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川辺臣

読み
かはべのおみ/かわべのおみ
ローマ字表記
Kawabenoomi
登場箇所
孝元記
他文献の登場箇所
紀   欽明23年(562)秋7月是月条
    推古26年(618)是歳条
    推古31年(623)是歳条
    舒明天皇即位前紀・推古36年(628)9月条
    大化2年(646)3月辛巳(19日)条
    白雉5年(654)2月条
    斉明元年(655)8月戊戌朔条
    天智天皇即位前紀・斉明7年(661)8月条
    天武6年(677)冬10月癸卯(14日)条
    天武10年(681)12月甲戌(10日)条
    天武13年(684)11月戊申朔条
続紀  慶雲3年(706)5月丁巳(15日)条
    和銅元年(708)正月乙巳(11日)是日条
    養老7年(723)正月丙子(10日)条
    天平14年(742)10月戊子条
    神護景雲元年(767)正月乙巳(18日)条
    宝亀元年(770)8月戊午(29日)条
    宝亀元年10月辛亥(23日)条
    宝亀9年(778)正月癸亥(16日)条
    宝亀11年(780)12月辛亥(21日)条
    延暦元年(782)8月乙亥(25日)条
    延暦3年(784)4月壬寅(2日)条
    延暦4年(785)10月甲戌(12日)条
後紀  延暦18年(799)正月丁巳(12日)条
姓   右京皇別上
始祖
蘇賀石河宿禰
後裔氏族
川辺朝臣
説明
 武内宿禰後裔氏族のひとつ。川辺は河辺とも書く。本拠地としては河内国石河郡、摂津国河辺郡、大和国十市郡川辺郷、山背国葛野郡川辺郷などが想定されるが、現在も定説はない。また8世紀には駿河国などにも居住していたことが知られる。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』では、蘇我石河宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族として、蘇我臣と同族関係にあったとされる。『日本書紀』においては、欽明23年に副将として新羅と戦うが敗れた瓊缶、推古31年(623)に征新羅副将軍として派遣された禰受、白雉5年(654)に遣唐大使として渡唐した麻呂、斉明7年(661)に百済救援の前将軍として派遣された百枝、天武10年(681)に新羅使の饗応を担当した子首など、対外関係の場における活躍が特筆される。それと関連してか、推古26年(618)には名不詳の河辺臣が安芸国に派遣され、造船のことを管掌している。また先述の禰受は小徳(冠位十二階の第2位)の地位にあり、国内においても有力な氏族であった。田村皇子(舒明天皇)擁立時には、蘇我蝦夷が山背大兄王を説得するために派遣した大夫のひとりとして、河辺臣の名があげられている。大化改新において派遣された東国国司の紀麻利耆拕の不正が糾弾された際には、次官の百依らの過失も責められている。天武6年(677)には百枝が民部卿に任じられているが、これは民部省にかかわる最古の史料である。8世紀に入っても母知・智麻呂・東人・嶋守・浄長などの叙爵者を輩出したが、徐々に勢力は衰えていったようで、延暦18年(799)に宅が従五位下に叙されたのを最後に、国史から川辺氏の活動の形跡は途絶える。
参考文献

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