古事記ビューアー

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しかくしてこたまをししく、「やつかれまをすことず。我が八重言代主神やへことしろぬしのかみこれまをすべし。 しかあれども、とりあそび・すなりのために、御大みほさききていまかへず」とまをしき。 かれしかくして、天鳥舩神あめのとりふねのかみつかはして八重事代主神て、たまひしときに、 ちち大神おほかみかたりてひしく「かしこし。くにあまかみまつらむ。」といひき。 すなはち其のふねかたぶけて、あめさかあをふしかきしてかくりき。 かれしかくして、大国主神おほくにぬしのかみを問ひしく いまいまし事代主神ことしろぬしのかみまををはりぬ。またまをすべきりや」ととひき。 ここまたまをさく「亦、建御名方神たけみなかたのかみ有り。きては無し」とまをしき。 まをあひだに、建御名方神千引石ちびきのいはたなすゑささげてひしく たれぞ、くにに来て、しのしのものふ。しかあらば、ちからくらむとおもふ。 かれあれらむと欲ふ」といひき。 故、其の御手を取らしむれば、すなはたつに取り成し、亦、つるぎに取り成しき。 故尒くして、おそりて退しりぞりき。 尒くして、其の建御名方神の手を取らむとおもひてせて取れば、 わかあしを取るがごとちてはなてば、即ちりき。 故、きて科野国しなののくに州羽海すはのうみいたりて、ころさむとせし時に、 建御名方神まをししく「かしこし。を殺すことなかれ。このところきてはほかしきところに行かじ。 亦、が父大国主神みことたがはじ。八重事代主神ことに違はじ。 葦原中国あしはらのなかつくには、天神御子あまつかみみこの命のまにまたてまつらむ」とまをしき。

