古事記ビューアー

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かれしかくして、天津日子番能迩々芸命あまつひこほのににぎのみことらして、 天之石位あめのいはくらはなち、天之八重あめのやへたなくもけて、 いつのちわきちわきて、 天浮橋あめのうきはしにうきじまりそりたたして、 竺紫つくし日向ひむか高千穂たかちほのくじふるたけにあまくだしき。 故尒くして、天忍日命あめのおしひのみこと天津久米命あまつくめのみこと二人ふたり 天之石靭あめのいはゆきひ、 頭椎之大刀かぶつちのたちき、 天之波士弓あめのはじゆみち、 天之真鹿児矢あめのまかこやばさみ、 さきちてつかまつりき。 故、天忍日命大伴連おほとものむらじおや〕、 天津久米命〔此は久米直くめのあたひが祖ぞ〕。 ここに、詔らししく、「此地ここは、韓国からくにむかひ、 笠紗之御前かささのみさきただとほりて、 あさただくにゆうくにぞ。 故、此地はいとところ」と、詔らして、 そこいはみやばしらふとしり、 高天原たかあまのはらたかしりていましき。

○天之石位を離ち、天之八重たな雲を押し分けて 日本書紀九段正文に「皇孫乃ち天磐座を離ち、天磐座、此には阿麻能以簸矩羅と云ふ。且天八重雲を排分け」、一書一に「皇孫、是に天磐座を脱離ち、天八重雲を排分け」とある。古事記の場合も、直前の「詔」の主語は天照大御神高木神であるが、ここからは迩々芸命が主語となっている。「石位」は堅固な御座所。日本書紀九段一書四では「高皇産霊尊、真床覆衾を以ちて、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に裹せまつり、則ち天磐戸を引開け、天八重雲を排分けて、降し奉る。」とあり、瓊瓊杵尊が天磐戸から出現する点と、高皇産霊尊が主語となっている点で他との異なりを見せている。 ○いつのちわきちわきて 「いつ(伊都)」は「伊都之尾羽張伊都二字伊音」(火神被殺)、「伊都此二字以音之竹鞆」「伊都二字以音之男建」(須佐之男命の昇天)、「伊都之尾羽張…伊都二字伊音」(建御雷神の派遣)などの例が見られる。すべてにおいて音注が付されている。「伊都之尾羽張」の二例は場所的に離れていることが関係しているかも知れないが、須佐之男昇天の場面では近接した二例ともに音注が付されている理由が良く分からない。意味としては、接頭語的に体言につづく語で、荘厳な、勢いの激しい、などの意を持つとされる。日本書紀には「稜威之道別道別而」(九段正文)、「稜威道別道別而」(一書一)とある。これによると「ちわきちわきて」は道を分け道を分けして、という意になり、「荘厳に道を選んで」といったような意となる。 ○うきじまりそりたたして 日本書紀九段正文に「既にして皇孫の遊行す状は、槵日の二上の天浮橋より、浮渚在平処に立たして、立於浮渚在平処、此には羽企爾磨梨陀毘邏而陀陀志と云ふ。膂宍の空国を頓丘より覓国ぎ行去り」、一書二に「日向の槵日の高千穂峰に降到りまして、膂宍の胸副国を頓丘より覓国ぎ行去り、浮渚在平地に立たし」、一書四に「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰の天浮橋に到りて、浮渚在之平地に立たし、膂宍の空国を頓丘より覓国ぎ行去り」とある。古事記では降臨の途中、天浮橋においての所作として記されるのに対し、日本書紀ではいずれも地上に降臨した後の所作として記される。正文・一書四では、降臨後に吾田の地へと移動する際の、一書二では移動した後の行為として記されている。岡田精司は日本書紀の神話について、天降り型神話以前の、海の彼方から神の子が訪れる水平来臨方の古い神話の痕跡が見られると説く(「天皇家始祖神話の研究」『古代王権の祭祀と神話』塙書房、一九七〇年四月、初出は一九六六年二月)。語義については、記伝に「此イト心得難ガタし」として日本書紀との文脈の相違などに触れ、「此わたり、オチミダれもしたる言やあらむ」とする。思想大系補注には「文意の通じ難い辞句であるが、特に一字一音で十一字分を表記していることは、伝承上重要な語句であったこと、また編纂段階ですでに意味不明になっていたことも考えられる」とする。「ウキジマリ」が日本書紀の表記の通り「浮島在」であるとすれば、天浮橋に威厳をもってお立ちになっている、といった意味になるかも知れない。 ○竺紫の日向の高千穂の久士布流多気 日本書紀には次のように見える。
  ・九段正文    日向の襲の高千穂峰/槵日の二上の天浮橋/ 
           膂宍の空国を頓丘より覓国ぎ行去り
  ・九段一書一  築紫の日向の高千穂の槵触峰
  ・九段一書二   日向の槵日の高千穂峰/膂宍の胸副国を頓丘より覓国ぎ行去り
  ・九段一書四  日向の襲の高千穂の槵日の二上峰の天浮橋/
          膂宍の空国を頓丘より覓国ぎ行去り
  ・九段一書六  日向の襲の高千穂の添山峰
 正文・一書四に「襲」「二上」が見え、一書六にも「襲」が見える。正文・一書二・一書四には「膂宍の空国を頓丘より覓国ぎ行去り」「膂宍の胸副国を頓丘より覓国ぎ行去り」という表現も見える。日本書紀の場合は高千穂に降った後にそのまま笠沙の碕に移動しているわけだが、そもそもの降臨地は「襲」「二上」の表記からすれば、霧島連山、すなわち宮崎と鹿児島の県境にある高千穂峰を示していると思われ、そこから「膂宍の空国」=熊襲の地を通って笠沙の碕まで移動するという展開となっている。降臨の地である日向の高千穂は熊襲の地と重なっているように見える。  一方の古事記では、高千穂降臨の後に移動した形跡はない。古事記における日向は、国生み神話において、筑紫国の中の四国の一つ、肥国の亦名の中に見られる。
   次に筑紫島を生みき。此の島も亦、身一つにして面四つ有り。面ごとに名有り。
   故、筑紫国は、白日別と謂ひ、
     豊国は、 豊日別と謂ひ、
     肥国は、 建日向日豊久士比泥別と謂ひ、
     熊曾国は、建日別と謂ふ。
