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的臣

読み
いくはのおみ
ローマ字表記
Ikuhanoomi
登場箇所
孝元記
他文献の登場箇所
紀   応神16年8月条
    仁徳12年8月己酉(10日)条
    仁徳17年秋9月条
    仁徳30年冬10月甲申朔条
    仁賢4年夏5月条
    欽明5年(544)3月条
    欽明14年(553)8月丁西(7日)条
    崇峻天皇即位前紀・用明2年6月庚戌(7日)条
姓   山背国皇別
    河内国皇別
    和泉国皇別
始祖
葛城長江曾都毘古
葛城襲津彦命(姓)
葛木曾都比古命(姓)
後裔氏族
-
説明
 武内宿禰後裔氏族のひとつ。『古事記』では、武内宿禰の子である葛城長江曾都毘古を始祖とする。その本拠地は不明であるが、史料上から河内・和泉・山城・近江・播磨に分布したことが確認できる。後述する対朝鮮外交との関係から、これら分布のうち海上交通の要衝である河内・和泉を地盤した氏族とする説がある。「的」というウヂ名について、『日本書紀』はその起源を以下のように伝えている。仁徳12年に高麗の客から鉄製の盾と的が献上され、仁徳天皇が饗応の場で百官にその盾・的を射るように命じたが、誰も射通すことができなかった。そのなかで、的臣の祖の盾人宿禰だけが鉄製の的を射通し、高麗の客はその技を恐れて天皇に拝礼した。盾人宿禰はその功績を讃えられ、的戸田宿禰の名を賜ったというのである。伝承としてかなり整っており、筑後国生葉郡など「イクハ」を冠する地名も少なくないことから、かかる伝承は後世に造作されたもので、「的」は地名に由来するウヂ名とするのが穏当だろう。しかし、このような伝承が生まれる背景として、的臣が軍事を職掌とした氏族であったことは無視できない。応神16年には襲津彦(葛城長江曾都毘古)の救援を目的として、的戸田宿禰が加羅に派遣されており、仁徳17年にも新羅の朝貢の懈怠を責めるため、的臣の祖である砥田宿禰が派遣されている。さらに欽明天皇の時代に、任那日本府に駐在した的臣(名は不明)は阿賢移那斯・佐魯麻都(ともに任那日本府の官人)に従って新羅と通交し、任那の復興を妨げていると百済の聖明王から非難されている。ただし的臣の没後に聖明王が奉じた上表文では、善政を布いて任那の復興に尽力したと哀悼されている。いずれにせよ的臣は、百済側から任那情勢を左右し得る重要人物と見做されていたことは間違いないだろう。また的臣真噛は、蘇我馬子の命に従って佐伯連丹経手らとともに穴穂部皇子を殺害し、物部守屋が滅ぼされる丁未の役の口火を切っている。このように6世紀末まで有力な軍事氏族として、ことに対朝鮮外交において活躍した的臣であったが、真噛の記事を最後に国史から活動の形跡が途絶えている。八色の姓が制定された際には朝臣姓を賜っておらず、それ以降も五位に昇った氏人を確認できないことから、7世紀には衰退したものと推測できよう。天長9年(832)4月25日付近江国大原郷長解写に「浅井郡湯次郷戸主正六位上的臣吉野」(『平安遺文』巻1所収)とあるが、管見のかぎりこれが的臣の最高位である。また天元4年(981)に寂した権律師法縁は、的氏(カバネは不明)の出身とされている(『東大寺別当次第』『東大寺続要録』。ただし『僧綱補任』は惟宗氏の出身とする)。
 平安宮大内裏の東面南門は「的門」と称され、その門号は的臣のウヂ名に由来する。ここから的臣は令制以前に宮城門の守衛を勤めた氏族のひとつと考えられている。弘仁9年(818)には唐風に「郁芳門」と改められた。ただし遷都などに際して、宮城門の門号に変更が加えられることはたびたびあり、的門はとくにその影響を受けたようである。まず藤原宮においては、出土木簡から猪使門・蝮王門(多治比門)・山部門・建部門・小子部門の五つの門号が明らかとなっている。平城宮以降の宮城門の位置関係との比較から、山部門・建部門・小子部門は宮城東面の門と推定される。藤原宮東面に四門が置かれていた可能性は低いため、的門は採用されなかったことになろう。次の平城宮は宮城東面に張り出し部があるが、発掘調査によって東面には三つの門が存在したと推測されている。しかし、史料から確認できる宮城東面の門は小子部門・県犬養門・建部門・的門の4つであり、発掘調査の結果と整合しない。そのため宝亀初年に小子部門が改称され、的門が採用されたと指摘されている。長岡宮の宮城門は「弘仁陰陽寮式」土牛条逸文から確認できるが、宮城東面の門は県犬養門・山門・建部門であり、的門は再び姿を消している。すなわち的門が確実に存在した時期は平城宮末期と平安宮以降だけであり、門号が固定化される弘仁9年以前においては、むしろ存在しない時期の方が長かったことになる。このような的門の存続時期の短さを、的臣の宮城門を守衛する伝統の弱さと結びつける理解がある。しかし的門の位置は平城宮・平安宮ともに東面南側で固定されており、そこから東面南門の伝統的な門号は的門であると意識されていたとの指摘もある。いずれにせよ、的門が復活した8世紀末はすでに的臣が衰退して久しい時期であり、的門の復活と的臣の動向とは無関係で、伝統的な宮城門号としての認識にもとづくとみられよう。
参考文献
井上薫「宮城十二門の門号と乙巳の変―大化改新と軍制―」(『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館、1961年6月、初出1954年7月)
山田英雄「宮城十二門号について」(『日本古代史攷』岩波書店、1987年7月、初出1954年10月)
佐伯有清「宮城十二門号と古代天皇近侍氏族」(『新撰姓氏録の研究』研究篇、吉川弘文館、1963年4月、初出1955年6月)
直木孝次郎「的氏の地位と系譜」(『日本古代の氏族と天皇』塙書房、1964年12月、初出1961年10月)
直木孝次郎「門号氏族」(『日本古代兵制史の研究』吉川弘文館、1968年9月)
今泉隆雄「長岡宮宮城門号考」(『古代宮都の研究』吉川弘文館、1993年12月、初出1986年6月)
今泉隆雄「藤原宮・平城宮の宮城門号」(『古代宮都の研究』吉川弘文館、1993年12月、初出1986年6月)
渡辺晃宏「平城宮東面宮城門号考―東院南面(SB16000)の発見によせて―」(虎尾俊哉編『律令国家の政務と儀礼』吉川弘文館、1995年7月)

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