古事記ビューアー

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故、さらまたかへて、其の大国主神おほくにぬしのかみを問ひしく、 いまし事代主神ことしろぬしのかみ建御名方神たけみなかたのかみ ふたはしらの神は天神御子あまつかみみこみことたがふことけむとまををはりぬ。 故、いましが心は奈何いかに」ととひき。 しかくして答へ白ししく「やつかれどもふたはしらの神の白すまにまに、やつかれは違はじ。 此の葦原中国はみことの随にすでに献らむ。 ただやつかれところは、天神御子あまつかみみこあまつぎらすあめの如くして、 底津そこついはみやばしら高天原たかあまのはらをさたまはば、 やつかれももたらくまかくりてはべらむ。 亦、やつかれどもももかみは、すなはち八重事代主神 神のさきとしてつかまつらば、たがふ神はあらじ」とまをしき。 まをして、出雲国いづものくにはまあめ御舎みあらかつくりて、 水戸神みなとのかみうまご櫛八玉神くしやたまのかみ膳夫かしはでとし、あめあへたてまつときき白して、 櫛八玉神り、うみそこり、 底のはにをで、あめ八十毗良迦やそびらかつくりて、 海布からひきりうすを作り、 の柄をもちひきりきねを作りて、 火をだしてひしく、 れる火は、高天原には、神産巣日御祖命かむむすひみおやのみこと あめ新巣にひすつかるまでげ、 つちしたは、底津そこついはらして、 たくなはひろなはへ、 つりするの、くちおほはたすずき さわさわにげて、たけのとををとををに、 あめぐひたてまつる。」といひき。 かれ、建御雷神、かへのぼり、 葦原中国をことかたち復奏かへりことまをす。

