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次つぎに成なる神かみの名なは、 国くに之の常とこ立たちの神かみ。[訓常立亦如上。] 次つぎに豊雲とよくも上野神ののかみ。 此この二柱ふたはしらの神かみ亦も、独神ひとりがみと成なり坐まして、身みを隠かくしき。 次つぎに成なる神かみの名なは、宇比地迩うひぢに上神のかみ。次つぎに妹いも須す比ひ智ち迩に去神のかみ。[此二神名音。] 次つぎに角杙つのぐひ神のかみ。次つぎに妹いも活いく杙ぐひ神のかみ。[二柱。] 次つぎに意お冨ほ斗と能の地ぢの神かみ。次つぎに妹いも大おほ斗と乃の弁べの神かみ。[此二神名亦音。] 次つぎに於お母も陀だ流るの神かみ。 次つぎに阿あ夜や上訶か志し古こ泥ねの神かみ。[此二神名皆音。] 次つぎに伊い耶ざ那な岐きの神かみ。次つぎに妹いも伊い耶ざ那な美みの神かみ。[此二神名亦以音如上。] 上かみの件くだりの、国之常立神くにのとこたちのかみより以下しも、伊い耶ざ那な美みの神かみより以前さき、并あはせて神世七代かむよななよと称いふ。 [上かみの二柱ふたはしらの独ひとり神がみは各おのおの一代ひとよと云いふ。次つぎに双たぐへる十神とはしらのかみは各おのおの二神ふたはしらのかみを合あはせて一代ひとよと云いふ也。]
○国之常立神 「常立」については、「天之常立神」の項(注釈(一))を参照。『日本書紀』では本書・一書一・一書四・一書五で最初に出現する神として「国常立尊」が見える。この神を最初に出現した神とする神話の存在が窺える。「国之」とあるのは、本来この神名が地上世界の土台の出現に関わる名であったことを示すと思われる。『古事記』の場合も、「別天神」を境に「天」と「国」とが対応しているようにも見えるが、伊耶那岐・伊耶那美までの神々は、すべて高天原において出現した神と捉えられる。 ○豊雲上野神 豊は美称でほぼ諸注釈で一致するが、雲野について、宣長は、「雲野は、字は借字にて、久毛は(中略)物の集り凝る意と、初芽す意とを兼たる言」「野はヌと訓みて(中略)沼の意なるべし」と言い、国土となるべき兆しと見る。その他に、「天上と国土の間に介在充満する雲霧の暗示」(全書)、「雲野は、雲の向伏す原野。国土と原野、または国土に関する神」(全註釈)、「ずっと雲のごときものがとろとろと浮動しているさまを暗示」(注釈)、「生気の象徴たる雲がおおう豊かな野の意で、生成の具体的な場」(新全集)、「雲は虚空の象徴。野は台状の大地形成の象徴を神格化」(新版)等諸説が見られる。『古事記』の用例からすれば、「野」は借訓字ではなく、正訓字であろう。天・海を天原・海原等と表現する方法と同じく、雲の広がる様を雲野と表現したものか。語構成としては、「雲」の下に「上」の声注が付されているところから「雲」で切れるのではなく「雲野」と続く、すなわち「豊=雲野」と解するべきこと、小松英雄に論がある(注釈一「天地初発」参照)。なお『日本書紀』を見ると、本書に「豊斟渟尊」とあり、一書一には「豊国主尊」と記した後に亦名として「豊組野尊・豊香節野尊・浮経野豊買尊・豊国野尊・豊囓野尊・葉木国野尊・見野尊」と多くの名が記されており、神名に揺れのあったことが知られる。 ○宇比地迩上神・須比智迩去神 ウヒヂニノカミ・スヒチニノカミ。ウは「初」(講義)、スは「砂」(講義・新全集)等の説があるが、未詳。ヒヂ・ヒチは泥を意味するという点で諸説一致している。『日本書紀』の表記「埿土煑尊[埿土、此をば于毘尼と云ふ。]沙土煑尊。[沙土、此をば須毘尼と云ふ。]」からするならば、ウヒヂは「泥土」、スヒヂが「沙土」ということになるので、そうした解釈も可能だと思われるが、前項の豊雲野神の場合がそうであるように、『日本書紀』の表記をそのまま神名の原義と見ることには問題がある。「ヒヂ」を名に持つペアの神という以上のことは今のところ不明である。「迩」については、これも土の意と取るものもあるが、『日本書紀』の表記でそう取ると、「土」の意が重なることになる。『日本書紀』の場合、表記の点と、亦名に「埿土根尊・沙土根尊」とあるところからすれば、親称の接尾辞「ネ」と理解しているようである。 『古事記』の場合、「宇比地迩上神次妹須比智迩去神」というように、「迩」の次に「上」「去」とあるのは、音の高低によって男女の性別を区別している可能性が指摘されている(注解)。なお、須比智迩は通常スヒヂニとよまれるが、「智」は通常「チ」の訓であること(修訂)と、「泥[比知利古](平平平平)」(図書寮本名義抄)」等の例の指摘(注解)により、「スヒチニ」とよむ。この二神から男女対の神として出現している。 ○妹 この「妹」を、文字通り「妹」と取るか、「妻」と取るかで見解が分かれるところである。宣長は夫婦・兄弟・他人に関わらず、男と女と並ぶときにその女を指していう称だという。しかし西郷信綱は、『万葉集』の歌では「妹」は妻・恋人を指すのに対し、題詞では「妹」は文字通り「妹」を指す点からすれば、散文では「妹」は「妹」であるとし、これら二神は兄妹であると捉える。それに対して西宮一民は、『万葉集』の書き分けを『古事記』にも適用することは出来ないと反論し、宣長説と同様の見解を示している(『古事記注釈』書評)。「妹」を兄妹の妹と取るか、男に対する女を示すと取るかは、伊耶那岐と伊耶那美の神話を兄妹婚と取るか否か、延いては、二神による国生み神話を洪水型兄妹始祖神話の範疇に含めて考えるのかという問題と絡むものである。【補注六】兄妹始祖型洪水神話 ○角杙神・活杙神 杙の神格化された神名であろうが、杙の表す意味は必ずしも明確ではない。