氏族データベース

氏族データベース凡例

大宅臣

読み
おほやけのおみ/おおやけのおみ
ローマ字表記
Ooyakenoomi
登場箇所
孝昭記
他文献の登場箇所
紀   反正元年8月己酉(6日)条
    推古31年(623)是歳条
    天智2年(663)3月条
    天武13年(684)11月戊申朔条
    持統3年(689)2月己酉(26日)条
    持統8年(694)3月乙酉(2日)条
続紀  大宝元年(701)7月壬辰(21日)条
    和銅元年(708)3月丙午(13日)条
    和銅2年(709)9月己卯(26日)条
    和銅四年(711)4月壬午(7日)条
    和銅7年(714)10月丁卯(13日)条
    養老3年(719)正月壬寅(13日)条
    養老4年(720)10月戊子(9日)条
    養老5年(721)正月庚午(23日)条
    神亀元年(724)2月壬子(22日)条
    神亀3年(726)正月庚子(21日)条
    神亀5年(728)5月丙辰(21日)条
    天平9年(737)2月戊午(14日)条
    天平9年6月癸丑(10日)条
    天平9年9月己亥(28日)条
    天平10年(738)4月庚申(22日)条
    天平11年(739)正月丙午(13日)条
    天平16年(744)11月庚辰(21日)条
    天平17年(745)7月戊寅(23日)条
    天平宝字元年(757)5月丁卯(20日)条
    天平宝字元年6月壬辰(16日)条
    天平神護元年(765)正月己亥(7日)条
    神護景雲元年正月庚午(19日)条
    宝亀9年(778)正月癸亥(16日)条
    宝亀9年2月庚子(23日)条
    延暦2年(783)2月壬子(5日)条
    延暦4年(785)正月癸卯(7日)条
    延暦5年(786)正月己未(28日)条
    延暦5年2月丁丑(17日)条
    延暦6年(787)2月庚申(5日)条
    延暦7年(788)2月丙午(28日)条
    延暦7年3月己巳(21日)条
    延暦9年(790)3月丙午(10日)条
後紀  延暦11年(792)11月戊辰(17日)条
    天長7年(830)5月丙子(3日)条
続後紀 天長10年(833)12月丁亥(5日)条
    承和3年(836)5月庚子(2日)条
    承和13年(846)正月己酉(7日)条
文実  嘉祥3年(850)5月庚辰(3日)条
    齊衡2年(855)2月乙丑(15日)条
    天安2年(858)6月壬辰(3日)条
三実  仁和元年(885)12月23日癸酉条
    仁和3年(887)5月22日乙未条
姓   山城国皇別
    河内国皇別
旧   8・神皇本紀
始祖
天押帯日子命
天足彦国押人命(姓)
後裔氏族
大宅
大宅朝臣
説明
 山背国宇治郡山科郷・大和国添上郡大宅郷を本拠地とした氏族。また『新撰姓氏録』には河内国に居住する大宅臣の記述もあり、その本拠地は河内郡大宅郷と推定される。大宅首・大宅真人とは別族である。『古事記』には、孝昭天皇御子の天押帯日子命の後裔氏族として名がみえ、春日臣を中心としたワニ系氏族のひとつに数えられる。しかし、この天押帯日子命を始祖としたワニ系氏族の系譜すべてを、そのまま血縁関係の反映とみなすことは困難であろう。ことに山背国を本拠地としたワニ系氏族については、6世紀後半以降に大和国添上郡へ進出するなかで、春日臣らと擬制的な同族連合を形成していった可能性が指摘されている。大宅臣もこの山背国の氏族集団に属しており、添上郡への進出には中心的役割を担ったとされる。
 『日本書紀』における大宅臣の初見は、「大宅臣の祖の木事」の娘二人が反正天皇のキサキとなった記事である。これが史実かどうかは別にしても、比較的早い段階から大宅臣が王権とのつながりを有していた可能性は高い。なお『古事記』では許碁登(=木事)はワニ臣とされている。7世紀には大宅臣として具体的な活動がみえるようになり、推古31年(623)には大宅臣軍が新羅征討の副将軍のひとりに任命され、天智2年(663)には白村江の戦いに大宅臣鎌柄が後将軍として参戦している。いずれも軍事面での活動であることから、大宅臣は軍事的性格の強い氏族であったと考えられる。天武13年(684)に朝臣姓を賜ると、それ以降は麻呂(直広肆〈従五位下相当〉)・金弓(正五位上)・大国(従四位下)・小国(従五位下)・広麻呂(従五位下)・君子(従五位下)・人成(従五位下)・広人(従五位下)・吉成(従五位下)・広江(従五位下)・広足(従五位下)、女官では諸姉(従四位上)・宅女(正五位下)など、議政官こそ確認できないものの、多くの叙爵者を輩出している。また『正倉院文書』にも大宅氏の人物が散見するが、ことに注目されるのは大宅朝臣可是麻呂(加是麻呂・賀是麻呂)である。可是麻呂は散位大初位上の下級官人にすぎないが、同族関係にある広麻呂らの基盤を受け継いでおり、天平勝宝2年(750)に自らの戸口に編附された奴婢61人を東大寺に寄進した。東大寺は舎人らを派遣して奴婢を求めたが、わずか18人(うち2人は逃亡、宝亀元年〈770〉時点)しか捕捉できなかった。さらに山背国紀伊郡人夫の茨田久比麻呂ら4人が、捕らえられた人々は良民であると訴え出ており、これらの史料は律令的奴婢制の実態を明らかにするものとして重視されている。
以上のように、8世紀には勢力を維持していた大宅朝臣であったが、延暦11年(792)の広足を最後に、承和13年(846)に年雄が従五位下に叙されるまで、大宅朝臣の叙爵者は確認できなくなる(臣姓では外従五位下に叙された宮処麻呂がいる)。その年雄についても、承和度の遣唐使の通事を務めていることから(『入唐求法巡礼行記』)、遣唐史生として朝臣姓を賜った大宅臣福主と同様に、もとは臣姓であった可能性もある。『新撰姓氏録』にも「大宅朝臣」は立項されておらず、大宅氏の本流である大宅朝臣は、8世紀末から9世紀初頭に衰退したものと理解できよう。
参考文献
岸俊男「ワニ氏に関する基礎的考察」(『日本古代政治史研究』塙書房、1966年5月、初出1960年10月)
吉田晶「律令的奴婢制の矛盾とその展開」(『日本古代社会構成史論』塙書房、1968年6月)
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇、第2(吉川弘文館、1982年3月)
磯村幸男「大宅朝臣可是麻呂の貢賤について」(『日本古代の賤民』同成社、2012年3月、初出1987年12月)
加藤謙吉「山背・近江とその他の諸国のワニ系諸氏」(『ワニ氏の研究』雄山閣、2013年9月)
加藤謙吉「ワニ氏同族団組織の成立」(『ワニ氏の研究』雄山閣、2013年9月)

氏族データベース トップへ戻る

先頭