○天津日継 日の御子として統治権を受け継ぐことを示す語。「天津日続」「日継」「日続」とも。応神記に「宇遅能和紀郎子は、天津日継を知らせ」、允恭記に「天皇、初め天津日継を知らさむと為し時に」「日継を知らすこと得じ」「木梨之軽太子の日継を知らすことを定めたるに」、清寧記に「是に、日継知らさむ王を問ひて」、顕宗記「即ち意富祁命、天津日続を知らしき」、武烈記に「日続を知らすべき王無し」と見える。
○登陁流 「十足る」で充分に満ち足りている意。安藤正次は琉球語のテダ(太陽)を活用させた語とみて太陽の照り輝く意とするが、西宮一民はここだけ琉球語で説くのはいかがかとして「そ・ダル(具足)」と同じく「と・ダル(充足)」の意とし、「チダル(千足)、モモダル(百足)」と同発想で、十分に満ち足りている意の美称とする(修訂)。なお、『出雲国風土記』楯縫郡の郡名起源記事の中に「五十足天の日栖の宮」の語が見える。「五十足」ならば「十足」を更に大きくした表現になるが、「五」は細川家本・倉野本等では「吾」となっているので、「吾が十足」と訓むテキスト・注釈書もある。「吾が十足」であるとするならば、文脈の近似もある故、古事記の「登陁流」と同一の語ということになろう。
○天之御巣 巣は住処。「天神御子の天津日継知らす登陁流天之御巣」とあるので、降臨する天神御子の住処(宮殿)を意味するか。後に降臨したニニギ命の宮殿造営にまつわる描写が同様に「底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて」と表現されることと対応している。
○治め賜はば 「治」は「治天下」で多く使われるが、それ以外に以下の例がある。
  ①命せらえし国を治めずして、(神代記・三貴子の分治)
  ②「能く我が前を治めば、…」(神代記・大国主神の国作り)
  ③「然らば、治め奉る状は、奈何に」(同右)
  ④当該
  ⑤故、如此撥ひ治めて、参ゐ上りて、覆奏しき。(景行記)
  ⑥乃ち其の櫛を取り、御陵を作りて、治め置きき。(景行記)
  ⑦「…八田若郎女を治め賜はず。…」(仁徳記)
 思想大系訓読補注は「治天下」及び①は「シラス」で訓み、それ以外の②~⑦については「統率安定させる、管理する意であるとする。⑥については埋葬の意とも取れるが管理する意とも取れるか、としている。新編全集は②③については「あるべき状態に落ち着かせることで、ここでは、神を祭ってその御魂を鎮める意」とし、当該④については「祭ること」と取る。
○八十垧手 「垧」は「坰」の俗字。以下「坰」で記す。「坰」は中国の古字書『爾雅』釋地に「邑外謂之郊郊外謂之牧牧外謂之野野外謂之林林外謂之坰」とあり、「邑」から最も離れたところが「坰」であるとされる(朱祖延主編『爾雅詁林』(中巻二六〇二頁)湖北教育出版社、一九九六年一一月による)。『日本書紀』では「八十隈(隈此云矩磨埿)」(神代下九段正文)と記されている。戸谷高明は「坰」と「隈」の字義の違いに着目し、和語クマデ(隈)は多くの角を曲がった所を指すが、「坰」はあくまでも僻遠の地を指すのであって、クマデ(隈)とは異なっているが、敢えて「坰」の字を宛てたところに『古事記』編者の意図があったのではないかとして、「オホクニヌシの隠退の地が〈遠隔の出雲〉であることを効果的に表現しようとしたのではなかろうか」と述べている(「古事記の漢語表現―「坰」「凶醜」の用法―」『古事記の表現論的研究』新典社、二〇〇〇年三月。初出は一九九三年九月)。
 諸注釈では①黄泉国(記伝・全講・全註釈)、②根之堅州国(大成・思想大系)、③幽界(評釈)、④僻遠の地(幽界)(新校)、⑤僻遠の地(杵築大社)(西郷注釈)、⑥僻遠の地(出雲)(新編全集)などの諸説があるが、以上確認してきた内容からすれば、「八十坰手隠而侍」というのは、大国主神が国譲りをした後、「多くの道の曲がり角を通り、遠いところに隠れて控えて居りましょう(お仕え致しましょう)」と理解できるが、それが具体的にどこを指すのかが定めがたい。大方は出雲から更に隠れた場所としての異界・幽界を想定するものが多いわけだが、出雲そのものを指しているのだとすれば、出雲は国譲りの範囲に含まないことになり、『出雲国風土記』意宇郡母理郷の神話と発想を同じくするということになる。そうした読み取りの可能性も否定できないように思われる。(参照、久保田恵梨「古事記神話における出雲の位置づけ」『上代文学研究論集』8号、二〇二四年三月)。