 肥国の別名のみが非常に長い名前となっていることから、本文校訂上の問題を指摘された時期もあったが、真福寺本と兼永筆本が共通していることから、現在ではほぼ右の本文が採用されている。言えることは、古事記では日向を国名として挙げていないこと、日向を肥国の範囲に含めようとの意図が見えること、それはすなわち、日向を熊曾の地とは重ねないという意識があるということである。九州を四つに分割する中の肥国は、大まかに言えば九州の中心に位置していると言える。古事記の降臨の地が九州の中心に位置づけられるとすれば、韓国に向かっているという描写もそれほど不自然ではない(但し神話的発想としては、ここは降臨の途中、高所からの視点による描写とも取れる)。具体的に言うならば、宮崎と大分県との境に近い、宮崎県西臼杵郡高千穂町を想定することができるであろう(谷口「『古事記』天孫降臨神話の文脈」古代文学と隣接諸学10『「記紀」の可能性』竹林舎、二〇一八年四月、参照)。
天忍日命天津久米命 天忍日命の名義は「天上界の威圧的な霊力」(集成)、「オシは武力でもって制圧する意。ヒは霊力」(思想大系)などと説かれる。大伴連等の祖。天津久米命の久米については「隈(クマ)」の音転か(集成)とも説かれるが、定かではない。日本書紀九段一書四に「大伴連が遠祖天忍日命、来目部が遠祖天槵津大来目を帥ゐ」とあり、大伴氏の祖先神が来目氏の祖先神を率いる形となっている。(→神名データベース参照) ○天の石靫 石は堅固の意。靫は矢を入れる武具。日本書紀九段一書四に「背には天磐靫を負ひ、臀には稜威の高鞆を著け」とある。 ○頭椎の大刀 日本書紀九段一書四に「頭槌剣」とあり、一書五の訓注に「此には箇歩豆智と云ふ」とある。柄頭が塊状で、柄全体が槌状の形をした剣とされる。神武記の歌に「久夫都々伊 伊斯都々伊母知」(10歌)、神武紀の歌に「句騖都都伊 異志都都伊毛智」(9歌)とあり、通説ではこの「クブツツ」と同義とされるが、新編頭注は、それでは続く「イシツツ」の解釈が困難であるとして、歌中のクブツツ・イシツツはともに槌そのものを指しているとみて本条の「頭椎」とは別物としている。「頭椎」を「クブツツ・クブツチ」と訓むのも神武記紀の歌によるが、別物とすると日本書紀の訓注に従って「カブツチ」と訓むのが妥当か。 ○天のはじ弓・天の真鹿児矢 「天のはじ弓」は天若日子神話に既出(本注釈「葦原中国平定③」参照)。「天の真鹿児矢」については、既出の「天の麻迦古弓」(同「葦原中国平定②」)参照。日本書紀九段一書四に「天梔弓・天羽羽矢」とある。「梔」は一書五の訓注に「此には波茸と云ふ」とある。ハジは櫨(はぜのき)でウルシ科の落葉高木。「羽羽」は『古語拾遺』に「古語に、大蛇を羽々と謂ふ」とあるのを参考に、大蛇の意とみる説がある(思想大系・新編日本書紀など)。 ○御前に立ちて仕へ奉りき 先に猿田毗古神が天孫を天の八衢に出迎えて「御前に仕へ奉らむ」と言い、降臨後の天孫から天宇受売命への詔の中にも「此の、御前に立ちて仕へ奉れる猿田毗古大神は、……」とあった。そうすると、降臨に際して御前に立つ神がここの天忍日命天津久米命の二柱と、猿田毗古神と、二組存在したことになる。この関係性をどう考えるか。日本書紀九段一書では、「天神の子は、筑紫の日向の高千穂の槵触峰に到りますべし。吾は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到るべし」と言い、その後、その通りそれぞれに降り到っているが、古事記の降臨神話は伊勢神宮の起源的な内容をここに盛り込もうとした結果、伊勢への降臨と、日向への降臨との二種類の降臨をうかがわせる結果となった感がある。御前に立つ神が二通りとなるのも、伊勢への降臨を導く猿田毗古神と、日向に導く天忍日命天津久米命とが混合した結果としてあるのかも知れない。しかし天孫が伊勢に降臨したとは読めないわけなので、記載内容に従うならば、まずは、一行は皆日向に降ったと読まざるを得ない。猿田毗古神は天の八衢という分かれ道で出迎えたことを考えれば、まずは日向に向かう道を知る猿田毗古神が先導し、武装をした天忍日命天津久米命がそれに続いて天孫を守りつつ先導している、と捉えることができるのではないか。天忍日命大伴連等が祖、天津久米命久米直等が祖とされているわけだが、同じく大伴連等の祖とされる道臣命と、久米直等の祖とされる大久米命が神武天皇東征の際に従事していることからすれば、大伴氏・久米氏の祖が天孫降臨~神武東征において天孫・天神御子を導く存在として位置づけられていることがわかる。古事記ではそこに伊勢神宮の起源的内容を含み持たせる必要性から、猿田毗古神の神話が挿入されたのではなかろうか。 大伴連 「伴」は「物能乃敷能 夜蘇等母乃乎」(万葉集17・三九九一)「毛能乃布能 八十伴雄」(同18・四〇九四)の「伴」で、靫負部・舎人部など多くの軍事集団を統率していたことによる氏族名。 久米直 軍事に携わる集団である久米部を統率する氏族。神武記に記載の久米歌では「美都美都斯 久米能古良賀(勢い盛んな久米部の者たちが)」(11歌・12歌など)と歌われる。 ○笠紗之御前に直に来通りて 笠紗之御前は日本書紀正文に「吾田の長屋の笠狭の碕」とあり、日本書紀新編頭注に「鹿児島県薩摩半島西南部の加世田市辺。長屋は長屋山(加世田市と川辺郡との境)に名を残す。笠狭の碕は川辺郡西端の野間岬」と注する。日本書紀では高千穂降臨の後にそのまま笠狭の碕に移動するが、古事記ではそのようには描かれない。後の神話との繋がりでこの地名が記されていると思われるが、その他にも、韓国(北)・朝日(東)・夕日(西)に加えてこの地(南)を示すことで、四方に囲まれた良い地であることを示す、土地讃めの言葉として成り立っているものと思われる。神に称えられた地が選ばれるというのは地名起源譚の特質でもある。
