古事記の最新のテキストを見ることができます。諸分野の学知を集めた注釈・補注解説とともに古事記の世界へ分け入ってみましょう。
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故、天あめ若わか日ひ子こが妻め、下した照でる比売ひめが哭なく声こゑ、風かぜと響ひびきて天あめに到いたりき。 是ここに、天に在ある天若日子が父ちち天あま津つ国くに玉たまの神かみと其その妻め子こ聞きて、 降り来て哭なき悲かなしびき。乃すなはち其そ処こに喪も屋やを作りて、 河かは鳫かりをきさり持ちとし、さぎを掃ははき持ちとし、翠そに鳥どりを御み食け人びととし、雀さざきを碓うす女めとし、雉きぎしを哭なき女めとす。 如か此く行おこなひ定さだめて、日八日夜八夜以もちて遊びき。 此この時に阿あ遅ぢ志し貴き高たか日ひ子こ根ねの神かみ到いたりて、天若日子が喪もを弔とぶらふ時に、 天より降くだり到いたる、天若日子が父また其の妻め、皆みな哭なきて云いひしく、 「我あが子こは、死しなずて有ありけり」「我あが君きみは、死なずて坐いましけり」と云いひて、 手足に取とり懸かかりて哭き悲しびき。 其の過あやまちし所ゆ以ゑは、此の二柱の神の容姿かたち、甚いと能よく相あひ似にたり。 故かれ、是ここを以て過ちき。 是に、阿遅志貴高日子根神、大おほきに怒いかりて曰いひしく、 「我あは愛うるはしき友ともに有あるが故に弔ひ来つらくのみ。 何とかも吾あを穢きたなき死しに人ひとに比なそふる」と云ひて、 御み佩はかしせる十と掬つか釼つるぎを抜きて、 其その喪も屋やを切きり伏ふせ、足を以もちて蹶くゑ離はなち遣やりき。 此こは美み濃のの国くにの藍あゐ見みの河かはの河かは上かみに在ある、喪も山やまぞ。 其の、持ちて切きれる大た刀ちの名なは大おほ量はかりと謂ひ、亦またの名は神かむ度どの釼つるぎと謂ふ。 故、阿治志貴高日子根神は、忿いかりて飛とび去さりし時に、 其の伊い呂ろ妹も高たか比ひ売めの命みこと、其の御み名なを顕あらはさむと思おもひき。 故、歌うたひて曰いひしく、 天あめなるや おとたなばたの うながせる 玉たまの御み総すまる 御総に あな玉だまはや み谷たに 二ふた渡わたらす 阿あ治ぢ志し貴き高たか日ひ子こ根ねの神かみそ 此の歌は夷ひな振ぶりそ。
○喪屋 西郷注釈に「モヤは屍を納めて葬儀を行なう所、殯宮に同じ」、思想に「死体を仮りに安置して葬式を行なう小屋」とする。『日本書紀』では天稚彦の天上の父・妻が、「疾風を遣し、尸を挙げて天に致さしめ」(九段正文)「天より降来て、柩を将ち上去きて」(九段一書一)天上界に喪屋を作り、葬儀を行うことになっている。また正文に「喪屋を造りて殯す」、一書一に「喪屋を作り殯し哭く」とみえる。いずれにも「喪を弔ふ」「喪を弔ひ」とあるので、「殯」と「喪」とは区別されていない。 ○河鳫をきさり持ちとし、を掃持ちとし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とす。 『日本書紀』九段正文には次のように記されている。 「即ち川雁を以ちて持傾頭者きさりもちと持帚者ははきもちとし、一に云はく、鶏かけを以ちて持傾頭者とし、川雁を以ちて持帚者とすといふ。又、雀を以ちて舂つき女めとす。一に云はく、乃ち川雁を以ちて持傾頭者とし、亦持帚者とし、鴗そにを以ちて尸者ものまさとし、雀を以ちて舂つき者めとし、鷦鷯さざきを以ちて哭者なきめとし、鵄とびを以ちて造綿者わたつくりとし、烏を以ちて宍人者ししひととし、凡て衆の鳥を以ちて任事ことよさすといふ。」 「河鳫」は、川に居る雁かと言われるが、不明。「きさり持ち」は、『日本書紀』に「持傾頭者」とあり、『釈日本紀』引用の私記説に「師説、葬送之時、戴死者食、片行之人也」とあるのを参考に、西郷注釈は「死者の食を捧げ持ち頭を傾けて行くもののことらしい」とする。しかし喪屋を前にしての「遊」とは直結しない。「掃持ち」は諸注に喪屋を掃く箒を持つ役で、鷺の頭に長い冠毛があることによる連想とされる。翠鳥はかわせみで「御食人」は死者のための調理人。「碓女」は米を舂く女の意で、スズメとの音の連想によるとする見方もあるが、補注解説にある通りこの注釈では「雀」はサザキと訓んでいるので、スズメ・ウスメの連想説は採らない【補注解説三】参照。 『日本書紀』には「雀」を「舂女」とするところから見ても、音による連想ではなさそうである。