○隠りて侍らむ 『古事記』の「侍」は他に五例、いずれも貴人の側に居る、仕えるの意を持つところから見れば、「隠」とはいっても、異なる世界に去って全く関わらなくなることではないらしい。事代主神も、後の大国主神の言葉の中に「(僕が子等百八十の)神の御尾前と為て仕へ奉らば、違ふ神は非じ」と見える。「仕奉」は『古事記』中に二十四例、結婚の承諾も含め、天神御子や天皇に対して文字通りお仕えする意で使用されている。『古事記』神話冒頭部の神々も、「隠身也」とはあるが、その直後に伊耶那岐・伊耶那美に「命以―言依」をするのは冒頭の天神諸であろうから、「隠」れることがすなわち神々の世界と関わらなくなることではないらしい(参照、久保田恵梨「『古事記』神話における出雲の位置づけ」『上代文学研究論集』8号、二〇二四年三月)。
○僕が子等百八十神 日本書紀神代上八段一書六に「其の(大国主神の)子凡て一百八十一神有す」とある。『出雲国風土記』総記には在神祇官社として「一百八十四所」と記す。「出雲国造神賀詞」には「かぶろき熊野の大神くしみけのの命、国作りましし大なもちの命二柱の神を始めて百八十六社に坐す」と記す。延喜式神名帳には「出雲国一百八十七座」とする。 ○神の御尾前 御尾(先頭)と御前(後尾)の意とされるが、他に例を見ない。天武紀元年七月(壬申の乱)条に、高市県主許梅に事代主神・生霊神が神がかりして降した託宣の中に「吾は皇御孫命の前後に立ちて、不破に送り奉りて還る。今し且官軍の中に立ちて守護りまつる」とあるのと関連するか。「御前に(立ちて)仕へ奉る」という表現はこの後の天孫降臨の場面において、猿田毗古神、及び天忍日命天津久米命の奉仕の様に使われている。「神」は、天神御子に帰順奉仕する諸神を指すとする説(記伝)、天神の御子を指すとする説(西郷注釈)があって明確ではないが、仕え奉る対象が天神側であることは確かであろう。事代主神が天神側の守り神となることは、この神が出雲国造神賀詞の宮中守護四神の一神であること、また延喜式神名帳の宮中神三十六座の御巫祭神八座に事代主神が配されていることからも了解される。 ○多藝志の小濱 他に見えないこの地名については、所在未詳とするテキストが多い。「天の御舎」を杵築大社として捉える記伝の場合は、「さて此は、杵築大社の地の古名と聞えたるを、此名他に見えたることなし」とする。西郷注釈は、記伝と同じく「天の御舎」を杵築大社と取るが、「イナサ」を「諾否」として捉えるのと合わせる形で、「タギシ」を「違はじ」から導き出されたとし、説話上の地名であることを暗示していると説く。一方で集成の頭注(八七頁)で「一説に、出雲大社の現在地より北方の簸川郡武志(今の出雲市武志町)。「多芸志」は凸凹した、またはくねくね曲った海岸線に基づく命名か」とする。集成はこの箇所を「出雲大社の縁起譚」として捉えており、次項に記すようにその点は賛同出来ないが、「タギシ」の語義の理解としては、右のように捉えられるのではないか(但し同じ西宮一民氏のテキストでも修訂版の頭注では天の御舎を造ったのは大国主神であるとして見方を変えている)。なお多芸志の小浜については谷口雅博に(「イザサの小浜とタギシの小浜―葦原中国平定神話の地名―」『古代文学』60号、二〇二一年三月)がある。
○天の御舎 記伝をはじめとして、かつては、この「天の御舎」を出雲大社(杵築大社)のこととし、天神側が大国主神を饗応したという理解がなされることが多かったが、「(大国主神が)如此之白而、……造天之御舎而……、為膳夫、獻天御饗……」と続く文脈からすると、「白・造・為・獻」は皆大国主神の行為として読めるところから、現在ではこの「天の御舎」は出雲大社とは別であると捉え、大国主神の側が天神の使者の側を饗応したことを示すとする見方がなされて来ており、そのように理解すべきものと思われる(益田勝実「古事記における説話の展開」『古事記大成第二巻文学篇』平凡社一五九七年、矢嶋泉「『古事記』〈国譲り神話〉の一問題」『日本文学』三七巻三号一九八八年三月、小学館新編日本古典文学全集『古事記』111頁頭注、三浦佑之「出雲とはいかなる世界か」『出雲神話論』講談社二〇一九年一一月等による)。従って大国主神は、「多芸志の小浜」の「天の御舎」における接待饗応の後、「八十坰手」に隠れたことになる。「多芸志の小浜」は他に見えず、所在未詳の地とされるが、「天の御舎」が杵築大社とは別物であるとするならば、「多芸志の小浜」の所在も出雲大社近辺の地と考える必要性はないということになる(前項参照)。