 「直に来通り」(本文「直来通」)は校異で示した通り底本は「真米通」であるが、「米」を「来」の誤写とみて「真来(まぎ)通る」と訓むテキストが多い。日本書紀に「覔国行去(くにまぎとほり)」「覔国、此云矩弐磨儀」とあるので、その影響と見られる。しかし、「覔国」は国を探し求める意となるので、古事記の文脈には合わない。また古事記では求める意の「覔」は二度使われるが(ヤマタノヲロチ退治・八十神の迫害)、いずれも訓字一字表記であるのに対して、ここのみ「真来」と表記する点にも疑問が残る。「真」を「直」に校訂して、笠紗の御前に真っ直ぐに通っているといった意味で理解できそうなところであるが、「直に来通り」でそのように解することができるかどうか、問題は残る。「真」は諸本に異同がないゆえ、「真」のままで「真(ま)来通り」「真(まこと)に来通り」などと訓み、「本当に通っている」といった意で取れる可能性もあるかも知れない。補注二「「真来通」の訓読」 補注三「邇邇藝命の言祝ぎ」

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「真来通」の訓読

 真福寺本本文「真米通」(上巻・五四七行)は、卜部系諸本が真福寺本本文と同様なのに対し、春瑜本、道祥本、延佳本、『訂正古訓古事記』、『校訂古事記』では「真通」とされ、この箇所の本文が揺れている。「真」字に異同はないが、「刺国」(上巻・五四八行)を卜部系諸本、延佳本、『訂正古訓古事記』、『校訂古事記』は「刺国」としている。近い範囲でありながら採用する本文は諸本・諸注釈一致しない。
 真福寺本の「真米通」と「真刺国」との「真」字とは同一の字形で書写されている。しかし後者は【全書】【新注】以外の諸注釈はすべて兼永本以下と同様に「直」字に校訂している。「真」字は真福寺本では、いずれも足の部分が「人」や「八」のように書かれており、連続して一画になることはない。真福寺本内では「真」と「直」が混同して用いられるわけではなく、「真」と「直」とは書き分けられていると思われる。「刺国」の場合と同様に「真」と「直」とで諸本間に異同のある例として「御真津日子訶恵志泥命」が挙げられる。中巻一二七・一二八・一三〇行にそれぞれ「御津日子訶恵志泥命」が見えるが、一二七行と一三〇行について兼永本以下卜部系諸本は「真」を「直」としている。【神道】は懿徳天皇紀二年、孝昭天皇即位前紀、孝安天皇即位前紀、同卅八年紀ともに「観松彦香殖稲天皇」とあることを根拠とし、「真」が正しいとする。このように「真」と「直」とで揺れが見られる例もあって「刺国」の方は判断が難しいが、「米通」の「真」は諸本一致するため、当該箇所は「真」字にとるべきと判断される。
 次に「真米通」(上巻・五四七行)の「米」と「来」とは、真福寺本の「来」の例を見ると、「上来由者」(上巻・一九二行)は「来」の速筆によって「朱」とも「米」とも判じ難い(【神道】)。一画目の横画が筆の入りによって「朱」の一画目の「ノ」が付されているように書かれてしまうものが見える。また一画目の横画が短く作られ、二、三画目の点画も連続してしまうと、「未」に見える例に「入坐」(上巻・一二八行)、「千引石擎手末而」(上巻・四九九行)等ほか五例があげられる。点画が連続せずに独立し、「来」と判断できる字形も、一画目の横画が短く、二、三画目の点画からはっきりと書かれると「米」に見誤りやすく、「有帰神」(上巻・四一四行)、「更且還」(上巻・五〇五行)「不参出」(中巻・三八一行)は特に「米」に近く書かれている。以上のことから、真福寺本内の「米」と「来」とは相互に誤写された可能性が考えられる。なお金子武雄氏は「真米」の箇所を誤写とせず、「米」も「目」もメの乙類の仮名として用いられることから、「米」は「目」の借訓と捉え「マメ」と訓み「真目」の義に解し、「真目通る」は「よく目が通る」「よく見渡しが利く」意とする(『古事記神話の構成』国語国文学研究叢書12、南雲堂桜楓社、一九六三年十月)。しかし、字形の近さによる誤写の可能性に加え、『古事記』においては、固有名詞に借訓の仮名を用いることはあるが、用言には借訓を用いない傾向にあることが澤瀉久孝氏に指摘されているため(「古事記天孫降臨の條訓詁復古」『国語・国文』第十巻第一号、一九四〇年一月)、「真目通る」の義とすることは難しかろう。よって、当該箇所の「米」は「来」に校訂して差し支えないと考える。
 当該箇所を「真来通」とした時の訓読について、まず諸注釈を確認すると、「まぎとほりて」(【記伝】【標註】【新講】【評釈】【国民全書】【全注】【全註釈】【注釈】【集成】【思想】【西宮修訂】【新版】)「まきとほりて」(【全書】【大成】【大系】【新注】【全集】【神道】【神話】【新全集】【新校】)に二分される(【全講】【角川新訂】は「ま来通りて」で、付訓なし)。「まき」か「まぎ」かの揺れがあり、【記伝】は「き」の清濁は、『万葉集』の「山川を 岩根さくみて 踏み通り 国求ぎしつつ(久迩麻芸之都〃)」(20―四四六五)を根拠として、「芸」字は濁音の仮名であるから、求める意の「まぐ」は濁音であると述べる。他方神武記十六番歌謡に「かつがつも 弥前立てる 兄をし娶かむ(延袁斯麻加牟)」や、『万葉集』では「巻」字をあてることもあるため、清音のようでもあり決め難いとする。諸注釈をみると、求める意に解しておきながら清音の「まき」とするものもあるが(【大成】【大系】)、『時代別国語大辞典 上代篇』には「求める意の場合はマグ、清音のものは枕クの意で別語だとされている」(上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代篇』三省堂、一九六七年十二月)というように、一応の区別ができるだろう。
 「真来通」箇所に対し、【記伝】は「眞來、眞來は借字にて、書紀に、覓國此云二矩貮磨儀一、とある是なり、(中略)通は、書紀に行去、此云騰褒屢、とある字の如く、通り過ぎて往くなり、」として『日本書紀』の対応箇所を参照し、「真米」は「覓」であると捉え、鎮座するべき国を求めるために韓国を通過して、笠沙御崎に到達する意とする(大野晋編『本居宣長全集』第十巻、筑摩書房、一九六八年十一月)(1)。『日本書紀』を踏まえ「マギトホル」とする説は以後、【標註】【新講】【評釈】【大成】【旧大系】【全註釈】【注釈】【集成】【思想】に受け継がれる。一方【国民全書】は「マキトホル」とし、「「ま」は接頭語で、到り通じるの意。此の地は遠く遙かに大海の彼方の韓國までも見放(サ)けられ、山の裾の方遙かに笠沙御前までまつすぐに通じてゐる」と述べる。【全講】【全注】【全集】(【全集】は濁音で訓む)も、鎮座するに相応しい土地を求める意か、まっすぐに笠沙御前に通じる意かに大別される。
