古事記ビューアー

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ここに、きのみことかしこみてかへときに、 いもみのみことはぢせつ」と言ひて、 すなは[此六字以音]をつかはしてめき。 しかして、きのみことくろかづらりてつるすなはえびかづらのりき。 ひりあひだく。 なほふ。 またみぎせるくしきてつるすなはたかむなりき。 あひだく。 またのちには、やくさのいかづちがみに、黄泉よもついくさえてめき。 しかして、かしせるつかのつるぎきてしりへ[此四字以音] なほふ。 黄泉よもつ[此二字以音]さかさかもといたときに、 さかもとる、もものりて待ちちしかば、 ことごとかへしき。 しかして、きのみこともものらししく、「なれたすけしがごとく、あしはらのなかつくにに有らゆる[此四字以音]あおひとくさの、くるしきちてうれなやときに、たすくべし」とらし、 たまひてみのみことふ[自意至美以音]。

○見畏みて 『古事記』の「畏」は全十七例。その内「見畏」は七例ある。「畏」と共通する文字には「惶」「懼」「恐」があるが、「見」に下接する場合は全て「畏」であり、使い分けの意識が見られる。「見畏」は、多く異類婚姻譚で相手の本性を見た時の反応として記され、その後に見た側が逃走するという展開を持つ。壬生幸子は、「見畏」は、主として上位者が下位者のひきおこした何らかの状態により、予想外の下位者の実態を知って、おそれて遠ざかろうとする、あるいは遠ざけようとする、といった意識に基づく表現であると説く(壬生幸子「天照大御神の「見畏」―天石屋戸こもりをみちびく古事記の表現と論理―」『古事記年報』33、一九九一・一)。 ○辱 『古事記』に限らず、上代文献に見える異類婚姻譚においては、見るなの禁が破られたとき、必ずと言って良いほど「はぢ」という表現を伴う。この「はぢ」は社会的な規範に関わる問題であると同時に、宗教性を帯びた規範としても解釈される。『常陸国風土記』香島郡の童子女松原の話において、密会する姿を人に見られることを「恥」じて松の木となってしまった男女は、「カミノヲトコ・カミノヲトメ」であったことを考えれば、やはり「はぢ」は宗教的規範・禁忌と関わりを持つものと想われるのである。 ○予母都志許売 ヨモツシコメ。黄泉国の醜女。『日本書紀』神代上五段一書六に「泉津醜女」とあり、同一書七に「醜女、此云志許賣」とある。「シコ」の持つ意味合いについては、単に「醜い」意を表すとする見方と、威力のある、勇猛なものに対して云われるという見方がある。『万葉集』に以下のような「シコ」が見られる。「鬼之益卜雄」(2・一一七)、「之許乃美多弖」(20・四三七三)、「鬼乃志許草」(4・七二七、12・三〇六二)、「志許霍公鳥」(8・一五〇七)、「四去霍公鳥」(10・一九五一)、「小屋之四忌屋尓」「鬼之四忌手乎」(13・三二七〇)、「之許都於吉奈乃」(17・四〇一一)。「勇猛な」の意味は、はじめの二例などを元に言われる場合があるが、歌の解釈上そうとは言い切れない面がある。また、ヨモツシコメと同様の語構成を持つ「葦原色許男」の存在によって、やはり「勇猛」さを読み取る見方もあるが、「葦原色許男」にしてもこれを葦原(中国)の醜い男という理解も成り立ち得る。コノハナノサクヤビメとイハナガヒメの姉妹の話などを参考にすれば、「醜」は「美」の対極にあって、いずれの場合も平常とは異なる威力を持った存在に対して言われるようなところがある。単に「醜さ」だけを示すものとは思われない。 ○黄泉比良坂 『日本書紀』神代上第五段一書七に「泉津平坂、此云余母津比羅佐可」、鎮火祭祝詞に「与美津枚坂」。黄泉国と葦原中国との境界。ヒラは元来崖状の地形、または傾斜地を指し、サカは境界を意味するとされるが、『古事記』の場合そうした原義がどの程度残っているのか、不明。『古事記』で「坂」と出てくる場合は現在の「坂」とさほど変わらない意味で使われているようにも思われるが、「海坂」(海幸山幸神話条)などのように、神話において異界との間に存在する「坂」はやはり「境界」の意味が強いのかも知れない。後文に、「今謂出雲国之伊賦夜坂也」とある。
