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かれここに、はやをのみことひしく、「しかあらば、あまてらすおほかみひてまからむ」といひて、 すなはち、あめのぼときに、やまかはことごととよみ、くにつちみなふるひき。 しかして、あまてらすおほかみおどろきてらししく、「せのみことのぼゆゑは、かならこころにあらじ。くにうばはむとおもふのみ」とのらして、 すなはかみき、きて、 すなはひだりみぎに、またかづらに、またひだりみぎに、おのおのさかのまがたまたまちて [美り流での四字はおむちゐる。しもれにならふ。] 、 には、のりゆきひ [入をみてふ。しもれにならふ。曽り迩ではおむちゐる。] 、 には、のりゆきけ、 またの二字はおむちゐる。] たかともかして、 ばらてて、 かたにはは、むかもも [三字はおむちゐる。] 、あはゆきごとちらして、 [二字はおむちゐる。] たけぶ [建をみてふ。] 。 たけびてひしく、「なにゆゑにかのぼつる。」ととひき。 しかして、はやをのみことこたまをししく、「やつかれきたなこころし。 ただし、おほかみみことちて、やつかれことたまひしゆゑに、 まを [三字はおむちゐる。] 、『やつかれははのくにかむとおもひてく。』とまをしつ。 しかして、おほかみらししく、『くにるべくあらず。』とのらして、かむたまゆゑに、 まかかむとするさまはむとひてのぼるのみ。しきこころし。」とまをしき。 しかして、あまてらすおほかみらししく、「しかあらば、こころきよあかきはなにちてからむ。」とのらしき。 ここに、はやをのみことこたまをししく、「おのおのまむ。」とまをしき [宇の三字はおむちゐる。しもれにならふ。] 。