杙は通常境界に立てられるもの、土地占有の印等の意味を持って立てられることが多い。前項「ウヒヂニ・スヒチニ」から更に進んだ状態としての具体的表象としての杙と捉えられている節があるが、定かではない。「ツノ」は固くしっかりしている(全書)、「イク」は生命力あふれる意(注解)等と説かれる。生命力の芽生えのような意味合いがあるのかも知れないが、前後の神々の持つ意味合いを考慮して考える必要がありそうである。 ○意冨斗能地神・大斗乃弁神 トは所の意と解されるが、その所を「大地」と見る説(新講)、「殿」と見る説(標註)、「居所」と見る説(大系)、「男女の陰部」と見る説(旧全集)等に分かれる。ヂはヒコヂのヂと同じく男性を表す語、対してベは、女性を表す語で、メの転と考えられているが、メに対するのはヲであり、ヂに対するのはハ(オホヂに対してオホバ、チチに対してハハ等)であるという見方から、ハの転とする説(注解)もある。ここまでの神名は、結局のところ神世七代の神名を全体としてどう捉えるかということに関わるので、個々の検討には限界があろう。 ○於母陀流神 『日本書紀』の「面足尊」という表記に神名理解を求める説(宣長)、その「面」を大地と取って、「面足」を、大地の充足・完成の意と見る説(評釈・新講)、顔かたちの充実の意だが、もとは大地の完備を示すと見る説(全講)、人体の完備と取る説(全註釈・新全集)等がある。 ○阿夜上訶志古泥神 アヤは感動詞、カシコは恐れ多いの意の形容詞の語幹であるという点では諸説一致する。しかし前項「オモダル」をどう理解するかによって、何に対して感動しているのかという点には相違が生じている。人間の意識の発生を示すもので、人体が完備し(オモダル)、意識が発生したということを説く見方もある(全註釈)。 ○伊耶那岐神・伊耶那美神 「誘ふ」の語幹「イザナ」を神名としたとする見方、若しくは「イザ」+「ナ(助詞)」と取る見方もあるが、いずれにしても誘い合う男女神という解釈になる。 ○神世七代 「神世」は人の世に対するもの。『古事記』中では、各天皇の「御世」があるのに対して「神世」という大枠の「世」として認識されているように思われる。上巻においては、天孫降臨条に「御世」の語が見え、これは歴代天皇の御世を指すと見られるが、大国主神の系譜に「十七世」とあるのは、神世を記す上巻にあって異質な感があり、問題を残す(谷口雅博「『古事記』上巻・出雲系系譜記載の意義」『日本神話をひらく』フェリス女学院大学二〇一三・三参照)。「代」は、『古事記』中では神人名・地名、「御名代」「机代」等の例が見出せるが、世代の意で用いられていると見られるのはここのみである点、注意される。【補注七】「神世七代」 ○双 「双神」は先の「独神」に対応する。「独神」は「隠身」した神である。その「独神」に対して、「身」をもって天神の「命以」を遂行するのが、「双神」の完成体である伊耶那岐命・伊耶那美命であると思われる(注釈(一)及び谷口雅博「古事記神話の身を考える」『古代文化研究』三三号二〇一一・三参照)。
天の浮橋に立つイザナキとイザナミの下には、海が広がっており、そこに二人は淤能碁呂嶋をつくり、降り立つ。そして国生みをはじめた。一面海のなかで、二人だけが存在するという状況である。この神話について岡正雄は、洪水神話の痕跡があることを次のように指摘した。 日本神話における種族祖神、イザナギ・イザナミ兄妹神が結婚して、神々を生むという神話は、南中国や、東南アジアの諸種族にしばしば見られる洪水神話の破片である。これらの諸族の神話では、洪水で人類が死に絶え、ただ兄妹の二人が生き残る。兄妹だから結婚できない。そこでこの近親婚の禁止を解く呪的儀礼を行って、兄、妹が他人として結婚し、子孫を生むということが語られている。日本神話では、この神話の洪水の部が脱落しているにすぎなく、内容はディテールにおいて全く同じである。(岡正雄『異人その他』言叢社一九七九・一二、四〇頁) この説を受け、大林太良は、岡説は「事態を著しく単純化して」いるとしながらも、イザナキ、イザナミの神話が、華南や東南アジアの「兄妹始祖型洪水神話」と関係があると認め、さらに詳しい分析を試みた(大林太良『神話の系譜』講談社一九九一・二、二四五―二五六頁)。 彼らが注目している「兄妹始祖型洪水神話」の典型的なものとして、ミャオ族の神話がある。この神話によれば、神の怒りによる大洪水を一組の兄妹だけが生き残った。子孫を残すため、兄が妹と結婚しようとするが、妹は兄弟であることを理由に断る。強いて頼むと、妹は、追いかけて捕まえられたら結婚してもよいという。木のまわりで兄は妹を追いかけるが、なかなか追いつけない。そこで兄が向きを変えて反対に巡ったところ、捕まえることができ、二人は結ばれた。子供が生まれるが、手足もない、肉の塊であったため、細かく刻んだ。それが地に落ち、人間になったという(君島久子『中国の神話』筑摩書房一九八三・一より)。物の周りを巡ることや、最初の子が不具であるなど、イザナキ、イザナミの神話との共通点は少なくない。 洪水神話は世界中ひろい範囲で見いだされるものである。もっとも有名なものは旧約聖書の記されたノアの方舟の物語だろう。この物語も、「ギルガメシュ叙事詩」にあるウトナピシュティムの神話、また「アトラ・ハシース」の神話と酷似しており、西アジアから広がる洪水神話のモチーフの一つである。インドにも「シャタパタ・ブラーフマナ」などに方舟モチーフといわれる神話がある。