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尒しかくして、天照大御神あまてらすおほみかみ・高木神たかきのかみの命みこと以もちて、太子ひつぎのみこ正勝吾勝々速日天忍穂耳命まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみことに詔のらししく、 「今いま、葦原中国あしはらのなかつくにを平たひらげ訖をはりぬと白まをす。故かれ、言こと依よさし賜たまひし随まにまに、降くだり坐まして知しらせ」とのらしき。 尒くして、其その太子正勝吾勝々速日天忍穂耳命の白ししく、 「僕やつかれが降らむとして装束よそふ間あひだに、子こ、生うまれ出いでぬ。 名なは天迩岐志国迩岐志天津日高日子番能迩々芸命あめにきしくににきしあまつひたかひこほのににぎのみこと、此の子を降すべし」とまをしき。 此の御子は、高木神の女むすめ万幡豊秋津師比売命よろづはたとよあきつしひめのみことに御合みあひして、生める子、天火明命あめのほあかりのみこと。 次つぎに、日子番能迩々芸命、二柱ふたはしら。 是ここを以ちて、白しし随に、日子番能迩々芸命に科おほせて詔りたまひしく、 「此の豊葦原水穂国とよあしはらのみづほのくには、汝いましの知らさむ国ぞと言こと依よさし賜ふ。故、命みことの随に天降あまくだるべし」とのりたまひき。 尒くして、日子番能迩々芸命の天降らむとする時に、天之八衢あめのやちまたに居ゐて、 上かみは高天原たかあまのはらを光てらし、下しもは葦原中国を光す神、是に有あり。 故尒くして、天照大御神・高木神の命以ちて、天宇受売神あめのうずめのかみに詔りたまひしく、 「汝は手た弱よわき女人をみなにあれども、伊牟迦布いむかふ神かみと面おも勝かつ神かみぞ。 故、専もはら汝往ゆきて問とはむは、『吾あが御子の天降らむとする道みちに、誰たれぞ如か此くて居る』ととへ」とのりたまひき。 故、問ひ賜ひし時に、答こたへ白ししく、 「僕は国つ神、名は猿田毗古神さるたびこのかみ。居をる所ゆ以ゑは、天神あまつかみ御子みこの天降り坐ますと聞きく。 故、御前みさきに仕つかへ奉まつりて、参まゐ向むかへ侍はべり」とまをしき。
○太子 太子は記伝に、「日ヒツ嗣ギノ御ミ子コなり、其意は上【傳十四の三十七葉】に云り、さて初ハジメの詔命の處には、太子と云ことを申さずして、此ココにしも如カく申せるは、初メの時は、未ダ御ミ事コト依ヨサシを受ケたまはぬほどにて、太子に坐サず、此コは、前に旣に御事依シを受賜ひて、太子に坐ス故なるべし」と説く。傳十四には、「御位を嗣ツギたまふべき儲マケの皇ミ子コを、日嗣御子ヒツギノミコ【略】と申し奉るなり、かくて右の意は必ズ動くまじく、誰タレも然シカ思ヒ定めてありぬべき物なれど、今此ノ段に就ツキて、別に今一ツの考ヘあり、繼は【借字】給ツギにて、天津日ノ大御神の給寄ツギヨサし賜ふ物を、受納知看ウケイレシロシメすを天津日繼所知シロシメスとは申すか、給寄ツギヨサシ賜タマフ物モノとは、卽チ天ノ下の百姓オホミタカラの奉進タテマツる諸モロモロの御都岐ミツギ物モノにて、【略】是レ卽チ天照ス日ノ大御神の、天皇に給寄ツギヨサし賜ふ物なり、さて其ノ種々クサグサノ物モノの中には、稻を主ムネとせり、(以下略)」とある。訓としては「ヒツギノミコ」と訓まれてきているが、新編によれば「ヒツギノミコ」の確例は平安末期まで降るといい、「オホミコ」の訓をあてる。しかし古事記には別に「オホミコ」と明確に訓むべき表記「大御子」(垂仁記)もある。ここでは通説に従ってヒツギノミコと訓むこととする。古事記における「太子」の用例は以下の通り。 ・ 太子正勝吾勝々速日天忍穂耳命(当該二例) ・ 若帯日子命と倭建命と、亦、五百木之入日子命と、此三王負太子之名(景行記) ・ 次大鞆和気命。