國學院大学 「古典文化学」事業
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天若日子
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天若日子
読み
あめわかひこ
ローマ字表記
Amewakahiko
別名
-
登場箇所
上・天若日子の派遣
他の文献の登場箇所
紀 天稚彦(九段本書・一書一・六)
摂津風 天稚彦(逸文▲)
旧 天稚彦(天神本紀)
祝 天若彦(遷却崇神)
神名式 天若日子神社(出雲国出雲郡 ※同名二社あり)
梗概
天津国玉神の子。葦原中国平定のために高天原から派遣された天之菩卑能命が復奏しなかったため、第二の使者に指名される。天之麻迦古弓・天之波々矢という弓矢を授かって葦原中国に遣わされるが、その地で大国主神の娘の下照比売と結婚し、また、その国を手に入れようともくろんで、八年経っても復奏しなかった。天若日子は、その詰問のために遣わされた鳴女を射殺したが、高天原にまで射上がったその矢を高木神によって返され、胸を貫かれて死んだ。
高天原にいた父の天津国玉神やその妻子が、下照比売の泣き声を聞きつけて地上に降り、喪屋を設けて葬儀を行った。弔問した阿遅志貴高日子根神の容姿が、天若日子とよく似ていたため、親族らは天若日子が死んでいなかったのだと誤解する。それに怒った阿遅志貴高日子根神は、剣で喪屋を斬り倒し、足で蹴飛ばした。これが美濃国の藍見河の河上にある喪山である、と説明される。
諸説
神名の読みは、主にアメワカヒコとする説とアメノワカヒコとする説がある。前者は、平安時代の『日本紀竟宴和歌』の中に『日本書紀』の「天稚彦」を詠んだ歌(天慶六年度、藤原利博)に「阿咩和賀飛古(あめわかひこ)」とあるのが参考になる。後者は、『古事記』で神名に冠する「天」の字が通例はアメノと読まれ、アマと読む場合に付けられるはずの訓注がこの箇所に無いことなどが根拠となる。他に、『古事記』では「天之」はアメノ、「天」はアマノという書き分けがあると考え、アマノワカヒコと読む説もある。
「天」は天上界を指すとされる。「若日子」は、世子(世継ぎ)の若い男子を意味する称とする説や、成人以前の初々しい若者ととる説、また、『日本書紀』本書でこの神が「壮士なり」と言われていることから「若」を若々しく壮盛な意と取る説もある。「命」や「神」という敬称がつかない理由については、天神の反逆者として貶めた呼び方とする説や、「天若日子」という呼称が、天上界の世子という意味の普通名詞であるためとする説がある。
国譲り神話の一場面として組み込まれている天若日子の神話は、地上に派遣されたのち射殺される前半部と、その葬儀が行われる後半部とに分けられる。しかし、その内容が国譲り神話の本筋から逸れていることなどから、前半・後半とも、本来は国譲り神話とは別に伝承された個別の神話だったと考えられている。
前半の神話に関しては、記紀ともにその末尾に、この話が「還矢」(紀本書「反矢」、紀一書一「返矢」)を畏れることの発端であると記述されており、矢に関する当時の禁忌や信仰と結び付いた伝承と考えられる点が注意される。神や天への反逆心から天に向かって矢を射て、その報復によって死ぬ、という類型を持つ説話は、『旧約聖書』の猟夫ニムロッドの矢の説話を始めとして、中国やインドなどにも分布しており、天若日子神話もその外来的な影響下にあるとする説がある。一方で、天を狙ったわけでなく雉を狙って射ている点で、外国の返し矢の説話とは異なる意味合いを含んでいると見て、雉にまつわる農耕儀礼の反映と解する説もある。また、『豊後国風土記』速見郡田野条などに見られる、富に驕った人が餅を的にして射たところ、餅が白い鳥になって飛び去りその土地が荒廃した、という説話になぞらえて、天若日子神話も、驕った人が侮って農業神としての雉を射たために、返し矢によって罰せられて死んだという農耕にまつわる伝承が元になっているとする説もある。