フレーザーは、『旧約聖書のフォークロア』のなかで、世界の洪水神話と旧約聖書の関係を論じたが、世界に広がる洪水神話が単一の起源を有することについては否定的である。 日本神話についていえば、原初、一面が海であったという状況を洪水モチーフの欠落と解釈することについては異論もあるだろう。洪水に限らず、津波なども含めた自然災害を被ってきた島国の状況が国生みの光景を生み出したとも考えられる。 〔平藤喜久子〕 Primordial flood myths and brother-sister pairs as original progenitors. The following chapter relates that Izanaki and Izanami, the final pair of the seven generations of the Age of Deities, stand on the heavenly floating bridge (ame no ukihashi 天の浮橋), under which the ocean spreads broadly. They create Onogoroshima 淤能碁呂嶋 island, to which they descend and begin the process of procreating the different lands (kuni 国). In this scene they alone exist amid the ocean’s broad expanse. Oka Masao 岡正雄 found in this account traces of a primordial flood myth and described it as follows:
神世七代の構成意識は明確ではない。はじめの「独神」二柱と、後の「双神」五組を併せて「七代」と数えるのは、いかにも不自然である。はじめの五柱と、後の七代とで分ける、所謂中国の聖数に合わせるという意図があったのかも知れないが、やはり国常立神・豊雲野神と、双神五組を併せて七代とするのは不審が残る。それ以前の「別天神」五柱と、後の神々との相違を意識させる書き方ではあるのかも知れない。また、イザナキ・イザナミ以降は、この二神が「生む」ことで国・神を出現させるので、自からそこに世代が生じるわけだが、それ以前に世代を表明するための手段として「七代」という表現が必用とされたのかも知れない。先の「別天神」はそうした世代意識を超越した存在として位置付けられるのであろう。さて、双神十柱の示す意味内容は、『古事記』神話内部における意味合いについて、考えてみる必要がありそうである。『日本書紀』の場合は神名の文字表記に意味を与えており、その意味は『古事記』と意識を共有しているとは言い難い点が見られるからである。宣長は、「国土の初めと神の初めとの形状を、次第に配り当て負せ奉りしものなり」と言い、両義的に解釈をしているようである。先に見た中では、例えば新講などは一貫して大地の生成を示すものと見ているし、大系などでは、建物の形成を背後に見ているようなところがある。しかし、例えば全註釈の理解では、神世七代の神々の意味する内容を、国土の根源→原野の形成→土砂の発生→杙の打込み→居所の完成→人体の完備・意識の発生→夫婦の発生と見ており、首尾一貫性が無い。それに対して金井清一(「神世七代の系譜について」『古典と現代』 49 、一九八一・九。なお注解はこの説を採用する)は、それぞれの神名の意義を、神の原質としての泥と砂↓現れ出ようとする最初の形→男女神の性が形態として表面化したこと→形態の完備を体と用の両面から言ったもの、というように神体の生成(身の生成)に向かう一連の流れとして捉えており、イザナキ・イザナミ二神が身体を伴う行動をこの後とっていくという神話の流れともそれは符号するものとして了解される。 〔谷口雅博〕 “The seven generations of the Age of Deities” (kamuyo nanayo 神世七代) The reasoning behind the grouping of “the seven generations of the Age of Deities” is not clear. Combining the first two solitary deities with the following five sets of paired deities to add up to seven generations seems forced. The compilers may have divided the initial deities mentioned into a first group of five deities and a second group of seven generations to fit the so-called sacred numbers found in Chinese works such as the Book of Changes (Yijing 易経). Yet it seems strange to combine the solitary Kuninotokotachi and Toyokumono with the five sets of paired deities as seven generations. Perhaps the intent was to emphasize the