國學院大学 「古典文化学」事業
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柿本臣
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氏族データベース凡例
柿本臣
読み
かきのもとのおみ
ローマ字表記
kakinomotonoomi
登場箇所
孝昭記
他文献の登場箇所
紀 天武10年(681)12月癸巳(29日)条
天武13年(684)11月戊申朔条
続紀 和銅元年(708)4月壬午(20日)条
神亀4年(727)正月庚子(27日)条
天平9年(737)9月己亥(28日)条
天平10年(738)4月庚申(22日)条
天平20年(748)2月己未(19日)条
天平勝宝元年(749)閏5月甲午朔条
天平勝宝元年12月丁亥(27日)条
天平勝宝2年(750)12月癸亥(9日)条
天平宝字元年(757)6月壬辰(16日)条
天平宝字5年(761)10月壬子朔条
天平宝字8年(764)正月乙巳(7日)条
後紀 弘仁2年(811)2月乙酉(20日)条
続後紀 承和9年(842)12月戊辰(8日)条
文実 仁寿元年(851)11月甲午(26日)条
万 1・0029-31
1・0036-39
1・0040-42
1・0045-49
2・0131-39
2・0140
2・0146
2・0167-70
2・0194-95
2・0196-98
2・0199-202
2・0207-16
2・0217-19
2・0220-22
2・0223
2・0224-25
2・0226
3・0235
3・0239-41
3・0244
3・0249-56
3・0261-62
3・0264
3・0266
3・0303-04
3・0423
3・0426
3・0428
3・0429-30
4・0496-99
4・0501-03
4・0504
7・1068
7・1087-88
7・1092-94
7・1100-01
7・1118-19
7・1187
7・1247-50
7・1268-69
7・1271
7・1272-94
7・1296-310
9・1709
9・1710-11
9・1725
9・1762
9・1773-75
9・1782-83
9・1795-99
10・1818
10・1896
10・2033
10・2094-95
10・2178-79
10・2234
10・2243
10・2315
10・2334
11・2351-62
11・2368-516
11・2634
11・2808
11・2841-63
12・2947
12・3063
12・3127-30
13・3253
13・3309
14・3417
14・3441
14・3470
14・3481
14・3490
15・3606
15・3607
15・3608
15・3609
15・3610
15・3611
姓 大和国皇別
始祖
天押帯日子命
後裔氏族
柿本朝臣
説明
天押帯日子命を始祖とするワニ系氏族のひとつ。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。本拠地は柿本寺があった大和国添上郡とする説が有力であるが、柿本神社がある大和国葛下郡とする説もある。柿本寺跡は現天理市櫟井町に所在し、そこは同じワニ系氏族の壱比韋臣の本拠地であることから、柿本臣は壱比韋臣から分離した氏族である可能性が指摘されている。「柿本」のウヂ名については『新撰姓氏録』に伝承が載せられており、それによると敏達天皇の時代、家門に柿樹があったことから柿本臣と称したとされる。氏族としての成立を敏達期に求めている点は注目すべきであるが、伝承そのものを史実とみることは難しい。魏晋南北朝時代の詩人である陶淵明の「五柳先生伝」には、宅辺の五柳樹をもって号としたという一節があり、柿本氏の伝承もその影響を受けて作為されたものとする説がある。
柿本氏でもっとも著名な人物は、後代に「歌聖」と称された柿本人麻呂である。人麻呂が宮廷歌人として活躍したのは持統期と考えられるが、『万葉集』巻2所収の「吉備の津の采女への挽歌」から、すでに近江大津宮の時代には歌人として活動していたとする説もある。人麻呂は『日本書紀』『続日本紀』に一切記述がなく、下級官人としてその生涯を終えたと考えられる。しかし『古今和歌集』仮名序は人麻呂の位階を正三位としており、これは人麻呂が歌人として尊崇された結果といえよう。人麻呂とおよそ同時代の人物としては佐留(猿)がいる。おそらく佐留は柿本氏の氏上の地位にあって、最終的に従四位下まで昇っている。その後、奈良時代前中期には浜名(外従五位下)・市守(従五位上)・小玉(外従五位上)と継続して叙爵者を輩出した柿本氏であったが、天平宝字8年(764)から弘仁2年(811)に従五位下の弟兄が肥前守に任じられるまでは関係記事が確認できず、その衰退が顕著となる。承和4年(837)、主要なワニ系氏族に対して、小野神社の春秋例祭に参加する際、五位以上であっても官符を待たずに京外に出ることが許可されたが、そこに柿本氏は含まれておらず、もはや叙爵者を輩出する氏族としては認識されていなかったらしい。そして仁寿元年(851)、枝成が外従五位下に叙された記事を最後に、柿本氏からの叙爵者は途絶えることになる。
参考文献
折口信夫「柿本人麻呂」(折口博士記念古代研究所編『折口信夫全集』第9巻、国文学篇、中央公論社、1966年7月、初出1933年)
石田公道「柿本氏についての一考察」(『語学文学』11、1973年3月)
北山茂夫『柿本人麻呂論』(岩波書店、2006年9月、初出1983年5月)
加藤謙吉「大和東北部のワニ系諸氏とその歴史的展開」(『ワニ氏の研究』雄山閣、2013年9月)
多田一臣『柿本人麻呂』人物叢書(吉川弘文館、2017年6月)
作鏡連
笠臣
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