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しかくして、天児屋命あめのこやのみこと布刀玉命ふとたまのみこと天宇受売命あめのうずめのみこと伊斯許理度売命いしこりどめのみこと玉祖命たまのおやのみこと あはせて五伴緒いとりのとものをわかくはへてあまくだしき。 ここに、のをきし八尺勾璁やさかのまがたまかがみ草那芸釼くさなぎのつるぎ また常世思金神とこよのおもひかねのかみ手力男神たぢからをのかみ天石門別神あめのいはとわけのかみたまひて、らししく、 の鏡は、もは御魂みたまとして、まへをろがむがごとくいつきまつれ」。 つぎに、「思金神は、さきことちてまつりごとをせよ」とのらしき 此の二柱ふたはしらの神は、さくくしろ伊須受いすずみやを拝みまつりき。 次に、登由宇気神とゆうけのかみ、此は、外宮とつみや度相わたらひいます神ぞ。 次に、天石戸別神、また櫛石窓神くしいはまとのかみひ、亦の名は豊石窓神とよいはまとのかみと謂ふ。此の神は、御門みかどの神ぞ。 次に、手力男神は、佐那々県さななあがたに坐す。 かれ、其の天児屋命は、〔中臣連なかとみのむらじおや〕。 布刀玉命は、〔忌部首いみべのおびとの祖〕。 天宇受売命は、〔猿女君さるめのきみ等らの祖〕。 伊斯許理度売命は、〔作鏡連かがみつくりのむらじの祖〕。 玉祖命は、〔玉祖連たまのおやのむらじの祖〕。

○五伴緒 日本書紀九段一書一には「五部神」を瓊瓊杵尊に副え侍らせるとある。伴は一定の職業に従事する部民、緒はそれをひとつにまとめることを表すもの、或いは部民を統括する族長をさす(時代別)。神に対する表現としてはそぐわない感があるが、ここに登場する五神は下文にそれぞれ中臣連等・忌部首等・猿女君等・作鏡連等・玉祖連等の祖先神とされているので、各氏族の族長というわけではないが、族長的な神としてこのように表現したものか。允恭記に「定賜天下之八十友緒氏姓也」とみえる。万葉集には「物能乃敷能 夜蘇等母乃乎能」(20・三九九一)などの例がある。
○支ち加へて 「支」は底本に「友」とあるが、道祥本以下の諸本に従ってほぼすべてのテキストが「支」と校訂する。訓については、記伝がイザナキ・イザナミの神生みの場面にみられる「水分神」に「訓分云久麻理」の訓注があり、分と支とが字義的に通じるところから「クマリ」と訓んでいるほか、万葉集の「伴部乎 班遣之」(6・九七一)の訓「トモノヘヲ アカチツカハシ」により「アカツ」と訓むもの、またやはり「分」との関連から「ワカツ」と訓むものなどがある。記伝の指摘にもある通り、王延壽の「魯靈光殿賦」(『文選』巻十一)「支離分赴」の李善注には「支離、分散也」とある。神道大系も言うように、「支」と「分」とを同義とみることができる。ただし、「水分神」の訓注に「訓分云久麻理」とあることを以て「クマリ」と訓む記伝の説には従いにくい。古事記の「分」字には「離天之石位、押分天之八重多那雲而、」(天孫降臨)や「此人押分巌而出来。尒、問「汝者誰也」、答白「僕者国神、名謂石押分之子。今、聞天神御子幸行。故、参向耳。」」(神武東征)のように、「クマル」と訓み得ない例もある。「サシ」や「アカツ」と訓むべき蓋然性も高くはないため、本注釈では「ワカツ」と訓む。しかし古事記内には「支」の訓字用法が他に見られないことや、「支」を「ワカツ」と訓み得るかどうかなど、問題が多い。前後の文脈も含めて検討し直すべきか。なお、島田和彌は、真福寺本の「友」を採用し、ここの文脈を、猿田毗古神に対して五部神を友として加えて天降した(「友加而天降也」)との解釈を示している(「天孫降臨神話の解釈―「御伴緒矣友加而」を中心に―」『日本文學論究』62冊、二〇〇三年三月)。