○八重言代主神 大国主神の系譜条には「事代主神」とあった(注釈三十三「大国主神の系譜」参照)。この場面でも他は「八重事代主神」「事代主神」であって、「コト」に「言」が使われているのは一例のみ。「特に言葉の働きが重視された発言のためであろう」(新編全集)とされるが、実際に国譲りの発言をする場面では「事」になっている点で疑問が残る。単なる避板か、若しくは名義が「言」「事」の両義性を有することを示す意図があったか。「八重」は「幾重にも重なっている意」(思想)であろうが、父大国主神の発言と建御名方神の発言には「八重」が冠され、建御雷神の発言には「八重」が冠されないといった書き分けがなされている。大国主神の名は天神側は一貫して「汝」であり、大国主神と呼びかける例は無いなど、双方の関係性によって呼び分けるという傾向が見られる。葦原色許男命が使われるのもやはりそうした関係性によるのであろう。 ○鳥の遊び 記伝に「野山海川に出て、鳥を狩て遊ぶをいふなり」とし、雄略記の「やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の 病み猪の…」(97歌)の例を挙げる。「遊び」には確かに狩猟の意もあるが、天若日子の葬儀の場面に「日八日夜八夜以、遊也」と見えるように「遊」には鎮魂・歌舞音曲の意もある。日本書紀一書一に「射鳥遨遊」(正文に「遊鳥楽為」)とあるのによればいかにも狩猟の意で取れそうだが、鳥を狩ることに何か意味があったのであろうか。中西進は託宣神である事代主神が鳥の遊びをしていることに着目し、以下のように述べている。
  古代、鳥は人間の目には、ことばを喋る動物として映った。そして、今その鳥にかかわっているのが他
  ならぬことばの神なのである。言代主は鳥の声を聞いていた。霊威なる鳥のことばをうかがっていたの
  であろう。鳥のなき声は、会話として聞かれ、やがて人間に言葉を発見させる。そのことばを今聞いて
  いたのである。「遊」とは言うまでもなく、楽器を奏することである。楽器を奏するのは、鎮魂の実修
  であり、ここでもおそらく楽器を奏して鳥の声をうかがっていたことだろう(『古事記を読む2 天降っ
  た神々』角川書店、一九八五年一二月)。
○魚取り 新編全集に「漁をすること。語源的には、スはイソ(磯)の交替形イスの転、ナは「魚」、トリは「取り」の意か。」とある。日本書紀正文に「以釣魚為楽」。なお、日本書紀正文では「釣魚」に対して「或曰」として「遊鳥楽為」を挙げ、一書一では「射鳥遨遊」のみを挙げており、古事記のように鳥遊・魚取の両方を行ってはいない。
○御大の前 『日本書紀』正文に「出雲国の三穂の碕」、一書一に「三津の碕」とある。『出雲国風土記』島根郡に「御津浜」があるが、仮にこの地だとすると島根郡の西側、秋鹿郡寄りの浜となり、島根半島東端の美保関とはかなり離れていることになる。
○天の逆手 この後の「打つ」動作につながる。「逆手」とあるので、通常とは異なる手の打ち方をするようであるが、記伝に言うように「掌を外になして拍を云」か、若しくは「左と右との上下を、逆にやり違へて拍を云」か、定めがたい。『伊勢物語』九十七段に「天の逆手を拍ちてなむ呪い居るなる」とみえ、呪いの所作となっているが、ここは呪いをかけるような場面ではないので、これも記伝が言うように「吉善事にも渉て爲けむ」こととして見るべきであろう。
○青柴垣に打ち成して隠りき 前文からの繋がりでみると、乗ってきた船を踏み傾けて、天の逆手を打ってその船を青々とした柴垣(フシカキ)に変えて隠れた、といった意味になる。「訓柴云布斯」との訓注が付いているので、「柴」は「フシ」と訓む。清寧記の歌には「斯婆加岐」(106歌)「志婆如岐」(108歌)の例があり、フシカキとシバカキを同じ物とする見方もあるが、「フシカキは、古代の漁法に使う仕掛けの一つで、水中に灌木をめぐらし、開口部から魚を誘い込んで捕らえるもの(簀立ての類)という説がよい。シバカキは、単に灌木を編んだ垣根と意味する」と新編全集に言うように、「シバカキ」と同一視されないようにここに訓注を付したものと思われる。神が乗ってきた船がひっくり返って、それが岡となるという話や、船をひっくり返してそこに鎮座する話は「風土記」にしばしば見られる(『播磨国風土記』揖保郡神阜など)。「隠りき」については次節(古事記注釈四十二「葦原中国平定⑦」参照)。