distinction between the first five “set-apart heavenly deities” and those that follow. Because Izanaki and Izanami subsequently give birth to the land and other deities, the idea of “generation” is implicit in the relationship between them and their offspring. The compilers perhaps adopted the term “seven generations” to convey that generations existed prior to Izanaki and Izanami as well and thereby demarcate the “set-apart heavenly deities” as a category that transcends the notion of generation. The meaning of the names of the ten sets of paired deities needs to be considered in connection with the place these deities occupy within the Kojiki myth structure. The Nihon shoki assigns meaning to deity names through the graphs it adopts to transcribe them, but the two texts do not necessarily share the same perspective on this issue. Norinaga seems to see the Kojiki as taking a two-sided approach, first naming deities associated with the origin of the land and then ones linked to the origin of deities. 1 Among the interpretations introduced above, some commentators, such as Tsugita Uruu, view the deities named as all connected to the formation of the land. Kurano Kenji takes a more heterogeneous approach and interprets the names of the seven generations as relating a succession from the origin of the land to the formation of a primeval terrain to the generation of mud and sand to the planting of stakes to the construction of a dwelling to completion of the body and the emergence of consciousness to the establishment of conjugal relations. 2 Kanai Seiichi 金井精一, by contrast, sees the names as pertaining to the formation of the deities’ bodies, moving step by step from mud and sand as the deities’ original constitution to an emergent primeval form to the appearance of the sex of male and female deities to the completion of that form in both shape and function. Kanai sees this process as leading naturally to the next stage of the myth, in which the pair Izanaki and Izanami act making use of their bodies. 3 Kōnoshi Takamitsu and Yamaguchi Yoshinori also adopt Kanai’s views. 4 Taniguchi Masahiro 谷口雅博, Ancient Japanese Literature Notes 1:Motoori Norinaga, Kojiki den, MNZ 9, p. 151. 2:Kurano, Kojiki zenchūshaku, vol. 2, pp. 64–70. 3:Kanai, “Kamuyo nanayo no keifu ni tsuite.” 4:Kōnoshi and Yamaguchi, Kojiki chūkai, vol. 2, pp. 49–52.