○其のをきし八尺勾璁・鏡と草那芸釼 「をく」は招くの意。「をきし八尺勾璁・鏡」は天の石屋の場面で天照大御神を石屋から導き出した璁と鏡を指す。草那芸釼は八岐大蛇退治の場面で出現した釼なので、璁・鏡とは別扱いになる。天の石屋神話と天孫降臨神話が密接な繋がりを持つ点については、登場する神々の共通性と、その神々の子孫が天孫降臨神話の方に記載されていることからも良く説かれるところであり、本来近接指示語であるはずの「其の」が、神話を遡って天の石屋の場面に出てくる璁・鏡を指すところからもそれは窺える。 ○常世の思金神 天の石屋神話では高御産巣日神の子として登場、その後、葦原中国平定の御議にも表れ、ともに思慮の神として位置づけられる。ここにのみ「常世の」と冠される理由は良く分からない。天の石屋神話には「常世の長鳴鳥」の記載があり、角川新版に「ここの「常世」は神仙世界。葦原中国からみた高天原」とあり、高天原の存在であることが関係しているのかも知れないが、長鳴鳥及び思金神にのみ「常世の」が付くことの説明ができない。新編は「この神が永遠の後のことを考え予知するの意で冠したもの」とする。(→神名データベース参照
天石門別神 この場面に登場する神々は、基本的には天の石屋神話に登場する神々であるが、この神のみ石屋神話には現れていない。下文には天石戸別神と表記され、亦名として櫛石窓神豊石窓神の名を記す。窓が真+戸の意であるならば皆「戸」の神の意となる。石屋神話との関連で言えば、正に天照大御神が籠った石屋の「戸」それ自体が神として出現しているということであろう。石が神名を持つものとして、黄泉国神話で黄泉つひら坂を塞いだ千引石が「道反之大神」「塞坐黄泉戸大神」と呼ばれる例がある。また、器物が神として出現する例に、イザナキがカグツチを切った十拳釼が天之尾羽張伊都之尾羽張と名付けられ、後に神として登場する例がある。(→神名データベース参照
○いつき(伊都岐)奉れ・拝祭 氏族の祖先神に関する記述の中には「モチイツク(以伊都久)」という表現が見られる。 
 ・ 此三柱の綿津見神は、阿曇連等が祖神と以伊都久神ぞ。 (イザナキのみそぎ)
 ・ 此三柱の神は、胸形君等が以伊都久三前の大神ぞ。(アマテラスとスサノヲのうけひ)
 ・ 近淡海之御上の祝が以伊都玖天之御影神。(開化記)
 また、ホムチワケの出雲大神祭祀の場面にも以下のようにある。
 ・ 葦原色許男大神を以伊都玖祝が大庭か。 (垂仁記)
 しかし、「伊都岐奉」という表現は、この場面の外は大国主神の国作り神話中の御諸山神祭祀にしか見られない。「拝祭」という表現は、祭祀の対象を指すのではなく、奉仕者を主とした言い方であるという指摘があり(高藤晴俊「古事記「天孫降臨段」考」『國學院雜誌』72 巻8号、一九七一年八月)、「此の二柱の神」がどの神を指すかという問題と関わっている。【補注一】「「伊都岐奉」「拝」「拝祭」の訓義」
○次に 「次に」は会話文に用いられた例が無い(小野田光雄「古事記の文章」『古事記釈日本紀風土記ノ文献学的研究』続群書類従完成会、一九九六年二月、初出は一九五六年六月)。そうすると、「次に」の前と後とで二つの発話文があるということになる。近年の通説では、前はニニギ命に、後は思金神に発した詔とされているが、果たしてどうか。「次に」を会話文に含めた場合、一つの発話でニニギ命と思金神に向かって発した言葉となる。或いは「次に」以下をすべて地の文として、「次に、思金神は、前の事を取り持ちて、政を為す」などと読む可能性は無いか。そのように読めば、後の「次に、登由宇気神、此は……」「次に天石戸別神、……此神者、……」「次に手力男神者、……」と「次に」で並ぶ記述になる。 ○此の二柱の神 「此二柱神」については、天照大御神の「御魂」の鏡と思金神とを指すとする説(記伝等)、皇大神宮儀式帳の記述を元に萬幡豊秋津師比賣命と天手力男神とする説(新講等)、天児屋命と太玉命とする説(古史傳)、猿田彦神と天宇受賣命とする説(西郷注釈)などがあるが、近年では、「次に」の前後の詔との関連もあって、ニニギ命と思金神を指すとする説が通説化している。