建御名方神 記伝は「建・御」は称え名、「名」は字義通り、「方」は「堅」の意の称え名とする。全註釈は名義は未詳としつつミナカタとムナカタ(胸形・宗像)はもと同義であったのではないかと述べる。西郷注釈は、ミナカタは宗像と同じく語源は水潟であるとし、諏訪湖に縁のある名であるとみる。神名帳に諏訪郡南方刀美神社二座がある。新編全集は「ミ(水)+ナ(の)+カタ(方)」と語義解釈は異なるが、やはり諏訪湖畔をさすかとする。集成は「南方刀美」は「南方(南の方角)の神霊」の意であるとし、この南方は製鉄炉の四本の押立柱の中の南方の柱のことをさす等の理由からこの神を製鉄神と捉えている。
○此を除きては無し 系譜に記された中の鳥鳴海神には触れることなく、系譜には登場しない建御名方神を挙げて、「他に子どもはいない」という宣言をしている。つまり物語上では、既に退場してしまっている阿遅鉏高日子根神はともかくとして(この阿遅鉏高日子根神の退場も、大国主神の子として意図的に舞台から排除されたものと考えられる)、事代主神は隠退し、建御名方神は諏訪に封じられ、大国主神自らも隠れると描くことで、大国主神の血統に、天下を支配する存在は出現しないということを示唆しているものと思われる。十七世まで続く子孫は、出雲に隠遁した「出雲大神」(垂仁記)の立場を継承していくものとして位置づけられているのではなかろうか(谷口「『古事記』上巻・出雲系系譜記載の意義」『日本神話をひらく』フェリス女学院大学、二〇一三年三月より)。
○忍ぶ忍ぶ如此物言ふ 「しのぶ」は「こらえる、たえる」「つつみ隠す、秘密にする」。ここは後者の意となるか。記伝は「さて此御使、マコト密隠シノビカクしてハカれるには非じを、オノレ不令聞キカサズて議るをトガめて、忍々シヌビシヌビとは云なり」と説き、「物言ふ」についても、何を話していたのかを知りながら「何事言とも知らぬさまに、故らにおほめける言なり」と指摘する。 西郷注釈も「なにをこそこそやっているのかということだが、それは必ずしも密談を意味しない。事の趣は承知しながらも、天つ神の詔命にたやすく従うのを不服として、かく咎めたのだ」と説いている。 ○その御手を取らむ 「御手」とあることについて、西郷注釈は「天つ神を貴しとする観念が干渉したためである」とするが、建御名方神の「誰ぞ、我が国に来て、忍び忍びに如此物言ふ」という態度からすれば、ここは「断じて「其の手を取らむ」でなければならぬ」と述べている。新編全集も「建御名方神が無意識に天つ神の側の権威を認めたことの表現か」と指摘する。 ○ 其の御手を取らしむれば、即ち立氷に取り成し、亦、釼の刃に取り成しき 「其の御手」は前項に述べた通り建御雷神の手を指す。取らしむれば〔令取其御手者〕とあるので、建御雷神が建御名方神に手を取らせたことになる。問題は「即取成立氷、亦取成釼刃」というように「立氷」「釼刃」に「取り成した」のが建御雷神自身の手であったのか、それとも建御名方神の手を「取り成した」のかという点である。全註釈・集成・思想などの注釈書は建御雷神が剣神である故に自身の手を剣・氷に変じさせると取る。その点では記伝も同じだが、記伝は「建御雷神の御手を捉て、立氷タチビ變化ナスなり」と、「取り成す」のは建御名方神であるとする。ただし「此は建御名方神の、自ミの心より如此變化ナセるにはあらず、建御雷神の、例のクシアヤシイキホヒを以て變化ナシて、御名方神をオドせる所為シワザなり」と解して結局は建御雷神の霊威によるものと捉える。文脈上「取成」の主語を建御名方神とみてのことであろう。一方で、新編全集は「建御名方神の手をつかんで「立氷たつひ」に変化させるの意」と解している。素直に読むならば、建御雷神が降臨時に釼の先に足を組んで座って威嚇したように、自身の手を取らせて、その手を立氷・釼に変えて霊威を示したということであろう。 ○搤り批ちて この表現については、【補注解説二】参照。

