古事記の最新のテキストを見ることができます。諸分野の学知を集めた注釈・補注解説とともに古事記の世界へ分け入ってみましょう。
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是ここに、天照大御神あまてらすおほみかみ詔のらししく、「亦また、曷いづれの神かみを遣つかはさば吉よけむ」とのらしき。 尒しかくして、思金神おもひかねのかみと諸もろもろの神かみ白まをししく 「天安河あめのやすのかはの河上かはかみの天石屋あめのいはやに坐います、名は伊都之尾羽張神いつのをははりのかみ、是これ遣はすべし。 若もし亦また、此この神かみに非あらずは、其の神の子、建御雷之男神たけみかづちのをのかみ、此これ遣はすべし。 また其の天尾羽張神あめのをははりのかみは、逆さかしまに天安河の水みづを塞せき上げて、道を塞さへ居をり。 故かれ、他ほかしき神かみは行ゆくこと得じ」とまをしき。故、別ことに天迦久神あめのかくのかみを問ひに遣はすべし。 故尒くして、天迦久神を使はして天尾羽張神を問ひし時に、答へ白ししく 「恐かしこし、仕つかへ奉まつらむ。然しかあれども、此の道には僕やつかれが子建御雷神を遣はすべし」とまをして、 乃すなはち貢進たてまつりき。 尒くして、天鳥舩神あめのとりふねのかみを建御雷神に副そへて遣はしき。 是ここを以もちて、此の二ふたはしらの神、出雲国いづものくにの伊耶佐いざさの小濱をはまに降くだり到いたりて、 十掬釼とつかつるぎを抜きて逆しまに浪なみの穂ほに刺し立て、其の釼の前さきに趺あぐみ坐いまして、 其の大国主神を問ひて言いひしく 「天照大御神・高木神たかきのかみの命みこと以もちて問ひに使はせり。 汝いましがうしはける葦原中国は、我あが御み子この知しらす国と言こと依よさし賜たまひき。 故、汝いましが心こころは奈何いかに」といひき。 ※ 他しき神。諸テキストにおいて「アタシ(アダシ)神」と訓まれている。ただし「アタシ」に上代の仮名書き例はなく、確例は『類聚名義抄』「他 アタシ ホカ」まで降る。他方、『新訳華厳経音義私記』(奈良時代後期)には「他形倭言保可之伎可多知」とあり、天平勝宝九年(七五七)の宣命逸文「他支事交倍波」もまた「ホカシキ」と訓まれていた可能性がある。「他」字の古い訓として、今回は『華厳経音義私記』の例を参照し、試みに「ホカシキ神」と訓む。
○天石屋 「天安河の河上の天石屋」とあるので、天照大御神が籠もった石屋とは別物と思われる。 ○伊都之尾羽張神・天尾羽張神 火神被殺条で伊耶那岐命が迦具土神の頚を斬った際に手にしていた十拳釼の名前として天之尾羽張神、伊都之尾羽張神の名が記されていた。そこで名を記されていたことによって、元々は釼であったものが神としてこの場面で登場することを可能にしているのであろう。岩田芳子は、固有の名をもつ刀剣は、独自の霊能を有することが期待されるとし、「神代記における「剣」は、伊耶那岐命が佩く「もの」として霊威を発揮したことを由来として、名が附与され、独立した神格を持つ」に至ると指摘する(「『古事記』倭建命の「御刀」」『古代における表現の方法』塙書房、二〇一七年三月)。伊耶那岐命と一体ものとしてあった「御刀」は、尾羽張という名を持つことで独立した神格を持ち、ここで建御雷神の父神として登場するということであろう。次項で触れるように建御雷神は伊耶那岐命・伊耶那岐命の剣・迦具土神の血・湯津石村の諸要素を受け継いで出現する。伊耶那岐命の霊威は十拳釼を通して建御雷神に受け継がれ、その建御雷神の持つ十掬釼によって葦原中国平定を果たし、後にその十掬釼が神武東征の際に地上に降されて再び名を持つことになる、というように展開しているということであろう(参照、鶉橋辰成「『古事記』火神被殺段の考察―「因御刀所生」を中心に―」『上代文学研究論集』六号、二〇二二年三月)。