 澤瀉久孝氏は、地の文に借訓と見るべきものは殆ど求め難く、「覓ぎ」の意なら「覓」「求」の字を用いるべきであり、固有名詞以外に「来」をキの仮名とする例は『万葉集』の竹取翁の歌の「色名著来」「為軽如来」(16―三七九一)、『古事記』中には天津日子根命の子孫として「馬来田國造」(上巻、うけい)が固有名詞の一例のみで、他は正訓の文字として用いられるという。また「覓ぎ」は濁音が当てられるべきで、「真来」を「覓ぎ」にあてることは上代に用例のない濁音の借訓とした例となるとして、【記伝】に始まる「覓ぎ」説を否定しており、これには首肯される。そして「真来通」が「此地者」を直接うけることで明瞭な文になるとして、「「人」が笠沙の御前に「通る」のでなくして、「地」が笠沙御前に「通じ」てゐると見るべき」とし、「真」は強調の語とする(澤瀉久孝「古事記天孫降臨の條訓詁復古」『国語・国文』第十巻第一号、一九四〇年一月)。尾崎知光氏は、金子武雄氏の「真目通る」の説を否定する理由はないとしながらも「真」字を「十+目」「一」「八」に分け、「直来」と捉え直し、「直に来通りて(通ひて)」の訓を提示する(尾崎知光「古事記天孫降臨の「詔之、此地者向韓国、真来通笠沙之御前」の解」『古事記續考と資料』新典社、二〇一六年六月)。真福寺本の「真」と「米」の字間が詰まっていて、「真」が上接する語句では下字に筆が連続する例が複数見られればこうした解釈も成り立ち得るのかも知れないが、先に見たように「来」「米」は相互に判別しがたい字形が用いられる例はあるものの、上下の文字が融合した箇所は見られないため考え難い。
 以上を踏まえ、「真来通」とすると【全書】や澤瀉氏のまっすぐに笠沙御前に到り通じるとする「ま来通る」説、尾崎氏の「来通ひて」とする説は解釈上検討の余地がある。特に澤瀉氏は先掲論の中で、①「来通」に「真」を添えて「まつすぐに到り通じる」と訳したが、「真」は「来通る」のような動詞につく例が見当たりにくいこと、②「真」を「まことに」と訓むことができるか、などの疑問をも残している。
 「真来通る」の「真」について【全書】では「マは正眞・本格を意味する接頭語」と注を付し、【新全集】は「真来通る」の言い方が存在したかどうか疑問が残るとし、「直」の誤写の可能性もあることを述べている。接頭語として「ま」を用いる例として、
 ⑴名詞に続く場合(*人名除く)
  天の真名井(上巻、うけい)、天の香山の真男鹿の肩、五百津真賢木、天の真析(天の石屋)、
  真玉手(八千矛の神)、真魚咋(大国主神の国譲り)、天の真鹿児矢(天孫降臨)、
  千鳥真鵐(中巻、神武天皇)、畝火山の真名子谷(懿徳天皇)、真事(垂仁天皇)、
  真木(仲哀天皇)、真火(応神天皇)、斎つ真椿(下巻、仁徳天皇)、
  真杙、真玉(允恭天皇)、真木、真椿(雄略天皇)
 ⑵形容詞に続く例
  ぬばたまの 黒き御衣を ま具さに 取り装ひ… (上巻、八千矛の神、四番歌謡)
 以上があげられるが、動詞に続く例は記中には確認できない。『万葉集』では、金子武雄氏が指摘するように「梯立の 熊来酒屋に まぬらる奴 わし さすひ立て 率て来なましを まぬらる奴 わし」(16―三八七九)の例が動詞に接頭語の「ま」が付いたものかと指摘されるが、これは題詞から「能登国の歌」であることに注目すべきである。澤瀉久孝『注釋』は橋本四郎氏の説を引き、接頭語の「ま」は名詞の他は形容詞、形容動詞、副詞等情態性の意味の語句に付き、動詞に就くことはないとし、唯一の例外となる三八七九番歌は「マが動詞につかない結論を崩すほどの強力な証拠とはなしがたい」とし、能登方言の否定的な意味の動詞に「まぬる」があり、それに完了の「り」の連体形が接続したものかと述べる(「かより合はば―接頭語と指示副詞と―」『橋本四郎論文集 国語学篇』角川書店、一九八六年十二月)。また【全講】は「筋が通っている意」としての「真来通る」の類例の可能性として「枕大刀 腰に取り佩き まかなしき 背ろがまき来む 月の知らなく」(20―四四一三)をあげる。『新全集』頭注では、「マキはマカルと類義の派生語で四段に活用するマクの連体形か。任務を完遂して、の意としておく。」(20―四四一三番歌)と『代匠記(精)』の「マキコムハ罷来ムナリ」とする説を引き継ぐ。しかし武田『全註釈』では、マキとマクとは音が類似するのみで、マカルをマクと言う例はないとし、求める意でも通じると述べるが、ここでは「馬伎己无」の字があてられており、「馬」は動物のウマを表わす場合のみが「マ」と訓まれるという『大系』の指摘から、澤瀉『注釋』も「メキコム」と訓んでおり、訓、解釈ともに未だ定まっていない。諸注釈が指摘する『万葉集』の用例は、能登国の方言である孤例と定訓を見ない例になり、いずれも当該箇所の「真」を動詞に続く接頭語と判断するには難しい。
 改めて『古事記』に見える「マ」と訓まれる例で、動詞に続き得るものは、「マ」を接頭語として見るのではなく、副詞と捉えることで解決できないか。
  高光る 日の御子 諾しこそ 問ひ給へ 真こそに(麻許曾邇) 問ひ給へ 吾こそは 世の長人
  そらみつ 倭の国に 雁卵生と 未だ聞かず (下巻、仁徳天皇、七二番歌謡)
 右は仁徳天皇が豊楽しようと女島に行幸した際に、雁が卵を産んだ。その様を歌によって武内宿禰に尋ねる場面で、七二番歌謡は天皇の問いかけに答える武内宿禰の歌である。幾代も長く生きてきた武内宿禰に対して、雁が卵を産んだ理由を天皇が問うと、自身が適任であることを述べ、その武内宿禰でも倭国で未だ雁が卵を産んだことを知らないと歌う。この「真こそに」は「問ひ」を修飾し、副詞として用いられる。歌謡中に用いられる例であるが、天皇と武内宿禰との問答の形式で歌が展開していることからも、歌言葉と見るよりも会話文体に近い言い回しであると考える。「真こそに」は「曾」と「登」は通じ(契沖『厚顔抄』)、「まことにこそ」の意(【記伝】)であるとされるため、歌中の強調の言い方では「真こそに」となるが、一般に用いる場合は「まことに」で捉えられよう。ただ澤瀉氏が前掲論文で述べるように記中での副詞「まことに」は「信」字が用いられており、以下のように現れる。