○水戸神 ミ(水)+ナ(の)+ト(門)の神で河口の神。伊耶那岐命と伊耶那美命の国生みの際に、「次に水戸の神、名は速秋津日子神を生みき。次に妹速秋津比売神」とあった。
櫛八玉神 櫛を「奇し」とし、八を多数の意とすることは諸注一致するが、玉は「霊」とみて「一身に多くの霊魂を持ち、さまざまな行為をなす神」とする説(集成)や、海の珠(真珠)と関連付ける説(西郷注釈・新編全集など)がある。
○天の御饗を献る 大国主神側が天神の使者建御雷神をもてなすために食事を献上する。【補注解説三】参照。
○天の八十毗良迦 献上する食事を入れるための容器。「天の御舎」「天の御饗」「天の八十毗良迦」というように「天」が冠されるのは、天神側をもてなすための殿舎・食事・容器であるためと見られる。 ○燧臼・燧杵 火を熾すための道具。穴の開いた板(燧臼)に先のとがった棒状のもの(燧杵)を差し込んで、擦って火を熾す。なお、この箇所との関わりが指摘される出雲国造の火継神事については、【補注解説四】参照。 ○天の新巣 「高天原には、神産巣日御祖命の、登陁流天の新巣」とあるので、先の「天の御巣」とは異なる。天上界にある神産巣日御祖命の新しい住処。燧臼と燧杵で熾した火を天上界にある神産巣日御祖命の新しい住処に煤が長く垂れるほどに焼き上げるというのであるから、多芸志の小浜の天の御舎の真上に神産巣日御祖の住処があるということになろうか。これまでの須佐之男命・大穴牟遅神の母神・大国主神と神産巣日御祖神との関わりからすれば出雲国(及び出雲の神々)と神産巣日との繋がりの強さが伺えるし、出雲との繋がりにおいて「御祖命」と呼称されることも了解される。しかし、葦原中国平定の神話においてはこの神が直接登場する場面は無い。大穴牟遅神の復活や、大国主神の国作りに関与してきたこの神が、天上界に国を譲らせようとする交渉の場面では何故か登場しない。天の石屋神話や葦原中国平定の議においてもそうだが、この神は他の高天原の神々と同じ場面に登場することが無い。まさに「隠身也」とある如く、高天原においては隠れた場所に居るということであろうか。一方の高御産巣日神は諸々の神の居る場に現れているかの如くであるが、途中までは単独で発話する場面は無く、常に天照大御神と共に発話者として記載される。そして実際に身をもって行動する場面(矢を投げ返す場面)から「高木神」の名に変わる。この点も高御産巣日神が「隠身也」であることと関わるのかも知れない。 ○さわさわに 「さわ」は「さわく(騒)」の語基とされる。記伝は「釣取たる千萬の鱸を積たる舟を、栲縄して海人どもの挽寄すとて、呼ふ聲々の、喧く噪しきを云」とする。他の注釈も概ね同じだが、新編全集は「多くの魚が、ざわざわと音を立てて引き上げられるさま」とする。仁徳記の歌に「つぎねふ 山代女の 木鍬持ち 打ちし大根 さわさわに 汝が言へせこそ 打ち渡す 八桑枝なす 来入り参ゐ来れ」(63歌)とある。うるさく騒ぎ立てる様子を大根の葉ずれの音に喩えている。
○打つ竹のとををとををに 「打竹之」については、ウツタケノ・ウチタケノ・サキタケノ・サキダケノ等訓が分かれる。記伝は「打」は「拆」を誤ったものとして「佐伎陀氣」と訓み、万葉集7・一四一二「辟竹之背向尓宿之久(サキタケノソガヒニネシク)」を例としてあげる。神道大系は「打、棓也」〔廣雅、釋言〕、「朾、掊也」〔類篇〕とあり、「掊、叚借爲剖」〔説文通訓定聲〕とあるところから「打」を「剖」を訓めるとする。しかし「打」は古事記内では基本的に「ウツ」意で用いられていること、また諸本間での異同が無いことなどからウツタケノ若しくはウチタケノと訓むべきものと思われる。サキタケと訓む集成は「竹を裂いて作った簀子の台」とし、ウチタケノと訓む新編全集は「とををとををに」にかかる枕詞とした上で「物を打つために使う竹の棒を指すか」とする。ウツタケノと訓む思想は「一メートルもある釣り上げたばかりの生きのよいスズキを竹の棒で、たわむほど打って捕えるさまの形容句」ととる。以上のように道具を指すか、形容句ととるかで見方が分かれるようである。「とををとををに」は、撓み曲がるさまをいう「とををに」が繰り返された語。万葉集10・二三一五「白橿の枝も等乎〃尓雪の降れれば」など。