西郷注釈は、「雀が尻尾を立てたり地につけたりする様子から、かくいったのだろう」とする。「哭女」は葬送儀礼において哭く役割を持つ女の意。先に高天原から遣わされた雉は「鳴女」であったが、雉はその鳴き声が特徴的であったことから選ばれたのであろう。『日本書紀』の一云には「鷦鷯を以ちて哭者とし」とあり、新編全集『日本書紀』頭注では「みそさざいが美声でさえずることから」としている。その他『日本書紀』に見える役割には「尸者」「造綿者」「宍人者」がある。「造綿者」「宍人者」はそれぞれ死者の衣装や食事に関わる役だと見られるが、具体的には良くわからない。「尸者」については、大系『日本書紀』の頭注に「祖先を祭るとき、神霊の代りに立って祭りを受ける者」とある。 松本信広は、「天の鳥船」が南洋に広く見られる鳥船信仰に関連しているとし(『日本の神話』至文堂、一九五六年四月)、大林太良も松本説を踏まえた上で、ここに鳥による葬儀が描かれるのは「天の鳥船」の観念の反映であり、「地上において非業の死をとげた若い太陽神、天若日子の魂を天界につれもどし、慰めるためであったろう」と説いている(『葬送の起源』角川書店、一九七七年八月)。 ○遊び 「遊ぶ」には複数の意味が見られる。『時代別国語大辞典』「遊ぶ」の項には、語義として、「①遊楽する。くつろぎたのしむ。②ある範囲内をゆったりとあちこちする。③猟をする。遊猟する。④音楽を奏する。宗教的・神事的なものを含む。」と説明し、【考】において「アソブの本義は、遊楽や遊宴ではなくて、すべて祭祀・葬礼などの神事に端を発し、それに伴う芸能としての音楽・舞踏や、巫女より起った遊行女婦との交通など、さまざまなものを包含するものであった、といわれている」と記している。例えば『常陸国風土記』行方郡に、「杵を鳴らし曲を唱ひ、七日七夜、遊び楽しみ歌ひ舞ふ」とあるが、これは荒ぶる賊をおびき寄せるために味方の将の葬儀を装った場面と見られるものであり、『古事記』の当該場面の「遊び」と共通する例と見られる。律令「葬送令」に「遊部」の名が見え、『令集解』にはその出自に関する伝説的内容が見られる。 ○阿遅志貴高日子根神・阿治志貴高日子根神 大国主神の系譜条には阿遅鉏高日子根神とあったが、この場面では阿遅志貴高日子根神となっている。単なる音韻変化などではなく、神名の意義自体が異なっている可能性がある。この点については、【補注解説四】で触れる。なお、注釈(三十三)「大国主神の系譜」の語釈でも若干この点に触れている。また、神名表記で言えば、歌の中では「阿治志貴多迦比古泥」と記され、歌の直前の表記も「阿治志貴高日子根神」となっていて「治」の表記が一致している。居駒永幸は歌の表記を散文部でも用いたものであり、歌に関わる場面とそれ以前の場面とでは話題が転換していると説いている(「出雲・日向神話の歌と散文―歌の叙事による表現世界とその注釈―」『明治大学人文科学研究所紀要』七八、二〇一六年三月)。歌が「夷振」という歌曲名を伴っていることとも併せて、元資料のあり方を考えさせる問題である。 ○容姿、甚能く相似たり 天若日子と阿遅志貴高日子根神とが瓜二つであったということから、この神話を神の死と再生の神話とみる見方がある。土居光知はこの神話の母胎を農耕祭儀(年毎に死んで復活する穀神の祭り)に求め、ある種の歌謡劇が元になっていることを想定する(『古代伝説と文学』岩波書店、一九六〇年七月)。松前健は、農神・水神・雷神として弥生時代後期から崇拝されていた味耜神の信仰から、祭祀における歌謡劇へ、そして記紀の神話へと繋がる道筋を論じている(「天若日子神話考」『日本神話と古代生活』有精堂、一九七〇年一二月)。また吉井巌は、天若日子伝承について、「若日子なる初々しい存在が聖なる弓矢をたずさえて出現し、巫女的女性に迎えられて変身し、阿遅志貴高日子根神として我々の前に登場する、この阿遅志貴高日子根神出現の物語であった」と捉えている(「天若日子の伝承について」『天皇の系譜と神話』二、塙書房、一九七六年六月)。 ○喪山 『古事記』では「此は美濃国の藍見河の河上に在る喪山ぞ」、『日本書紀』正文に「今し美濃国の藍見川の上に在る喪山、是なり」、一書一に「此則ち美濃国の喪山、是なり」とする。葦原中国平定神話が始まってからここまでの間には具体的な地名は記されてこなかった。出雲を舞台とするとみられる神話の中で突然美濃国の地名が記載されることには何かしらの意図があると見られる。