亦名品陀和気命。此太子之御名、所以負大鞆和気命者、……(仲哀記) ・ ……太子御方者、……(仲哀記) ・ ……率其太子子、……(仲哀記) ・ 太子大雀命、其太子、太子(応神記・髪長比賣) ・ 為太子伊耶本和気命之御名代、定壬生部(仁徳記) ・ 木梨之軽太子(軽太子、其太子)五例(允恭記) ・ 為白髪太子之御名代、定白髪部(雄略記) ・ 此天皇、无太子(武烈記) ・ 忍坂日子人太子、亦名麻呂古王(日子人太子)(敏達記) 景行記では三王が「太子の名を負ひき」と記されている。これについて記伝は、「是レ上代の常ツネなり、抑上ツ御ミ代ヨ々ミ々ヨに、日嗣御子ヒツギノミコと申せるは、皇ミ子コたちの中に、取トリ分ワキて尊タフトミ崇アガめて、殊なるさまに、定め賜へる物にて、其ソは必しも、一柱には限らず、或は二柱三柱も、坐シしことなり(以下略)」とする。思想大系補注では「若帯日子命と倭建命は七世紀以後に造作されたものであるから、もとの帝紀には五百木之入日子命の名だけがあって、もともと太子にあたるものは五百木之入日子命のみで、あとの二名は後に加えられ、ともに皇系につながる系譜ができてからの発想とみるのが妥当か」とし、新編全集頭注は「複数の太子というのは異例。倭建命に対する特別な待遇というべきか」としている。 ○天迩岐志国迩岐志天津日高日子番能迩々芸命 下文及び日本書紀に種々の表記が見られるが、名の中心は「ホノニニギ」である。「ホノニニギ」は「穂ホ之ノ丹饒君ニニギギにて稻イナ穂ホに因れる御名なり、丹ニとは、穂の赤熟アカラめるを云」(記伝)、「ニニギはニギニギの意。…稲穂が賑やかに実る意」(大系日本書紀補注)、「稲穂の饒ニギしく実る(豊ニキ稔ハヒ)意」(全註釈)等と説かれる。「ホ」が「穂」であることは、父神の名である「天忍穂耳命」や、降臨する地が「高千穂」であることからも了解できるが(稲穂の神霊が穂の峰に降臨する)、なぜ古事記では「番」の字を用いているのかが分からない。日本書紀では「火」と表記されるが、これは後に生まれる子神の名が「火」と関わることに関連するか。古事記・日本書紀ともに「穂」字を用いないことからすれば、「穂」の意に限定できない可能性もある。「迩岐志」は接頭語的に他の語と複合して穏和な、おだやかなの意を示す「にき」との関わりで、天にも地にも柔らかい、親しみのあるといった意で理解されることが多いが、「にきし」という形があるのか否か明確ではない。全註釈は「ニニギ」との関係で、「天饒し国饒し」で、天にも地にも豊饒である意としている。 「日高日子」は、兼永本以下卜部系諸本・寛永版本・延佳本・記伝は「ヒダカヒコ」と訓むが、その後の校訂以降多くのテキスト類は「ヒコヒコ」と訓む。日本書紀九段正文等に「天津彦彦」とあるのが「ヒコヒコ」の訓の根拠と思しい。しかし近年では新編や新校などが、「ヒタカヒコ」と訓む。新編は、古事記では訓字の連続中に特別の配慮もなく音仮名「高」をはさむことは考えにくいとして「天の日を高く仰ぎ見るごとく尊いの意」ととっている。矢嶋泉は、古事記においては正訓字として用いられる傾向が強い「高」を、安万侶が注も付さずに音仮名として使用する点の不自然さを説いている(「音訓交用の一問題―「天津日高」の用字をめぐって」『古事記の文字世界』吉川弘文館、二〇一一年三月。初出は一九九〇年一月)。新編、矢嶋説に従い、「ヒタカヒコ」と訓む。(→神名データベース参照) ○此の子を降すべし 降臨神交替の有無について諸伝を見ると、タカミムスヒ系と言われる日本書紀正文・一書四・一書六では降臨神の交替は描かれず、初めからホノニニギが降臨する形となっており、アマテラス系の一書一・一書二では古事記と同じく降臨神の交替が描かれる。