この直後に記された「拝祭」という表現が、祭祀の対象を指すのではなく、奉仕者を主とした言い方であるという高藤晴俊(「古事記「天孫降臨段」考」『國學院雜誌』72巻8号、一九七一年八月)説が出て以降、「サククシロイスズノ宮」を二柱が祀ったとする文脈理解とも関わってニニギ・思金神説が有力とされているという状況もある。しかし、現状のテキストの文脈から見た場合、日向に降臨したはずのニニギと思金神がイスズノ宮を拝き祭るというのは不自然である。倉野全註釈は、天孫がイスズノ宮を拝き祭るのは不自然であること、天孫を「神」といった例がないことなども含めて、この辺の文章に脱落か錯誤がある可能性を指摘している。
○さくくしろ伊須受能宮 「さくくしろ」は「伊須受」の枕詞。新編頭注に「サク(栄)+クシロ(釧)で、美しい腕輪に多くの鈴を付けることからいう」とある。日本書紀神功皇后摂政前紀に「神風の伊勢国の、百伝ふ度逢県の、拆鈴五十鈴宮」とあり、後の伊勢神宮を指す。
登由宇気神 この場面に登場する神が皆それぞれに天の石屋神話に見られる神であるのに対し、この神は特に関わりを持たない。イザナミが火神カグツチを生んで焼かれ、病み伏していた際に尿から成った神和久産巣日神の子神として豊宇気毗売神の名がみられた。穀物神であるこの神は伊勢神宮の外宮に祀られる神であり、その起源としてここに登由宇気神が加えられているらしい。「登由宇気」の文字列については、奈良時代には母音並列を嫌うので「とよけ」か「とゆけ」となるはずで「う」を平安時代の竄入とみて「登由気」とする説(集成)もある。(→神名データベース参照
○外宮の度相 「外宮」の語は平安期以後にしか見られないことから、青木紀元は、「坐度相神」に対して後に「外宮也」と傍注が施され、更に本文に混入して「坐二外宮之度相一神者也」となったとする(「淡海之多賀と外宮之度相」『日本神話の基礎的研究』風間書房、一九七〇年三月、初出は一九六五年二月)。又鎌田純一氏は古事記や舊事本紀等は外宮の神主によって改竄されたあとがあり、古事記の「次登由宇気神、此者坐二外宮之度相一神者也」の一節は鎌倉初期より中期にかけて鼠入されたものだとしている(「古事記登由宇氣神記事について」『國學院雜誌』63巻9号、一九六二年九月)。一方で菟田俊彦(「外宮考―寛永板本古事記上巻の登由宇氣神鎮座の記文をめぐって―」『古事記年報』七、一九六〇年六月)は西宮記裏書や日本紀略に見える内外宮と古事記の外宮とは意を異にするもので「この外宮の称は、神宮それ自体の古き発祥を意味する旧号であったと考えるより外はないであらう。かゝる外宮の用語例を求めると、現存する古文献としては、古事記上巻の記文に伝うるのみとなっているのである」と、古事記本来の記文と捉えている。本校訂では「諸本一致する文は原型としておくこととする」とする神道大系に倣って「外宮」の語を残しておく。
○佐那々県 延喜式神祇四伊勢太神宮に「佐那社」、同神祇五斎宮の多気・度会両郡に在す社に「佐那社二座」、同神名帳伊勢国多気郡に「佐那神社二座」があり、開化記に「此曙立王伊勢之品遅部伊勢之佐那造之祖」などとあるため、校訂・朝古・全講等は「佐那々」の「々」を「之」の誤りとして「佐那之」と改めている。本注釈では底本・道祥本・兼永筆本にしたがって「々」のままとする。 中臣連 宮廷の祭祀をつかさどる氏族。日本書紀七段正文・一書二に「中臣連が遠祖天児屋命」、一書三に「中臣連が遠祖興台産霊が児天児屋命」、九段一書一に「中臣が上祖天児屋命」とある。天武十三年十一月、朝臣の姓を賜る(天武紀)。 忌部首 宮廷の祭祀に用いる物資を貢納する集団である忌部を統率する氏族。