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忌部首

読み
いみべのおびと/いみべのおびと
ローマ字表記
Imibenoobito
登場箇所
上巻・天孫降臨
他文献の登場箇所
【紀】
第7段一書3/大化元年(645)7月庚辰(14日)条/大化2年(646)3月辛巳(19日)条/天武天皇元年(672)7月壬辰(3日)条/天武天皇2年(673)12月丙戌(5日)条/天武天皇9年(680)正月甲申(6日)条/天武天皇10年(681)3月丙戌(17日)条/天武天皇13年(684)12月己卯(2日)条/持統4年(690)正月戊寅朔条

【続紀】
大宝元年(701)6月癸卯(2日)条/大宝2年(702)3月戊寅(11日)条/慶雲元年(704)11月庚寅(8日)条/和銅元年(708)3月丙午(13日)条/和銅4年(711)4月壬午(7日)条/和銅7年(714)正月甲子(5日)条/養老2年(718)正月庚子(5日)条/養老3年(719)閏7月辛未(15日)条/天平7年(735)7月庚辰(27日)条/天平12年(740)11月丙戌(3日)条/天平勝宝元年(749)4月戊戌(5日)条/天平勝宝6年(754)7月丙午(13日)条/天平勝宝8歳(756)5月乙卯(2日)条/天平宝字元年(757)5月丁卯(20日)条/天平宝字元年7月甲寅(8日)条/天平宝字2年(758)8月庚子朔条/天平宝字2年8月丁巳(18日)条/天平宝字3年(759)10月戊申(15日)条/天平宝字3年12月壬寅(10日)条/天平宝字5年(761)10月壬子朔条/天平宝字6年(762)正月戊子(9日)条/天平宝字6年11月丁丑(3日)条/天平宝字7年(763)正月壬子(9日)条/天平宝字7年7月乙卯(14日)条/天平宝字8年(764)正月乙巳(7日)条/天平宝字8年10月庚午(7日)条/天平神護元年(765)正月己亥(7日)条/神護景雲元年(767)7月壬子(5日)条/神護景雲2年(768)閏6月己酉(7日)条/神護景雲2年7月乙酉(14日)条/宝亀10年(779)6月辛亥(13日)条/延暦2年(783)2月壬子(5日)条/延暦2年3月己丑(12日)条/延暦3年(784)4月壬寅(2日)条/延暦5年(786)10月甲子(8日)条/延暦7年(788)2月甲申(6日)条/延暦10年(791)8月壬寅(14日)条

【後紀】
大同元年(806)8月庚午(10日)条/大同3年(808)11月甲午(17日)条/弘仁元年(810)11月戊午(22日)条/天長元年(824)4月乙酉(6日)条/天長2年(825)正月辛亥(7日)条/天長4年(827)4月癸巳(2日)条/天長5年(828)2月壬子(25日)条

【続後紀】
承和10年(843)正月庚子(11日)条/承和10年正月辛丑(12日)条

【文実】
嘉祥3年(850)4月甲子(17日)条/仁寿2年(852)10月丁卯(5日)条/仁寿3年(853)4月乙酉(25日)条/仁寿3年7月丁未(18日)条/齊衡元年(854)2月辛未(16日)条/天安元年(857)正月癸丑(14日)条/天安元年(857)3月己亥(2日)条

【三実】
貞観元年(859)11月20日辛未条/貞観3年(861)3月12日丙戌条/貞観5年(863)12月6日甲子条/貞観7年(865)3月9日庚寅条/貞観年5月16日丙申条/貞観7年11月2日己卯条/貞観8年(866)7月6日戊申条/貞観9年(867)4月4日癸酉条/貞観11年(869)6月17日癸卯条/貞観11年10月29日癸丑晦条/貞観11年12月14日丁酉条/貞観12年(870)6月10日辛卯条/貞観12年11月17日乙丑条/貞観13年(871)9月11日甲申条/貞観18年(876)8月25日己巳条/元慶元年(877)2月23日乙丑条/元慶元年2月27日己巳条/元慶元年9月25日癸亥条/元慶元年11月21日戊午条/元慶5年(881)12月11日乙丑条/元慶8年(884)5月29日戊子条/仁和元年(885)2月20日丙午条/仁和2年(886)8月4日庚戌条