ニニギが初めから降臨神として位置づけられる神話の場合は、日本書紀九段正文の冒頭に「高祖」として高皇産霊尊が登場し、「皇孫」として火瓊瓊杵尊が位置づけられているところからもわかるように、タカミムスヒとホノニニギとの繋がりが強調されている。また、降臨神交替を描く場合は生まれたての嬰児の降臨の要素が見られるのに対して、交替を描かない場合には「真床追衾」に包まれて降臨するという形を取っている。 古事記や日本書紀のアマテラス系所伝が降臨神の交替を描く背景や意義については、諸説あって定かではない。古事記・日本書紀編纂当時の皇位継承の実情と関わらせる見方(上山春平『神々の体系』『続・神々の体系』中央公論社、一九七二年七月・一九七五年四月など)、嬰児の降臨という要素との関連で、稲穂の信仰と儀礼に由来するという見方(三品彰英「天孫降臨神話異伝考」『建国神話の諸問題』平凡社、一九七一年二月)、生まれたての嬰児、若しくは真床追衾に包まれることから、天皇即位式の大嘗祭と関連付ける見方(西郷信綱「大嘗祭の構造」『古事記研究』未来社、一九七三年七月など)、出雲降臨と日向降臨の二種の神話が一本化されたことによるとする見方(守屋俊彦「天孫降臨神話の一、二の問題」『記紀神話論考』雄山閣、一九七三年五月)、アマテラス―オシホミミと、タカミムスヒ―ニニギからなる二種の降臨神話が統合されたとする見方(松前健「大嘗祭と記紀神話」『古代伝承と宮廷祭祀』塙書房、一九七四年四月。西條勉「アマテラス大神と高祖神の誕生」『古事記の王家と系譜学』笠間書院、二〇〇五年一一月など)、天照大御神と天忍穂耳命との母子関係の脆弱さを払拭し、天孫が確実に天照大御神の子孫であることを保証するためであるとする見方(荻原千鶴「天忍穂耳命・迩々芸命の交替」『古事記年報』42号、二〇〇〇年一月)、地上に降臨する神として、天上性に地上性を加味すべく男神女神の結婚によって生まれた神が求められたとする見方(谷口「降臨神交替の意義」『古事記の表現と文脈』おうふう、二〇〇八年一一月、初出は二〇〇六年九月)などがある。 ○此の御子は 鼇頭古事記は、「此御子」以下三十八字は上文の注であるとしてここから改行し、以下「二柱也」までを一字下げとする。記伝は、注であることは肯定しつつも、「此記は凡て、阿禮が口に誦ヨミしまゝを記せる物なれば、注の如き語をも、正文に連ツヅけて、其事の中ナカ間ラに挟ハサみ云る例、猶他ホカにも多かるをや」として改行、字下げを否定している。なお、系譜的な部分に「娶」ではなく「御合」を用いている点について吉井巌は、「古事記上巻における神話の縦糸をなすと考へられる神々の系譜的表現は、中・下巻の皇統譜とは異なり、家父長制的な男尊女卑の観念に基づいて記述伝承された皇統譜とは異質な、或いは無関係の精神的構造のなかで成立せしめられたものではないか」と推定し、神々の系譜的表現を生み、支えていたものは中・下巻における舊辭的物語の場合に近いと説いている(「帝紀と舊辭―娶の用字をめぐって―」『天皇の系譜と神話』)塙書房、一九六七年一一月、初出は一九六六年七月)。 ○万幡豊秋津師比売命 日本書紀にも高皇産霊尊の女、火瓊瓊杵尊の母神として登場する。九段正文に「栲幡千千姫」、一書二に「万幡姫」、一書六に「栲幡千千姫万幡姫命」、一書六「亦」として「火之戸幡姫の児千千姫命」とある。一書一には思兼神の妹「万幡豊秋津姫命」とあって高皇産霊尊との関係は記されない。いずれも「幡」を名に持つ。「幡」は機織で織った布であり、機織自体も指すが、ここに機織や布を名に持つ神が位置づけられる意義は良く分からない。新編は「多くの旗が豊かな秋風になびくさまを表象し、豊穣を示す名か」とする。