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建日方別

読み
たけひかたわけ
ローマ字表記
Takehikatawake
別名
吉備児島
登場箇所
上・国生み神生み
他の文献の登場箇所
紀 吉備子洲(四段本書・一書一・八・九)
旧 建日方別(陰陽本紀)/吉備児嶋(陰陽本紀)
梗概
 伊耶那岐・伊耶那美二神の国生みにおいて、大八島国に付随して生んだ六島のうちの、吉備児島(きびのこしま)の別名。
諸説
 吉備児島は、岡山県の児島半島(現、倉敷市・玉野市・岡山市)に比定されている。吉備は、後の備前・備中・備後・美作の地域(今の岡山県と広島県東部)にあたる。児島は、今は本土と結びついた半島であるが、干拓が進められる十六~十七世紀までは瀬戸内海に浮かぶ島であった。古く、五世紀頃まで吉備地域を支配していた当地の豪族にとっては、瀬戸内海を通じて諸地域と往来するための海上交通の要衝の島であったと考えられ、やがて吉備を支配下におさめたヤマト王権にとっても、欽明天皇十七年、児島に屯倉を置いて(『日本書紀』)、朝鮮半島を意識した軍事的な海上交通路の整備・確保のために重視していたことなど、列島内外につながる瀬戸内海航路の寄港地として特別に意識されたことがうかがわれる。『万葉集』には、大伴旅人が筑紫の「児島」という名の遊女に返した歌「大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも」(6・967)という一首に、児島が詠まれている。
 建日方別の名義は、「建」字は「健」字に通じてタケと読み、猛々しい意、勇猛の意とする説がある。「日方」は、『万葉集』に「天霧らひ日方吹くらし水茎の岡の水門に波立ち渡る」(7・1231)とあり、風位の名であるが、地域によって指す方角が異なり、ここでは東南風・西南風などの説がある。また、崇神紀に大田田根子の母について、「奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)」という名が挙がっているが、「建日方」の「日方」との関係は詳らかでない。
 「別」という称号は古代の人名に見られるが、岐美二神の生んだ島の名前にワケ・ヒコ・ヒメとつくのは擬人的な命名であるとされ、その名称は天武天皇朝以後の新しいものであろうと論じられている。「別」のつく神名の成立については、歴史上の「別」の性格とからめて論じられており、大化改新前後までに形成されていた皇子分封の思想、すなわち、『古事記』『日本書紀』で景行天皇が諸皇子に諸国郡を封じたのが「別」の起こりとしているように、「別」が天皇や皇子の国土統治を象徴するようになっていたことに基づく命名で、七世紀以後にできたものとする説がある。一方、大化以前の実在の姓や尊称という見方を否定し、ワクという分治の意味の動詞から発して、天皇統治の発展段階にふさわしい称号として採用、ないし創作されて伝承上の神名や人名に対して附加されたものと見なし、『古事記』の編集理念に基づいた称号体系の一環と考える説もある。
 『古事記』ではこの島は、大八島国の中には含まれていないが、『日本書紀』では、大八洲国の誕生を語る諸伝(本書・一書一・六・七・八・九)のうちの多数の伝に登場して大八洲国の一つとされており(一書七には見えず、一書六では「子洲」を吉備子洲のことと解する説がある)、また、『先代旧事本紀』の二伝でも大八島国に数えられている。これらの大多数の伝で、吉備児島が大八島国として安定した地位を占めて語られていることから、この島の誕生は国生み神話の中でも古い層に属する要素であると認める説がある。『古事記』の伝は、大八島国に他の島が編入されるに伴って吉備児島が除外されることになった、より新しい形態の伝承と見る説がある。一方、『古事記』の大八島国誕生譚に付随する六島誕生の伝承について、これを大八島国誕生譚より遅れて成立し附加された後次的要素とし、大宝年以後の遣唐使の南路航路の開発を反映させて創作された神話とする説がある。
 吉備児島が国生み神話に登場することについては、吉備国と政府中央との歴史的な関係が考察されている。王権の支配下にありながら、反抗を重ねて服従を困難にしていた吉備の勢力を制圧し、やがて屯倉を張り巡らして吉備を完全にヤマト王権の領土に組み込んだとされる六世紀、児島を吉備統治の拠点となし、また、当時動揺していた朝鮮半島経営のための瀬戸内海航路の要衝として重視した、その時代の児島の、領土としての重要性が神話に反映されたとする説がある。また一方、吉備の服従に困難の伴ったことが、その支配の重大さを強く認識させることとなり、支配の正当性を述べる政治的な意図から、吉備の中心となる児島がその象徴として国生み神話の中に位置づけられるようになったとする説もある。
 仁徳記で、天皇が黒日売を吉備まで追いかける間に、淡道島から眺望して詠んだ歌に「……淡島 淤能碁呂島 檳榔の 島も見ゆ 離つ島見ゆ」とあるが、この「離(さけ)つ島」を、当該歌の国生み神話との関係から、吉備児島を指すと考え、この歌が、国生み神話上の吉備児島の重要性とヤマト王権と吉備との結びつきを示しているとする説がある。
 『古事記』で、吉備児島の次には小豆島が生まれており、淡島の「粟」に並んで、島名に「黍」「小豆」と穀物の連想が働いているのではないかという指摘がある。また、六島の誕生の次第は西から東へ向かう順序になっているが、吉備児島から小豆島への関係だけ東に逆行しているのが問題になる。これには、小豆島がもと児島郡に属していたためとする説や、児島が東南風に見舞われる位置にあったため、その際、予備港として小豆島に寄港することにしていたことの反映とする説がある。
参考文献
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佐伯有清「日本古代の別(和気)とその実態」(『日本古代の政治と社会』吉川弘文館、1970年5月、初出1962年1~3月)
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谷口雅博「仁徳記53番歌と国生み神話」(『季刊悠久』146号、2016年9月)
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間壁忠彦・間壁葭子『日本の古代遺跡 23 岡山』(保育社、1985年9月)第一章
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吉田晶「吉備の「国」」(『吉備古代史の展開』塙書房、1995年1月、初出1989年)
湊哲元「吉備と伊予の豪族」(『新版古代の日本 第四巻 中国・四国』角川書店、1992年1月)
吉田晶「児島と海の道」(『古代を考える 吉備』吉川弘文館、2005年3月)

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