その場合、『古事記』では地上の何処からか阿遅志貴高日子根神によって蹴り離たれた喪山が飛んでいった先であるのに対し、『日本書紀』では天上界から落とされた先が美濃国であったという相違があり、注意される。【補注解説四】参照。 ○大量・神度剣 オホハカリのハカリは「刃+刈り」とみられる。『日本書紀』正文に「大葉刈」とあり、訓注に「刈、此には我里と云ふ」と記す。『時代別国語大辞典』に「大は美称、ハはおそらく刃であろう。カリはツムガリノタチのカリと同じく、刈ると同源の語である」とする。亦名の「神度剣」は、「度字以音」と音注があるのでカムドノツルギと訓む。ドは諸注にトシ(鋭し)の語幹の濁音化したものとする。『日本書紀』正文に「神戸剣」。大系『日本書紀』頭注に、「出雲風土記の神門郡から出る剣の意か。或いは、神度剣は、大葉刈の例から推せば、カムハカリノツルギと訓むべきではないか。度はハカルと訓む。それを書写して伝承するうちに、誤読してカムドノツルギとしたものであるかもしれない。或いはカムは称辞、ドは鋭(ト)の意かもしれない」というように複数の可能性を述べている。 ○伊呂妹高比売命 大国主神と多紀理毗売命との子。阿遅志貴高日子根神の同母妹。高比売命の亦名は前出の下照比売(系譜条では「下光比売命」)。天若日子の妻としては下照比売の名が使われるのに対し、阿遅志貴高日子根神の妹としては高比売の名が使われている。『日本書紀』九段正文では天若日子が地上で娶る女神の名として「顕国玉の女子下照姫」が見え、亦名として「高姫」「稚国玉」が記されているが、後文で亦名は使われていない。また味耜高彦根神と下照姫との関係も特に触れられていない。九段一書一では、「或云」として、味耜高彦根神の名を知らせる歌を詠む者を「妹下照媛」とするが、この女神は天若日子の妻とは明記されていないなど、天若日子・アジスキ(シキ)タカヒコ・下照ヒメ(タカヒメ)三者の関係は一定していない。 ○天なるや おとたなばたの 天上界の若い機織りの乙女。「たなばた」は七夕伝説と関わり、『万葉集』巻一〇秋雑歌の七夕歌にも多く見られる。天の石屋神話には服織女が登場していたが、ここで天界の「たなばた」が詠まれる理由はよく分からない。なお次項参照。また、この歌の受容と展開については、【補注解説五】を参照願いたい。 ○あな玉はや 「あな玉」は、赤玉説(記伝・西郷注釈など)、管玉説(古代歌謡全註釈)などがあるが、中村啓信説に従って、「足玉」説を採る(「あなだま考―『記』『紀』と『萬葉集』の玉をめぐって―」『古事記の本性』おうふう、二〇〇〇年一月、初出は一九九一年七月)。「はや」は詠嘆の助詞で「既にないもの・まさになくなろうとするものへの哀惜」(『時代別国語大辞典』)を表すとされるが、この「あな玉はや」は飛び行く阿遅志貴高日子根神の姿を喩えるもので、賛嘆の意でとることができる。しかし、天に居る弟棚機が身につけている玉を阿遅志貴高日子根神の姿に喩える意味はいま一つ不明瞭である。天の石屋神話には天の服織女の死が描かれており、その後には天上の神々による「楽」が行われていた。ここでは地上における喪が行われ、鳥による「遊」が行われている。ここに弟棚機が歌われ、その身につけていた玉が阿遅志貴高日子根神に喩えられているのは、天上界の「楽」と地上界の「遊」とを対応させる意図があったのかも知れない。だとするならば、「はや」と歌われる弟棚機の玉は哀惜の対象であり、それを喩えとすることで飛び去っていく阿遅志貴高日子根神をも哀惜の対象としているのかも知れない。 ○夷振 歌曲名。『日本書紀』九段一書一に「夷曲」。『古事記』の中では他に、「夷振之上歌」「夷振之片下」(允恭記)が見える。また、『上宮聖徳太子傳補闕記』に「此歌以夷振歌之」、『聖徳太子傳暦』に「是夷振歌也」と見える。 【補注解説六】 【補注解説七】参照。
『古事記伝』以下の諸テキストが『古事記』上巻・天若日子葬送記事における「雀為碓女」の「雀」字を「スズメ」と訓むなかで、神田秀夫・太田善麿校注の朝日古典全書『古事記』(以下、全書)と神田秀夫校注『新注古事記』のみが「サザキ」と訓み、全書は「みそさざい。ここの「雀」は一般にスズメと訓まれてゐるが、古事記ではオホサザキ(仁徳天皇の諱)に「大雀」とあててをり、外に「雀」をスズメと訓ませた例を見ない。」と指摘する。 『古事記』中に「雀」字は全例二十四例あり(序を除く)、仁徳天皇を指す「大雀」の例が十四例、武烈天皇を指す小長谷若雀命が三例、崇峻天皇を指す長谷部若雀命が三例、雀部臣が二例、雀部造が一例、そして当該条の「雀」が一例である。 大雀の名は応神天皇の発話「佐耶岐、阿芸之言、如我所思」や、吉野の国主らの歌「本牟多能 比能美古。意富佐耶岐 意富佐耶岐」(応神記・記四七)のなかに一字一音の表記が確認でき、少なくとも大雀の名において「雀」字を「サザキ」と訓んだことは揺るがない(1)。 武烈・崇峻両天皇の名に用いられる「若雀」についても、同じく「サザキ」と訓むべく想定されていたと考えてよいだろう。雀部もまた「サザキベ」と訓むものであるから、全書の指摘はもっともと言える。それを踏まえつつ、スズメ説の嚆矢である本居宣長の『古事記伝』を確認しておきたい。