古事記・日本書紀一書一の「秋津」からみれば、豊葦原水穂国に降臨する天孫の母神として相応しい名とも言えるが、「秋津」の無い所伝の場合はやはり「幡」が何かしらの意味を示すものとみなければならない。天上界には機織の女神がいたが、例えば日本書紀九段一書六で天孫が降臨後に出逢う少女は「手玉も玲瓏に紝織る少女」であるように、機織りの女神は天の石屋神話や天孫降臨神話と関わりを持つようである。(→神名データベース参照) ○天火明命 日本書紀九段正文では火瓊瓊杵尊と鹿葦津姫(亦名神吾田鹿葦津姫・亦名木花之開耶姫)との間に生まれた第三子で「尾張連等が始祖なり」との始祖注を付す。同じく一書二では第二子、一書三・五・七では第一子。一書六では古事記と同じく火瓊瓊杵尊の兄神として生まれており、「天火明命の児天香山は尾張連等が遠祖なり」との始祖注を付す。一書八も同様に火瓊瓊杵尊の兄神として生まれ、「是尾張連等が遠祖なり」と記す。なお、『播磨国風土記』飾磨郡十四丘伝説に、大汝命の子神として登場する。(→神名データベース参照) ○天の八衢 記伝に、「知チ麻マ多タは、道チマ股タの意なり、上に道チ俣マタノ神と云もあり、【略】八ヤは例の彌イヤにて、方々へ分レ行ク岐チマタの、幾イクつもあるを云、此ココは天より降る道の衢なり」として道饗祭祝詞の「大八衢」、万葉集の「橘之蔭履路乃八衢尓」(2・一二五)、「海石榴市之八十衢尓」(12・二九五一)の例を挙げる。日本書紀で猨田彦神が登場するのは、九段一書一のみであるが、そこには「天八達之衢」とある。チマタが分岐点であるならば、天の八衢は天空における分かれ道ということになるが、日本書紀の方では「天神の子は、筑紫の日向の高千穂の槵触峰に到りますべし。吾は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到るべし」と言い、その後、その通りそれぞれに降り到っているところからすると、天上界から地上の伊勢・日向へと分れる分岐点に当たるのが天の八衢であって、降臨の際に迷うこと無く降れるように先導神として登場したのが猨田彦神であったということになろう。 ○手弱女人 「手弱女人」は従来「タワヤメ」と訓まれてきたが、『万葉集』の「タワヤメ」は、通常「手弱女」(3・三七九、4・五四三、6・九三五、10・一九八二、13・三二二三)と表記され、ほかに「多和也女」(15・三七五三)と「幼婦」(12・二九二一)とがある。いずれも末尾は「女人」のかたちをとらず、『古事記』において「女人」は普通「をみな」と訓まれること、『万葉集』に「手弱寸女(手弱き女)」(3・四一九)とあることとを踏まえ、新校と同じく「タヨワキヲミナ」と訓む。なお須佐之男の勝さびの場面には「手弱女」とあり、「タワヤメ」と訓める。 ○伊牟迦布神と面勝神ぞ 「イムカフ」の「イ」は強意の接頭辞、「ムカフ」は「向かう」で、万葉集の七夕歌に「天漢 已向立而」(10・二〇一一)、「天漢 射向居而」(10・二〇八九)と、天の川を間に向かい合っている様を表す例があるが、この場面では対抗する、反抗する意で捉えられている。日本書紀九段一書六に「蓋是国神有強禦之者」とあり、「強禦之者」(強く防ぐ者)を鴨足本・兼方本では「イムカフモノ」と訓じている。「面勝」は記伝に「人と相アヒ對ムカヒて、愧ハヂず怖オソれず、面オモテの強ツヨくて、負マケぬなり」と言い、「面と向かってにらみ勝つの意か」(時代別)とされる。日本書紀九段一書一の該当箇所では、八十万神が皆猨田彦神に「目勝ちて相問ふこと得ず」(目力で圧倒してくるので尋ねることが出来ない)であったところを、天照大神が天鈿女に「汝は是目の人に勝ちたる者なり」と言って派遣する。面と目との相違はあるが、相手を威圧するという点で共通している。なお、「伊牟迦布神と面勝神ぞ」の本文は「與伊牟迦布神面勝神」とあって「與」によって並列されている。