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櫛八玉神の饗応

 『古事記』上巻の国譲りの段で特に丁寧な描写が行われているのが、天神への饗応場面である。その内容を、①「誰が」、②「どのように」、③「何で」饗応したのか、という要素で考えてみたい。
 まず①「誰が」は、櫛八玉神で、水戸の神の孫とする。水戸の神は、『古事記』上巻の国生みの段で、「速秋津比古、速秋津比賣」とあるので、この両神に当たる。また、速秋津比賣は、『延喜式』巻八「水無月晦日の大祓」では、「荒潮の、潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す速開都比賣」とあり、その神格の基礎には海の潮の働きがあることが分かる。櫛八玉神は、少なくとも、海の潮の神の系譜に連なる神として位置付けられる。その意味は、海の潮の恵みの食材を調理して天神を饗応するという文脈につながると考えられ、これは、饗応の場が「多藝志の小濱」とされていることと整合する。そこでの饗応は、特別な海の食材を中心とする必要があり、膳夫となる櫛八玉神は、海の恵みを充分に受け、間違いなく調理を行うために、水戸神の孫でなければならなかったのだろう。
 次の②「どのように」では、特別に食器を準備し、火鑚して、饗応用の建物を建て、特に丁寧に火を焚き調理を行う様を詳細に記すところに、櫛八玉神の饗応の特徴がある。特に、ここでは食器・食膳の準備が、通常とは異なる特別な手順で行われることを強調する。さらに、饗応を行う場も通常の建物ではなく、多藝志の小浜に特別に建てた天の御舎である。これらの全体的な内容は、饗応というよりは古代祭祀の構成「祭式」に近い。
 古代の祭祀の祭式については、延暦二三年(八〇四)成立の『皇太神宮儀式帳』で確認でき、六・十二月の月次祭、九月の神嘗祭の全体的な祭式を記録している。その特徴は、祭祀は準備段階から厳格に行われる点にある。神酒を入れる甕、神饌を盛る土師器は、陶内人すえものつくりのうちびと土師器作物忌はじのうつわものつくりのものいみが特別に作り、その他の調理具も同様に、特別に調製される。当然、神酒は酒作さかとくの物忌ものいみが種々の罪事を祓い清め醸造し、塩は物忌ものいみが特別に焼いて作る。神宮における土器調製は、土師器作物忌の本拠地(多気郡有爾郷)に近い北野遺跡で六世紀代には、土器焼成土坑が出現しており、その伝統は古墳時代後期以来の伝統をもつと判断できる。
 さらに、神嘗祭の御贄(神饌)は、志摩国の神戸や度会郡から納められる海産物に、禰宜・内人・物忌父等が伊勢国と志摩国の境の海で漁した海産物を加える。禰宜以下が、直接、御贄の食材を漁することと関連するのが、鵜の存在である。『古事記』櫛八玉神の饗応では、櫛八玉神が鵜となり海底の埴を喰い出すことが描写される。鵜の造形は、古墳時代中期、五世紀後半の保渡田八幡塚古墳の形象埴輪群に含まれ、鵜は嘴に魚をくわえ、側には鵜飼と考えられる人物埴輪が立つ。五世紀代には、鵜飼による漁撈が定着していたことがうかがえる。櫛八玉神が鵜となる描写は、この漁法の伝統を受けており、それが重要な食材の入手など準備段階で行われていた事実を反映していると考えられる。
 また、特別に殿舎を新たに建て多数の食材で饗応することは、基本的に践祚大嘗祭(以下、大嘗祭)と同じである。大嘗祭の斎場の大嘗宮は、『儀式』によると、東西の悠紀院・主基院に分かれ、ともに内部は神饌の調理・準備を行う臼屋・膳屋と、天皇が手ずから皇祖神への饗応を行う正殿、神のための御厠を配置し、周囲を宮垣で区画遮蔽する。大嘗宮は、神饌の最終的な調理、盛り付けから饗応まで行える建物群であり、饗応の祭祀が終了すれば、直ちに解体された。まさに神の饗応のための殿舎という性格をもっていた。
 この建物の構造・規模と配置は、平城宮の発掘調査で発見された元正天皇・聖武天皇など六代の天皇の大嘗宮で共通し、確実に八世紀前半には遡る。また、『日本書紀』と『続日本紀』によると、天武天皇から元正天皇・聖武天皇までは連続して大嘗祭は実施されているので、大嘗祭の饗応の祭式と大嘗宮の構造は、七世紀末期の天武天皇の時代に遡る可能性が高く、その祖形は大化前代の新嘗に求めることができる。
 つまり、櫛八玉神の饗応は、大化前代、古墳時代(少なくとも中・後期、五・六世紀)以来の祭祀の伝統を下敷きとして描写されていたと考えてよいのではないだろうか。
 最後の③「何で」は、長い釣り縄で釣り上げた特別に大きな鱸である。なぜ鱸なのかを考えるのに、奈良県藤原宮の北面中門地区出土の木簡「出雲評支豆支里大贄煮魚 須々支」(奈良文化財研究所WEBデータベース「木簡庫」)が参考となる。出雲国の出雲いずものこおり支豆支きづきのさとから大贄の煮魚として須々支(鱸)が、藤原宮に納められていたのである。出雲評は、後の出雲郡で、『大宝令』施行により「評」が「郡」となるので、木簡の年代は七世紀末期の六九〇年代となる。支豆支里は、『出雲国風土記』で神亀三年に「寸付」から「杵築」へと字を改めたづきのさとにあたる。
 杵築郷は、大国主神を祀る杵築大社が鎮座する地である。そこから七世紀末期、天皇の食膳(大贄)として鱸が納められていた事実は、当時、出雲の支豆支里の鱸は、大贄に相応しい魚との認識が朝廷にあったことを示す。櫛八玉神の饗応は、天神への饗応であり、その中心に鱸を位置付けたことは、大贄と鱸との対応関係と一致する。こう考えると、櫛八玉神の饗応の舞台は、出雲郡の寸付(杵築)郷を意識して形成された内容だったのではないかと推測できる。なお、櫛八玉神の饗応の祭祀的な性格から考えると、出雲郡寸付郷と鱸との繋がりは、七世紀末期段階で既に伝統的なものとなっていた可能性は高いのではないだろうか。
 『古事記』上巻、国譲りの段の櫛八玉神の饗応は、古墳時代以来の古い祭祀の伝統に裏付けられた内容といってよい。また、同時に古代祭祀の本質は神への丁寧な饗応にあることを、櫛八玉神の饗応は示しているのである。

 参考文献
 ・笹生 衛『まつりと神々の古代』吉川弘文館、二〇二三
 ・中川経雅『大神宮叢書 大神宮儀式解 前篇』神宮司庁編、臨川書店、一九七〇
 ・若狭徹編『保渡田八幡塚古墳 史跡保渡田古墳群 八幡塚古墳保存』群馬県教育委員会、二〇〇〇
〔笹生 衛 日本考古学・日本宗教史〕

火継神事

  はじめに

 出雲大社宮司は、天照大神の御子天穂日命を祖神にもち、現在も出雲国造こくそうと称され崇められている。
 それは神代以来の継承者という理由だけではなく、祭神大国主神の御杖代(依り代)として、厳修な日常生活を送ってきたからである(1)。しかも明治五年まで出雲国造は襲職すると、一般人と別の火、すなわち聖火で調理した食事しかとらなかった。その襲職式を火継ひつぎ式といい、その神事を火継神事という。
 出雲国造は、南北朝時代の興国四年(一三四三)に千家氏と北島氏に分かれる。それ以降、明治四年まで奇数月を千家国造が、偶数月を北島国造が出雲大社の神事を担当してきた。しかし、火継神事や新嘗会は、両国造とも行うことから相違点が出る。本居宣長は『古事記伝』十四之巻に「おひつぎの考」で火継神事を紹介するが、その相違点を論じなかった。
 火継神事は、千家尊福『出雲大神(訂正再版)』(大社教本院、大正一〇年)と千家尊統『出雲大社』(学生社、昭和四三年)が詳しい。
 火継神事の研究は、藤井貞文「出雲国造継承法の研究」(神道学会編刊『出雲神道の研究 千家尊宣先生古稀祝賀論文集』昭和四三年)、平井直房『出雲国造火継ぎ神事の研究』(大明堂、平成元年)、岡田莊司「出雲国造の新嘗会と火継神事」(島根県古代文化センター編刊『出雲大社の祭礼行事―神在祭・古伝新嘗祭・涼殿祭 島根県古代文化センター調査研究報告書6』平成十一年)が白眉である。これらを参考に「火継神事」について紹介しよう。