注釈書の類では、この「喪山」が具体的にどこを指しているのかの説明に終始しており、何故この地が選ばれ、描かれているのかについては殆ど言及が無い。実在の土地に何らかの伝承的な背景があったが故に、それが神話の記述の中にあらわれたのみ、ということもあるかも知れないが、神話の中の地名が記される場合にはやはり何かしらの意図が込められていると考えることが出来るであろうし、或いは地名を記載したことによってそこに意味が生じるということもあり得る。 西郷信綱は以下のように述べている(『古事記注釈』)。
記六および紀二の「天なるや弟たなばたの」歌謡は、「八雲立つ」(記一・紀一)のような短歌形式の歌ではないにもかかわらず、後代の和歌史言説においては相応に尊重されてきたと言える。その理由は明瞭で、「一書」中の歌であるとはいえ、『日本書紀』においては素戔嗚尊の「八雲立つ」に次いで二番目に登場する「歌」だからであろう。 まず、序跋に宝亀三年(七七二)の成立と記される『歌経標式』の序文には「龍女、海に帰り、天孫、婦に恋ふる歌を贈ることあり。味耜、天に昇り、会へる者、威を称ふる詠を作ることあり。並に雅妙の音韻を尽す始なり」とあり、紀二・三番歌と紀五・六番歌とを双璧として和歌の起源に位置付けている。「龍女」「味耜」「会者」の表記を見れば、『歌経標式』序文の記述が『古事記』ではなく『日本書紀』に基づいていることは明らかである。 『歌経標式』は、序文のみならず本文中においても当該歌謡に言及している。「歌体」の一に「長歌」を挙げ、その例歌として当該の「天なるや」の歌を掲げているのである。ただしその詞章は、
天若日子葬儀の場面を締め括る高比賣命の歌(記六)には、歌謡詞章の直後に「此の歌は夷振なり」という注記が附される。このような歌謡に対する左注型の注記は、歌を直接指示していない「此を神語と謂ふ」の一例を別にすると、『古事記』には十八箇所見られる。さらにそこから「是の四歌は皆、其の御葬に歌ひき」(記三四~三七)の一例を除けば、残る十七例はすべて歌謡の名称あるいは種類を示す注記となっている。賀古明「古代歌曲名考」(『琴歌譜新論』風間書房・昭60)や斎藤英喜「『古事記』―歌曲名からの視点」(古事記研究大系9『古事記の歌』高科書店・平6)に倣って、これを「歌曲名」と呼んでおく。 その歌曲名の内訳を見てみると、当該の「夷振」(記六)の他にも「夷振の上歌」(七九・八〇)と「夷振の片下」(八六)があり、 「夷振」という歌曲名に広がりがあることがわかる。さらに「宮人振」(八二)と「天田振」(八三~八五)があって、「〇〇振」という歌曲名は五例見られる。うち三例は「夷振」として一括できるので、実質は三種類となる。また、「思国歌」(三〇・三一)「片歌」(三二)「酒楽の歌」(三九・四〇)「志都歌」(九二~九六、一〇四)「志都歌の歌返」(五七~六三、七四)「本岐歌の片歌」(七三)「志良宜歌」(七八)「読歌」(八九・九〇)「天語歌」(一〇〇~一〇二)「宇岐歌」(一〇三)のような「〇〇歌」という歌曲名もあり、こちらは十二箇所十種類見られる。このうち記三二の「片歌」については、「本岐歌の片歌」という呼称例から推すと、三〇・三一の「思国歌」に附属する「思国歌の片歌」であったと想定できる。逆に記七三が「本岐歌の片歌」と呼称されていることから推せば、歌曲名注記のない七一・七二が「本岐歌」の本体であったと見るのが自然である。神野志隆光「『片歌』をめぐって」(『萬葉』106号、昭56・3)はこうした推測の仕方には批判的だが、「片歌」が歌群末尾に位置する「歌いおさめ」の形式であることは認めており、それが音楽的に形成された様式であるとも論じている。いずれにせよ「〇〇歌の片歌」という形式の呼称が存在するからには、「片歌」は「〇〇振の片下」や「〇〇歌の歌返」と同じく歌曲名の下位分類とか細目と言うべきものであって、独立した歌曲名ではないと見るべきであろう。