○請 「請」は古事記中に十五例。相手に何事かを要求する意味で「コフ」と訓まれる他、相手への要求を伝える意で「マヲス」と訓まれる場合がある。この場面は従来、須佐之男が姉天照大御神に暇乞いを告げる意味で、記伝以降「マヲス」と訓むテキストが大半を占めていたが、この文脈は父神である伊耶那岐命から追放された須佐之男が、今度は天照大御神にお願いをして根之堅州国行きを認めて貰うために昇天するという文脈である故に「コフ」と訓むとする説に従うべきかと思われる(朴美京「須佐之男命の昇天をめぐって―「請」を手掛かりに―」『古事記年報』四十三号、二〇〇一年一月)。 ○曽毗良・比良 ソビラは「ソ(背)+ヒラ(崖・平らな面)」の意で背中を指すということで諸説一致を見るが、「ヒラ」については、腹・胸・脇腹・胸から脇腹にかけて、など一定しない。新編全集は、「「ひら」は鎧の一部で、金属や革の板のことか。背面部の板が「そびら」、前面部が「ひら」で、どちらにも矢入れを付けたのである。」というように、従来とは異なる解釈をしているが、その妥当性については判断し難い。考古史料等から見ると、背中と脇腹等との両方に靱を負うのは異例であり、そこからこの天照大御神の武装の持つ意味をどのように考えるべきかが問題となるという。体の各所に珠も装着しているのは、次の〈うけひ〉神話との関連によるものとも思われるが、或いは何かしらの儀礼・儀式と関わる装束であった可能性もあろう。ただ、『日本書紀』第六段本書には「背に千箭の靱と五百箭の靱とを負ひ」とあり、一書一には「背上に靱を負ひ」とあって、「そびら」と「ひら」との両方に靱を負うという描写はない。これによれば『日本書紀』新編全集の頭注が記すように、「身につけられるだけの玉を飾りつけ、帯びられるだけの矢を持って、相手を圧倒する」ことを示すための誇張表現であったとも取れる。しかし、『古事記』のこの箇所の文字表記は、次の〈うけひ〉の場面、及び天照大御神の石屋戸隠りの際の神々の描写とともに、非常にリズミカルで躍動感があり、口承的要素を持つことから考えるならば、やはり単なる誇張表現ではなく、儀式的背景があるのかも知れない。【→補注五】 【→補注六】 ○伊都 イツ(稜威)は厳・斎で、神聖な威力の意。『古事記』ではこの言葉が出る度に音注がついていて異例である。 ○向股 向かい合った股で両股の意。または向かい合った部分の股で内股の意か。「向○」という表現は他に殆ど例が見えない。「祈年祭祝詞」に一例「向股」が見えるが、青木紀元はこれを「ムカハギ」と訓む可能性もあるとし、その場合は、むこうずねの意になると述べる(『祝詞全評釈』右文書院、二〇〇〇年六月)。また、『出雲国風土記』楯縫郡神名備山条に「向位」という語が見えるが、意味が良く分からないということで、誤字説を取る注釈書も多い。恐らく「向かい合ったクラ(座)」の意で、対面する、神の居る場所を指していると思われる。 ○耶心・清明 この場面から、天石戸神話に繋がる須佐之男乱行の場面までは、須佐之男の心が問題とされる。天照大御神からは「不善心」「欲奪我国耳」と疑われ、自身では「無耶心」「無異心」と言い、天照大御神から心の「清明」の証しを求められる。「耶(邪)心」は謀反の心を表し、「清明心」は忠誠心を指すと指摘されるが、果たして須佐之男の心をどのように捉えれば良いのか、把握し難い面がある。この問題は須佐之男の「勝さび」のところで改めて考えたい。 さて、この場面では明らかに天照大御神が上位に位置づけられている。天照大御神の発話引用に際しては「詔」「問」が使われ、須佐之男の発話引用には「白」(或いは「曰」)が使用される。加えて須佐之男は一人称に「僕」を使っている。会話内容や、武装の描写を見ても、天照大御神が須佐之男に対して威圧的な態度を取っている。しかしこの関係性は、〈うけひ〉の後に変質している点に問題がある。一方で天照大御神の発話では須佐之男のことを「我が那勢命」と呼んでおり、この呼称は〈うけひ〉の後も変わらない。「我が那勢命」は、伊耶那美が伊耶那岐を呼ぶ際の呼称と同じであり、天照大御神と須佐之男との関係性を考える際の参考となるか。 ○宇気比 〈うけひ〉は、予めAならばA’の結果が、BならばB’の結果が出るということを前提条件として設け、それによって真実や、神の意志を確認する言語呪術の一種。『古事記』では、木花之佐久夜毗売と石長比売の迩迩芸命との婚姻の場面、垂仁記本牟遅和気御子への出雲大神の祟りの場面、仲哀記の香坂王・忍熊王の反乱の場面においてこの語が見受けられる。『日本書紀』では当該箇所には「誓約之中」の語があり、「宇気譬能美難箇」の訓注が見られる(六段本書)。この場面、各々子を生むことで、須佐之男の清明を証明しようというのは、展開上無理があるように思われる。ここでは神話を強引に展開させるための方法が様々に用いられているようである。『日本書紀』では男神を生んだら「清」「赤」であるのに対し、女神を生んだら「濁」「黒」であるというように、本書・一書ともに必ず前提条件を設けて〈うけひ〉を行うのに対し、『古事記』では前提条件を設けずに〈うけひ〉を始める点等、問題が多い。【→補注七】

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【補注五】天照大御神の武装描写―『古事記』『日本書紀』の比較を通して―