日本書紀七段正文に「忌部が遠祖太玉命」、一書二に「忌部が遠祖太玉」、一書三に「粟国の忌部が遠祖天日鷲」「忌部首が遠祖太玉命」、九段一書一に「忌部が上祖太玉命」、九段一書二に「紀国の忌部が遠祖手置帆負神を以ちて、定めて作笠者とし、彦狭知神を作盾者とし、天目一箇神を作金者とし、天日鷲神を作木綿者とし、櫛明玉神を作玉者とす」とある。天武九年正月に首(子首・子人)らが連姓を賜り、同十三年十二月に宿禰の姓を賜る(天武紀)。 猿女君 宮廷の鎮魂の儀に舞楽を行う女性猿女を貢上する氏族。後文に、「猿女君等、其の猿田毗古之男神の名を負ひて、女を猿女君と呼ぶ事、是ぞ」と見える。日本書紀七段正文に「猨女君が遠祖天鈿女命」、九段一書一に「猨女が上祖天鈿女命」とある。 作鏡連 宮廷の祭祀に用いる鏡の製作に従事する集団である鏡作部を統率する氏族。日本書紀七段一書二に「鏡作部が遠祖天糠戸」、一書三に「鏡作が遠祖天抜戸が児石凝戸辺」、九段一書一に「鏡作が上祖石凝姥命」とある。天武十二年十月に連姓を賜る(天武紀)。 玉祖連 宮廷の祭祀に用いる玉類の製作に従事する集団である玉造部を統率する氏族。日本書紀七段一書二に「玉作部が遠祖豊玉」、一書三に「玉作が遠祖伊奘諾尊の児天明玉」、九段一書一に「玉作が上祖玉屋命」とある。天武十三年十二月に宿禰の姓を賜る(天武紀)。

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「伊都岐奉」「拝」「拝祭」の訓義

 天照大御神の詔において思金神は、鏡を天照大御神の御魂として「伊都岐奉」とあり、その際に天照大御神の「前」を「拝」する如くと記される。また佐久々斯侶伊須受宮を二柱の神が「拝祭」したとあり、それぞれ用字、語彙が異なる。記伝には「如拜、また次の拜祭の拜、共に伊都久と訓べし」とあり、「伊都久」は天照大御神と須佐之男命のうけひで胸形三女神が生れた際に「胸形君等之以伊都久三前大神者也」とあるのと同訓であるとする。しかし諸注では「いつく」は他動詞でヲ格をとり、ニ格をとらないことから、二柱の神が伊須受宮に祭られているのではなく、二柱が伊須受宮を祭ることが指摘されている。
 宣長がすべて「いつく」と訓む一方で、表記の使い分けがされていることから、それぞれ別の語彙で訓むべきという指摘もなされる。西宮一民は「いつく」が「身を清浄にして神に仕へるといふ意で、神祭りにおける清浄性に基いた語である。職業的な「祝」が主になす行為である。文法的には、神をイツクといひ、場所を主にしていへば、場所にイツクとなる」と述べ、これに対し「拝」は「いはふ」と訓み分け、「神を神聖なものとして祭るといふ意で、神祭り一般をいふ語である。神祭りをするのは、必要な場合に行ふのであつて、常時また特定の氏族や職業人ではない。文法的には、神をイハフといふ」と述べる(「古事記「訓読」の研究」『聚注古事記』桜楓社、一九八三年三月、八四〇頁)。また新編全集は訓み分けつつも「拝」を「をろがむ」と読んでおり、「拝」の語義と訓の両面が問題となる。
 まず『古事記』における「いつく」の例は宣長が挙げる「胸形君等之以伊都久三前大神者也」などが挙げられ、『万葉集』においても「春日野に 斎く三諸の(伊都久三諸乃)」(巻十九・四二四一)、「住吉に 斎く祝が(伊都久祝之)」(巻十九・四二四三)など主に神祭りに用いられている。ここからも「いつく」は西宮説のように特定の神に特定の氏族が仕え祭祀をすることを指すと捉えられる。
 次に『古事記』における「拝」は当該例の他、上巻・大年神の系譜で「諸人以竈神者也」、中巻・崇神天皇の大物主神祭祀の際に「於御諸山、拝祭意富美和之大神前」の例がある。また中・下巻には三例の斎宮記事が確認でき、「拝祭伊勢大神之宮也」(中巻・崇神天皇)、「拝祭伊勢大神宮也」(中巻・垂仁天皇)、「伊勢神宮也」(下巻・継体天皇)とある。このような神が祭られ鎮座を示す記事の際に「拝」字が用いられており、その義は「いつく」の例に類するとも捉えられる。