そう考えると「〇〇歌」の実数は八種類ということになり、「〇〇振」の三種を合わせて、合計十一種類が『古事記』に記載された歌曲名となる。 歌曲名には「〇〇歌」と「〇〇振」の二種類があったことがわかるが、この二分類は『琴歌譜』の歌曲名とも一致している。「振」という語については、本居宣長『古事記伝』が「人にまれ、物にまれ、動く貌を云て、歌にては、奏ふ音声の長短巨細低昂などの貌なり」と注しており、身体的動作や音楽的な調子の意であることを指摘している。舞楽や舞踊では「舞の振り」とか「振り事」「振り付け」「振り上げ」などといった用語もあり、また能楽や浄瑠璃では「声を振る」という唱法・発声法もあって、「振り」は所作や声調についての技術用語として音楽芸能の分野では広く用いられてきた語でもある。 「ふり」と「うた」の違いについては、折口信夫「万葉集講義(飛鳥藤原朝)」(『短歌講座 第五巻 撰集講義篇』改造社・昭7)が、「ふり」には「魂を体にくつつけるうた」「魂触りの歌」という意味があり、「訴ふ」を原義とする「うた」には「自分の魂を捧げる」歌という意味があったと説いている。しかしその原義は時代の推移とともに忘却され、記紀に載る「うた」と「ふり」にはもはや本質的な相違はなくなっていると言い、「宮廷に長く伝へられたものがうたと称せられ、民間から奉られるものは、総てふりと称せられ」て、「うたは宮廷詩に、ふりは民謡」に分類されるようになったと述べる。そして平安時代以後になると「うた」も「ふり」も「歌」に一括されるようになると論じている。この理解に従うなら記紀における「〇〇振」歌謡は、土着的な民間歌謡だと認識されていたということになる。 『日本書紀』においては、「夷振」が「夷曲」と書かれている。これも「ひなぶり」と訓むのだとすれば、『日本書紀』は「ふり」を「曲」字で表記したことになるが、この点について曹咏梅「上代日本における『ふり』と『曲』」(『歌垣と東アジアの古代歌謡』笠間書院・平23)は、「曲」表記が「中国の楽府の用語を用いたもの」だと指摘している。 つまり「曲」字の表す概念が倭語「ふり」の概念と一致しているわけではないが、宮廷歌謡の曲名という意識からこのような表記が選択されたということになる。ただし「〇〇曲」という表記は、『続日本紀』など他の文献にも多少は用例を見ることができるものの、『日本書紀』には「夷曲」のただ一例しか見ることができない。その一方で、宮中の大歌所伝来である『琴歌譜』の歌曲名は「〇〇振」または「〇〇扶理」と表記されており、「曲」という歌曲名表記は全く見られない。「〇〇曲」が中国楽府に倣った格調ある用字であるにしても、それは史官が選好した中国風の表記であって、雅楽寮・大歌所において管理された歌曲名の正式な表記には採用されなかった。歌曲名表記の正統性ということで言えば、『日本書紀』の「夷曲」よりも『古事記』や『上宮聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝暦』に見られる「夷振」表記の方に、より正統性があったということになろう。倭語の語形を保つ表音表記を選ぶことは、「ふり」および「大歌」が外来楽に対置される土着の楽であり、古風な楽であったことを意識したものであろう。楽家の意識と史官の意識は異なっているということである。 『古事記』よりもやや多い数の歌謡を掲載しているにもかかわらず、『日本書紀』の歌曲名注記は極端に少ない。「夷曲」(紀二・三)「挙歌」(五・六)「来目歌」(七~十四)「思邦歌」(二一~二三)のわずか四例しか見出すことができない。このうち「挙歌」は「夷振の上歌」の「上歌」と同じものであろうから、独立した歌曲名ではないと見れば、実数は三種しかないことになる。『古事記』の十七箇所十一種が特に多いとは言えないとしても、『日本書紀』の四箇所三種というのは明らかに少ないと言える。『日本書紀』は、『古事記』よりも歌曲名の記載に消極的であると見てよいだろう。 そのため斎藤氏前掲論は、『古事記』の歌曲名記載に積極性を認めようとする。そしてその記載に楽家としての多氏の「実践的な行為」が表れていると言う。また神野志氏前掲論は、『日本書紀』の論理は歌詞重視の論理であり、「音楽性を捨象したところにある」論理だと述べる。つまり『古事記』は音楽性を尊重しているということになり、斎藤氏前掲論にかなり近い見方が示されている。