『古事記』上巻と『日本書紀』神代巻の所伝の一部とが極めて高い類似性を有していることは夙に指摘がある(梅沢伊勢三『記紀批判』創元社、一九六二年五月。北川和秀「古事記上巻と日本書紀神代巻との関係」『文学』四八-五、一九八〇年五月。等)。なかでも『古事記』須佐之男の昇天条にみえる天照大御神の武装描写と『日本書紀』神代上・第六段正文の酷似は顕著であり、両書の関係性の深さを如実に示していると言えよう。記紀の該当箇所本文を示し、両書で描写の共通性が看取される箇所に同種の傍線を付すと次のようになる。
【記】即ち御髪を解き、御みづらを纏きて、乃ち左右の御みづらに、亦、御縵に、亦、左右の御手に、各八尺の勾璁の五百津のみすまるの珠を纏き持ちて、そびらには千入の靫を負ひ、ひらには、五百入の靫を附け、亦、いつの竹鞆を取り佩かして、弓腹を振り立てて、堅庭は、向股に踏みなづみ、沫雪の如く蹶ゑ散して、いつの男と建ぶ。蹈み建びて、待ち問ひしく、(『古事記』上巻・須佐之男命の昇天)
【紀】乃ち髪を結ひて髻とし、裳を縛ひて袴とし、便ち八坂瓊の五百箇の御統を以ちて、其の髻・鬘と腕とに纏ひ、又背に千箭の靫と五百箭の靫とを負ひ、臂に稜威の高鞆を著け、弓彇を振起し、剣柄を急握り、堅庭を蹈みて股に陷れ、沫雪の若くに蹴散し、稜威の雄誥を奮はし、稜威の嘖譲を発して、俓に詰り問ひたまひき。(『日本書紀』神代上・第六段正文)
右に引いた箇所に限れば、『古事記』にあって『日本書紀』にない描写はほとんどないと言え、反対に『日本書紀』に独自の描写が浮き彫りとなる。即ち、「裳を縛ひて袴とし」「剣柄を急握り」「稜威の嘖譲を発して」がそれである。これを以て直ちに記紀の先後関係を論じるのは困難であるが、『日本書紀』の表現を確認したとき、この独自描写は対句的表現を取り入れた潤色である可能性が視野に入る。
A髪を結ひて髻とし、裳を縛ひて袴とし   (結レ髪為レ髻、縛レ裳為レ袴)

B弓彇を振起し、剣柄を急握り       (振二起弓彇一、急二握剣柄一)

C稜威の雄誥を奮はし、稜威の嘖譲を発して (奮二稜威之雄誥一、発二稜威之嘖譲一)

 Aの「裳を縛ひて袴とし」は男装という特殊な事情にかかる表現であるため、類似する文言を見いだすことができないものの、BとCについては次のような類例が見られる。
①時に道臣命、審に賊害之心有ることを知りて、大きに怒りC誥び嘖ひて曰く、「虜、爾が造れる屋には、爾自ら居よ」といふ。因りて、B剣案り弓彎ひて(案レ剣彎レ弓)、逼めて催し入れしむ。(神武即位前紀戊午年秋八月)

 ②(武内宿祢が)既にして、皇后の命を挙げて、忍熊王を誘りて曰く、「吾、天下を貪らず。唯幼き王を懐き、君王に従ふらくのみ。豈距き戦ふこと有らむや。願はくは、共に弦を断ち兵を捨て、与に連和しみせむ。然らば、君王天業に登りて席に安みし、枕を高くして専万機を制さむ」といふ。則ち顕に軍の中に令して、悉にB弦を断ち、刀を解き(断レ弦解レ刀)、河水に投れしむ。(神功皇后摂政元年三月)

また、弓と刀剣との取り合わせは「大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ」(②一九九・柿本人麻呂)や「ますらをの 心振り起し 剣大刀 腰に取り佩き 梓弓 靫取り負ひて」(③四七八・大伴家持)などのように『万葉集』にも確認できる。
特にBの表現は極めて普遍的な対句的表現と言えそうであり、神の誕生と関わって刀剣に重要な役割を与えている『日本書紀』第六段の一書群とは異なり、刀剣が何ら重要性を持たない第六段正文において「剣柄を急握り」の一文が唐突に見えることは、対句的表現による潤色であると結論づけられるだろう。
『古事記』の①・②対応箇所を確認すると、そこには『日本書紀』のような対句的表現を用いた文飾意識は看取できない。
1大伴連等が祖道臣命・久米直等が祖大久米命の二人、兄宇迦斯を召して、罵詈りて云はく、「いが作り仕へ奉れる大殿の内には、おれ、先づ入りて、其の将に仕へ奉らむと為る状を明かし白せ」といひて、即ち横刀の手上を握り、矛ゆけ、矢刺して、追ひ入れし時に、(神武記・兄宇迦斯と弟宇迦斯)