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「搤批」の訓について

 「搤批」にはこれまで、「ニギリウチテ」(延佳)、「ニギリヒシギテ」(真淵)、「ツカミヒシギテ」(記伝)、「カキツカミテ」(校訂)、「ツカミテ」(西宮一民)、「ツカミウチテ」(思想)、「トリヒダキテ」(新編)、「クビリウチテ」(岡田高志)、等の訓みが与えられてきた。そのなかで、本居宣長『古事記伝』は当該の訓について、次のように述べる。

都加美比志岐弖と訓べし、如若葦と譬へたれば、必比志岐などと云べき處なり、二字共に比志具と訓べき義は、註には見えざれども、必然る勢はある字なり、【強て字注の義によらば、二字を登理氐などと訓べけれど、さては此處のありさまに叶はず、又延佳が爾岐理宇知弖と訓るも非なり、爾岐留と宇都とは、連ねて言べき言に非ず、又師は爾岐理比志岐氐と訓れき、搤字に握也とも注あれば、此訓一わたりはさもと聞ゆれども、爾岐留とは、何となく捉ことに用ふ言にて、此の勢にはかなはず、都加牟は、荒く捉を云言にて、此にもよく叶ひ、字義にもたがはずなむある、(後略)】

 『古事記伝』において訓の根拠は勢に終始しており、必ずしも強固な論拠を持つ訓とは言いがたいが、中村啓信『新版 古事記』(角川ソフィア文庫)に至るまで、多くのテキストが「搤批」の訓として宣長の「ツカミヒシギテ」を採用している。
 他方、小島憲之は「搤批」を二字一訓とすべき可能性について言及しており(1)、西宮一民(集成・聚注・修訂)はこれによって「ツカミテ」の訓を採用する。また、新編全集は「「搤」は「捉」と同義でトル。「批」は字義からいえばウツだが、文脈に合わない。押しつぶす意とみて、ヒダクと読む。」として、『古事記伝』と同様に字義より文脈を優先し、字義にない「ヒダク」を採用して「トリヒダク」と訓む。
 和語ヒダクの確例は『日本霊異記』上巻五縁の訓釈に「挫止利比太支川」(興福寺本)とあり、「挫」字には観智院本『類聚名義抄』に「ヒシク」「トリヒシク」とあるように、ヒシグに通ずる訓も確認できる。しかし「ヒダク」も「ヒシグ」もともに「挫」字の訓である点は動かしがたく、「挫」が「批」と接点を持たない以上、文脈によって恣意的に採用することは、極力避けるべきであろう。本稿においては、字義に即した施訓を試みたい。
 「搤」は『篆隷万象名義』によれば「握也、捉也、持也」と説かれており、握・捉・持のいずれにも共通する訓として、「トル」が挙げられる(築島裕『訓点語彙集成』参照)(2)。そして「批」はこれまでに触れてきたとおり、従来、ヒシグ・ヒダク・ウツの訓をあてられてきたが、ヒシグ・ヒダクを採るべきではない。
 『篆隷万象名義』において「批」には「捽也」とあり、「捽」には「撃也、持頭髪也」との説明がある。このことについては既に小島憲之が触れるところであり、小島は「批」字に「ニギル・ツカム・モツ」の訓を当てることが可能と述べた。しかしむしろ、ここでは看過された「撃也」を重視すべきであろう。「批」をウツと訓んだのは度会延佳の『鼇頭古事記』と思想大系のみであり、主流の訓とは言いがたいが、当該の訓については次のような字義的根拠が挙げられる。
 まず、『文選』巻十八・琴賦(嵆康)の「觸如志、惟意所擬。」につけられた李善注では「説文曰、批、手撃也。與同。蒲結切。」と述べられている(なお、『説文解字』巻十三・手部には「、反手擊也。」とある)。『文選』が記紀編纂当時にあって必読の書であったこと言を俟たず、また『文選』が李善注によって読まれてきたことも同じである。小島は「「批」は「捽也」とみえ、「捽」は「撃也、持頭髪也」の訓詁をもつ。恐らく『玉篇』の一部には、「説文、持頭髪也」の訓詁が存在したものとみられる。」というが、迂遠な方法で「批」と「持頭髪也」とを結びつけるよりも、奈良時代に確実に確認されていた『文選』李善注を参照する方が妥当ではないだろうか。また『春秋左氏伝』荘公十二年の記事「遇仇牧于門、批而殺之。」には「批」について「字林云、撃也。」と注が付されており、佚書である『字林』にも『説文解字』と同様に「批」を「撃」と同じとしたことが確認できる。学令によって大経に定められた『春秋左氏伝』が当時の官人層にとり極めて重視されていたことを鑑みれば、『文選』同様に「批」字の理解として「撃」の意を重視することの蓋然性は決して低くない。
 『古事記』当該条において、建御雷神は建御名方神の手を取ろうとし、「若葦」を取るように(如取若葦)して、「搤批」する。「搤」字をトルと訓みうることは先に触れたとおりであり、「若葦を取る」という比喩表現とあわせても訓に難は無かろう。そして従来問題となっていた「批」字についても、『説文解字』や『文選』李善注、また『春秋左氏伝』『隷万象名義』などの例によって「撃也」という字義が明白であり、「ウツ」と訓むことが妥当であると思われる。『古事記伝』や新編全集『古事記』は文脈によってこれを排したが、建御雷神が建御名方神の手を取り、打って、投げ飛ばす、という解釈が全く通らないということはなかろう。解釈のしようがないわけではない以上、字義を逸脱して定める訓と解釈とには躊躇いを禁じ得ない。
 以上のことから、本注釈では「搤批而」を「トリウチテ」と訓む。

  註

 (1)  『国宝 真福寺本古事記』(桜楓社、一九七八年)の解説において小島は「「搤」も「批」も、ニギル・ツカム・モツと云つたたぐひの国語を当てることが可能であり、「搤批」の二字の訓として、これらの訓を当てることもできよう。「批」をわざわざウツなどと訓むにも及ぶまい。」と述べる。
 (2)  岡田高志「「倭建命」論―西征・東征における逸脱と秩序―」(『文学史研究』五六、二〇一六年三月)は、「搤」字の訓について、九条家本『文選』古訓に「クビル」があることを指摘する。また『日本書紀』神代上第五段一書六の「縊殺」に付された兼方本の訓「クビリコロサム」を参考に、『古事記』中巻の小碓命の動作「搤批」を「クビリウツ」と訓み、「相手の首を締め付け、打つ」意とするが、建御雷神の行為は相手の「手」を捕らえるものであるため、本稿が考察対象とする場面の解釈としては従えない。『古事記』上巻と中巻とで同じ表現(搤批)の意味が変化する蓋然性も低いため、稿者は本解説の考察により、景行記においても「トリウツ」と訓むべきと考える。