【補注解説一】参照。 ○建御雷之男神 火神被殺条で伊耶那岐命が十拳釼で迦具土神の頚を斬った際に、釼の本に著いた血が湯津石村に走り就いて生まれた三神のうちの一神が建御雷之男の神であった。従って、神が生み出された際の行為者を親とすれば伊耶那岐命ということになり、神出現の元となったものを親とするのであれば、十拳釼・迦具土神の血・湯津石村ということになるが、この時に出現した神々は「御刀に因りて生まれませる神ぞ」とされており、その御刀の名が前項に述べた通り天之尾羽張神、亦名伊都之尾羽張神であるので、この両神が父子関係とされているようである。子神出現に関わる直接的な行為者は伊耶那岐命であるから、伊耶那岐命の神格も受け継いでいるといえるし、出現の元となるものからみると、伊耶那岐命の刀・迦具土神の血・湯津石村の諸要素を受け継ぐともいえるので、父神よりもより多くの神格、より多くの霊力を持つ神として派遣神に選ばれることになるということであろうか。 ○逆塞上 万葉集の「佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を」(8・一六三五)によれば「せきあげる」は川の流れを堰き止めること。「逆に」とあるのは水流を逆流させて堰き止めるということか。 ○天迦久神 全註釈は鹿神説。「迦久はカコの転で、鹿児の意、つまり天迦久神は鹿神ではあるまいか。鹿はすばらしい跳躍力を持つてゐるので、塞湛へた水をも一飛びに飛び越えるといふところから、特に選ばれたと見るのはどうであらうか。(又鍛冶屋が使ふ鞴は鹿の皮をなめして作られるので、さうした点からも鹿神と縁があるかも知れない。ともかくこの条は鍛冶によつて刀劔が作られることと密接な関係があるやうに思はれる。)」と述べている。西郷注釈は水手説。「カクがカコの交替形であることは、天の加久矢の例からも分る。しかし水をたたえた所に「別に」使するものとしては、同じ交替形でも鹿児より水手、つまり舟頭と見る方がふさわしい。万葉には水手を鹿児と仮名で記した例がある。」とする。集成はカクは輝く意とし、「天上界の、輝く刀剣」の義とする。「伊都之尾羽張神や建御雷神のような刀剣神の類の中にあるので、天の迦久の神も刀剣ゆえの輝きとみるべきである。」と説く。新編全集は、水手であれば「河の水を塞き上げて、塞いでいる道を通らなければならない使者に指名された理由がよく分る。」と述べている。 ○天鳥舩神 伊耶那岐命・伊耶那美命の神生みの神話の中で、伊耶那美命は火の神を生む前に鳥之石楠船神と大宜都比売神を生む。その鳥之石楠船神の亦の名として天鳥船が記されていた。神が天から降りてくる際の乗り物としての意義をもつものとも見られるが、出雲に降る際の描写には二柱神とあり、また単独で事代主神のもとに使者として出迎えに行くなど、一柱の神として描写されている。 ところで、伊耶那美命の神生みの終わり近い場面から迦具土神が斬り殺される場面は地上を舞台としていると思われるのだが、この天鳥船神、先述の伊都之尾羽張神と建御雷神、その他にも大宜都比売神、豊宇気毗売神がいつのまにか高天原に存在している(大宜都比売神については高天原に居ると断定はし難い)。この点についてはどう考えるべきか。新編全集は天鳥船神の頭注で、「地上の世界に成った神が、いきさつの説明もなく高天原の神となるのである」とし、大宜都比売神の頭注では、「ここでも地上に成った神が高天原の神となる例を見る。神の世界として、天と地上とは画然として排他的な世界を作っていたわけではないのである」と説いている。