 一方同じく祭祀記事ではあるものの、「拝」には人物に主体を当てた動作としての例が確認できる。中巻・垂仁天皇の本牟智和気御子の記事においては、出雲の大神の祟りを鎮めるために「令其大神宮将遣之時」「訖大神」とあり、その後出雲国造の祖の岐比佐都美から饗応を受ける際、本牟智和気御子は「若坐出雲之石■【石+冋】之曾宮葦原色許男大神以伊都玖之祝大庭乎」と発言する(中巻・垂仁天皇)。ここでは出雲大神である葦原色許男大神の祭祀で、在地の祝が「いつく」一方で、倭から訪れた本牟智和気御子の行為は「拝」とされ、用字が区別されている。
 その他「拝」が神と関わる例は伊勢神宮や石上神宮を拝む例(中巻・景行天皇、下巻・履中天皇)、葛城山で一言主大神に対して拝む例(下巻・雄略天皇)が確認でき、それらの動作主体が天皇や倭建命であることからも、通常は祭祀を専業としない、臨時の参拝である点が注目できる。そして下巻・雄略天皇の一言主神の例では当初一言主神に対して天皇が「問曰」と述べていたが、その正体が明らかになった後には「惶畏而白」「献」と謙譲表現が用いられ、大御刀と弓矢、百官の衣服等を「奉物」とする。このように上下関係の変更の際に「拝」が使われていることからは、「拝」は「いつく」にみられるような氏族祭祀とは異なる性質を持つことが窺われる。
 さらに祭祀以外の例としては、弟宇迦斯の服属の際に神武天皇に対して「白」(中巻・神武天皇)とあり、また隼人の曾婆訶理を大臣として百官に拝ませる例(下巻・履中天皇)、大日下王や都夫良意美が拝礼、服属する意として用いられる(下巻・安康天皇)。これらは祭祀記事ではなく、服属を中心とした拝礼の行為に用いられた例であり、その点では祭祀記事の「拝」とは性質を異にする可能性があるが、下位者が上位者に対し拝礼するという点では一言主神の例を中心とした神との交渉との例と共通の意を持つと捉えられる。以上から「いつく」が氏族祭祀的な意を持つのに対し、「拝」はより純粋に上位者に対する拝礼の意と捉えるべきであり、神祭りの際に用いられる「拝」もまたそのような作法に注目した語と解される。
 次に「拝」字の訓を考えていきたい。西宮が採る「いはふ」は『万葉集』に例があり「庭中の 阿須波の神に 小柴さし 我は斎はむ(阿例波伊波々牟) 帰り来までに」(巻二十・四三五〇)というように神祭りの際に用いられる他、妻が夫を待つ際に「いはふ」と表記される例(巻十五・三六五九)なども確認でき、純粋に祭祀のみの語彙でないことがわかる。一方で「をろがむ」については、『日本書紀』歌謡において「……畏みて 仕へ奉らむ 拝みて(烏呂餓弥弖) 仕へ奉らむ 歌づきまつる」(推古天皇二十年正月・一〇二番歌謡)に仮名例があり、ここでは天皇が「天の八十蔭」に隠れ、臣下がいつまでも仕えるという様子が「をろがむ」として表現される。また『万葉集』においては「……若薦を 猟路の小野に 鹿こそば い這ひ拝め(伊波比拝目) 鶉こそ い這ひもとほれ……」(巻三・二三九)と「拝目」と記載される。「鹿こそば」が「四足獣まで」の意とされることから、獣が地面に這って臥せる様子を「拝」字で表現したものと考えられる。『日本書紀』や『万葉集』にみられる例からは、「をろがむ」は『古事記』の上位者に対する拝礼の意と一致しており、天皇などに対して支配下に属する、服属を示す際の拝礼と捉えられる。神祭りの意としての「拝」字例の多くが「祭」と複合語をとるのも、このように「をろがむ」の語自体には祭祀の意が希薄であるためと考えられる。
