國學院大学 「古典文化学」事業
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壱比韋臣
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壱比韋臣
読み
いちひゐのおみ/いちひいのおみ
ローマ字表記
Ichihiinoomi
登場箇所
孝昭記
他文献の登場箇所
紀 天武13年(684)11月戊申朔条
姓 左京皇別下
始祖
天押帯日子命
米餅舂大使主命(姓)
津幡臣(和邇部氏系図)
後裔氏族
櫟井朝臣
説明
大和国添上郡春日郷を本拠地とした氏族。壱比韋は櫟井・柞井とも書く。『古事記』によれば、孝昭天皇御子の天押帯日子命の後裔氏族で、春日臣(ワニ臣)と同族関係にあったとされる。同じワニ系氏族の柿本臣とは本拠地が近接しており、柿本臣は敏達期ごろに櫟井臣から独立した可能性が指摘されている。天武13年(684)に朝臣姓を賜っているが、臣姓にとどまった系統も少なくなかった。『新撰姓氏録』には「櫟井臣」が立項されており、その氏人である櫟井臣馬養は天平9年(737)から天平宝字2年(758)まで、経師として『正倉院文書』に頻出している。またカバネは明記されていないが、同様に『正倉院文書』にみえる櫟井君万呂・男公も臣姓であった可能性は高い。史料上から確認できる櫟井臣の最高位は、天平勝宝2年(750)の馬養の少初位上であるため、下級官人としての活動が主であったと考えられる。他方、『新撰姓氏録』に本流の「櫟井朝臣」の項は確認できない。天平5年(733)の「山背国愛宕郡計帳」(『正倉院文書』1所収)に櫟井朝臣牛甘・刀自売・奈等売の名が記載されているが、櫟井朝臣に関する史料はほかに確認できず、遅くとも9世紀までには衰退したと考えられよう。なお『権記』には、櫟井恒清なる人物が従五位下に叙されたことがみえるが(寛弘元年〈1004〉正月5日条)、彼のカバネは宿禰で(『大間成文抄』巻7)、壱比韋臣と同族関係にあったかは判然としない。
参考文献
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇、第2(吉川弘文館、1982年3月)
加藤謙吉「大和東北部のワニ系諸氏とその歴史的展開」(『ワニ氏の研究』雄山閣、2013年9月)
壱師君
出雲国造
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