また建御雷神については、『日本書紀』神代上五段一書六では軻遇突智を斬った際の描写に「復剣の刃より垂る血、是天安河辺に在る五百箇磐石に為る」とあり、また一書七に「軻遇突智を斬りたまひし時に、其の血激越りて、天八十河中に在る五百箇磐石を染む」とあって、軻遇突智を斬った血が天に飛び付くという記述のあるところから、これを本来の形として、建御雷神が高天原に居る理由と関わらせる見方もあるが(中村啓信「建御雷之男神をめぐって」『古事記の本性』一八八頁、おうふう、二〇〇〇年一月、初出は一九九八年一月)、それでは他の神が高天原に居る理由の説明がつかない。一案として、天上界と地上界とを繋げるものとして「香山」が描写されることが挙げられるのではないか。伊耶那美命が神避って後に伊耶那岐命が流した涙から「香山の畝尾の木本に坐す、名は泣沢女神」が出現した。単に「香山」としか無いので、場所は限定出来ないが、後に天石屋神話において繰り返し「天の香山」が記されることからすれば、伊耶那岐命・伊耶那美命の神生みの舞台は「天の香山」と繋がる地上の「香山」と関わる場所であるということがイメージされる。地上で生まれたはずの神が高天原に存在する理由として、高天原に繋がる場所で生まれた神々であったから、ということが考えられるのかも知れない(参照、「香山と比婆山」『上代文学研究論集』五号、二〇二一年三月)。 ○出雲国の伊耶佐の小濱 「伊耶佐の小濱」については、『日本書紀』正文と一書二には「五十田狭の小汀」と見えている。神代上八段一書六で、大己貴命が少彦名命と出逢う地が「出雲国の五十狭狭の小汀」となっており、これも同じ場所を指していると見られている。『出雲国風土記』出雲郡に「伊奈佐乃社」、延喜式神名帳出雲郡に「因佐神社」とあり、現在の出雲市大社町の稲佐の浜ととるのが通説である。『古事記』の「伊耶佐」は諸本によるが、風土記や神名帳の神社名を元にして、鼇頭古事記・古事記伝をはじめとして「耶」を「那」に校訂し、「伊那佐」とするテキストも見られる(旧全集・倉野全註釈・西郷注釈など)。鎌倉末期から南北朝の書写とされる『古事記上巻抄』は真福寺本・天理大学図書館本ともに「那」となっており、「イナサ」であった可能性も否定は出来ない。『古事記』の諸本が皆「耶」であるところからすれば、これを積極的に「那」とする根拠には乏しい面があるが、後述するように神話内容との関連からして、「イナサ」によって解釈し得る可能性も残される。『日本書紀』の「イササ」「イタサ」と『古事記』の「イザサ」、それと「イナサ」とはともに音韻変化によって生じたものであり、もとは同じ土地を指す言葉とみられるのが一般的だが、それにしても同時代の文献上でこれだけ異なりがあるのは理解が難しい。 イザサかイナサかについては取り敢えず『古事記』の諸本に従って「イザサ」と見るのが無難であると思うが、ではその名に何らかの意味が込められていると見ることは可能か。詳細は後述の論文に譲り、ここでは結論だけ述べておきたい。西宮一民は修訂版『古事記』(おうふう)の頭注(七〇頁)で、「多分「否塞」(外敵を拒み遮る)意のイナサであろう」とする。西宮氏は更に「イササ」を「不知塞」かとして「否塞」と同意のものとして捉え、「イザサ」はその濁音化の類か、としている(「不知」は『万葉集』二六四・一〇六二・二七一〇などで「いさ知らず」の意で「イサ」の訓に当てられる。『類従名義抄』(観智院本僧中18オ)にも「不知イサ」と見える)。つまり「イナサ」「イササ(イザサ)」どちらの場合でも、相手の侵入を拒否し、妨げる意を持つと取ることが出来るということである。『古事記』にはもう一例、所在不明の「イナサ」が見える。神武東征条の中の歌に見られる「楯並めてイナサの山」(14歌)である。