○坂本 先述の通り、ここに「坂本」という表現のあることが、黄泉国の在処に関してのある種の混乱を招く原因となっている。『日本書紀』を見ると、「已に泉津平坂に到ります」「その坂路に塞ひて」(第五段一書六)、「道の辺に大きなる桃の樹有り」(一書九)、「泉平坂に相闘ふに及りて」(一書十)などと見えるが、「坂本」という表現は見られず、文脈上も傾斜地を思わせる描写はない。或いはこちらの方が本来の姿で、「ヨモ」に黄泉の字を充てるようになって後に、葦原中国と黄泉国との間に位置的な上下関係が意識されるようになったものかも知れない。『万葉集』の「下辺の使い」( 5 ・九〇五)や、鎮火祭祝詞の「下つ国」など、時代が新しくなるに連れて、その上下関係は、黄泉国を下とする観念に傾いていったものと思われる。
○悉く扳き返りき 「扳」の部分、本文としてどの文字 を採用するかによって、黄泉国の位置づけの理解に大きくかかわるものと見られている。「攻返也」(真)「逃返也」(道果・道祥・春瑜)ならば特に問題はないが、卜部系諸本に従って「坂返也」とする場合、「坂本」という表現ともあわせ考えるならば、坂を下って追いかけて来た黄泉軍が、坂を上って返ったという位置関係となる。つまり、黄泉国側は坂の上にあるということになる。黄泉津比良坂を下りきった坂本から返ったとするならば、黄泉津比良坂自体、黄泉国側にあるということになって、その名称とも合致する。西宮一民は、「攻め返す」という動作は存在しないこと、「逃」は『先代旧事本紀』に影響されてのものであること、真福寺本の「攻」が「坂」と近いことから、「坂」を採用している。確かに文字的には「坂」の可能性が高いが、しかしそれがすぐには黄泉国の位置確定には繋がらない。ひとつには、卜部系の諸本には「坂より返る」とあって、坂のある場所から逃げ帰ったという理解が出来ることが挙げられる。また、「坂本」に到ったという表現だが、こういう場合の「坂本」というのは、これから上る場合に使用する言葉であることも指摘されている(吉野政治「「黄泉比良坂の坂本」―黄泉国の在処について―」『古事記年報』41 、一九九九・一)。黄泉津比良坂という名称について言えば、これ自体を境界と捉えるならば、どちらの世界に傾いているかというのは問題にならないということも言える。以上の点を踏まえて考えるならば、本文として仮に「坂返也」が採用されたとしても、黄泉国が坂の上にあった(つまりヨミ=山説)という考えを補強するものとはならない。黄泉津比良坂は出口にあたるわけだが、この部分のみを捉えて黄泉国が坂の上か下かと考えるのはあまり意味がないのではないか(構図として単純化しすぎるのではないかということである)。なお、本注釈で「逃返」を採用しない理由は、真福寺本の「攻」とは字体が離れてしまうことによる。また「坂返」ならば、『古事記』の表記法から言えば「返坂」となるであろうから、これも採らない。よって、「攻」との字体の近似により、今試みに角川文庫(新訂・新版とも)の「扳」説を採る。「扳」は『新撰字鏡』(天治本巻十)に「扳〔普姦反引也〕」とある。 ○葦原中国 『古事記』神話における地上世界の名称。 ここが初出。異世界において認識される名称であると思われる。次項の「宇都志伎青人草」が、「葦原中国」初出箇所において話題となるのは、葦原中国と「宇都志伎青人草」との関連の深さを思わせるものがある。大国主神の亦名に「葦原色許男」と「宇都志国玉(若しくは宇都志国主)」とが含まれている点とも関わりがありそうである【→補注六】。 ○宇都志伎青人草 「ウツシ(現実の)」き「青人草(青々とした草である人)」。現実の世界に生きる人を青々とした草に例えた表現とも、弱々しくはかない草に例えた表現とも言われる【→補注六】。