  一、出雲国造について

 出雲大社周辺には古墳がなく、古来聖域であった。たとえば、境内地から縄文時代後・晩期の土器が出土し、四世紀後半の祭祀遺跡も発掘されている(2)。ただし、出雲国造の出雲臣は、出雲大社が鎮座する出雲国西部ではなく東部で発展した。それが六世紀半ばである(3)。律令制下、郡司を兼務して意宇郡で活動するが、延暦一七年(七九八)三月の太政官符で、国造の意宇郡大領(郡司の最高地位)兼帯の禁止が命じられると、本拠地を出雲郡へ移した。
 出雲国を代表する神社は、熊野神社と出雲大社である。「出雲国造神賀詞」にもこの順で明記され、『令義解』には、出雲国造の奉斎神は天神、地祇は出雲の大汝神とあった。また、『三代実録』貞観九年(八六七)条には、熊野神社が正二位勲七等、出雲大社が正二位勲八等に昇叙したとある。
 ところが、『先代旧事本紀』「陰陽本紀」は、「建速素戔烏。坐出雲国熊野杵築神宮矣」とある。この「熊野杵築神宮」とは、最近の研究では出雲大社だという(4)。とすると、九世紀頃から出雲国造が出雲大社を本拠地にして天神を祀った、と考えられていたのかも知れない。
 その後、出雲大社は高層建築でも有名になり(5)、出雲国司も「天下無双之大厦、国中第一之霊神」(康治元年・一一四二(6))と称した。
 このように平安時代後半には、出雲大社が名実ともに出雲国第一の神社になっていたのである。
 安元二年(一一七六)、国司は出雲宗孝を「国造職」に補任する。当時、出雲国造は「杵築大社惣そうけんぎょうしき検校職」と「神主職」も兼務していた。ところが、次の国造孝房は、源頼朝から「杵築大社惣検校職」を停止させられる(『吾妻鏡』)。
 その頃、寂蓮法師が出雲大社に参詣し、「やはらくる光や空にみちぬらん雲にわけ入ちきのかたそき」(『寂蓮法師集』)と歌った。
 宝治二年(一二四八)十月二十七日、国造兼神主職の出雲義孝は、国司と協力して正殿遷宮を斎行。その式次第を載せる「杵築大社造営所注進」に「御体奉懐之時(国造義孝誦文在之(7)」と記した。これは御神体を御輿から神座に奉遷する時、国造は「誦文」しつつ「御体奉懐」、すなわち御神体を抱きかかえて神座にお遷しすることを表す。
 それについて、岡田氏は「国造の大切な職務は大社の造営、遷宮の実施であり、遷宮儀式において「御体」(御神体のこと)を懐き奉ることであった。「御体」を懐くためには、厳しい斎戒が求められることになり、神聖な食膳調理の徹底が図られていたことは、祭祀の本義から照らしても誤りのないところである」(前掲論文九一頁)と、国造の意義を端的に説かれた。
 翌年、国造義孝はかも社領大庭・田尻保の地頭職を鎌倉将軍九条頼嗣から安堵される。国造は鎌倉幕府の御家人でもあった。岡田氏は、その時代に「神魂神社は国造に管轄され、同社において神火相続の火継神事と新嘗会の祭儀が行われていたことは確実である」(同九〇頁)という。
 その後、出雲国造は千家氏と北島氏に二分するが、火継神事も新嘗会も神魂神社で明治三年まで行われた(8)

