國學院大学 「古典文化学」事業
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猿田毘古神
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猿田毘古神
読み
さるたびこのかみ
ローマ字表記
Sarutabikonokami
別名
猿田毘古大神
猿田毘古之男神
底度久御魂
都夫多都御魂
阿和佐久御魂
登場箇所
上・天孫降臨
上・猿女の君
他の文献の登場箇所
紀 衢神(九段一書一)/猨田彦大神(九段一書一)/猨田彦神(九段一書一)
拾 猨田彦大神(天孫の降臨)
伊賀風 猿田彦神(逸文▲)
旧 衢神(皇孫本紀)/猨田彦大神(皇孫本紀)/猨田彦神(皇孫本紀)
梗概
天孫降臨の先導をした神。天つ神たちによる葦原中国の平定が済み、天孫の邇々芸命が天降りしようとした際、天の八衢に、上は高天原を、下は葦原中国を照らす神がいた。そこで、天照大御神と高木神の命で天宇受売命が遣わされ、天降りの道に立ちはだかるのは誰かと問うたところ、その神は、国つ神の猿田毘古神と名乗り、天孫の降臨を聞きつけ、御前に仕える為に参上したのだと打ち明けた。
その後、天宇受売命は、猿田毘古神の正体を明らかにした故を以て、その神の送り出しを命じられ、さらに、その名前を貰い受けて奉仕することを命じられた。天宇受売命の子孫の猿女君(さるめのきみ)らが、猿田毘古之男神の名前を負って、その女を猿女君と呼ぶのは、ここに由来するのだという。
また、猿田毘古神が阿耶訶(あざか)にいた時、漁をしていて、比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれてしまい、海に沈み溺れた。その際、底に沈んでいた時の名を底度久御魂といい、海水が粒立った時の名を都夫多都御魂といい、泡の弾けた時の名を阿和佐久御魂という。
諸説
神名表記の「猿」の字は「猨」と書くこともあるが、異体字で、読みや意味は同じである。「毘古」は「彦」で男子の意であるが、「猿田」の意味は諸説あって定かでない。読みもサルタ・サルダの両説ある。猿女君という氏族名との結びつきが考えられるが、「猿田」をサルダと読んで、サルド(=戯人)の転と解し、サルメ(=戯女)と並んで、戯(さ)れた振る舞いをする人、すなわち舞踏などをする俳優の意と取る説がある。サをサヲトメ、サナヘなどのサと同義ととり神稲の田の意と取る説や、『日本書紀』(九段一書一)でこの神が向かった地名「狭長田(さながた/さなだ)」に関係する名前と取る説もある。ただし、サルダという読み方については、上代には濁音に後続する語は連濁しないのが一般的だとする見解から、濁音のビを表す「毘」の前の「田」を濁音と取るのは不可とする指摘もある。また、「猿」を文字通りの動物と捉え、猿が土地の精霊や豊作の神と捉えられてきたことから、そのような猿が出没する神聖な田に出で立つ地主神とみる説や、「鹿猪田(ししだ)」(万12・3000)「雌雉田(きぎした)」(安閑紀元年七月)などを参考に、猿によって守られている良い田の神格化である田の神とする説もある。この他、地名の「猿投(さなげ)」や「猿島(さしま)」に倣って「猿田」をサタと読み、出雲の佐太大神と同一視する説もあるが、氏族名の「猿女」をサメとは読まないことや、出雲との関係が見出しがたいことなどの整合性の問題が指摘されている。なお、邇々芸命が天宇受売命に語った言葉の中には「大神」という称号を持った「猿田毘古大神」という呼び方も見られるが、天孫を先導した事績を讃えた呼称とする説がある。
『日本書紀』には、この神の容姿が詳しく記され、鼻が長く、背が高く、口・尻が輝いており、眼は大きな鏡のように輝き赤いほおずき(赤酸醬)に似る、とされる。この面貌は、天狗とも関連付けて考えられ、また、高鼻の伎楽面が原型になっているとする説もある。口・尻や眼の描写は猿の特徴に酷似するとも指摘され、この神の原像が神事にまつわる猿にあるとする説もある。山岳地帯に住む部族に対する印象を誇張的に反映した表現と捉える説もある。