  ①故、告しし随に如此設け備へて待つ時に、其の八俣のをろち、信に言の如く来て、
   乃ち船ごとに己が頭を垂れ入れ、其の酒を飲みき。(上巻、八俣の大蛇退治)
  ②故、夢の教の如く、旦に己が倉を見れば、信に横刀有り。(中巻、神武天皇)
  ③爾くして、其の熊曾建が白ししく、「信に然あらむ。西の方に、吾二人を除きて、
   建く強き人無し。」(中巻、景行天皇)
 ①は足名椎が言う通りに娘を喰らいに大蛇がやって来たことで、発話内容の真偽が重視される箇所となる。②も同様、夢の教えの通りに本当に横刀が倉にあった場面、③は景行天皇の命により服従しない熊曾建の二人を討ち取りに来たと倭建命が述べたのに対し、熊曾建が、前の言葉の通り自分たち二人が最も強い者だと答える場面である。これらから、先の発話内容の出来事が後から真実であると判明した際に「信」が用いられるとわかる。「信」の字義を確認すれば、高山寺本『篆隷万象名義』に「信」字は「誠也」とあり、天治本『新撰字鏡』には「誠也(中略)眞也、實也」とあって事実の真偽、正誤に関して「信」が用いられることの証左となる。他方「真」は高山寺本『篆隷万象名義』に「正也」、天治本『新撰字鏡』に「正也、實也」とあり、字義としては「信」と多分に重なるものではあるが、「信」の用例を見れば、既にあった発言をもとにして事態・事象がそれと違わない場合に、後からその真偽を言うものであり、かつその判断をする者は事態・事象を経験していた主体となる。当該箇所のニニギは降臨してから言祝ぎを行うためそれに対応する以前の言葉はなく、当然発言段階では事態の真偽を問うことにはなり得ない。よって当該箇所は「信」の用法からは外れる。「真」は字義としては「正也」が共通しており、和語として歌謡では質問すべき人選の適否についての評価となる。よって少しく用法に差異が見出せ、ために「信」ではない字があてられたと推測できる。当該の「真」は「此地」が「笠沙の御前」に「来通」ことの適正を保証するためのものと解することができ、「真来通」の「真」は、副詞として「まことに」と訓むことを一案として提示してみたい。
 次に「来通」について、複合動詞として捉え、用法を確認する。『古事記』中の「来―」の用例を以下にあげる。 
  ④忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも
   厳々し 久米の子が 頭槌い 石槌い持ち 撃ちてし止まむ
   厳々し 久米の子らが 頭槌い 石槌い持ち 今撃たば宜し(中巻、神武天皇、十番歌謡)
  ⑤其より入り幸し、悉く荒ぶる蝦夷等を言向け、亦、山河の荒ぶる神等を平げ和して、
   還り上り幸しし時に、足柄の坂本に到りて、御粮を食む処に、其の坂の神、
   白き鹿と化りて来立ちき。 (中巻、景行天皇)
  ⑥高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば
   あらたまの 月は来経行く うべな うべな うべな 君待ち難に
   我が着せる 襲衣の襴に 月立たなむよ (中巻、景行天皇、二八番歌謡)
  ⑦つぎねふ 山代女の 木鍬持ち 打ちし大根 さわさわに 汝が言へせこそ
   打ち渡す 八桑枝なす 来入り参ゐ来れ (下巻、仁徳天皇、六三番歌謡)
  ⑧亦、軍を興して、都夫良意美が家を囲みき。爾くして、軍を興して待ち戦ひて、
   射出す矢、葦の如く来散りき。(下巻、安康天皇)
 右のように複合動詞となり、「来―」となる例が散見される。④は土雲の八十建が忍坂の大室にいて待ち構えてうなり声をあげている所、神武天皇が土雲を討とうと歌で合図をする場面である。大室屋に人が多く入って来ているとして、提示した場所への到着をいう。⑤は足柄の坂の神が白い鹿になって倭建命のもとに近づき、現れた場面で、⑥は美夜受比売の襲衣の裾に月経の血が付着していたことに対し歌った倭建命に、ずっと待ち続けていて年月が経過したのだから襲衣の襴に「月が立つ」のも当然だと返す歌、⑦は仁徳天皇が大后に歌いかけた歌で、口子臣とその妹の口比売と奴理能美とが使いを派遣して蚕を献上した際に、「さわさわ」と大后が言いたてるから、皆でやって来たのだとして妃との和解に向かう。⑧は大長谷皇子が軍勢を起こし、都夫良意美の家を囲んだ際、都夫良意美の方でも軍勢を起こして戦い、射出す矢が葦の花が風に乱れるように、大長谷皇子側に飛んで来て散ったという場面である。「来―」となる場合は、動作主体が対象の側に接近することを表し、接近される対象を中心とした移動の方向性が示される。ただ当該箇所は「此地」が提示語となり、笠沙の御前に「真来通」ということになり、地名であるため動きはしないが、動作主体相応のものは「久士布流多気」であり、接近される対象となるのは「笠沙御前」である。場所に来る例に、『万葉集』では「霞居る富士の山辺に我が来なばいづち向きてか妹が嘆かむ」(14―三三五七)があり、「富士の山辺」を到着点としてそこに行くことを「来」と表す。これを踏まえれば、当該箇所で「久士布流多気」が「笠沙御前」に「来通」というのは、到着対象である「笠沙御前」に重点を置いた言い方となる。
 場所が場所に到達する意に用いられる「通」の例には、「難波の堀江を堀りて、海に通し(通海)」(下巻、仁徳天皇)と、仁徳天皇の御代に、淀川、大和川の水を海に通すために難波の堀江を掘ったとある。「通」字について、天治本『新撰字鏡』には「達也、微也、徹也、道也」とあり、また高山寺本『篆隷万象名義』には「達也、徹也、道也」とあることからも、対象を場所に到達させる意に用いられるとわかる。また『万葉集』での「通る」は、雨が衣に染み込んで身体が濡れることを歌う例が大半を占め(2―一三五等)、妻の美しさの比喩としての光が外に現れる例(11―二三五四)、涙が木枕を伝って袖が濡れることなどの貫通の意に捉えられるものの他(11―二七九四)、「巌すら行き通るべき(行応通)ますらを」(11―二三八六)、「山川を岩根さくみて踏み通り(布美等保利)」(20―四四六五)の例があり、障害を物ともせず猛進する様が歌われ、「通る」は人が障害物を押しのけて突破する意に解される。これらを考え併せれば、障害となるものを突き抜け対象(目的)に到達する意となり、当該では場所が場所に到達するということから実際には道を介して至るわけであるが、久士布流多気が笠沙御前に差し障りなく到達する意として認められるだろう。また殊に『出雲国風土記』は「通○○郡堺□□」の形式をもって郡家からある場所までの距離を具に載せる。これも、先の古辞書による字義を踏まえれば場所に到達する意と考えられる。郡家といった特定の場所を中心とした時に別の場所までの距離を「通」字を以て表す構成は久士布流多気から笠沙御前までを「真来通笠沙御前」とする当該箇所と同様の用法であろう。