2建振熊命、権りて云はしむらく、「息長帯日売命は、既に崩りましぬ。故、更に戦ふべきこと無し」といはしめて、即ち弓弦を断ちて、欺陽りて帰り服ひき。(仲哀記・忍熊王の反乱)

 先学によって縷々指摘されてきた記紀の原資料を想定できるとすれば(先掲梅沢・北川論文等)、当該箇所については『古事記』の本文がその原資料の情報を色濃く残していると言えるだろう。 〔小野諒巳 日本上代文学〕

【補注六】天照大神の武装

【補注六】天照大神の武装
 高天原で須佐之男命を迎える天照大神は男装し、靫・鞆を身につけ弓を持ち武装する。ただし武装は弓・矢のみで、大刀などには触れていない。ここで注目すべき点は、矢を入れる靫の装着状況である。「曽毘良(そびら)には千入の靫を負ひ、比良(ひら)には五百入の靫を附け」とある。「そびら」を背、「ひら」を脇と解釈すると、天照大神は背と脇に靫を装着していたことになる。この姿は、考古学的に見ると年代・系譜が異なる武具を同時に身につけるという特徴的な形である。
 矢を入れる武具で、背に負い、鏃(やじり)(矢の先端)を上に、矢羽根を下にして矢を収納するものは、考古資料では「靫」と分類される。古墳時代前期の四世紀前半には、滋賀県雪野山古墳などの出土例が確認でき、四世紀後半には盾などとともに器財埴輪として造形され、五世紀にかけて古墳の墳丘上に樹立された。三重県石山古墳では、前方後円墳の後円部上、遺体を埋葬した部分を区画するように靫の埴輪を立て並べており、靫の埴輪は遺体を外部から保護・護衛する機能を持っていたと推定できる。
 一方、矢を入れ脇に付ける武具は、考古学資料では「胡籙」に分類され、鏃(矢の先端)を下に矢羽根を上に矢を収納する。五世紀代に朝鮮半島から伝来した新しいタイプで、本来は騎馬上から矢を射る騎射用である。五世紀後半から六世紀にかけて列島内各地の古墳から副葬品として多数出土する。継体天皇陵の可能性が指摘されている六世紀前半の前方後円墳、大阪府今城塚古墳からは金銅装の華麗な胡籙が出土している。大王が使う武具に胡籙は含まれていたといってよいだろう。
 胡籙が普及した六世紀代においても、靫は人物埴輪の背に表現されたり、盾とともに九州の装飾古墳の壁画に描かれたりしている。防禦という機能を象徴する、伝統的で、信仰的・儀礼的な武具として、靫は認識されていたと考えられる。
 以上を総合すると、天照大神の武装は、四世紀以来の伝統があり、信仰的・儀礼的な性格を強く持つ「靫」と、五世紀に伝来した最新の「胡籙」を同時に装着したものとなる。この姿は、伝統的・信仰的な側面と最新の要素を併せ持つ、五・六世紀代の大王の性格を背景としていたのではないだろうか。

参考文献
・千家和比古「第三章 Ⅲ 胡籙について」『上総山王山古墳』上総山王山古墳発掘調査団、一九八〇。

・高橋克壽『埴輪の世紀』講談社、一九九六。

・田中琢・佐原真他編『日本考古学事典』三省堂、二〇〇二。

・高槻市立今城塚古代歴史館編『よみがえる古代の煌き―副葬品にみる今城塚古墳の時代』高槻市立今城塚古代歴史館、二〇一二。

〔笹生衛 考古学・日本古代史〕

【補注七】ウケヒ神話・記紀の比較

ウケヒによって各々子を出現させるこの神話は、皇統に繋がる重要な要素を持つ。最初に出現した男神ニニギの天孫降臨が天皇による地上統治へと繋がるが、記紀の神話を見比べる限り、親神と子神との関係には曖昧な部分がある。
 問題となるのは、スサノヲの心と子神の帰属である。『古事記』では、天照大御神の宣言によれば、物実の持ち主によって子神の帰属が決定されるもの故に、女神はスサノヲの子、男神は天照大御神の子として位置付けられる。スサノヲは自分の子が女神であったことを理由に、自らの「勝サビ」によって己の心の清明を主張するが、その勝利宣言が客観的に保証されているものであるのか否か、曖昧である。ただ、子の帰属は天照大御神の宣言(詔別)によって決定し、スサノヲの清明はその天照大御神の宣言を根拠として宣言されるというように、両者の発言がウケヒの展開において重要な役割を果たしている。以下に『古事記』と『日本書紀』の所伝とを比較し、『古事記』ウケヒ神話の特質について考えたい。