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ウツシキアヲヒトクサ

「ウツシ」とはどういう意味の言葉か。黄泉国神話以外では『古事記』の中には以下のような用例がある。
  ①故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金析命の子孫ぞ。宇都志三字以音。(みそき)
  ②亦の名は宇都志国玉神と謂ひ、宇都志三字以音。(湏佐之男命の系譜)
  ③亦宇都志国主神と為りて、(根の堅州国訪問)
  ④ (春山之霞壮士)尒して、愁へて其の母に白しし時に、御祖答へて曰ひしく、「我が御世の事、能く許曽神習はめ。又宇都志岐青人草習へ乎、其の物を償はぬ」。(応神記)
  ⑤ 天皇、是に、惶畏て白したまひしく、恐し、我が大神、宇都志意美にしあれば、自宇下五字以音。覚らずありけり。」と白して、大御刀及弓矢を始めて、百官の人等の服せる衣服を脱かしめて拝みて献つる。(雄略記)
 ①の場合、伊耶那岐命の禊によって出現した綿津見三神は、阿曇連が祖神として祭り仕える神であり、その阿曇連等は、綿津見神の子の宇都志日金析命の子孫であるという。『古事記』の中で、「祖神」「子孫」が使われるのはここのみである。「祖神」と「子孫」との間を繋ぐ存在に「宇都志」という語が冠されているのは、神と人とを繋ぐ位置付けにこの命の存在があるということを示しているのではなかろうか。なお、ここは『古事記』の始祖記述の初出であるという点も併せて、神と人との連続ということに対する『古事記』の認識とも絡んでくる問題を孕んでいるかも知れない。②と③は大国主神の亦名である。③の方をあえて「宇都志国主神」としているのは、本文校訂と文脈の検討結果による。その点も含め、大国主神の亦名に何故「宇都志」が冠されるのかについては、谷口雅博「大国主神の「亦名」記載の意義」『論集上代文学』(三十七冊、二〇一六年)を参照されたい。④は、兄の秋山之下氷壮士と、弟の春山之霞壮士とが妻争いをした時、弟が婚姻に成功したならば差し出すと言った約束の品を、実際に弟が婚姻を為した際に提出しなかった時に、兄弟の母が言った言葉である。兄は「我御世」の事を習うべきであったのに、「宇都志岐青人草」に習ってしまったせいか、約束の品を出さないことだ」と母が判断をしている。「習」を中心に見れば、「神」と「宇都志岐青人草」とが対応関係にある。つまり両者ともに兄秋山に対して働きかけを為しうる存在となっていることが分かる。「神」と「宇都志岐青人草」とがともに存在しているというあり方である。そして⑤の「宇都志意美」については「現し大身」ととって、顕現している一言主神のことを表していると取られることもあったが、上代特殊仮名遣いでは「美」が甲類、「身」が乙類であることから、「大身」説は否定されている。現状では、「現し大霊」説(西宮一民『古事記』修訂版、おうふう、二〇〇〇年、頭注)、「現し大臣」説(毛利正守「「うつしおみ」と「うつせみ・うつそみ」考」『萬葉語文研究』第 10 集、和泉書院、二〇一四年)などがあり、確定はしていないが、雄略天皇は自身が存在する世界の側から「ウツシ」といったのであり、神の側から「ウツシ」と言う他の例とは異なる。ウツシという語が、「神の世界」対「(現実の)人の世界」という構図と関わりを持つ言葉であるとした場合、神の側からこれを言えば、人の側に関与する場合に「ウツシ」という語が見られることになるが、⑤のように現実世界の側からこれを言えば、自らの側に属するもののみならず、神の側に属するものが顕現している場合に「ウツシ」が使われることにもなろう。この点は『日本書紀』の次の例によって確認される。
  ⑥時に道臣命に勅すらく、「今高皇産霊尊を以て、朕親ら顕斎 顕斎、此をば宇図詩怡破毘と云ふ。を作さむ。・・・」(『日本書紀』神武即位前)
 この用例に関し、例えば新編日本古典文学全集『日本書紀①』の頭注には次のような説明がある。
  実際には見えない神が眼前に顕在しているように忌み慎んで祭祀をすること。ここでは神武天皇がその神霊の憑人となり、自ら高皇産霊尊となることによって、目の前に顕在した祭神となる祭祀の形態をいう。
 本来見えないはずの神の側のものが人の側に顕現し、見える状態のものを「ウツシ」と言っているのである。このように、「ウツシ」は、人の世界にあっては、神の世界に属する存在が顕現する場合に、逆に神の世界にあっては、人に連なる存在に関与する場合において使われるということが理解される。神話世界の中にあって、人の世界(神話の世界においては、青人草の世界ということになるが)と神の世界とが併存しており、その人の生死は伊耶那岐命と伊耶那美命によって把握されているということの起源がこの話なのであろう。そして、伊耶那岐命が桃の実に向かって言った、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国に有らゆる宇都志伎青人草の、苦しき瀬に落ちて患へ惣む時に、助くべし」という言葉によるならば、黄泉国は「青人草」が死して向かう場所として位置づけられているということが理解される。 〔谷口雅博 日本上代文学〕