神武一行の進入を防ぐ意味で楯を並べて拒否して防いでいる山という意を込めているのではないか。同様にイナサの小浜は外来神(天神)の進入を防ぐ場所として位置付けられていたのでは無いか(参照、「イザサの小浜とイナサの小浜―葦原中国平定神話の地名―」『古代文学』六〇号、二〇二一年三月)。 ○趺坐 葦原中国の神を威圧する行為。「趺坐」は仏典語。足を組んで座ること。中村啓信は『信西古楽図』の臥剣上舞の右に、「唐志曰、睿宗時婆羅門献楽舞人。倒行而以足舞。極銛刀鋒、倒植於地、抵自就刃以歴瞼、又於背上、吹篳者是腹上。曲終而亦無傷。」とあり、「唐の睿宗は、七五五年ころまで位にあったが、その極めて早い時期なら『古事記』成立より二年ほど早くなるが、婆羅門僧が献じたとするのだから、印度人の幻術者であった可能性が高い。」とし、建御雷神の幻術の典拠としている(「伊耶那岐命の幻術」『古事記の本性』おうふう、二〇〇〇年一月。初出は一九八六年)。 ○うしはく 『万葉集』には以下の例がある。 ① ……海原の 辺にも沖にも 神留まり うしはき(宇志播吉)います…… (5・八九四) ② ……住吉の 現人神 船舳に うしはき(牛吐)たまひ…… (6・一〇二一) ③ ……この山を うしはく(牛掃)神の 昔より 禁めぬ行事ぞ…… (9・一七五九) ④ 沖つ神 うしはく(領)君が 塗り屋形 丹塗りの屋形 神が門渡る (16・三八八八) ⑤ ……皇神の うしはき(宇之波伎)います 新川の その立山に… (17・四〇〇〇) ⑥ ……住吉の 我が大御神 船舳に うしはき(宇之波伎)いまし… (19・四二四五) 全註釈は、「うしはく」主体は例外なく「神」であることから「うしはく」という語は宗教的なものであるとし、「神」が領有する、或いは支配する意であると説く。集成はうしはくは「大人として身に帯びる意として、「常に、神が領有する場合に用いる。森や峰・岬などの国土には神が坐すという宗教的観念に基づいた表現。」とする。新編全集は、「ウシ(主)+ハク(着)で、そのものの主人として身につけるの意。ここでは、大国主神が地上世界の諸領域を領有することをいう。」とする。 ○知らす 集成は「知る」は「物の状態や性質を、すみずみまで自分の思うままにする意。占有・領有・支配。」とし、西郷注釈は「シラスはウシハクより一段と次元の高い政治的な支配を意味する。それは「佩く」ことの具体性と「知る」ことの抽象性とも対応する。」と述べる。新編全集も「高度の政治的・宗教的支配を表し、「うしはく」と区別されている。」と説く。
葦原中国平定神話には、三番目の使者である建御雷神(建御雷之男神)と、その親である天之(伊都之)尾羽張神とが登場する。これらの神の解釈は諸説ある。 尾羽張(神)の名については、本居宣長『古事記伝』(『本居宣長全集』第九巻、筑摩書房、一九六八年七月)は、「尾」を「鋒」と解して「天の(稜威の)鋒の張った剣の神」、または「尾」を「雄」と解して「天の(稜威の)雄々しく刃の張った神」と二通りの解釈を提示している。敷田年治『古事記標註』(小野田光雄校注『古事記註釈』神道大系古典註釈編、精興社、一九九〇年三月)は、「尾」は蛇の尾とし、「羽張」は『古語拾遺』から「ははきり(蛇斬り)」の約と指摘する。西宮一民校注『古事記』(新潮日本古典集成、一九七九年六月)も、『古語拾遺』を参考にして「羽張」は「ははあり」とし、「はは」は大蛇、「あり」は存在を表すと指摘している。 また、建御雷神については、本居宣長『古事記伝』(前掲書)は「御雷」を「厳」+「の」+「ち」(男の尊称)と、「雷」を借字として解釈している。