ウケヒ神話・記紀の比較

『古事記』と比較した場合、『日本書紀』の大きな特徴は、ウケヒの前提条件を設けているという点であるが、これがウケヒの通常の型である。『日本書紀』では一貫して男神を生んだ方が「清」「赤」「善」であり、女神を生んだ方が「濁」「黒」「不善」となるという点で、『古事記』とは全く逆となっている。また、所謂アマテラス系と日神系とで分けた場合、アマテラス系ではすべて物実の交換があるのに対し、日神系にはそれがないという点が大きく異なる。そして物実の交換がない型の場合はアマテラスが剣を持ち、スサノヲが玉を持つという点でも違いが見られる。一書二のみは物実の交換がありながらもアマテラスが剣の持ち主で、スサノヲが玉の持ち主という点で両方が混ざったような形となっている。この一書二以外では、記紀ともに玉から男神、剣から女神が出現するということ、玉から男神を出現させるのがスサノヲで、剣から女神を出現させるのがアマテラス(日神)であるという点で共通している。
 子神の帰属に関しては、本書の場合、物根の持ち主によって帰属が決まるという点では『古事記』と同様であるが、男神女神の子を出現させる行為によって清濁が決まるのか、物根の持ち主によって清濁が決まるのかが明確ではない。従ってウケヒの勝敗については曖昧なままである。一書一ではスサノヲが自らの玉から男神を出現させているので、スサノヲの心が清明であることが証明されているし、また男神の親として位置付けられることで、スサノヲが皇統の祖に位置付けられる可能性をも残す記述となっている。同じ日神系でも一書三と七段一書三については、スサノヲの清明が証明されつつも、生まれた男神は日神に奉られており、それによって日神が皇統の祖の位置を保つ形となっている。このように、本来は子神の帰属が最も重要な要素と思われる故に、本書の場合はウケヒの勝敗については曖昧なまま、子神の帰属のみを明確にする形となっているのに対し、一書一の場合はむしろウケヒの勝敗の方に重点をおいた形となっているのであろう。いずれにせよ、『古事記』がウケヒの勝敗がそのままスサノヲの乱暴行為に繋がるのとは異なり、『日本書紀』の場合はウケヒの結果で一端話が閉じられ、スサノヲの乱暴行為に直結していないという点に両書の記述の相違が生じる所以があるものと思われる。
 なお、『日本書紀』では一貫して男神を生んだ方を「清」「赤」とするところから、これがウケヒによる子生みの本来の型としてあったのであろうと言われるが、子生みによるウケヒという型の普遍性・伝承性がどの程度認められるのか不明であるし、記紀以前に子生みのウケヒの定型があったのかどうかも疑わしい。これはあくまでも記紀それぞれの構想上の問題として考えるべきではないか。『古事記』で女神を生んだら勝ちであるとするのは、スサノヲがあくまでも国を奪う心がないことを証明するためであるので、皇統を受け継ぐものではない女子を生むことはまさにそれを証明することになるのであろう(菅野雅雄『古事記構想の研究』桜楓社、一九九三年六月)。既に権東祐によって論じられているが、『日本書紀』の方で男を生んだら勝ちとするのは、『日本書紀』が陰陽の論理によって記されていることに関わるのではないか。『日本書紀』冒頭部の天地開闢神話においては、「其の清陽なる者は、薄靡きて天に為り、重濁なる者は、淹滞りて地に為る」(本書)とあるように、天は清であり陽であるのに対し、地は濁であり陰である。陰陽は後に陰神が伊弉冉尊、陽神が伊奘諾尊を指すように、天=陽=清=男、地=陰=濁=女という対応関係にある。『日本書紀』においては一貫して男を産めば勝ちとするのは、あくまでも『日本書紀』の陰陽の論理によると考えるべきではなかろうか(権東祐『スサノヲの変貌―古代から中世へ―』法藏館、二〇一三年二月)。〔谷口雅博 日本上代文学〕