次成神名 国之常立神[訓常立亦如上] 次豊雲上①野神 此二柱神亦獨神成坐而隠身也 次成神名宇比地迩上神次妹須比智迩去神[此二神名以音] 次角杙神次妹活杙神[二柱]② 次意冨斗能地神次妹大斗乃弁神[此二神名亦以音] 次於母陀流神 次妹阿夜上訶志古泥神[此二神名皆以音] 次伊耶③那岐神次妹伊耶那美神[此二神名亦以音如上] 上件自国之常立神以下伊耶那美神以前并稱神世七代 [上二柱獨神各云一代次雙十神④各合二神云一代也] 【校異】 ① 真「上」 兼永本以下による。 ② 真「二柱」 道果本以下による。 ③ 真「ナシ」 道果本以下による。 ④ 真「十神十神」 道果本以下による。
次に出現した神の名は、 国之常立神。 次に豊雲野神。 この二柱の神も、性別を持たない神として出現して身体を隠した。 次に出現した神の名は宇比地迩神、次に妹須比智迩神。 次に角杙神、次に妹活杙神。 次に意富斗能地神、次に妹大斗乃弁神。 次に於母陀流神、 次に妹阿夜訶志古泥神。 次に伊耶那岐神、次に妹伊耶那美神。 以上の、国の常立神から以下、伊耶那美神から以前を併せて神世七代という。 [先の二柱の独神はそれぞれ一代という。次の対として出現した神はそれぞれ二神を合わせて一代という。]
The deity that next came into existence was named Kuninotokotachi no kami 国之常立神 (1). Next was Toyokumono no kami 豊雲野神 (2). These two deities also came into existence as solitary deities and hid their bodies. The next deity to come into existence was named Uhijini no kami 宇比地迩神 (3), and next his sister-spouse (4), Suhichini no kami 須比智迩神. Next was Tsunogui no kami 角杙神, and next his sister-spouse, Ikugui no kami 活杙神 (5). Next, Ōtonoji no kami 意冨斗能地神, and next his sister-spouse, Ōtonobe no kami 大斗乃弁神 (6). Next, Omodaru no kami 於母陀流神 (7), and next his sister-spouse, Ayakashikone no kami 阿夜訶古泥神 (8). Next, Izanaki no kami 伊耶那岐神, and next his sister-spouse, Izanami no kami 伊耶那美神 (9). The deities named above, from Kuninotokotachi no kami to Izanami no kami, are called altogether the seven generations of the Age of Deities (10). Note: Each of the first two solitary deities is called “one generation” (ichidai 一代). For the next ten paired deities, each pair of two deities is called “one generation” (11).
(1) Kuninotokotachi no kami 国之常立神 For the digraph tokotachi 常立 (“eternal foundation”), see text note 9 on Amenotokotachi no kami 天之常立神 in chapter 1. The main text and first, fourth, and fifth variants of the corresponding passage in the Nihon shoki Age of Deities chapter list this deity (with the appellation mikoto 尊) as the first to appear, suggesting that this was also the case in some versions of the myths. The element kuni no 国之 (“the land’s”) indicates that originally this deity was associated with the foundation for the earthly world. Some would see the Kojiki narrative’s reference to “set-apart heavenly deities” (koto amatsu kami 別天神) as drawing a contrast between deities associated with heaven and with the land (see chapter 1, text note 10), but in fact all the deities up to Izanaki and Izanami may be seen as having come into being in Takamanohara. (2) Toyokumono no kami 豊雲野神 Commentators largely agree that the element toyo 豊 (“luxuriant”) is laudatory. Motoori Norinaga 本居宣長 held that the first graph of the digraph kumono 雲野 was borrowed for its sound value to convey the term kumo, which, he said, combined the sense of “consolidation” and “germination.” He argued that the second graph, no 野, should be read nu and carried the meaning of numa 沼 (“marshland”). This deity’s name thus portended the subsequent emergence of the land of habitation (kunitsuchi 国土). 1 Kanda Hideo 神田秀夫 and Ōta Yoshimaro 太田善麿 assert that the name implies a thick mist filling the space between the heavens above and the land below, 2 while Kurano Kenji 倉野憲司 argues that kumono refers to an untamed wilderness (gen’ya 原野) wreathed in clouds and that the deity named is related to both the land of habitation and that wilderness or to the land of habitation alone. 3 Saigō Nobutsuna 西郷信綱 asserts that the name suggests a scene in which something cloud-like floats lazily, 4 whereas Yamaguchi Yoshinori and Kōnoshi Takamitsu hold that it means “a fertile field covered by clouds that symbolize vitality, a site of generation.” 5 Nakamura Hirotoshi argues that kumo is a symbolic expression for the void (kokū 虚空), while no represents the apotheosis of the consolidation of the land into a foundation. 