國學院大学 「古典文化学」事業
MENU
Language
日本語
お問合せ
検索
國學院大學
SNS
本事業について
古事記について
古典籍ビューアー
成果公開
古事記研究データ
古典学総合データベース
お問合せ
検索
プライバシーポリシー
國學院大學公式ウェブサイト
トップページ
古事記研究データ
氏族データベース
婇臣
氏族データベース
このDBは
古事記ビューアー
と連動しています
氏族データベース凡例
婇臣
読み
うねめのおみ
ローマ字表記
Unemenoomi
登場箇所
神武記・久米歌
他文献の登場箇所
紀 欽明天皇即位前紀・推古36年(628)9月条
大化5年(649)3月己巳(25日)条
天武10年(681)7月辛未(4日)条
天武天皇13年(684)11月戊申朔条
天武14年(685)9月辛酉(18日)条
朱鳥元年(686)9月甲子(27日)条
持統5年(691)8月辛亥(13日)条
続紀 慶雲元年(704)正月癸巳(7日)条
慶雲4年(707)10月丁卯(3日)条
和銅2年(709)3月庚辰(23日)条
和銅3年(710)4月癸卯(23日)条
和銅4年(711)4月壬午(7日)条
天平11年(739)正月丙午(13日)条
天平18年(746)4月癸卯(22日)条
天平宝字元年(757)8月庚辰(4日)条
天平宝字7年(763)9月甲寅(15日)条
天平宝字8年(764)10月丙寅(3日)条
天平神護元年(765)2月辛未(10日)条
天平神護元年3月辛丑(10日)条
宝亀10年(779)正月甲子(23日)条
延暦6年(787)9月丁卯(17日)条
延暦8年(789)正月己巳(26日)条
後紀 弘仁元年(810)10月己卯(12日)条
式 践祚大嘗祭・31卯日条
中務省・34新嘗青摺条
宮内省・7諸司行列条
采女司・2諸節会日条
風 常陸国・筑波の郡条
姓 右京神別上
和泉国神別
旧 5・天孫本紀
始祖
宇麻志麻遅命
大水口宿禰(姓)
伊香我色雄命(姓)
大水口宿禰命(旧)
後裔氏族
采女朝臣
説明
地方豪族から貢進される采女を統轄した伴造氏族。『古事記』によれば、邇芸速日命が登美夜毘売を娶って生まれた宇麻志麻遅命を始祖とし、物部連・穂積臣と同族関係にあった。『新撰姓氏録』も采女臣を邇芸速日命の系統とするが、このような邇芸速日命(物部連の祖)に結びつく系譜は、政治的・祭祀的性格の類似から物部連に接近した結果であり、実際には血縁関係になかったと考えられている。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。なお前年には采女造が連姓を賜っているが、両者の関係性は不明である。
『日本書紀』における采女臣の活動は、推古天皇が崩御した直後の舒明天皇即位前紀を初見とする。推古天皇は後継者を明確にしないまま崩御したため、田村皇子(のちの舒明天皇)と山背大兄王のいずれが皇位に就くべきかが問題となるが、そこで田村皇子を推す群臣のひとりに采女臣摩礼志の名がみえる。7世紀前半までに、采女臣は朝廷内である程度の地位を築いていたのだろう。また天武期に活躍した采女臣竹羅は、天武10年(681)に遣新羅大使として新羅に派遣されており、天武天皇の崩御時には殯の場で内命婦のことを誄している。内命婦とは小錦位(五位)以上の婦人のことで、この誄も采女臣の職掌と関連すると理解されている。なお河内国石川郡で発見された墓碑「采女氏塋域碑」は、被葬者を「采女竹良」と記しており、竹羅と同一人物とみて間違いない。碑はすでに失われているが、江戸時代にとられた拓本等が残されており、そこから竹羅が最終的に直大弐(従四位上相当)まで昇進したこと、己丑年(689)以前に亡くなったことが判明する。墓域は碑の毀損から「四十代」(=0.8段)と「四千代」(=8町)の2説があり、「四十代」であれば竹羅の個人墓、「四千代」であれば采女氏の集合墓と考えられる。また近接する丘陵地には妙見寺が所在し、その創建時期が7世紀末であることから、采女臣の氏寺として建立された可能性が指摘されている。
大宝元年(701)に大宝令が制定されると、采女を管掌する官司として采女司が設置された。采女氏は采女司の下級官人である采部に任じられる負名氏となり、天平神護元年(765)には采部の采女臣家足ら4人が朝臣姓を賜っている。また天平17年(745)4月17日付「内膳司解」(『正倉院文書』2所収)には「奉膳正六位上兼行采女正采女朝臣比等」の署名があり、下級官人だけでなく長官に任用されることもあったようである。このように、令制下においても采女との密接な関係を維持した采女氏であったが、9世紀初頭を最後に五位以上に昇った者が確認できなくなる。しかし、采女氏と采女司との関係は『延喜式』が制定された10世紀まで継続しており、諸節会の御膳前に供奉する采女司の令史(第四等官)には、采女朝臣を用いることが明文化されていた。なお無姓の釆女氏も相当数いたと考えられ、『正倉院文書』にはカバネの記載がない采女氏が散見する。
参考文献
直木孝次郎「物部連に関する二、三の考察」(『日本書紀研究』第2冊、塙書房、1966年1月)
志田諄一「物部連」(『古代氏族の性格と伝承〈増補〉』雄山閣、1974年6月、初出1967年3月)
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇、第3(吉川弘文館、1982年7月)
近江昌司「采女氏塋域碑について」(『日本歴史』431、1984年4月)
亀井輝一郎「祭祀服属儀礼と物部連―穂積・采女臣との同祖関係の形成をめぐって―」(直木孝次郎先生古稀記念会編『古代史論集』上、塙書房、1988年1月)
三谷芳幸「采女氏塋域碑考」(『東京大学日本史学研究室紀要』1、1997年3月)
近江昌司「妙見寺と采女氏塋域碑」(『古代文化』49-9、1997年9月)
宇施水取
茨木国造
氏族データベース トップへ戻る
先頭