國學院大学 「古典文化学」事業
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淡海臣
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淡海臣
読み
あふみのおみ/おうみのおみ
ローマ字表記
Ouminoomi
登場箇所
孝元記
他文献の登場箇所
紀 継体21年9月甲午(3日)条
継体23年3月是月条
継体23年4月是月条
継体24年秋9月条
継体24年冬10月条
継体24年是歳条
崇峻2年(589)7月壬辰朔条
推古31年(623)是歳条
始祖
波多八代宿禰
後裔氏族
近江脚身臣
説明
近江国滋賀郡を本拠地とした、武内宿禰後裔氏族のひとつ。淡海は近江とも書く。『古事記』(以下『記』)では、武内宿禰の子である波多八代宿禰の後裔氏族として名があげられる。主として軍事・外交の場で活躍した氏族と考えられ、そのなかでも特筆すべきは継体期に朝鮮半島に派遣された近江臣毛野である。『日本書紀』(以下『紀』)によれば、毛野は新羅に滅ぼされた南加羅・【口+彔】己呑の再興を目的として派遣されたが、新羅と謀った筑紫国造磐井が反乱をおこしたことで九州に滞留させられた。磐井の乱の鎮圧後、朝鮮半島に渡った毛野は新羅に詔勅を伝えて南加羅・【口+彔】己呑の再建を命じた。次に新羅・百済の両王を召集して任那との和睦を勧めようとしたが、両王が臣下を派遣してきたため、毛野は王自らが召集に応じないことに激怒して使者を追い返した。臣下から報告を受けた新羅王は上臣(大臣)の伊叱夫礼智干岐と兵3000を派遣して勅命を願ったが、毛野は多くの兵を引き連れてきたことを訝しんで己叱己利城に籠城する。上臣は3ヵ月にわたって任那の多多羅で待機していたが勅命は届かず、ついには毛野が偽って上臣を殺そうとしているとの誤解が生じ、多多羅の4村を略奪して新羅に帰国した。これを『紀』は「毛野臣の過なり」と非難している。朝鮮半島に派遣されてから2年を経て、毛野が政務を怠っており、日本人と任那人の間に生まれた韓子の帰属決定に誓湯(盟神探湯)を用いて多くの死者が出ていること、韓子の吉備韓子那多利・斯布利を殺害するなどして人民を苦しめていることが報告された。それを聞いた天皇は毛野に帰朝を命じたが、毛野は勅命を果たせないまま帰ることはできないと拒否し、自らに不利な報告をするかもしれない調吉士を帰朝させないように、伊斯枳牟羅城の防衛にあたらせた。この行動を知った加羅王の阿利斯等は毛野を見限り、新羅・百済に兵を求めて毛野を攻撃する。百済から攻撃を受けた毛野は軍兵の半数を失うが、1ヵ月の籠城戦の末、百済・新羅は諸城を攻略しながら撤退した。しかし調吉士が帰朝して重ねて毛野の悪行を奏上すると、天皇は再び毛野に帰朝を命じ、毛野はその帰路の対馬で病気に罹り亡くなったという。『紀』の記述に従えば、毛野は任那の経営に失敗しただけでなく、一度は天皇の勅命をも拒んだ人物ということになる。ただし、以上のような毛野の活動が載せられた「継体紀」は、毛野に関わる伝承・伝記、あるいは「百済本紀」など朝鮮系の史料を参照としながらも、『紀』の編者によって再構築された箇所が少なくないとされる。朝鮮系の史料に毛野やそれと推定できる人名が載せられていたかは疑わしく、毛野の評価については慎重とならざるを得ないだろう。毛野の「悪政」を加耶諸国に在留する日系勢力の組織化の一過程と捉え、毛野を「任那日本府」成立の立役者とみなす見解も存在する。
毛野以降の淡海臣の活動としては、崇峻2年(589)に近江臣満が東山道に派遣され、蝦夷との国境を観閲している。また推古31年(623)に新羅征討が画策された際には、同族と考えられる近江脚身臣飯蓋が副将軍のひとりに任命されている。しかしそれ以降は史料上から確認できず、淡海臣は天武期に朝臣姓を賜った諸氏族にも含まれていない。このような淡海臣衰退の背景としては、本拠地の近江国滋賀郡が戦場となった壬申の乱において、近江王権に味方して敗者となった可能性が考えられる。これと関連して指摘されるのが、日吉大社の祭神および奉斎氏族の問題である。日吉大社の祭神について、『記』には「大山咋命」が「近淡海国の日枝の山」に鎮座すると記されている。現在の日吉大社において、大山咋命は東本宮(小比叡)に祭られており、そこには背後の牛尾山(八王子山)を神体山とした古い信仰形態が存在したことが指摘されている。それに対して、西本宮(大比叡)には大己貴神(三輪明神)が祭られており、こちらは大和の三輪山から日吉の地に勧請された神である。大小比叡の呼称は遅くとも9世紀中ごろには成立しており、元慶年間に大比叡が正一位に叙されたのに対して、小比叡は従四位上に留まっている(『日本三代実録』元慶4年〈880〉5月19日壬申条)。すなわち地主神である大山咋命が、勧請神である三輪明神の下位に位置づけられているのである。また日吉大社の奉斎氏族は祝部宿禰であるが、その始祖の宇志麻呂は三輪明神の祭祀に関連して奉斎氏族になったことが伝えられており、三輪明神の勧請以前に大山咋命を奉祭していた氏族は不明である。そのため祝部宿禰が日吉大社の奉斎氏族となる以前、同地で古くより大山咋命を祭っていたのは淡海臣ではなかったかと考えられている。山王神道の教典『耀天記』などによれば、三輪明神は天智天皇の時代に勧請されたという。そこから三輪明神は近江大津宮の守護神として勧請されたもので、天皇によって勧請されたという経緯から地主神の上位に位置づけられたとされる。これに対して、三輪明神を近江大津宮の守護神と仮定した場合、近江王権崩壊後も信仰され続けていることが疑問だとして、新政府は淡海臣の影響力を排除する方策として三輪明神を勧請し、大山咋命の上位に位置づけたとの理解も存在する。どちらの説においても、従来の奉斎氏族であった淡海臣は壬申の乱によって断絶し、そこに新たな日吉大社の奉斎氏族として祝部宿禰が就位したということになる。なお『叡岳要記』(鎌倉時代中期ごろの成立)などには、最澄が天台の守護神として三輪明神を勧請したとの説を載せているが、最澄と三輪明神の関係性が不明瞭なうえに、すでに大山咋命が鎮座するなかで三輪明神を勧請する必要性も判然としない。
淡海を称する氏族としては、ほかに淡海真人・淡海朝臣が確認できるが、これらは大友皇子・川島皇子(ともに天智皇子)の子孫に賜姓されたもので、淡海臣とは別族である。
参考文献
三品彰英「「継体紀」の諸問題―特に近江毛野臣の所伝を中心として―」(三品彰英編『日本書紀研究』第2冊、塙書房、1966年1月)
大山誠一「所謂「任那日本府」の成立について」(『日本古代の外交と地方行政』吉川弘文館、1999年12月、初出1980年9・11・12月)
岡田精司「日吉神社と天智朝大津宮―その祭神と祭祀氏族」(横田健一先生古稀記念会編『日本書紀研究』第16冊、宗教・思想篇、塙書房、1987年12月)
大橋信弥「近江臣毛野の研究」(『古代の地域支配と渡来人』吉川弘文館、2019年8月)
粟田臣
淡海之佐々紀山君
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