6 Judging from its general usage in the Kojiki, the graph no 野 was not borrowed for its sound value but used for its meaning of “meadow.” Just as the element “plain” (hara 原) was appended to terms for “heaven” and “sea” in compounds such as amanohara 天原 and unabara 海原, kumono was perhaps intended to convey the idea of clouds spread out across the sky, likened to a meadow. Komatsu Hideo 小松英雄 argues that the inclusion of the phonetic gloss 上 (generally held to mark a high-flat tone) after the graph kumo indicates that it should not be taken as a separate element but as part of the combination kumono, which is praised as toyo (“luxuriant”). 7 The Nihon shoki lists many alternate names for this deity. The main text of the first section of the Age of Deities chapter has Toyokumunu no mikoto 豊斟渟尊, while the first variant gives Toyokuninushi no mikoto 豊国主尊 followed by the alternate names Toyokumuno no mikoto 豊組野尊, Toyokabuno no mikoto 豊香節野尊, Ukabuno no toyokai no mikoto 浮経野豊買尊, Toyokunino no mikoto 豊国野尊, Toyokūno no mikoto 豊齧野尊, Hakokunino no mikoto 葉木国野尊, and Mino no mikoto 見野尊. 8 The variety indicates that this deity name was not firmly established. 1:Motoori Norinaga, Kojiki den, MNZ 9, p. 144. 2:Kanda and Ōta, Kojiki, vol. 1, p. 174n14. 3:Kurano, Kojiki zenchūshaku, vol. 2, pp. 56–57. 4:Saigō, Kojiki chūshaku, vol. 1, pp. 87–88. 5:Yamaguchi and Kōnoshi, Kojiki, p. 29. 6:Nakamura, Shinpan Kojiki, p. 23. 7:Komatsu, Kokugo shigaku kisoron, pp. 155–60. The gloss has been omitted from the transcription here. On the point of such glosses, see also chapter 1, text note 2. 8:Kojima et al., Nihon shoki, SNKBZ 2, pp. 18–21. (3) Uhijini no kami and Suhichini no kami 宇比地迩神・須比智迩神 Various interpretations of the initial morpheme u of the first deity’s name have been proposed, but the question remains open. Yamada Yoshio 山田孝雄 holds that it indicates “first” or “beginning” (ui 初); Yamaguchi Yoshinori and Kōnoshi Takamitsu see its meaning as uncertain. Both commentaries take the initial su of the second deity’s name to mean “sand.” 9 Commentators are united in interpreting hiji/hichi common to both names as “mud.” Such interpretations are possible if one follows the graphs and glosses given in the main text of the equivalent passage in the Nihon shoki. This transcribes the names as 埿土煑尊 and 沙土煑尊 and glosses them respectively as uhijini and suhijini, indicating that uhiji means “muddy soil” and suhiji “sandy soil.” 10 As seen with Toyokumono no kami, however, it can be problematic to derive the meaning of Kojiki deity names directly from that of the graphs used in the Nihon shoki. At present, all that can be said reliably is that this pair of deity names share the element hiji. As for the morpheme ni 迩, some think this also means “soil.” If, however, hiji is interpreted as “soil” in line with the Nihon shoki graphic transcription, this would result in a duplication of elements meaning “soil.” As far as the Nihon shoki renderings are concerned, the main text gives the alternative names Uhijine no mikoto 埿土根尊 and Suhijine no mikoto 沙土根尊 for these two deities. This suggests that the Nihon shoki compilers understood ni 煑 to be a suffix indicating familiarity or intimacy in the same manner as the suffix ne. The Kojiki adds the phonetic gloss 上to the ni of Uhijini and 去 to the ni of Suhichini (宇比地迩上神次妹須比智迩去神), indicating that the first should have a high-flat tone and the second a low-flat tone. Kōnoshi Takamitsu and Yamaguchi Yoshinori suggest that the Kojiki compilers may have intended these differences in tone to distinguish the first deity as male and the second as female. 11 The graphs of the second deity name 須比智迩 have usually been read su-hi-ji-ni. Nishimiya Kazutami, however, adopts the reading chi for the graph 智. 12 Kōnoshi and Yamaguchi likewise point out that the Imperial Household Library copy of the Heian dictionary Ruiju myōgi shō 類聚名義抄 gives the reading hi-chi-ri-ko 比知利古 for the graph 泥 (“mud”), with all four syllables to be pronounced in a flat tone. 13 We have accordingly adopted the reading su-hi-chi-ni. From these two deities on, the deities of the seven generations appear as male-female pairs. 9:Yamada, Kojiki jōkan kōgi, p. 70; Yamaguchi and Kōnoshi, Kojiki, p. 29. 