【式】
四時祭上4祈年祭官幣条/四時祭上10大宮売神祭条/四時祭上23月次祭条/四時祭上24神今食条/四時祭上25大殿祭条/四時祭上28神今食禄条/四時祭下1伊勢神嘗祭条/四時祭下48鎮魂祭条/伊勢大神宮13度会宮神嘗祭条/伊勢大神宮19修造遣使条/伊勢大神宮21採柱条/伊勢大神宮46幣帛使禄条/伊勢大神宮47臨時幣帛使禄条/斎宮9初斎院大殿祭条/斎宮15別当以下員条/斎宮16食法条/斎宮22野宮祈年祭条/斎宮29野宮新嘗祭条/斎宮36野宮装束条/斎宮45潔斎三年条/斎宮54監送使条/斎宮5給馬条/斎宮61祈年祭神条/斎宮73元日条/斎宮99遣使奉迎条/斎宮100給雑物条/斎院司1定斎王条/践祚大嘗祭3供幣条/践祚大嘗祭18由加物条(阿波忌部)/践祚大嘗祭22大嘗宮条/践祚大嘗祭24神楯戟条(紀伊忌部)/践祚大嘗祭30斎服条(阿波忌部)/践祚大嘗祭31卯日条/践祚大嘗祭32辰日条/践祚大嘗祭34午日条/祝詞1祝詞条/祝詞3祈年祭条/祝詞9月次祭条/祝詞10大殿祭条/祝詞16大嘗祭条/祝詞22神嘗祭条/祝詞23豊受神嘗祭条/太政官76伊勢使条/内蔵寮20新嘗祭禄条/大蔵省93征夷使給法条/宮内省5大嘗祭小斎条(阿波忌部)/宮内省11大殿祭条/兵庫寮22大嘗会神楯条(紀伊忌部)

【三代格】
4・廃置諸司事・神亀5年(728)7月21日勅/5・定内外五位等級事・神亀5年3月28日太政官謹奏

【万】
6・1008/8・1556/8・1647/16・3832/16・3848

【姓】
右京神別上

【旧】
1・神代系紀/3・天神本紀/7・天皇本紀(神武)

【拾】
天中の三神と氏祖系譜/造殿の斎部/造祭祀具の斎部/即位大嘗祭/斎蔵と斎部/国家祭祀と氏族/崇神天皇/推古天皇/孝徳天皇/天武天皇/遣りたる三/遣りたる四/遣りたる五/遣りたる六/遣りたる七/遣りたる八/遣りたる十 