〔小野諒巳 日本上代文学〕

尒答①之、「僕者不②。我子八重言代主神、是可③。 然、為鳥遊取魚而、往御大之前未還来」。 故尒、遣天鳥舩神来④事代主神而、問賜之時、 ⑦大神言、「恐之。此國者立奉天神之御子」。 即蹈傾其舩而、天逆手矣於青柴垣一打成而隠也[訓柴云布斯]。 故尒、其大國主神 ⑨、汝子事代主神、如此白訖。亦、有白子乎」。 於是亦白之、「亦、我子有建御名方神。除此者無也」。 如此白之間、其建御名方神、千引石擎手末而来言、 「誰、来我國而、忍〻如此物言。然、欲力競 故、我先欲其御手」。 故、令其御手者、即取成立氷、亦、取成釼刃 故尒、懼而退居。 尒、欲建御名方神之手乞歸而取者、 若葦搤批而投離者、即逃去。 故、追往而迫到科野國⑪州羽海、将殺時、 建御名方神白、「恐。莫我。除此地者不他處 亦、不⑫大國主神之命。不八重事代主神之言 此葦原中國者、随天神御子之命獻」。 【校異】
①真本「曰」。道祥本以下に従って「白」に改める。
②真本「自」。道祥本以下に従って「白」に改める。
③真本「自」。道祥本以下に従って「白」に改める。
④真本「故尒遣天鳥舩神微来」の九字が重複。道祥本以下に従い、これを削る。
⑤真本「微」。寛永版本・寛永版本等に従って「徴」に改める。
⑥真本「量」。道祥本以下に従って「重」に改める。
⑦真本「見」。兼永本以下に従って「父」に改める。
⑧真本「同」。兼永本以下に従って「問」に改める。
⑨真本「令」。兼永本以下に従って「今」に改める。
⑩真本「未」。道祥本・兼永筆本傍書等に従って「手末」に改める。
⑪真本「已」。春瑜本以下に従って「之」に改める。
⑫真本「欠」。兼永本以下に従って「父」に改める。
⑬真本「御子命」。道祥本以下の「御子之命」および底本五〇六行目の「御子之命」により改める。

こうして答え申し上げたことには、「私は申し上げることができません。私の子の八重言代主神が、お答え申し上げるはずです。 ですが、言代主神は御大の岬に行っていてまだ帰ってきておりません」と申し上げた。 そういうわけで、建御雷神は天の鳥船神を御大の岬に派遣して八重事代主神を呼びに遣わして来させて、事代主神にお尋ねなさった時に、 その父の大国主神に語って言ったことには、「恐れ多いことです。この国は天つ神の御子に立て奉りましょう」と言った。 そして其の乗ってきた船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して隠れた。 そういうわけで、建御雷神は大国主神に尋ねたことには、 「今、お前の子の事代主神は、このように申し終えた。他に申すべき子はいるか」と尋ねた。 それで大国主神がまた申し上げたことには、「他には、我が子の建御名方神がいます。この子以外にはおりません」と申し上げた。 このように申し上げている間に、その建御名方神が、千引石を手につかみ持って来て言ったことには、 「誰が我が国に来て、ひそひそとこのように物を言っているのか。そのように言うのならば、力比べをしようと思う。 それで、私がまずその御手を取ろうと思う」と言った。 それで、建御雷神がその御手を取らせたところ、その手をつららに変じさせ、また剣の刃に変じさせた。 そうしたわけで、建御名方神は恐れをなして後退した。 そうして今度は建御雷神が建御名方神の手を取ろうと思って求めて引き寄せて手を取ると、 若い葦を抜き取るようにつかみ取って投げ放つと、即座に逃げて行った。 それで追いかけていって科野の国の諏訪の海にまで迫り着いて、殺そうとした時に、 建御名方神が申したことには、「恐れ多いことです。私を殺さないでください。この地以外の他のところには行きません。 また、我が父大国主神の仰せ言に異なるところはございません。八重事代主神の言葉と異なるところはございません。 この葦原中国は、天神御子のご命令のままに献ります」と申し上げた。

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