さらに賀古氏前掲論は、編纂の主旨から『日本書紀』は歌曲名を不要と判断し、その大部分を「削除した」のだと論じている。これらの指摘からは、歌曲名記載の比重の違いが記紀両書の編纂方針の違いを反映していることが窺える。 しかし、歌曲名の管理が雅楽寮の所管事項であったとすれば、『古事記』よりも律令制的志向を持った書物に見える『日本書紀』が、律令官制機構における認識の枠組みや情報を重用しないというのはいささか不思議なことにも思える。この疑問については、歴史記述の根拠を記述の「外部」の事象や「現在」の事象に求めることに『古事記』がかなり積極的であるのに対し、『日本書紀』はやや消極的であるという編纂方針の違いの表れとして理解することができるだろう。その方針の違いこそが、「振」と「曲」の表記意識の違いにも反映しているわけである。漢籍を志向して「曲」字を選んだ『日本書紀』は、文字の外部にある現実に存在する「音楽性」を、確かに「捨象」しているということになる。つまり歌曲名こそが「音楽性」を顕示する指標なのである。 また『古事記』には、軽太子説話や女鳥王説話に顕著なように、極端なまでに歌に比重を置いた記述を行うという面もある。収録歌数だけを見れば記紀の間にさほどの違いはないようにも見えるが、歴史記述の中で歌謡をどう扱うかという考え方にはかなりの懸隔があるのではないだろうか。記紀の歌曲名記載に粗密があることも、歌謡をめぐる両書の方針の違い、すなわち歴史書編纂の方針の違いを反映したものとして理解すべきであろう。 さらに、『古事記』の歌曲名注記にも明らかな偏在が認められることが注意される。歌曲名注記十七箇所のうち、允恭記の軽太子説話中には歌曲名が八箇所も注記されており、雄略記にも歌曲名が四箇所に見られ、明らかに集中が見られる。また神代記は歌謡そのものが少ないということもあるが、歌曲名は当該の「夷振」一例だけしかない。つまり『古事記』はすべての歌謡に対して一律に歌曲名注記を附しているわけではないということがわかる。『古事記』の歌曲名注記には粗密があり、特定の説話記事に歌曲名注記が集中するという傾向が認められる。この歌曲名の偏在という現象には、おそらく古代宮廷歌謡の伝来形態や伝承意識、原資料の性格が影響しているのであろう。歌うための楽譜としてあるはずの『琴歌譜』にも記紀などを資料とする説話記事(「縁記」)がわざわざ併記されていることを考えても、宮廷歌謡と歴史伝承との結びつきが強固なものとしてあったことが窺える。歴史記述の中においても物語的な叙述の存在には明らかな偏りがあり、また歌謡の引用記載にも明らかな偏りがある。この偏りは原資料・原伝承の段階においてすでに生じたものであり、その存在形態に規制されているのであろう。 『琴歌譜』は記紀成書以後に成立した書物ではあるが、古代宮廷歌謡の存在形態を窺うことのできる一等資料である。『琴歌譜』には二十一首の歌が掲載され、十九種の歌曲名が記される。順に挙げれば「しづ歌」「歌返」「片降」「高橋振」「短埴安振」「伊勢神歌」「天人振」「継根振」「庭立振」「あふして振」「山口振」「大直備歌」「慶歌」「盞歌」「片降」「長埴安振」「あゆだ振」「酒坐歌」「しらげ歌」となるが、このうち「歌返」「片降」は独立した歌曲名ではないので、実質は十六種となる。「歌返」「片降」の語が『古事記』と共通するのも注目されるが、「しづ歌」「うき歌」「しらげ歌」といった歌曲名が一致するのも、『古事記』の記述が音楽的に正統なものであることを窺わせる。『琴歌譜』の歌曲名十六種のうち、「〇〇振」が九種、「〇〇歌」が七種となっていて、「歌」の方が多い記紀の歌曲名記載とは傾向が異なり、どちらかと言えば「〇〇振」の方が主流を占めている。これは「ふり」の古態性が大歌の古態性に合致しているからであろう。 また『古今和歌集』巻二十の「大歌所御歌」には、「おほなほびの歌」「近江ぶり」「みづぐきぶり」「しはつ山ぶり」の四例が見られ、こちらも「歌」よりも「振」の方が主流となっている。大歌所に伝来し教習された「大歌」には、「〇〇振」という歌曲名のものが多くあったことがわかる。ここからは、「ふり」は「うた」に対して、より音楽的側面を強調した呼称であったということは言えそうである。 他文献との比較から言えば、『古事記』に記載される歌謡および歌曲名は、基本的に大歌所に保管されてきたものに基づいていると見て大過なさそうである。