10:Kojima et al., Nihon shoki, SNKBZ 2, pp. 22–23. 11:Kōnoshi and Yamaguchi, Kojiki chūkai, vol. 2, pp. 45–47. 12:Nishimiya, Kojiki shūteiban, p. 26. 13:Kōnoshi and Yamaguchi, Kojiki chūkai, vol. 2, pp. 47–48. (4)Imo 妹 Opinion divides as to whether the word imo should be taken at face value to mean “sister” or if it should be interpreted as “spouse.” Motoori Norinaga held that in antiquity this word simply indicated the woman when referring in the same context to a man and woman, regardless of whether they were spouses, siblings, or unrelated to each other. 14 Saigō Nobutsuna, on the other hand, argues that while in Man’yōshū poems imo indicates a spouse or lover, the headnotes to the poems use the term to mean “sister.” He holds that imo thus should be understood as “sister” in prose usage and that this convention applies as well to these pairs of deities in the Kojiki.15 Nishimiya Kazutami rejects this interpretation, asserting in a review of Saigō’s commentary that the Man’yōshū usage is not applicable to the Kojiki and seconding Norinaga’s position on this issue. 16 The question whether to consider imo as meaning specifically the sister in an elder brother–younger sister pair or simply a “woman” in relation to a “man” bears on the issue of whether the Izanaki-Izanami myth should be seen as relating the union of two siblings and, by extension, whether the myth of these two deities’ giving birth to the land falls into the category of myths about siblings consolidating the land following a primordial flood. 14:Motoori Norinaga, Kojiki den, MNZ 9, pp. 146–47. 15:Saigō, Kojiki chūshaku, vol. 1, p. 90. 16:Nishimiya, “Saigō Nobutsuna cho ‘Kojiki chūshaku dai ikkan.’” Further comment 1 (5) Tsunogui no kami and Ikugui no kami 角杙神・活杙神 These deity names seem to be apotheoses of stakes (kui 杙), but it is not clear what “stake” signifies in this context. Usually a stake marks a border, and stakes are often set up to indicate possession of a piece of land. Here the intent may be to convey a further stage of development from that represented by the preceding pair of deities Uhijini and Suhichini (see text note 3), but this cannot be said for sure. Kanda Hideo and Ōta Yoshimaro take tsuno 角 (“horn”) to suggest a hard, firm stake. 17 Yamaguchi Yoshinori and Kōnoshi Takamitsu see tsuno as representing the shape of a sprout and iku 活 (“live,” “lively”) as meaning “bursting with vitality.” 18 There may be connotations here of a sprout brimming with life force, but these names should also be considered in relation to the implications of those of the preceding and following deities. 17:Kanda and Ōta, Kojiki, vol. 1, p. 175n17. 18:Yamaguchi and Kōnoshi, Kojiki, p. 30n1. (6) Ōtonoji no kami and Ōtonobe no kami 意冨斗能地神・大斗乃弁神 The morpheme to (represented phonetically in these names by the graph 斗) is thought to mean “place.” Opinions divide, however, as to what this “place” is. Tsugita Uruu 次田潤 interprets it as “the earth” (daichi 大地). 19 Shikida Toshiharu 敷田年治 sees it as “a hall” (tono 殿). 20 Kurano Kenji views it as “a residence” (idokoro 居所). 21 Ogihara Asao 荻原浅男 takes it to be the male and female genitalia. 22 Some hold that the morpheme ji is the same as that in hikoji and indicates “male,” and that be is a variation of me and indicates “female.” Kōnoshi Takamitsu and Yamaguchi Yoshinori posit that be may be a variation of ha rather than me. They argue that me is usually paired with o (“male”), whereas ji is paired with ha (as seen in such pairs as ōji [“grandfather”] and ōba [“grandmother”], and chichi [“father”] and haha [“mother”]). 23 Ultimately, however, such issues are connected to one’s interpretation of the names of the seven generations of the Age of Deities as a whole. There thus are limits as to how much can be said definitively about each deity’s name on its own. 19:Tsugita, Kojiki shinkō, pp. 25–26. 20:Shikida, Kojiki hyōchū, p. 305. 21:Kurano and Takeda, Kojiki, Norito, p. 51nn23, 24. 