 このような「をろがむ」と「いつく」の意味上の差異からは、天照大御神の前を「拝」む行為は祭祀に直結するものではなく、天照大御神を主としてその支配下において拝礼を行う意と捉えられる。高天原における天照大御神思金神ら他の神との関係は、天下における天皇と臣下との関係と同様であり(文脈においてはその反対に、天下の君臣の関係の起源として機能すると捉えられる)、鏡の祭祀の方法もそのような関係のもとで行われることを示している。
 以上から「拝」は「をろがむ」と訓むことが妥当と思われる。そして当該文は「吾が前(天照大御神)に服属し拝礼するように、祭祀をせよ」という意で解されるだろう。
 さらに次の二柱の神の「拝祭」もまた、用字から考えると前文脈と共通する要素があると考えられる。「二柱」がどの神を指すかは諸注一致する解釈がないが、「拝」が用いられることは前文の思金神が必然的にその中に含まれるだろう。『古事記』中の「祭」字の例は、大物主大神が意富多々泥古による祭祀を要求する際に「令我前者」(中巻・崇神天皇)とあり、その後宇陀の墨坂神大坂神に対して、赤色・黒色の楯と矛とを「祭」る(中巻・同上)とある。また神功皇后が御杖を新羅の国主の門に衝き立てた際、「即以墨江大神之荒御魂、為国守神而、鎮」(中巻・仲哀天皇)とあり、広く祭祀行為を指す字と認められる。
 以上から「拝祭」は上下関係のもと拝礼する意の「拝」、祭祀を指す「祭」が複合した語彙と捉えられ、単なる祭祀ではなく、君臣上下の関係性のもと、伊須受宮において祭祀を担う意と考えられる。
〔菅健一郎 日本上代文学〕

尒、天兒屋命・布刀玉命・天宇受賣命・伊斯許理度賣命・玉祖命 并五伴①矣②加而天降也。 於是、副賜其遠岐斯[此三字以音]八尺勾璁・鏡及草那藝釼、 亦、常世思金神・手力男神・天石門別神而、詔者、 「此之鏡者、専為我御魂而、吾前、伊都岐奉」。 次、「思金神者、取持前事為政」。 柱神者、拝祭佐久〻斯④伊湏受能宮。[自佐至能以音] 次、登由宇氣神、此者、坐外宮之度相神者也。 次、天石戸別神、亦名、謂櫛石窓神亦名、謂豊石窓神。此神者、御門之神也。 次、手力男神者、坐佐那〻也。 故、其天兒屋命者、〔中臣連等之祖〕。 布刀玉命者、〔忌部首等之祖〕。 天宇受売賣命者、〔猿女君等之祖〕。 伊斯許理度賣命者、〔作鏡連等之祖〕。 玉祖命者、〔玉祖連等之祖〕。 【校異】
①底本「諸」。道祥本以下諸本に従って「緒」に改める。
②底本「友」。道祥本以下諸本に従って「支」に改める。
③底本「女」。道祥本以下諸本に従って「如」に改める。
④底本「詔」。兼永本以下諸本に従って「侶」に改める。
⑤底本「亦者」。道祥本以下諸本に従って「亦名謂」に改める。
⑥底本「懸」。道祥本・春瑜本・延佳本・訂正古訓古事記・校訂古事記に従って「縣」に改める。

そうして、天児屋命布刀玉命・天字受売命・伊斯許理度売命玉祖命 合わせて五人の部族の長の神を分け加えて(葦原中国に)お降しになった。 そこで、その(天の石屋から天照大御神を)招き出した八尺の勾玉と鏡、それに草那芸剣と、 また、常世思金神・手力男神・天石門別神をお添えなさって、仰せられるには、 「この鏡はひたすら私の御魂として、私を拝むように祭り仕えなさい」。 次に、「思金神は今言ったことを受け持って、私の祭事を執り行いなさい」と仰った。 この二柱の神は、さくくしろ伊須受の宮を拝み祭った。 次に、登由宇気神、これは外宮の度相に鎮座されている神である。 次に、天石戸別神、またの名を櫛石窓神といい、また別の名を豊石窓神という。この神は御門の神である。 次に、手力男神は、佐那々県に鎮座されている。 さて、この天児屋命は〔中臣連らの祖先である〕。 布刀玉命は〔忌部首らの祖先である〕。 天宇受売命は〔猿女君らの祖先である〕。 伊斯許理度売命は〔作鏡連らの祖先である〕。 玉祖命は〔玉祖連らの祖先である〕。

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