ウツシキアヲヒトクサ

「ウツシ」とはどういう意味の言葉か。黄泉国神話以外では『古事記』の中には以下のような用例がある。
  ①故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金析命の子孫ぞ。宇都志三字以音。(みそき)
  ②亦の名は宇都志国玉神と謂ひ、宇都志三字以音。(湏佐之男命の系譜)
  ③亦宇都志国主神と為りて、(根の堅州国訪問)
  ④ (春山之霞壮士)尒して、愁へて其の母に白しし時に、御祖答へて曰ひしく、「我が御世の事、能く許曽神習はめ。又宇都志岐青人草習へ乎、其の物を償はぬ」。(応神記)
  ⑤ 天皇、是に、惶畏て白したまひしく、恐し、我が大神、宇都志意美にしあれば、自宇下五字以音。覚らずありけり。」と白して、大御刀及弓矢を始めて、百官の人等の服せる衣服を脱かしめて拝みて献つる。(雄略記)
 ①の場合、伊耶那岐命の禊によって出現した綿津見三神は、阿曇連が祖神として祭り仕える神であり、その阿曇連等は、綿津見神の子の宇都志日金析命の子孫であるという。『古事記』の中で、「祖神」「子孫」が使われるのはここのみである。「祖神」と「子孫」との間を繋ぐ存在に「宇都志」という語が冠されているのは、神と人とを繋ぐ位置付けにこの命の存在があるということを示しているのではなかろうか。なお、ここは『古事記』の始祖記述の初出であるという点も併せて、神と人との連続ということに対する『古事記』の認識とも絡んでくる問題を孕んでいるかも知れない。②と③は大国主神の亦名である。③の方をあえて「宇都志国主神」としているのは、本文校訂と文脈の検討結果による。その点も含め、大国主神の亦名に何故「宇都志」が冠されるのかについては、谷口雅博「大国主神の「亦名」記載の意義」『論集上代文学』(三十七冊、二〇一六年)を参照されたい。④は、兄の秋山之下氷壮士と、弟の春山之霞壮士とが妻争いをした時、弟が婚姻に成功したならば差し出すと言った約束の品を、実際に弟が婚姻を為した際に提出しなかった時に、兄弟の母が言った言葉である。兄は「我御世」の事を習うべきであったのに、「宇都志岐青人草」に習ってしまったせいか、約束の品を出さないことだ」と母が判断をしている。「習」を中心に見れば、「神」と「宇都志岐青人草」とが対応関係にある。つまり両者ともに兄秋山に対して働きかけを為しうる存在となっていることが分かる。「神」と「宇都志岐青人草」とがともに存在しているというあり方である。そして⑤の「宇都志意美」については「現し大身」ととって、顕現している一言主神のことを表していると取られることもあったが、上代特殊仮名遣いでは「美」が甲類、「身」が乙類であることから、「大身」説は否定されている。現状では、「現し大霊」説(西宮一民『古事記』修訂版、おうふう、二〇〇〇年、頭注)、「現し大臣」説(毛利正守「「うつしおみ」と「うつせみ・うつそみ」考」『萬葉語文研究』第 10 集、和泉書院、二〇一四年)などがあり、確定はしていないが、雄略天皇は自身が存在する世界の側から「ウツシ」といったのであり、神の側から「ウツシ」と言う他の例とは異なる。ウツシという語が、「神の世界」対「(現実の)人の世界」という構図と関わりを持つ言葉であるとした場合、神の側からこれを言えば、人の側に関与する場合に「ウツシ」という語が見られることになるが、⑤のように現実世界の側からこれを言えば、自らの側に属するもののみならず、神の側に属するものが顕現している場合に「ウツシ」が使われることにもなろう。この点は『日本書紀』の次の例によって確認される。
  ⑥時に道臣命に勅すらく、「今高皇産霊尊を以て、朕親ら顕斎 顕斎、此をば宇図詩怡破毘と云ふ。を作さむ。・・・」(『日本書紀』神武即位前)
 この用例に関し、例えば新編日本古典文学全集『日本書紀①』の頭注には次のような説明がある。
  実際には見えない神が眼前に顕在しているように忌み慎んで祭祀をすること。ここでは神武天皇がその神霊の憑人となり、自ら高皇産霊尊となることによって、目の前に顕在した祭神となる祭祀の形態をいう。
 本来見えないはずの神の側のものが人の側に顕現し、見える状態のものを「ウツシ」と言っているのである。このように、「ウツシ」は、人の世界にあっては、神の世界に属する存在が顕現する場合に、逆に神の世界にあっては、人に連なる存在に関与する場合において使われるということが理解される。神話世界の中にあって、人の世界(神話の世界においては、青人草の世界ということになるが)と神の世界とが併存しており、その人の生死は伊耶那岐命と伊耶那美命によって把握されているということの起源がこの話なのであろう。そして、伊耶那岐命が桃の実に向かって言った、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国に有らゆる宇都志伎青人草の、苦しき瀬に落ちて患へ惣む時に、助くべし」という言葉によるならば、黄泉国は「青人草」が死して向かう場所として位置づけられているということが理解される。 〔谷口雅博 日本上代文学〕