記伝ではこの「與」を「後ノ世の語ならば、爾ニと云べきを如カ此ク云は、古語の格サマなるべし、與ト相アヒ對ムカ而ヒテと云意なり」とするが、古事記中の「與」は基本的に二つの事物(若しくは神人物)を並べて記す際に使用される語であるゆえ、この箇所での使用法には疑問が残る。「イムカフ」神である猿田毗古彦神に対して面と向かって勝つ神であると理解されているが、天宇受売が「イムカフ」神であり、また「面勝神」でもある、という理解である可能性もあるのではないか。 ○国つ神 古事記中の「国つ神」の用例は以下の通り。 ①僕者国神大山津見神之子焉。僕名謂足名椎、(八俣大蛇退治) ②故、以為於此国道速振荒振国神等之多在。(葦原中国平定) ③僕者国神、名猿田毗古神也。(当該) ④ 尒、詔、「佐久夜毗売、一宿哉妊。是非我子。必国神之子」。 尒、答白、「吾妊之子、若国神之子者、産時不幸。若天神之御子者幸」 (木花之佐久夜毗売) ⑤ 問之「汝者誰也」、答曰「僕者国神」。又問「汝者知海道乎」、答曰「能知」。 又問「従而仕奉乎」、答白「仕奉」。故尒、指渡槁機、引入其御船、即賜名号槁根津日子。 (神武東征) ⑥ 尒、天神御子問「汝者誰也」、答白「僕者国神、名謂贄持之子」。 (神武東征) ⑦ 尒、問「汝者誰也」、答白「僕者国神、名謂井氷鹿」。(神武東征) ⑧ 尒、問「汝者誰也」、答白「僕者国神、名謂石押分之子。今、聞天神御子幸行。 故、参向耳」。(神武東征) 古事記の「天神」「国神」について青木周平は「天神地祇」との関連や「天」の概念との関係等について論じている(「古事記神話における天神の位置」『古事記研究―歌と神話の文学的表現―』おうふう、一九九四年一二月、初出は一九八〇年九月)が、荻原千鶴はこれらの用例がすべて発話中に現れることに注目している。しかも②④を除く他の六例が「僕は国神」という定型を取っていることを指摘し、「国神」であるという自己認識をもたせていると説く。そうすることによって古事記の内部にも外部にも「国神」という概念が既成事実化され、そのことを踏み台にして、「天神」「天神御子」の概念も既成事実化されると説いている(「天忍穂耳命・迩々芸命の交替」『古事記年報』42号、二〇〇〇年一月)。なお荻原は「『古事記』では、「天神」と対義的関係にある「国神」が、④において誕生している」とするが、当該③の場面の「僕は国つ神」との名告りの後に「天神御子の天下り坐すと聞く」とあるのによれば、この場面が「天神」と「国神」が対義的関係を示す最初ではなかろうか。 ○猿田毗古神 名義については、サダル(琉球語で先導する意)の転(伊波普猷、『國學院雜誌』28巻5号、一九二二年五月)、田の神・山の神としての猿の神(全書)、サ(神稲)+田の神で伊勢の狭長田と同意(大系本日本書紀頭注)、日神の使いで神田を守る猿の神(集成)、戯るの意で、俳優の神(西郷注釈)など諸説があるが未詳。この神が登場するのは古事記と日本書紀の一書一のみであるが、この二つの伝のみ伊勢の要素が加わるところから、この神の登場は天孫降臨神話に伊勢への降臨、若しくは伊勢神宮の起源的要素を加える意図があったことが推測される。(→神名データベース参照) ○天神御子 毛利正守は上巻では「天神御子」は会話文にしか表れないことを指摘し(七例)、「上巻にあっては、冒頭の別天神か別天神を含む神として捉えられる神は、高天原の世界で「天神」なのであり、一方、実質、「天神御子」の親神にあたる神としての天照大御神と高御産巣日神は高天原ではなくて、葦原中国からの把握として「天神」であり、更に、「天神御子」にあたる神は、高天原でも葦原中国でもなお上巻では「天神御子」として定位づけられることはなく、登場する神々の間で「天神御子」と呼称されるに留ま」ると説き、その定位づけは中巻を俟たねばならなかったと説く。その上で、「古事記が冒頭から上・中巻へと展開する中で、「天神」と「天神御子」は即位する天皇にむけて、順を追い、段階を踏んで定位づけがなされて」いると捉えている(「古事記に於ける「天神」と「天神御子」『國語國文』59巻3号、一九九〇年三月)。
