaneous generation in contrast to the transitive verb umu (“to give birth”) and argue for a combination of umusu and hi.11 In our view, such interpretations are not sufficiently persuasive to refute that deriving from Norinaga. 7:Mizoguchi Mutsuko 溝口睦子 has discussed extensively the temporal and spatial shifts in the relationship between Takamimusuhi and Amaterasu. See her Ōken shinwa no nigen kōzō. 8:Motoori Norinaga, Kojiki den, MNZ 9, pp. 128–31. 9:Kurano, Kojiki zenchūshaku, vol. 2, pp. 25–26. 10:Nakamura, Kojiki no honsei, pp. 99–113. 11:Kōnoshi and Yamaguchi, Kojiki chūkai, vol. 2, pp. 27–29. (6) “Solitary deity” ( hitorigami 独神) The term “solitary deity” is the counterpart of the “paired” ( tagueru 双) deities that appear subsequently (see chapter 2). As the latter are male and female deities that form a pair, hitorigami indicates a solitary entity without a partner. The corresponding passage in the Nihon shoki main text uses the formulation “pure male” ( hitao 純男). 12 It thus would be possible to interpret the Kojiki’s “solitary deities” as also being male. The following passage describing the paired deities of the “seven generations of the age of deities” ( kamuyo nanayo 神世七代), however, uses expressions indicating gender to identify the pairs, beginning with the deity Uhijini and his “sister-spouse” ( imo 妹) Suhijini. It therefore seems preferable to interpret the “solitary deities” of the opening passage as entities without a defining gender. Objections may be raised, such as interpretations of Kamumusuhi as a female deity or the typically male suffix hiko in the name of the fourth deity mentioned in this passage, Umashi ashikabi hikoji. On the other hand, Kamumusuhi’s gender cannot be specified unequivocally, and even if Umashi ashikabi hikoji’s name may contain a male-like element, is it not beside the point to try to assign either male or female gender to this first group of deities who do not form pairs? Understanding them as being without specific gender bears on the following issue of “hid their bodies.” 12:Kojima et al., Nihon shoki, SNKBZ 2, pp. 18–19. (7) “Hid their bodies” ( mi o kakushiki 隠身) Urabe-bon lineage manuscripts gloss the graphs 隠身 as mi o kakushimasu (“hid their bodies”). In his edition of 1887, Tanaka Yoritsune 田中頼庸 glossed them as kakurimi ni masu (“remained hidden”).13 Subsequently, however, Mitsuya Shigematsu 三矢重松 argued that the character sequence 而隠身也 does not allow syntactically for the reading kakurimi.14 Since then the reading mi o kakusu has been widely accepted. 13:Tanaka Yoritsune, Kōtei Kojiki, vol. 1, p. 1a. 14:Mitsuya, Kojiki ni okeru tokushu naru kunpō no kenkyū, p. 19. Further comment 4 (8)Umashi ashikabi hikoji no kami 宇摩志阿斯訶備比古遅神 Umashi is an expression of praise. Ashikabi (reed shoot) epitomizes a young vital force springing forth. The name of this deity thus expresses the circumstances of the world when it emerged “from a thing that sprouted forth like a reed shoot.” The hiko of hikoji is the same as that in the paired terms hime and hiko used to denominate female and male deities and personages. Hikoji would thus seem to indicate male gender, and it is possible that Umashi ashikabi hikoji was originally thought of as a male deity. As discussed above, however, the Kojiki narrative presents this deity as part of a category of deities without specific gender, and it is best seen from that perspective. The second and third variants of the corresponding passage in the first section of the Nihon shoki Age of Deities chapter list Umashi ashikabi hikoji as the first deity to appear, but the main text and the first, fourth, and fifth variants name Kuninotokotachi no mikoto 国常立尊 as the first to appear. These disparities likely reflect different transmissions rooted in divergent conceptualizations of the beginning of the world: one type that emphasized the origin of the land (the Nihon shoki main text and the first, fourth, and fifth variants), another that emphasized the origin of life (second and third Nihon shoki variants), and a third that emphasized the centrality of the heavens and the emergence of deities possessing the capacity to generate all creatures and things (the Kojiki). Even versions that put Kuninotokotachi first, however, tend to postulate “a thing” as the premise for the advent of deities. The Nihon shoki main text, for instance, states, “Between Heaven and Earth a thing was born. In form it was like a reed shoot, and thereupon it became a deity.” The first Nihon shoki variant states, “A thing existed in the midst of emptiness; its form is difficult to describe. From within it a deity was generated spontaneously.” 15 Along with the advent of the first deity being associated with a “thing,” in many cases this “thing” is likened to a “reed shoot.” In other words, deities were conceptualized as being generated from “a thing”; this “thing” did not have a definite shape, but it was presented as possessing an impetus for growth like that of a reed shoot. 16 These examples suggest that the notion of naru (coming into existence) did not necessarily presume “existence” as arising out of absolute nothingness and that the first deities originally may have been understood as emerging out of a “thing.” Seen from this perspective, the Kojiki’s presentation of the three deities preceding Umashi ashikabi hikoji may stand alone in depicting “existence” as produced out of “nothingness.” 15:Kojima et al., Nihon shoki, SNKBZ 2, pp. 18–20. 16:Saijō Tsutomu 西条勉, Mibu Sachiko 壬生幸子, and Masuda Katsumi 益田勝実 have pointed out that both this initial Kojiki passage and the later “contest of oaths” episode (in which deities are produced out of objects exchanged between Amaterasu and Susanoo) bespeak a view of deities as emerging from “things.” For further discussion, see the commentary to chapter 16 and Taniguchi Masahiro, “‘Kojiki’ shinwa no naka no saigai.” (9)Amenotokotachi no kami 天之常立神 This deity’s name makes a pair with that of the next deity to be mentioned, Kuninotokotachi no kami 国之常立神 (see chapter 2). The main text of the first section of the Nihon shoki Age of Deities chapter situates Kuninotokotachi as the first deity to appear. By contrast, Amenotokotachi is mentioned only in the sixth variant of the first section. Amenotokotachi has thus been hypothesized to be a late invention, devised as a counterpart to Kuninotokotachi. The morpheme toko transcribed here by the graph 常 has been thought to mean toko in the sense of “floor” (床), that is “foundation” or “base.” The graph 常, however, usually carries the meaning “eternal.” Thus even if the toko of this deity’s name derives from toko meaning “foundation,” was not the transcription of it as 常 intended to convey also the sense “eternally unchanging”? The following element tachi 立 means “to appear.” As the land existed in only an unstable form at this stage, a deity whose name signifies the emergence of an eternal foundation might plausibly be important. The world of Takamanohara, however, already existed. It is difficult to see a comparable need for a deity to guarantee its “eternal foundation,” and, as has been hypothesized, Amenotokotachi was likely devised as a counterpart to Kuninotokotachi. (10)“Set-apart heavenly deities” (koto amatsu kami 別天神) The edition of Kojiki put together by Watarai Nobuyoshi 度会延佳 (1615−1691) and published in 1687 glosses the graphs 別天 as wake ame no, and Kanda Hideo 神田秀夫 and Ōta Yoshimaro 太田善麿 read the three graphs as wake amatsu kami.17 All other editions follow the reading koto amatsu kami adopted by Motoori Norinaga in his Teisei kokun Kojiki 訂正古訓古事記 (1799). 18 17:Watarai Nobuyoshi, Gōtō Kojiki, p. 21; Kanda and Ōta, Kojiki, vol. 1, p. 173. 18:Motoori Norinaga, Teisei kokun Kojiki, p. 537. Further comment 5