すでに斎藤氏前掲論が示唆していたように、『琴歌譜』が「大歌師多安樹」が伝来した資料を転写したものであることと、『古事記』の撰者太安万侶が多安樹の祖先に当たることとが、全く無縁であるとは考えにくい。『琴歌譜』の「縁記」には『日本書紀』だけではなく『古事記』も引用されていることが注目されるが、敢えて『古事記』を提示することにも多氏としての氏族意識が作用しているのだろう。景行記・允恭記・雄略記などに集中的に見られる『古事記』の歌謡重視の姿勢と、その詞章の入手経路を考えたときに、多氏が楽家であるという事実はやはり重い意味を持ってくるのではないか。この点については、すでに山上伊豆母『古代祭祀 伝承の研究』(雄山閣・昭48)『日本藝能の起源』(大和書房・昭52)が重視するところでもあった。 『古事記』においては、全く異なる詞章に対して「夷振」とか「志都歌」といった同一の歌曲名を注記している。このことからは、これらの呼称が詞章に対するものではなく、曲節に対するものであったことが推測できる。そのことは、『上宮聖徳太子伝補闕記』に見られる歌謡注記の「此の歌は夷振を以て歌ふ」という言い方からも補強されよう。「夷振」には「夷振の上歌」「夷振の片下」という歌曲名もあり、『琴歌譜』に「しづ歌の片降」や「盞歌の片降」という類似の呼称があることを考え併せてみても、「上げ」や「下ろし」が音階に関わる指示であることは充分に推測可能である。こうした音楽面を重視した呼称のありかたからすれば、『古事記』に記載される歌曲名は、それぞれの曲節の違いや特色を表す呼称と考えてよさそうである。そのことは、楽譜である『琴歌譜』の歌曲名との一致や類似という点からも確認できる。 従って、歌曲名を記載するという記述行為は、歌謡を作中人物による一回的な創作歌の範疇に留め置くことを潔しとせず、『古事記』の外部に存立の根拠や正統性があることを示唆し、文字の外部である音声や音楽に還元可能なものであることまでも示してしまうという機能を担うことになる。「故、今に至るまで其の歌は天皇の大御葬に歌ふなり」という注記が大御葬歌の正統性に根拠を与えているように、その歌謡が現在も歌われ、歌い継がれているということが、歴史記述の正統性の根拠とされているわけである。『日本書紀』がそうしたように、歌曲名注記を省略したとしても本文の趣旨に影響はない。むしろ歌曲名そのものは説話展開には直接関係しないものであり、夾雑物と言ってもよいものである。にもかかわらず歌曲名を敢えて記述することは、『古事記』の記述の外部にある「現実」に歴史記述の根拠があることを示唆する意識的な方法であったと見るべきであろう。 文字の外部に音声としての伝承歌謡が存在することを示唆し、その音声に記述の正統性の根拠を求めるという方法は、『古事記』における仮名書き語句の挿入という方法とも通底しており、音声=伝承の存在を重視する序文の主張とも一致していると言える。 〔土佐秀里 日本上代文学〕
『古事記』六番歌「天なるや」の類同歌は『日本書紀』にも見える(紀二番歌)のだが、しかしそれは正伝中には記載されることなく、第九段の第一の「一書」中に引かれるに留まっている。改めて『日本書紀』神代巻の歌謡を見てみると、一番歌は本文にはなく、細注に「或云」として記されるのみであり、二・三番歌は第九段の一書第一、四番歌は第九段の一書第六、五・六番歌は第十段の一書第三にあって、すべて異伝中にのみ記載されていることがわかる。つまり神代紀には正伝中に記載された歌謡が一首も存在していないのである。少なくとも神代巻については、『日本書紀』は歌謡を重視しない方針が貫かれているように見える。全体としては『日本書紀』の収録歌数は『古事記』とほぼ変わらず、また『古事記』に記述のない七世紀代の記事に「童謡」が数多く見られるなど独自の傾向もあり、『日本書紀』が歌謡を軽視しているとまでは言えない。しかし、歌曲名の記載が極端に少ないことを見ても、「歌」に対する認識やその資料的な扱いについて、記紀両書間に考え方の違いがあることは確かであろう。 当該の「夷振」歌謡の記載についても、『古事記』と『日本書紀』の記述にはさまざまな違いが見られる。『日本書紀』第九段一書第一における当該歌謡引用の記事は、アメワカヒコの葬儀という場面と、その弔問に訪れたアヂスキタカヒコネが激昂して去るという展開は『古事記』とほぼ同一なのだが、『古事記』には見えない歌がもう一首附け加わっているという違いがある。そして二首をあわせて「夷曲」であるとの注記がある。また紀二番歌は記六番歌の詞章とは小異があり、「みすまる」の繰り返しがなく、末尾の「の神ぞ」もない。