天若日子神話の前半部を諸文献で比較すると、『古事記』、『日本書紀』本書、および遷却祟神祝詞(『延喜式』所載)では、地上の平定のために、天之菩卑能命やその子の大背飯三熊大人(『古事記』には不登場)の後に続いて、天若日子が天上から派遣されるが、地上に住み着いて使命を遂行しなかった、という内容を持っている。大国主神や天之菩卑能命、大背飯三熊大人が出雲の神であることから、これを本来は出雲で伝えられた神話と捉え、天若日子も出雲の神と捉える説がある。一方、『日本書紀』一書一では、地上に降った天若日子は、多くの国つ神の娘らを妻として地上に住み着いたことになっていて、大国主神を始めとした出雲の神々が登場しないが、この伝は、他の伝と比べて、作為的な要素や誇張が少なく原初的な素朴な内容を持っているため、上代文献の中で最も天若日子神話の原伝に近い形を留めていると見られている。そのことから、天若日子神話は、元来は出雲と無関係な、天孫の国土統治の由来譚であったとし、記紀神話の成立に際して出雲神話を割り込ませ、大国主神が地上を支配しそれを天孫に譲渡する話に改変された結果、出雲の神々が関与する伝が成立したとする説がある。また、天若日子が本来は皇室の神話に登場する神でなかったとする見解もあり、元は、天若日子が天神から聖器を授かって降臨し、巫女的な女性に迎えられて地上の支配者になる神話だったのが、天照大御神を頂点とする皇室の神話に組み込まれる上で、天神に対する反逆者という位置づけに置き換えられたとする説がある。また、記紀の返し矢の記述に基づき、本来は返し矢の禁忌の由来を物語る説話だったと解する説もあるが、反対に、返し矢や雉にまつわる部分を、天若日子神話とは別の説話に由来し、後から付加された要素と解する説もある。
後半の葬儀の話は、死者の復活を祈る殯(もがり)において行われた歌舞劇的な所作が、神話内の一連の描写の基盤になっているとする説があり、古代の葬送儀礼の実態を考察するための資料としても注目されている。
天若日子に似ていた神として阿遅志貴高日子根神が登場するが、この神話の原型を、農耕祭儀を母胎とした、神の死と再生を物語った神話だと捉えた上で、この両神は本来、同一の神の再生以前・以後の別名であったのではないかとする説がある。また、この神話の主旨が阿遅志貴高日子根神の出現を語ることにあると解した上で、天若日子神話は、元来、天から降った天若日子が変身し阿遅志貴高日子根神となってこの世に出現したことを伝えた、大和葛城地方の葛城氏の始祖伝承だったとする説もある。一方、記紀の諸伝の比較検討から、後半部は本来の天若日子神話にはなかった内容で、阿遅志貴高日子根神の登場も後の付加とする見解が提示されている。なお、天から降臨した神が死後昇天するという型の神話が、古代朝鮮の始祖降臨伝承にも見られ、両者に系統的な繋がりが想定されることも論じられている。
天若日子に間違われた阿遅志貴高日子根神が、怒って喪屋を切り倒し蹴飛ばしたのが、「美濃国の藍見河の河上に在る喪山」だという記述が、記紀ともに見られる。「喪山」の所在がどこに当たるかは古来諸説あり、主な説には、岐阜県美濃市大矢田の喪山とする説、岐阜県不破郡垂井町の葬送山(僧都山、喪山とも。喪山古墳)とする説がある。なお、『古事記』では、喪屋を地上で作ったとあるが、『日本書紀』では、遺骸を天上に運び、喪屋を天上で作ったとある。この話は、大和の天香山や伊予の天山が天上から落ちて出来たという伝承(『大和国風土記』逸文)と同類の説話(山岳天上起源説話)と捉えられるが、山岳天上起源説話としては、天上の喪屋が地上の喪山になったとする『日本書紀』の方が適合すると指摘されている。
平安時代以降の文学作品には「あめわかみこ」という神がしばしば登場する。『古今和歌集』仮名序の古注には、下照姫を「あめわかみこ」の妻と記しており、記紀神話の天若日子に基づいた記述と考えられるが、『宇津保物語』や『狭衣物語』を始めとした物語類に登場する「あめわかみこ」は、音楽に誘われて天上より降る音楽神として描かれており、反逆神と見なされる記紀神話的な姿は見られない。もとより天若日子と同一神かは定かでなく、「あめわかみこ」という呼称は、天から降ってくる天つ神の御子をひろく表す普通名詞のようなもので、記紀の天若日子に限らないとする見解もある。
江戸時代に編纂された『続歌林良材集』(下河辺長流)や『神趾名所小橋車』(聖観)には、難波高津の地名起源譚に、天探女が磐舟に乗って天稚彦とともに降臨したという伝承が「摂津国風土記」からの引用として記載されているが、実際に上代の古風土記の逸文であるかは疑問視され、後世の伝承とも考えられている。
『延喜式』所載の神社には、出雲国出雲郡に「阿須伎神社」の所属として「天若日子神社」という同名の二社が見える。
参考文献
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仁藤敦史「天若日子伝承再考―モガリの主宰者―」(『古墳と国家形成期の諸問題』山川出版社、2019年10月)
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