  二、火継神事について

 国造の意義は古来不変である。そこで平井氏前掲書から近世の火継神事について説明しよう。
 火継神事は、前国造が亡くなってから(または位譲後)七日間にわたり行われる。現在は杵築の国造邸にあるお火所で行った後、熊野神社へ参るが、近世までは神魂神社で行われた。
 国造が危篤になると、神魂神社へ飛脚が出され、火継式の準備が始まる。国造が亡くなると、改めて飛脚が神魂神社に出され、新国造の出立時刻と熊野神社から火切板を神魂神社に届けるよう伝えた。
 新国造は、前国造の忌に服さず、潔斎して新しい白衣に袴を着け、道服を羽織って、十一里離れた神魂神社まで急行する。その時、国造は駕籠に乗り、介添えの上官じょうがん(出雲大社の上級神職)は馬に乗った。新国造は家伝の宝物である火切りを、千家国造は権検校(平岡上官)に渡すが、北島国造は自ら袋ごと首にかけて携行した。
 神魂神社に到着すると、国造は祓を受けて籠り所に入り、精進料理を食べる。潔斎した国造は、白衣と足袋の姿で籠り所から本殿へ向い、階下で祓を受け、昇殿して御扉前で装束を着ける。そして、殿内に入り小内殿(北面)に向い礼拝した。
 神拝がすむと、御簾と几帳をおろし、国造は火切りを受けて神前に向き直り、新しい小刀で火切臼の火口を切る。その後、国造は小内殿を脇に北面し、千家国造方の場合、権検校と別火(神魂神社神職)が火切臼を中に対座して、この三人で発火した。次にその火で殿内に設けた「作りいろり」で、出雲大社神田の米一合ばかりを炊飯し、国造が神前でいただく。
 これにつき、藤井氏は「聖火に依て作られた食物に重点があり、更に其食物を食べる事に最大の意味」(前掲論文一九頁)があったといい、平井氏は、ここで「国造ははじめて大社の祭祀者たる正式の資格を備えることにな」(前掲書六四頁)ったという。
 この行事が済むと、熊野神社の社人が持参した新しい火切臼と火切杵で鑚火し、神魂神社本殿床下に臨時のお火所が設けられる。大庭滞在中の国造は、ここで調理された食事をとった。
 神前では「とりあえずの御供」と称す神饌を国造が捧げ、祝詞を奏上した後、参籠する。
 これで一日目は終了。すると、杵築へ飛脚二名が伝達に向かい、それを受けて前国造の葬儀が始まる。
 二日目は、国造が神前に「もろ御供」(出雲大社で最も鄭重な献供)を供え、歯固め・一夜酒頂戴・百番の榊舞・湯立などの神事を行った後、参籠。その晩、神事の相撲が行われた。
 三日目は、明け方、国造は潔斎し、境内の貴布禰社に参拝。その後は終日参籠。
 四日目は、未明、国造は神魂神社本殿と貴布禰社の参拝をすませた後、杵築へ帰る。なお、熊野神社から届けられた火切板を二つに割り、新嘗会のために一つを大庭の国造別邸のお火所に残した。
 国造は駕籠に乗って出雲大社へ戻り、舞殿を拝礼した後、庁ので参籠する。
 五・六日目は、庁の舎で終日参籠。
 七日目の早朝、国造は庁の舎から輿に乗り、出雲大社本殿内に参入してお籠り成就の参拝をし、「御継目の御供」を進納する。これが正式な国造としての出雲大神への最初の奉仕で、その後、国造邸で祝宴が開かれた。
 以上で、七日間の火継神事は終了。
 なお、国造が庁の舎で参籠中、新国造邸では湯立神楽が行われる。邸内のお火所では、前国造用の火が消され、道具や食物一切が埋められるか、または焼却された。そして、萱屋根は葺き替えられ、壁も塗り替えられ、畳や莚類も新調されたのである。

  おわりに

 出雲国造は、大国主神の「御杖代」(依り代)であり、「垂迹」として厳格な潔斎と禁忌が要求された。それは遷宮時に御神体を抱きかかえる重責があったからである。不純一つない清らかな御神体と一体になるためには、心身ともに清めなければならない。それを厳格に行ってきたからこそ、国造は今も変わることなく崇敬されているのである。

  註

 (1) 明治五年十一月十九日、大宮司千家尊福と少宮司北島脩孝がそろって国造に襲職した時の奉告祭祝詞に、出雲国造の祖神は「神漏美乃命以氐」、すなわち天照大神の勅命を賜って出雲大社の祭神「大名持命」を祭ることになり、それ以来、「神火神水」を受け継いできたとある(平井直房『出雲国造火継ぎ神事の研究』三〇六頁、以下『火継ぎ神事』と略記)。
 (2) 松尾充晶「出雲の祭祀遺跡と神社」(松本岩雄・瀧音能之編『新視点 出雲古代史 文献史学と考古学』平凡社、令和五年所収、以下『新視点』と略記)参照。
 (3) 武廣亮平「古代出雲国の有力氏族―『出雲国風土記』の郡司氏族を中心として」(『新視点』所収)参照。
 (4) 工藤浩・松本直樹・松本弘毅校注訳『先代旧事本紀注釈 新訂版』(花鳥社、令和六年)六三頁。
 (5) 源為憲編著『口遊くちずさみ』(天徳元年・九七〇)は、わが国の高層建築ベスト三を、「雲太」(出雲大社本殿)、「和二」(東大寺大仏殿)、「京三」(平安京大極殿)と記した。
 (6) 「康治二年官宣旨案」北島家文書(『大社町史』史料編、大社町、平成九年所収)。
 (7) 「出雲大社文書」(『大日本史料』五―二七、東京大学史料編纂所所蔵史料目録データベース)。
 (8) 神魂神社で最後の火継式は、明治二年の千家尊澄の時で、新嘗会は明治三年が最後であった。『火継ぎ神事』「特殊神事の変容―出雲国造の新嘗会と火継ぎ神事をめぐって―」参照。
〔西岡和彦 神道思想史・神道神学〕