故、天若日子之妻、下照比賣之哭聲、与レ風響到レ天。 於レ是、在レ天々若日子之父天津國玉神及其妻子聞而、 降来哭悲。乃於二其處一作二喪屋一而、 河①鳫為二岐佐理持一 [自岐下三字以音]、為二掃持一、翠鳥②為二御食人一、雀為二碓女一、雉為二哭女一、 如レ此行定而、日八日夜八夜以、遊也。 此時、阿遅志貴髙日子根神[自阿下四字以音]到而、弔③二天若日子之喪一時、 自レ天降到、天若日子之父、亦其妻、皆哭云、 「我子者、不レ死有祁理。[此二字以音下效此]「我君者、不レ死坐祁④理」云、 取二懸手足一而哭悲也。 其過所以者、此二柱神之容姿、甚能相似。 故、是以過也。 於レ是、阿遅志貴髙日子根神、大怒曰、 「我者有二愛友一故弔⑤来耳。 何吾比二穢死人一」云而、 抜下所二御佩一之十掬釼上、 切二伏其喪屋一、以レ足蹶離遣。 此者在二美濃國藍見河之河上一、喪山之者也。 其、持所レ切大刀名、謂二大⑥量一、亦名謂二神度釼一。[度字以音] 故、阿⑦治志貴髙日子根神者、忿而飛去之時、 其伊呂妹髙比賣命、思レ顕二其御名一。 故、歌曰、 阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美湏麻流 美湏麻⑧流迩 阿那陁麻波夜 美多迩 布多和多良湏 阿治志貴多迦比古泥能迦微曽也 此歌者、夷振也。 【校異】 ①真「阿」。道祥本以下の諸本に従って「河」に改める。 ②真「馬」。道祥本・春瑜本も「馬」だが、兼永本以下卜部系の諸本に従って「鳥」に改める。 ③真「即」。道祥本・春瑜本も「即」。兼永本以下卜部系諸本は「弔」の異体字とみられる字の右に「トフラヒ玉フ」との訓を記す。ここでは兼永本以下に従って「弔」に改める。 ④真「礼」。道祥本・春瑜本も「礼」だが、兼永本以下卜部系諸本に従って「祁」に改める。 ⑤真「予」。道祥本も「予」だが、春瑜本は「弔」に近い字体になっている。兼永本以下は③と同じく「弔」の異体字とみられる字の右に「トフラヒ」の訓が記されている。兼永本以下に従って「弔」に改める。 ⑥真「犬」。道祥本以下の諸本に従って「大」に改める。 ⑦真「河」。道祥本以下の諸本に従って「阿」に改める。 ⑧ 真ナシ。以下諸本もナシ。延佳本・記伝をはじめとして諸テキスト類も「麻」を補う。直前の「美須麻流」の語を繰り返している箇所なので、「麻」を補う。「ミスマル」は天照大御神と須佐之男命のウケヒの場面に「五百津之美須麻流珠」とあり、『日本書紀』の当該箇所にも「多磨廼弥素磨屢廼」とみえる。
そうして、天若日子の妻である下照比売の哭く声は風に乗って響き渡り、天界にまで届いた。 天界に居た天若日子の父天津国玉神と、天若日子の妻子とがその哭き声を聞いて、 地上に降ってきて哭き悲しんだ。それで、喪屋を作って、 河雁をきさり持ちとし、鷺を箒持ちとし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とした。 このように役割を定めて、昼は八日、夜は八夜、遊びをした。 この時に、阿遅志貴高日子根神がやって来て、天若日子の喪を弔った時に、 天界から降って来た天若日子の父と、天若日子の妻とが、いずれも哭きながら言ったことには、 「我が子は、死なずに生きていた」「我が夫は死なずにいらっしゃった」と言って、 阿遅志貴高日子根神の手足に縋りついて泣き悲しんだ。 そのように誤った理由は、この二柱の神の容姿が非常に良く似ていたからであった。 それでこのように誤ったのだ。 それで阿遅志貴高日子根神はたいそう怒って言ったことには、 「私は(天若日子の)親しい友であったが故に弔いに来たのだ。 どうして私を穢らわしい死人に擬えるのか」と言って、 お佩きになっていた十掬剣を抜いて、 其の喪屋を切り伏せ、足でもって蹴って飛ばしてしまった。 これが、美濃国の藍見河の河上にある喪山である。 其の、手に持って切った大刀の名は、大量と云い、亦の名は神度剣と云う。 それで、阿治志貴高日子根神は、怒って飛び去った時に、 その同母妹の高比売命が、そのお名前を顕そうと思った。 それで、歌って言ったことには、 天上の若い機織女が、首に掛けていらっしゃる、 玉を緒で抜き通したもの、その連なった玉飾りよ、足玉よ、ああ。 その玉のように、二つの谷に渡っている、阿治志貴高日子根神よ。 この歌は夷振である。