【霊】
下・20誹奉写法花経女人過失以現口喎斜縁
始祖
布刀玉命
太玉命(紀)
天太玉命(姓/旧/拾)
後裔氏族
忌部宿禰/斎部宿禰/忌部連
説明
 忌部(王権の祭祀に従事した部)を統率した伴造氏族。忌部は諱部とも書く。延暦22年(803)に忌部宿禰浜成らの申請によって斎部と改められた。始祖の布刀玉命は、天照大御神の岩屋戸隠れに際して鹿卜(『日本書紀』では幣の製作)をおこない、のち邇々芸命に従って天降りした五伴緒の一柱となる。『古事記』における忌部首は、この布刀玉命の後裔氏族として名があげられるのみで、氏族として独自の活躍はみられない。「延喜式神名帳」に記載された布刀玉命を社名とする神社は、大和国高市郡に鎮座する「太玉命神社」が唯一のものであるから、この地が忌部首の本拠地と推測されている。
 忌部を称する氏族には忌部首(中央忌部)のほかに多くの地方忌部がおり、忌部首や国造を介した上番・貢納によって王権の祭祀に奉仕した。『古語拾遺』(以下『拾』)には天太玉命が天日鷲命(阿波忌部)・手置帆負命(讃岐忌部)・彦狭知命(紀伊忌部)・櫛明玉命(出雲玉作)・天目一箇命(筑紫忌部・伊勢忌部)ら地方忌部の祖神を率いたとあり、そこに忌部首と地方忌部の隷属関係を合理化する意図があったと指摘されている。地方忌部は、忌部首の職掌である奉幣のための物資を生産・貢納するなど、祭具にかかわる工人集団としての性格が濃厚である。奈良県の曾我遺跡は大規模な玉作工房跡として著名だが、この遺跡は忌部首の本拠地とほど近い場所に位置する。地方から上番した工人を忌部首(の前身集団)が統轄し、玉生産をおこなっていたと推測されている。ただし、全国規模で玉作工房遺跡が消滅する6世紀中葉になると、曾我遺跡も玉生産を停止している。それ以降の玉生産は出雲玉作跡遺跡に集約されるが、同遺跡は忌部首が管轄した出雲玉作氏にかかわる遺跡とされ、忌部首は曾我遺跡の停止後も玉生産に関与していたようである。このような生産との関係から、忌部首がクラの管理にもかかわっていたとの指摘もある。ただし『拾』が主張するように、内蔵・大蔵に先行して「斎蔵」が存在し、さらにその管理を忌部首が担っていたとすることには疑問がもたれている。
 忌部首と同様に、祭祀を職掌とした氏族に中臣連(のちに朝臣)がいる。令制以前の忌部首と中臣連の関係をどのように理解するかについては諸説ある。しかし、乙巳の変において忌部首と親しい関係にあった蘇我大臣家が滅ぼされ、その功績によって中臣連鎌子(鎌足)が内臣に任じられたことで、忌部首に対する中臣連の優位が明確になったことは間違いない。白鳳4年(653?)には諱部首作斯が「祠官頭」に任じられている(『拾』)が、勢力を回復するには至らなかったらしい。「養老神祇令」の規定によれば、即位式(のちに大嘗祭)における神璽奉献とともに、祈年祭・月次祭における班幣は忌部の専有事項であった。これは『日本書紀』の伝承にあるように、忌部と幣帛が密接な関係にあったためと考えられるが、次第に忌部宿禰(天武9年〈680〉に連、天武13年〈684〉に宿禰改姓)は奉幣使からも除外されていく。天平7年(735)に忌部宿禰虫名・烏麻呂らは忌部を奉幣使に任ずるよう嘆願しているが、天平宝字元年(757)には伊勢奉幣使を中臣氏に限定する制が出されている(ただし、この措置は翌々年までには撤回されている)。ウヂ名を「斎部」と改めたことも、少しでも良い字を用いることで、自家を権威づけようとしたものと理解できる。また大同元年(806)には、中臣朝臣が忌部氏を奉幣使に任ずるべきではないと主張し、両氏の間で相論となったが、最終的には平城天皇の勅裁によって斎部宿禰の主張が認められている。このような背景から、大同2年(807)に斎部宿禰広成が撰上し、古伝を通じて中臣朝臣が専横する現状を批判したのが『古語拾遺』であった。なお大嘗祭での神璽奉献に関しても、平城天皇の践祚時を初見とする剣璽渡御の儀が成立したことで、天長10年(833)の仁明天皇の大嘗祭を最後に途絶する。さらに9世紀中頃になると、神祇官内で卜部宿禰が台頭しはじめ、やがて神祇副(次官)まで昇進するようになる。それと対照的に斎部宿禰はさらに地位を低下させ、その活動形跡はほとんど確認できなくなっていく。
 「延喜式祝詞」1祝詞条には「凡そ祭祀の祝詞は、御殿・御門などの祭りは斎部氏祝詞まをし、以外の諸祭には中臣氏祝詞まをせ」とあり、宮廷祭祀が中臣朝臣によって掌握されていくなかで、大殿祭・御門祭の祝詞は10世紀に至っても斎部宿禰の職掌とされていた。大殿祭は「オホトノホカヒ」と読まれ、天皇の御殿と御世の安泰と長久を祈る祭祀である。古くは歴代遷宮の慣行にともなう即位儀礼の一種であったと考えられるが、その慣行が廃された8世紀以降においては、大嘗祭・新嘗祭・神今食の前後におこなわれる祭祀として定着した。また行幸・還宮・内裏新造などの居所の移動、斎宮・斎院の卜占に際して臨時におこなわれている。「延喜式祝詞」10大殿祭条の大殿祭祝詞の注記には、『拾』と似た表現が随所にみられることから、斎部宿禰によって継承されてきた大殿祭祝詞が、注記ごと「延喜式祝詞」に収載されたと指摘されている。大殿祭祝詞の成立を文武天皇の即位時とし、起草者を忌部宿禰子首にあてる説も存在する。『拾』は大殿祭・御門祭を太玉命が供奉した祭祀と位置づけており、ことさらに中臣朝臣による侵犯を嫌っている。大殿・神殿の造営は忌部の職掌であったことが推測されており、大殿祭・御門祭は斎部宿禰にとって極めて重要な関心事であったといえる。
参考文献
青木紀元「忌部氏の祝詞」(『神道史研究』1-1、1953年1月)
上田正昭「忌部の職能」(『日本古代国家論究』塙書房、1968年11月、初出1961年3月)
笹谷良造「中臣・斎部の職分」(『神道史研究』11-4、1963年7月)
岩橋小弥太「中臣と忌部」(『國學院大學日本文化研究所紀要』20、1967年3月)
東野治之「大化以前の官制と律令中央官制―孝徳朝の中央官制を中心として―」(『長屋王家木簡の研究』塙書房、1996年11月、初出1978年7月)
井上辰雄「忌部の研究」(『古代王権と宗教的部民』柏書房、1980年6月)
岡田荘司「大殿祭と忌部氏」(『神道宗教』100、1980年10月)
加茂正典「大嘗祭辰日前段行事考」(『日本古代即位儀礼史の研究』思文閣出版、1999年2月、初出1983年11月)
平林章仁「忌部氏と古代クラ制」(『龍谷史壇』86、1985年5月)
羽床正明「忌部の職能と成立について」(『東アジアの古代文化』54、1988年2月)
平林章仁「蘇我氏と忌部氏―蘇我氏は反神祇だったか―」(『東アジアの古代文化』95、1998年5月)
白江恒夫「大殿祭祝詞の考察」(『祭祀の言語』和泉書院、2011年5月、初出1999年3月・2009年3月)
菊池照夫「出雲国忌部神戸をめぐる諸問題」(『古代王権の宗教的世界観と出雲』同成社、2016年9月、初出2001年4月)
高森明勅「大殿祭祝詞の成立」(『麗沢大学紀要』73、2001年12月)
菊池照夫「古代王権と出雲の玉」(『古代王権の宗教的世界観と出雲』同成社、2016年9月、初出2005年3月・2007年3月)

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