故、更且還来、問其大國主神 「汝子等、事代主神建御名方神 二神者随天神御子之命違白訖。 故、汝心奈何」。 尒答白之、「僕子等、二神随白、僕之不違。 此葦原中國者随命既獻也。 唯、僕住所者、如天神御子之天津①継所知之登陁流[此三字以音下效此]天之御巣而、 底津石根宮柱布斗斯理[此四字以音]、於高天原氷木多迦斯理[多迦斯理四字以音]而治賜者、 僕者於百不足八十②手隠而侍。 亦、僕子等百八十神者、即八重事代主神 ③之御尾前而仕奉者、違神者非也」。 如此之白而、於出雲國之多藝志之小濱天之御舎[多藝志三字以音]而、 水戸神之孫櫛八玉神膳夫、獻天御饗之時禱白而、 櫛八玉神鵜、入海底 出底之波迩[此二字以音]、作天八十毗良迦[此三字以音]而、 ⑤布之柄燧臼 海蓴之柄燧杵而、 出火云、 是我所燧火者、於髙天原者、神産巣日御祖命之 登陁流天之新巣之凝烟[訓凝烟云州湏]之八拳垂麻弖焼擧[麻弖二字以音]、 地下者、於底津石根焼凝而、 栲縄之⑥尋縄打莚、 釣海人之、口大之尾翼鱸[訓鱸⑦湏受岐]、 佐和佐和迩[此五字以音]控依騰而、打竹之登遠〻⑧登遠〻迩[此七字以音]、 天之真魚咋也。 故、建御雷神、返参上、 奏言向和平葦原中國之状
【校異】
①真本「月」。道祥本以下に従って「日」に改める。
②真本「怕」。道祥本以下に従って「垧」に改める。
③真本ナシ。兼永筆本以下に従って「神」を補う。
④真本「吹上」。道祥本以下に従って「咋」に改める。
⑤真本「汝」。道祥本以下に従って「海」に改める。
⑥真本「子」。道祥本以下に従って「千」に改める。
⑦真本「之」。道祥本以下に従って「云」に改める。
⑧真本ナシ。兼永筆本以下に従って「登遠〃」を補う。

そうして、再び戻ってきて、その大国主神を問い質して言ったことには、 「お前の子どもたち、事代主神建御名方神 二はしらの神は天神御子のお言葉に違うことは無いと申し上げ終わった。 それで、お前の心はどうであるのか」と尋ねた。 それで、お答え申し上げて言ったことには、「私の子の二はしらの神が申し上げた通り、私の心も違うところはありません。 この葦原中国はお言葉に従ってすべて献上しましょう。 ただ、私が住む所は、天神御子が天つ日嗣を継承して統治なさる満ち足りた天のお住まいのように、 地底深くにある大きな磐に宮の柱を太くしっかりと立てて、高天原に千木を高くそびえさせて治めてくださるならば、 私は百足らず八十=多くの道の曲がり角の奥にある見えない世界に隠れてお仕え申し上げましょう。 また、私の子の百八十神は、八重事代主神 その神々の先頭と後尾に立ってお仕えするならば、逆らう神は居ないでしょう」と申し上げた。 大国主神は)このように申し上げて、出雲国の多芸志の小浜に天神をもてなすための御殿を作り、 水戸神の孫の櫛八玉神を調理神として、天神に食事を献じる時に祝いごとを申し上げて、 櫛八玉神は鵜となって、海の底に入り、 底の粘土状の土をくわえ出してきて、たくさんの天の器を作り、 海藻の茎を刈り取って火を熾す臼を作り、 海藻の茎を使って火を熾すための杵を作って、 大国主神が)火を鑽り出して言ったことには、 「この私が鑽った火は、高天原には、神産巣日御祖命の 満ち足りた天の新しい住居に煤が長く垂れるくらいに炊き上げ、 地下の方には、大きな磐に届くまで焼き固めて、 栲縄の千尋もある長い縄を伸ばして張り、 釣をする海人が、口の大きな尾鰭の張った立派な鱸を、 ざわざわと音を立てて引き上げ、打竹が撓むように料理台が撓むほどたくさんに、 天の魚の料理を献上します」と言った。 そうして、建御雷神は、(高天原に)返り参り上り、 葦原中国を言葉で以て従わせて平定したことを報告申し上げた。

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