 以上から「来通」は、「来通りて」と訓むことができ、「此地(久士布流多気)」こそが、紛うことなく笠沙御前に到り通っており、そこに通うべき適当な土地であるとして、ニニギが久士布流多気に降臨し、宮を造営することの選択の正しさを補強すべき語として「真来通」が機能していると捉えられる。
 
 註
(1)【記傳】は「真来通」を『書紀』の「覓國此云矩貮磨儀」と照応させて「覓ぐ」意に捉えることにより、「於是詔之此地者向韓国真来通笠沙御前而詔之」の箇所は、「於是膂肉空國詔真来通笠沙御前而詔之」とあるべきで錯簡を起こしており、「向」は「肉」の誤りで、さらに上に「膂」を脱しているとこの箇所の錯簡を唱える。田中頼庸『校訂古事記』は「於是真来通笠沙之御前而詔之」と改め、「詔之此地者向韓国」は「真来通」に下接するもので、錯簡であると頭注に指摘する。これらは『書紀』の記述をもとに『記』の文脈を変じたものであり、「真来」を「覓ぎ」と捉えることに起因する。両書は別本であることから『記』そのものの記述意図を読み取るべきであり、ここでは『記』の文脈の誤脱には触れないこととする。
〔稲見知華 日本上代文学〕

邇邇藝命の言祝ぎ

 筑紫日向の「高千穂之久士布流多気」に降臨した天孫番能邇邇藝命は、「此地者、向韓国、真来通笠紗之御前而、朝日之直刺国、夕日之日照国也。故、此地、甚吉地」と詔り、降臨地の国ぼめを行う。この詔詞について若干の解説を施しておきたい。なおこの詔詞中でも特に訓釈に問題の多い「真来通」については、前項【補注二】に別に詳説されているので、併せての参看を願う。
 降臨直後にニニギが国ぼめを行うという『古事記』のような場面は、『日本書紀』には全く見られない。天孫降臨を記述する第九段を見ると、本書(正文)に「浮渚在平処に立たし膂宍之空国を頓丘より国覓ぎ行去り吾田の長屋の笠狭之碕に到る。其地に一人有り、自ら事勝国勝長狭と号く。皇孫問ひて曰く、『国在りや、以不や』と。対へて曰く、『此に国有り。請はくは意の任に遊せ』と」とあり、これが一応当該箇所に対応するらしい。同段の一書第二には「膂宍胸副国を頓丘より国覓ぎ行去り浮渚在平地に立たし、乃ち国主の事勝国勝長狭を召して訪ふ。対へて曰く、『是に国あり。取るも捨つるも勅の随に』と」とあり、また一書第四には「浮渚在之平地に立たし膂宍空国を頓丘より国覓ぎ行去り吾田の長屋の笠狭之御碕に到る。時に彼処に一神有り。名を事勝国勝長狭と曰ふ。故、天孫其の神に問ひて曰く、『国在りや』と。対へて曰く、『在り』と。因りて曰く、『勅の随に奉らむ』と」とある。一書第六はこれらとは若干異なるが、「吾田の笠狭之御碕に到り、遂に長屋の竹嶋に登る。乃ち其の地を巡り覧れば、彼に人有り。名は事勝国勝長狭と曰ふ。天孫、因りて問ひて曰く、『此は誰が国か』と。対へて曰く、『是は長狭が住める国なり。然れども、今は乃ち天孫に奉上る』と」とある。見較べてみれば書紀の内部では地名や神名等の表記が相互にほぼ一致しており、内容も似通っていることがよくわかるが、しかしこれらの内容は『古事記』の記事とは全く似ていない。記と紀で共通している要素は「笠紗之御前(笠狭之御碕)」という地名だけで、それ以外の要素は全く異なっている。書紀の所伝はいずれも「国」を探し求める天孫が「国主」の事勝国勝長狭と出会い、対話を通じて天孫に国土が奉献されるという経緯を語る。しかし古事記には事勝国勝長狭に相当する神は登場せず、ニニギが国ぼめを行うことを通じて自ら国土を獲得したという展開になっている。しかも古事記では国ぼめに続いて「底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて、坐しき」と、その地に宮殿を築いて鎮座したことまでが語られており、ニニギ降臨後の展開と文脈は書紀とはかなりの懸隔があることがわかる。書紀の伝えではニニギが獲得した「国」は「笠狭」周辺であるように読めるのだが、古事記の伝えではニニギが「宮」を建てたのは天から降臨したその場所であるように読め、しかもその「宮」は後の記事において「高千穂宮」と呼称されている。従って記のニニギが「甚吉き地」だと褒めている「此の地」とは、降臨地の高千穂であることが確実となる。
 だが従来の注釈においては、古事記と書紀の伝承を同一視しようとして、記の「韓国」を紀の「空国」に結びつけたり、記の「真来通」を紀の「覓国」に関連づけるような解釈も多く行われてきた。そのような説の代表格が、書紀の記述を否定的に捉えてきたはずの『古事記伝』であるというのは、何とも皮肉な話である。宣長は「於是、詔之此地者韓国、真来通笠紗之御前而」という記の本文を、「於是、膂肉韓国、真来通笠紗之御前而、詔之此地者」と大胆に書き換える。宣長は書紀に合わせて「向」は「肉(宍)」字の誤写だと言い、また「韓」は借字で、「韓国」は「空国」と同じだとする。なおかつ「向韓国真来通笠紗之御前而」をニニギの詔詞とは見ず、書紀と同様の地の文と見て、語順も大きく改める。書紀の「空国」は一書に「胸副国」ともあるので、カラクニではなくムナクニと訓まれるのが通例だが、宣長はカラクニもムナクニも「意は同じ」だと言う。また「真来」は借字で「覓(まぎ)」の意だとする。つまり宣長は、当該箇所については古事記の記述よりも書紀の記述をより正当なものと見做し、書紀に合わせて古事記を解釈しているわけである。もちろん宣長の本文改竄には全く正当性はないが、仮に宣長が言う通りに本文を改め「真来通」の三文字が「国覓ぎ行去り」と同じ意を表していると仮定したとしても、「膂肉韓国真来通笠紗之御前」という語順や構文にはやはり無理がある。書紀の「頓丘より」に相当する表現はないのだから、「真来通」が「膂肉韓国」の前に置かれるのが語順としては自然であるし、また「笠紗之御前」の前にも「到る」に相当する別の動詞が無いと意味が通らない。つまり宣長の考え通りに本文を改変したとしても、書紀の伝えと一致させることは結局はできないのである。そもそも古事記の「国ぼめ」神話と、日本書紀諸伝の「国まぎ」神話とは、それぞれの話の展開が全く異なっており、別物と考えるべきである。違う話であるにもかかわらずそれらを混同し、なおかつ書紀の伝えを基準にして古事記の語句を解釈するという宣長の方法自体が、やはり間違っていると言わざるを得ない。