尒天照大御神髙木神之命以、詔二太子正勝吾勝〻速日天忍穂耳命一、 「今、平①二訖葦原中國一之白。故、随二言依賜一、降坐而知者」。 尒、其太子正勝吾勝〻速日天忍穂耳命答白、 「僕者将レ降装束之間②、子、生出③。 名天迩岐志國迩岐志④[自迩至志以音]天津日髙日子番能迩〻藝命、此子應レ降也」。 此御子者⑤、御二合髙木神之女万幡豊秋津師比賣命一、生子、天火明命。 次、日子番能迩〻藝命、二柱也。 是以、随レ白之、科二詔日子番能迩〻藝命一、 「此豊葦原水穂國者、汝将レ知國言依賜。故、随レ命以可二天降一」。 尒、日子番能迩〻藝命将二天降一之時、居二天之八衢一而、 上光二髙天原一、下光二葦原中國一之神、於是有。 故尒、天照大御神髙木神之命以、詔二天宇受賣神一、 「汝者雖レ有二手弱女人一、與二伊牟迦布神伊牟迦布神一[自伊至布以音]面勝神。 故、専汝往将レ問者、吾御子為二天降一之道、誰如此而居」。 故、問賜之時、答白⑥、 「僕者國神、名猿田毗古神⑦也。所二以出居一者、聞二天神御子天降坐一。 故、仕二奉御前一而、参向之侍」。 【校異】 ①真本「年」。道祥本以下諸本に従って「平」に改める。 ②真本「問」。道祥本以下諸本に従って「間」に改める。 ③真本「於」。兼永本以下諸本に従って「出」に改める。 ④真本「國迩岐志國迩岐志」。春瑜本以下諸本に従って「國迩岐志」に改める。 ⑤真本「着」。春瑜本以下諸本に従って「者」に改める。 ⑥真本「自」。道祥本以下諸本に従って「白」に改める。 ⑦真本「猿田毗神」。兼永本以下諸本に従って「猿田毗古神」に改める。
そうして、天照大御神と高木神とのお言葉を以て、太子の正勝吾勝々速日天忍穂耳命にお命じになったことには、 「今、葦原中国を平定し終えたと申す。そこで、言葉で委任なさったことに従って、(葦原中国に)お降りになって統治なさい」と仰った。 そうして、その正勝吾勝々速日天忍穂耳命が申し上げたことには、 「私が降ろうとして支度をしている間に、子が生まれ出ました。 名は、天迩岐志国迩岐志天津日高日子番能迩々芸命、この子を降すのが良いでしょう」と申し上げた。 この御子は、高木神の娘の万幡豊秋津師比売命と結婚なさって、生んだ子、天火明命。 次に、日子番能迩々芸命、二柱である。 これによって、(天忍穂耳命が)申し上げた通りに、(天照大御神と高木神が)日子番能迩々芸命にお命じになって仰せになったことには、 「この豊葦原水穂国は、あなたが治める国だぞと委任なさった。だから、お言葉の通りに天降るが良い」と仰せになった。 そうして、日子番能迩々芸命が天降ろうとした時に、天の分かれ道に居て、 上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神が、ここに居た。 そこで、天照大御神と高木神のお言葉を以て、天宇受売神に仰せになったことには、 「あなたはか弱い女性であるけれども、向かってくる神と対面して勝つ神であるぞ。 そこで、あなたが単独で行って尋ねることは、吾が御子が天降ろうとしている道に、誰がこのように居るのだ(と尋ねよ)」と仰せになった。 それで、(天宇受売神が)問いなさった時に、答え申し上げたことには、 「僕は国つ神、名は猿田毗古神であるぞ。出でて居る理由は、天神御子が天降りなさると聞きました。 それで、先頭に立ってお仕え申し上げ(ようと思っ)て、お迎えに参上して待機しております」と申した。