國學院大学 「古典文化学」事業
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高志之利波臣
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高志之利波臣
読み
こしのとなみのおみ
ローマ字表記
Koshinotonaminoomi
登場箇所
孝霊記
他文献の登場箇所
続紀 天平19年(747)9月乙亥(2日)条
神護景雲元年(767)3月己巳(20日)条
宝亀10年(779)2月甲午(23日)条
始祖
日子刺肩別命
大日本根子彦国牽天皇(越中石黒系図)
後裔氏族
利波臣
説明
越中国礪波郡を本拠地とした氏族。利波は礪波とも書く。『古事記』では日子刺肩別命(孝霊天皇の御子)の後裔氏族として名がみえるが、『日本書紀』には登場しない。その活動もほとんどは礪波郡内に留まったと推測されるが、そのなかで唯一叙爵に預かり、六国史に記録を残したのが利波臣志留志である。志留志は天平19年(747)に東大寺盧舎那仏の智識として米3000碩を献上し、无位から一挙に外従五位下の位を授けられた。このときの越中守が大伴家持であることから、志留志の行動を家持の斡旋とみる説も存在する。志留志は礪波郡伊加流伎野に土地を有していたことが確認でき(東南院文書541)、礪波郡における利波臣の勢力を背景とした大土地所有によって、米3000碩を献上し得たものと考えられる。ただし志留志が本格的に中央官人として活動をはじめるのは、称徳・道鏡政権下になってからである。神護景雲元年(767)に越中員外介に任じられ、さらに東大寺に墾田100町を献上した功績で外位から内位に移された。ここで献上された墾田100町は、先述した伊加流伎野の地であることが指摘されており、のちに東大寺領井山庄として発展している。また越中員外介に任じられた志留志は「専当国司」の立場にあったらしく(越中国東大寺領庄園絵図)、礪波・射水・新川三郡の東大寺領の未開田地の検校を担当している(東南院文書543)。志留志の記録は宝亀10年(779)に伊賀守に任じられたのを最後に途絶えるが、以上のような志留志の活躍が、礪波郡における利波臣の勢力をより盤石なものとしたと評価されている。天平勝宝3年(751)から延喜10年(910)までの礪波郡司の氏名が残る『越中国官倉納穀交替記』(以下『交替記』と略す)には、志留志の同時代の氏人として、天平宝字3年の礪波郡少領虫足と宝亀2年(771)の礪波郡大領真公が確認できる。志留志と虫足・真公の血縁関係は不明であり、どちらを利波臣の嫡流とみるかは諸説が分かれている。『交替記』に従えば、9世紀初頭まで礪波郡の大領・少領(郡司の長官・次官)の地位は利波臣の独占状態にあった。しかし天長4年(827)ごろから他氏族の進出が著しくなり、貞観4年(862)を最後に利波臣は大領の地位を追われている。
なお史料の少ない利波臣に関する系譜・伝承を伝えるものとして、礪波地域の在地領主である石黒氏の『越中石黒系図』が注目されてきた。しかし近年ではその信憑性に疑義が呈されており、幕末~明治期の系図研究者である鈴木真年の作である可能性が指摘されている。
参考文献
米澤康「郡司利波氏の実態とその特質」(『越中古代史の研究―律令国家展開過程における地方史研究の一齣―』越飛文化研究会、1965年10月、初出1962年7月)
米澤康「利波臣志留志をめぐる諸問題」(『越中古代史の研究―律令国家展開過程における地方史研究の一齣―』越飛文化研究会、1965年10月、初出1962年11月・1963年6月)
磯貝正義「郡司制度の実証的研究―越中国礪波郡司を中心として―」(『郡司及び采女制度の研究』吉川弘文館、1978年3月、初出1959年2月・1975年2月)
佐伯有清「利波臣氏の系図」(『古代氏族の系図』学生社、1975年5月)
須原祥二「越中石黒系図と越中国官倉納穀交替記―交替記諸写本の検討を通して―」(『古代地方制度形成過程の研究』吉川弘文館、2011年2月、初出1998年6月)
大川原竜一「『越中石黒系図』と利波臣氏」(加藤謙吉編『日本古代の王権と地方』大和書房、2015年5月)
高志池君
許勢(巨勢)臣
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