 書紀との一致や整合性は一切考慮せずに古事記の当該詔詞を見直してみると、まず第一に検討しなければならないのが「向韓国」の意味である。この三文字は良くも悪くも古代史学上に多様な議論を生み出す材料となってきたもので、特に「韓国に向かふ」という記述を根拠に「日向」および「高千穂」が南九州ではなく北九州であったという主張が出されることになった(上田正昭『日本神話』岩波新書・昭45、ほか)。この「高千穂」北九州説では、南の第宮崎や鹿児島は朝鮮半島とは逆方向に位置しているから「韓国に向かふ」とは言えないという主張が成される。この見方は「筑紫」の範囲の問題とも関わり、また神武東征に至る日向神話の枠組みをどう捉えるかという問題にも関わるが、古事記全体の熊襲・隼人に関する記事との整合性を考えると、日向を北九州と見做す説には数々の齟齬や矛盾が生じてしまう。そもそも「向韓国」という言い回しをそこまで現実的な描写として捉えなければならないのかという素朴な疑問も生じる。一方、現在の地理認識と同じく「日向」や「高千穂」を南九州とする立場からは、「韓国に向かふ」の「韓国」とは朝鮮半島ではなく、霧島山の「韓国岳」のことだという説も出されている(小島瓔禮「日向の高千穂の峰」『國學院雜誌』平3・1、尾崎知光「古事記天孫降臨条の『詔之、此地者向韓国、真来通笠紗之御前』の解」『古事記続考と資料』新典社・平28)。この解釈に立てば慥かに地理的な矛盾は解消されるが、たとえ韓国岳を「韓国」に見立てていると考えたとしても、呪術的であるべき国ぼめの言葉としては余りにも土着の日常感覚に密着し過ぎていて、地上における神聖王権の始まりという神話にしてはスケールが小さくなり過ぎるのではないかという疑問を覚える。
 当該の「向韓国、真来通笠紗之御前」という措辞は、『記伝』が考えるようなニニギの旅程の説明叙述ではなく、天孫が初めて降臨し最初の王宮を営む場所となる高千穂について、優位性や神聖性を宣言する賞詞と見るのが文脈上最も合理的であろう。古事記にはスサノヲが出雲で須賀宮を建てる際に「吾、此の地に来て、我が御心すがすがし」という「詔」を発する場面があるが、ニニギが高千穂宮を建てる際に「詔」を発する当該場面と状況が全く同じである。つまり、「宮」を建てるに際しては、それにふさわしい神聖な場所を定め、その地を神聖化するために土地ぼめを行うという手順が必要とされたということである。そう考えると「向韓国、真来通笠紗之御前而、」は、その後に続く「朝日之直刺国、夕日之日照国」と一体となることで土地を讃美する賞詞となると見るべきである。この「朝日之~」という太陽の運行に関わる措辞は、日神の孫が宮殿を営むにふさわしい「日向高千穂」の地を讃える機能を有する。「朝日」と「夕日」とが対となるのと同じく、「韓国」と「笠紗之御前」の地名も対にされていると見るべきであり、その対が「国」を褒める意味を持たなくてはならない。その対は、高千穂の地理的位置関係を定位するとともに、ニニギの支配空間の範囲と広がりを説明する。「向韓国、真来通笠紗之御前」という一節はもとより神話的な讃美の言説であったわけで、「向韓国」を現実世界の眺望に即して考える必要はない。
 古事記において「韓国」という語は当該の一例しか見られないので、これがどの「国」を意味しているかを古事記内部から検証することはできない。古事記には「新羅国」「百済国」といった現実の朝鮮国名が記されており、神話中に現れる唯一の「韓国」はそれら現実の国名とは区別して捉える必要がある。なお古事記には「韓神」「韓人」等の語も見えるが、それらを根拠にして「韓国」の範囲を定めることも難しい(「韓神」については本誌十五号掲載『古事記』注釈(三十五)の【補注一】を参照)。仁徳記に見える「筒木韓人奴理能美」が、『新撰姓氏録』左京諸蕃の「調の連」氏の項や山城国諸蕃の「民の首」氏の項に見える「百済国(人)努理使主」と同一人であるとすれば、この「韓」は百済ということになるが、それだけで「韓国」がイコール百済だと断定するわけにはいかない。
 『日本書紀』には「韓国」が十一例見られるが、そのうち七例は人名であるので、それを除くと地名の「韓国」は四例しかない。うち三例が仁徳即位前紀、一例が雄略紀七年此歳条にある。仁徳即位前紀の三例はみな、倭直吾子籠が「韓国」に派遣されているという記事に集中して用いられているが、この「韓国」はどこの国とも特定し難く、漠然と「外国」と考えるしかない。また雄略紀の例は、西漢才伎歓因知利が「奴より巧みなる者、多に韓国に在り」と発言したという記事だが、西漢氏についてははっきりしないものの、東漢氏が中国の出自を主張していることを考え併せても、この「韓国」は漠然と中国・朝鮮諸国を併せた「外国」を指していると見ておくのが妥当であろう。「韓国」は『常陸国風土記』にも一例(行方郡田里条)見られるが、神功皇后の征討伝承に関わる記事であるので、これは新羅を指していることになる。『播磨国風土記』には「韓国」が八例も見られ、そのうち五例がやはり神功皇后関係である。また一例(揖保郡粒丘条)は天日槍伝説に関わる記事なので、これも新羅を指していることになる。その他にも「呉勝」なる人物が「韓国」から渡来したという記事(揖保郡大田里条)があり、「呉」という名からするとこの場合の「韓国」は中国ということになる(百済系の可能性もある)。残る一例は「鵲」を「韓国の烏」と呼ぶという記事(讃容郡船引山条)だが、これはあくまでも俗称であって、特定の国を指すものではない。