於是伊耶那岐命見畏而逃還之時 其妹伊耶那美命言令見辱吾 即遣豫母都志許賣[此六字以音]令追 尒伊耶那岐命取黒御鬘投棄乃生蒲子 是摭食之間逃行 猶追 亦刺其右御美豆良之湯津①間櫛引闕而投②乃生 是拔食之間逃行 且後者於八雷神副千五百之黄泉軍令追 尒拔所御佩之十拳釼而於後手布伎都々[此四字以音]逃来 猶追 到黄泉比良[此二字以音]坂之坂夲時 取在其坂夲桃子三箇④撃者 ⑤返也 尒伊耶那岐命告桃子汝如助吾於葦原中国所有宇都志伎⑥[此四字以音]青人草之落苦瀬而患惣時可助告 賜名号意冨加牟豆美命[自意至美以音] 【校異】
①真「之」 道果本以下による。
②真「葉」 道果本以下による。
③真「箏」 道果本以下による。
④真・道果・道祥・春瑜「持」、兼永本以下卜部系「待」。兼永本による。
⑤真「攻」、道果・道祥・春瑜「逃」、兼永本以下卜部系「坂」。
延佳本・古訓古事記・校訂古事記「逃」。
  テキスト・注釈書類では、全註釈「攻」、注釈「逃」、思想・西宮・注解「坂」、今、角川ソフィア文庫新訂古事記・同新版古事記に従って「扳」(引くに同じ)を採用する。
⑥真「云」で訓注に含まれる。[云此四字以音]
  道果・道祥・春瑜は[上此四 字以音]
兼永本以下卜部系は[此上四字以音]
 道果本以下に従い「上」を取り、「宇都志伎」の音注とする。

そこで、伊耶那岐命はその姿を見て恐れて、黄泉国から逃げ帰る時に、 その妹の伊耶那美命は、「よくも私に恥をかかせましたね」と言い、 ただちに黄泉国の醜女を遣わして、そのあとを追いかけさせた。 そうして、伊耶那岐命が黒御かずらを取って投げ捨てると、たちまち山ぶどうの実がなった。 これを醜女が拾って食べている間に、伊耶那岐命は逃げて行く。 なおも追いかけてくる。 今度は右の御みずらに刺していた神聖な爪櫛の歯を折り取って投げ捨てると、たちまち竹の子が生えた。 それを醜女が抜いて食べている間に、伊耶那岐命は逃げて行った。 そして、そのあと、伊耶那美命は八種の雷神に、千五百の黄泉の兵士を副えて伊耶那岐命を追わせた。 そこで(伊耶那岐命は)腰に帯びられた十拳の剣を抜いて、それをうしろ向きに振りながら逃げて来た。 なおも雷神たちは追いかけてきた。 黄泉つひら坂のふもとに到り着いた時に、 伊耶那岐命はその坂のふもとに生えていた桃の実を三個取って迎え撃つと、 (八雷神と黄泉軍は)みな引き返して逃げて行った。 そこで、伊耶那岐命は、桃の実に、「お前は、私を助けたように葦原中国に住む、全ての生ある人々が、苦しい目にあって苦しみに悩むような時には、助けよ」と仰せられ、 桃の実に名を賜わって意冨加牟豆美命と名付けた。

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