22:Ogiwara, Kojiki, Jōdai kayō, p. 31n19. 23:Kōnoshi and Yamaguchi, Kojiki chūkai, vol. 2, pp. 48–49. (7) Omodaru no kami 於母陀流神 Motoori Norinaga interprets this deity name in light of the graphs 面足 (“face”; “fullness,” “complete”) used to transcribe it in the corresponding passage of the Nihon shoki and takes it to mean “fully formed.” 24 Nakajima Etsuji 中島悦次 and Tsugita Uruu understand omo as referring to the earth, and omodaru as meaning the fullness or completion of the earth’s surface. 25 Ozaki Nobuo 尾崎暢殃 agrees that although the name, as indicated by the Nihon shoki transcription, means a “fully formed face,” it likely originally referred to the “completion” or “perfection” of the land. 26 Kurano Kenji and Yamaguchi Yoshinori and Kōnoshi Takamitsu, on the other hand, take omodaru to refer to the full formation of the human body. 27 24:Motoori Norinaga, Kojiki den, MNZ 9, pp. 149–50; Kojima et al., Nihon shoki, SNKZ 2, pp. 22–23. 25:Nakajima, Kojiki hyōshaku, p. 29; Tsugita, Kojiki shinkō, p. 26. 26:Ozaki Nobuo, Kojiki zenkō, p. 30. 27:Kurano, Kojiki zenchūshaku, vol. 2, p. 62; Yamaguchi and Kōnoshi, Kojiki, SNKZ 1, p. 30n3. (8) Ayakashikone no kami 阿夜訶志古泥神 Commentators agree that aya is an exclamation and kashiko the stem of an adjective meaning “august” or “awe-inspiring.” They diverge regarding the reason for this emotive expression depending on how they understand the name Omodaru with which Ayakashikone is paired. Kurano Kenji argues that the name Ayakashikone indicates the emergence of human consciousness and that it should be understood as conveying the generation of consciousness following the full formation of the human body. 28 28:Kurano, Kojiki zenchūshaku, vol. 2, p. 62. (9) Izanaki no kami and Izanami no kami 伊耶那岐神・伊耶那美神 Some commentators see these names as deriving from the root izana of the word izanau 誘ふ (“to invite”), while others hold that they come from a combination of the interjection iza (“now”) and the auxiliary particle na. In either case, the names are taken to indicate a male and female deity who beckon one another. (10) “The seven generations of the Age of Deities” (kamuyo nanayo 神世七代) Kamuyo (“age of deities”) stands in contrast to the human age (hito no yo 人の世). Kamuyo appears to be conceived of in the Kojiki as a general age in distinction to the specific age or reign (miyo 御世) of each emperor. The digraph 御世 (“reigns”) occurs in the first book of the Kojiki in the episode of the descent to earth of the Heavenly Grandson, Ninigi. 29 There it appears to indicate the successive reigns of the emperors to come. The phrase “seventeen ages / reigns” (tō amari nanayo 十七世) occurs in the description of the lineage of the deity Ōkuninushi 大国主. 30 Coming as it does in the first book of the Kojiki, which deals with the Age of Deities rather than that of the emperors, the phrase seems incongruous and presents problems in interpretation. 31 The graph yo 代 can be found throughout the Kojiki in the names of deities, persons, and places, or in terms such as minashiro 御名代 (a hereditary occupational group attached to the ruler’s consort or a prince) and tsukue shiro 机代 (objects placed as offerings on a stand). This passage is the only instance where the graph is used in the sense of “generation.” 29:Yamaguchi and Kōnoshi, Kojiki, p. 120. In this passage it is commonly read miyomiyo. 30:Yamaguchi and Kōnoshi, Kojiki, pp. 92–93. 31:See Taniguchi Masahiro, “‘Kojiki’ jōkan, Izumo kei keifu kisai no igi,” pp. 198–203. Further comment 2 (11) “Paired” (tagueru 双) The paired deities contrast with the solitary deities (hitorigami) who hid their bodies (mi o kakusu). Izanaki and Izanami represent the fully realized form of the paired deities with bodies, and in the following passage, they will use their bodies to carry out the command (mikoto mochi 命以) of the heavenly deities to consolidate the land. 32 32:Regarding “solitary deity” and the implications of “hid their bodies,” see chapter 1, text notes 6 and 7.