この神の性格については、天孫降臨の際、天之八衢に立ちはだかり、『日本書紀』で「衢神(ちまたのかみ)」とも呼ばれているとおり、境界を守護する境界神・防塞神という面がうかがわれる。その赤酸醬のような眼は、相手を威圧する力を持つ邪眼の類と捉えられ、侵入者をにらみつけ阻止する境界神としての職能を表しているとも考えられている。一方、境界神としての性格よりも、先導する神という性格を重視する見解もある。天孫降臨に際して行く手に猿田毘古神が現れ出迎える話は、名告りという行為や「参向」といった表現から、猿田毘古神が天孫に服属したことを示す意味を持った神話であると考察されている。また、そのことは、この神を奉斎する集団が王権に服属し、その本拠地の東伊勢(後の伊勢神宮の鎮座地)を貢上したことを意味しているとする説もある。動物の猿を太陽神の使いとする信仰に基づき、猿が太陽を喜び迎えるという考えが、天孫を出迎えた神話の元になっていると捉える説もある。
記紀は、猿女君の祖神の天宇受売命が邇々芸命の命によって猿田毘古神を送り届け、またその名前を貰い受けてこの神に奉仕したことを、猿女君という氏族名の由来と伝えている。猿女君は、鎮魂祭で歌舞を演じ、大嘗祭で前行(先払い)を奉仕する、猿女を出した氏族である。一方、猿田毘古神の後裔とされる氏族には宇治土公がいる。そのため、記紀の猿田毘古神の神話の解釈には、猿女君が猿田毘古神を祭ることになった由来を語った祭祀伝承とする見方と、猿田毘古神を祭った集団ないしは宇治土公が朝廷への服属を語った服属伝承とする見方がある。ただし、宇治土公の祖を猿田毘古神とする文献上の初見は鎌倉時代に降り、記紀には宇治土公の名が見られないことが問題になる。
また、この神は伊勢に縁が深い。『古事記』でこの神が溺れた「阿耶訶」も伊勢の地名である。また、天宇受売命が猿田毘古神を送り届けた場所がどこかは、『古事記』では明示されていないが、『日本書紀』では、猿田毘古神が「伊勢の狭長田の五十鈴の川上」に向かうことを表明し、天宇受売命がそれに従っている。『古語拾遺』には、伊勢神宮が垂仁天皇の治世に初めて五十鈴の川上に鎮座したことを述べた中で、神代に「衢神」(猿田毘古神)が先にこの地に降っていたことをその由緒だと語っているが、これは、猿田毘古神を伊勢神宮鎮座の土地の予言者・開拓者とする認識を示すものと考えられている。阿耶訶を含め、伊勢の地に関わりを持つことは明らかで、元来は伊勢の土着の神、あるいは伊勢の漁民の信仰した神とも考えられている。
伊勢神宮内宮に仕える宇治土公は、猿田毘古神の後裔とされる氏族である。平安時代初期編纂の『皇太神宮儀式帳』に見える伊勢神宮の起源譚に、宇治土公らの祖の太田命が、天照大御神を祭る宮にふさわしい場所として倭姫命に五十鈴川の川上の地を案内し、そこを宮地に定めたとあり、鎌倉時代編纂の『倭姫命世記』では、この太田命を猿田毘古神の後裔としている。ここから、記紀神話に猿田毘古神が登場する理由を宇治土公と王権とのつながりに求め、猿田毘古神の神話の実質を、太田命が土地を献上した伝承が神話に反映されて成立した伊勢神宮起源譚と捉える説もある。
また、猿田毘古神が阿耶訶で溺れたという話も、伊勢の漁民である磯部を掌った宇治土公の服属儀礼を語った神話と捉える説がある。阿耶訶は伊勢国壱志郡の地名で(現・三重県松阪市小阿坂、大阿坂)、この地に「阿射加神社三座」が鎮座することが『延喜式』神名帳に記されている。
阿耶訶での海溺れの神話については、「底度久御魂」の項も参照されたい。
参考文献
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吉田修作「古代王権と芸能伝承―「わざをき」「あそび」「舞」―」(『古代王権と恋愛』おうふう、2018年4月)
吉田修作「天石屋戸と天孫降臨―アメノウズメとサルタビコ―」(『文学・語学』224号、2019年5月)
槁根津日子
敷山主神
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