荻原浅男・鴻巣隼雄『古事記 上代歌謡』(日本古典文学全集、小学館、一九七三年十一月)では、これは文字通り「雷」を指摘する。また、倉野憲司『古事記全註釈』第二巻(三省堂、一九七四年八月)は「御雷」を「厳」+「の」+「霊」とし、さらに「雷」も意味すると、前二説をあわせた解釈をしている。この他に、吉井厳「タケミカヅチノ神」(『天皇の系譜と神話二』塙書房、一九七六年六月)では、『日本書紀』での甕速日神との関係や「武甕槌神」という表記などから、もともと土器・容器の甕の神格であったと指摘している。 以上のように、この二柱の神名については様々に説かれるが、いずれの説でも威力ある刀剣神とみられる傾向にある。葦原中国平定の神話において、思金神が派遣者に選んだのは、神名から解されるように強大な刀剣神であったからと考えられる。ただし、『古事記』で第一候補として選ばれたのは天之(伊都之)尾羽張神であり、尾羽張神が子の建御雷神を派遣するように推薦したため、建御雷神が使者となったという展開になっている。このように、尾羽張神自身ではなく、建御雷神が派遣される展開であるのは、子神の方が威力の優れた神であったからだと思われる。二神は火神被殺神話にもその名がみえる。
於レ是、天照大御神詔①之、「亦、遣二曷神者一吉②。」 尒、思金③神及諸神白之、 「坐二天安河〻上之天石屋一、名伊都之尾羽張神、是可レ遣[伊都二字以音]。 若亦、非二此神一者其④神之子、建御雷之男神、此應レ遣。 且其天尾羽張神者、逆塞二上天安河之水一而、塞レ道居。 故、他神不レ得レ行。」故、別遣二天迦久神一可レ問。 故尒、使二天迦久神一問二天尾羽張神一之時、答白、 「恐之、仕奉。然、於二此道一者、僕子、建御雷神可レ遣。」 乃貢進。 尒、天鳥舩神副二建御雷神一而遣。 是以、此二神降二到出雲國伊耶佐之小濱一而[伊耶佐三字以音]、 抜二十掬釼一、逆刺二立于浪穂一、趺二坐其釼前一、 問二其大國主神一言、 「天照大御神・高木神之命以、問⑤使之。 汝之宇志波祁流[此五字以音]葦原中國者、我御子之所レ知國言依賜。 故、汝心奈何。」 【校異】 ①真「治」。兼永本以下に従って「詔」に改める。 ②真「去」。兼永本以下に従って「吉」に改める。 ③真「令」。道祥本以下に従って「金」に改める。 ④真ナシ。兼永本以下に従って「其」に改める。 ⑤真「同」。道祥本以下に従って「問」に改める。
そこで、天照大御神が仰ったことには、「また、何れの神を派遣するのが良いでしょう」とおっしゃった。 そうして、思金神と諸々の神とが申し上げて言ったことには、 「天の安の河の河上の天の石屋にいらっしゃる、名は伊都之尾羽張神、この神を派遣するのが良いでしょう。 若しまた、この神でなければ、その神の子の建御雷之男神、この神を派遣するのが良いでしょう。 また、その天尾羽張神は、逆さまに天の安の河の水を堰き止めて水を上げて道を塞いでおります。 それで、他の神は行くことができません。ですので、特別に天迦久神を遣わして尋ねさせるのが良いでしょう」と申し上げた。 そのようにして、天迦久神を遣わして天尾羽張神に意向を尋ねた時に、答え申し上げたことには、 「恐れ多いことです、お仕え申し上げましょう。けれども、この道には私の子である建御雷神を遣わすのが良いでしょう」と申し上げて、 建御雷神を献上した。 そうして天鳥舩神を建御雷神に副えて派遣した。 こうして、この二神は、出雲国の伊耶佐の小濱に降臨して、 十掬釼を抜いて逆さまに浪頭に突き立て、その釼の先で胡座を組んで、 その大国主神に尋ねて言ったことには、 「天照大御神・高木神のお言葉で尋ねに遣わされた。 お前が領有する葦原中国は、我が御子の統治する国であると、(天照大御神が)御委任申し上げた。 それで、お前の心はどうであるか」と尋ねた。