故於是速湏佐之男命言然者請天照大御神将罷 乃参上天時山川悉動國土皆震 尒天照大御神①驚而詔我那勢命之上②由者必不善心欲③我國耳 即解御髪纒御美豆羅而 乃於左右御美豆羅亦於御亦於左右御④各纒持八尺勾 之五百津之美湏麻流之珠而[自美至流四字以音下效此] 曽毗良迩者負千入之⑤[訓入云能理下效此自曽至迩以音也] 比良迩者附五百入之靱 亦所取佩伊都[此二字以音]之竹鞆而 弓腹振立而 堅庭者於向⑥股蹈那豆美[三字以音]如沫雪蹶散而 伊都[二字以音]之男⑦[訓建云多祁夫] 蹈建而⑧問何故上来 尒速湏佐之男命答⑨僕者無耶心 唯大御神之命以⑩賜僕之哭伊佐知流之事故 ⑪都良久[三字以音]僕欲徃妣國以哭 尒大御神詔汝者不可在此國而神夜良比夜良比賜故 以為請将罷徃之状参上耳無異心 尒天照大御神詔然者汝心之清⑫何以知 於是速湏佐之男命答⑬各宇氣比而生子[自宇以下三字以音⑭效此] ①真「開」。道果本以下による。
②真「朱」。道果本以下による。
③真「」。伊勢系「」。兼永本・梵舜本・前田本「」、曼殊院本以下「奪」。曼殊院本以下による。
④真 ナシ。道果本以下による。
⑤真「勒」。道果本以下による。
⑥真「向於」。道果本以下による。
⑦真「庭」。道果本以下による。
⑧真「侍」。道果本以下による。
⑨真・伊勢系「曰」。兼永本以下による。
⑩真「同」。道果本以下による。
⑪真「自」。道果本以下による。
⑫真「洲」。道果本以下による。
⑬真「曰」。道果本以下による。
⑭真・道果本 ナシ。道祥本・春瑜本及び兼永本以下による。

さて、速須佐之男命が言ったことには、「それならば、天照大御神にお願いして根之堅州国へ退出しよう」と言って、 天に参上した時、山や川はみな鳴動し、国土はすべて震えた。 そうして、天照大御神はこれを聞いて驚いて仰ったことには、「わが弟の命が上ってくる理由は、きっと善い心ではあるまい。わが国を奪おうと思ってのみのことであろう」と仰って、 御髪を解き、御みずらに結い直して、 左右の御みずらに、また御かずらに、また左右の御手に、それぞれ八尺の勾玉を数多く長い緒で貫き通した玉飾りを巻きつけ、 背には千本入りの矢入れを背負い、 脇腹には五百本入りの矢入れをつけ、 また威力のある竹製の鞆を取りつけ、 弓の内側を向けて振り立てて、 堅い土の庭で、両腿を踏み込んで土に埋め、地面を沫雪のように蹴散らかして、 稜威ある男のように雄叫びをあげる。 荒々しく足を踏み雄叫びして須佐之男命を待ち受けて問うたことには、「何のために上ってきたのか」と問うた。 これに対し、速須佐之男命が答えて申すことには、「私には邪心はありません。 ただ、伊耶那岐大御神の仰せで、私が泣きわめくことをお問いになったので 私が申したことは、『私は妣の国へ行きたいと思って泣いているのです』と申しました。 すると、伊耶那岐大御神が仰ったことには、『お前はこの国にいてはならない』と仰って、神やらいに追い払われたので、 妣の国へまかり行こうとすることをお許し願おうと思って、参上しただけです。他の意図はありません」と申した。 そうして、天照大御神が仰ったことには、「それならば、お前の心の清明は何によって知ろうか」と仰った。 そこで、速須佐之男命が答えて申したことには、「お互いにうけいをして子を生みましょう」と申した。

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