 また『万葉集』には「韓国」という表記が三例見られるが、そのうち「此の吾子を韓国へ遣る」(19―四二四〇)は光明皇后が遣唐大使藤原清河に与えた歌であり、「韓国へ行きたらはして」(19―四二六二)は多治比鷹主が遣唐副使大伴胡麻呂に贈った歌であるので、これらの「韓国」が朝鮮ではなく唐(中国)であることは明らかである。残る一例の「韓国の虎と云ふ神を」(16―三八八五)も、日本人は虎に関する知識情報を漢籍から得ていたであろうから、この「韓国」もどちらかと言えば中国をイメージしていたであろう。ただし『日本書紀』では虎が出てくる記事が百済・高句麗・新羅に関わっているので、朝鮮半島のイメージもなかったとは言えない。このように古事記以外の上代文献における用例を見ても、「韓国」が特定の国を指示しているとは言えず、漠然と「外国」を指していると見られる。要するに「カラの国」とは異国という意であって、「韓」「漢」「唐」の用字には特段使い分けの意識はなかったと考えられる。
 金井清一(「古事記の『高千穂』『笠沙』『韓国』をめぐって」『古事記編纂の論』花鳥社・令4)は、古事記の「韓国」が「常世国」のような「一種の抽象的な世界空間」であり、理想的な「高文化の原郷世界」だと指摘しているが、唯一の例が神代記中に限られていることからすれば肯われてよい見解であろう。とはいえ「韓国」は全くの仮想空間というわけではなく、神話言説が現実状況から遡及的に想像され形成されたものである以上、漠然とではあるにしても現実の朝鮮・中国のイメージもそこには包含されているはずである。
 「韓国」が特定の国ではなく、抽象的な異国の意であるとすれば、「向韓国」という措辞には倭国とその〈外部〉とを対置させようとする意識が示されているのではないかとの予測が成り立つ。そうなると次に考えなくてはならないのは「向」字の意味である。従来の解釈では「向」字に可視的に「見えている」という意味を担わせていたため、南九州からは朝鮮半島が「見えない」から地理的矛盾があるという論法がしばしば繰り返されてきた。しかし金井氏の言うように「韓国」が現実の空間ではないとするなら、それが実際に「見える」かどうかは全く問題にならないし、そもそも「向」字には「見える」という意など含まれてはいない。では「向」はどういう意味かというと、たとえば神武記には、五瀬命が「吾は日神の御子と為て、日に向かひて(向日而)戦ふこと良からず。…背に日を負ひて撃たむ」と発言する場面があり、これを見ると「向」には「~に対峙する」という意味があると考えられる。この五瀬命の発言は、自身の祖である「日」の威力を自らの助けにできず、むしろそれに相対するポジションを取ってしまったことを反省するものである。その意味するところを神武即位前紀では、陽光とは「日神の威」であるので、日神の子孫が「日に向かふ(向日)」ことは「天道に逆らふ」行為になるのだと明快に説明している。何かと「対峙する」ことは、敵対とか対立とまではいかなくとも、それを〈外部〉にあるものとして対象化するという意味を持つことになる。あるいは雄略記の一言主神の説話には、雄略一行が葛城山を登っていると、自分たちと全く同じ格好をした一団が「所向之山」を登っていることに気づくという場面があるが、この「向」には、ほぼ同等な二つの山(葛城山と金剛山)が対峙しているという状況を表す意味がある。その相似する山の対置が、雄略とその二重身である一言主との拮抗する関係を示している。こうした古事記の「向」字の用法から推すなら、「向韓国(韓国に向かふ)」という措辞には、先進的な「韓国」諸国に拮抗しうる存在として日向高千穂の「国」が確立されたことを宣言する意味があったと考えることができる。
 次に問題となるのは、抽象度が高く広範囲を表す「韓国」に対置される地名が、「笠紗之御前」という現実的でローカルな場所であるという落差をどう考えるかという点である。一つには、古事記において「笠紗之御前」という場所が「天津日高日子番能邇邇藝能命、於笠紗御前、遇麗美人」と後段にあるように、ニニギがコノハナノサクヤビメと出会う重要な場所として設定されているということはあるだろう。つまり伝承の地としてこの地名を逸することはできなかったということが考えられる。しかしそれだけではなく、現在の笠沙岬が実際に九州最南端であるかどうかはともかくとして、歴史地名としての「笠紗之御前」が九州本土の最南の果てというイメージを背負っていたであろうことと、その周辺地域が王権に敵対する隼人の支配領域であり、「笠紗之御前」が隼人世界を象徴するランドマークであったことが、この地名を召喚する理由であったと想像される。本来畿内王権の統治外であったはずの日向が敢えて王権神話の舞台に選ばれたことには、おそらく八世紀の現実における対隼人政策が影響していたはずである。つまり、「韓国」が中国や朝鮮といった北方の〈外部〉を表象するのに対し、「笠紗之御前」には隼人という南方の〈外部〉を表象する意味があったのではないかということである。そして日向三代の神話においては、〈外部〉であったはずの隼人を王権の〈内部〉へと引き込んでゆこうとする過程が繰り返し語られる。従って「向韓国、真来通笠紗之御前」という詔詞は、外に「韓国」(中国・朝鮮)を睨みつつ「笠紗之御前」(隼人・南九州)までを王権の支配領域に収める、というような意味を表すものではないかと考えられる。言うなればこの措辞は「北には韓国を見据えながら、南は笠紗之御前に至るまで」が王権の支配領域だということを表しているのであり、現実的に見れば北から南までの九州(筑紫島)の全土を視野においた空間認識になっていると言える。古事記の天孫降臨神話における「高千穂」は、高天原に対しては地上(葦原中国)を象徴する場所であり、ニニギ降臨後は九州全体と王権とを表象する場所という意味を与えられる。当該の措辞を以上のように解釈できるとしたら、次なる問題は「真来通」の解釈になるが、この三文字については本文・訓読に余りにも問題が多いため、詳しい考証は別項【補注二】に譲ることとしたい。この箇所に限って「真来通」という異例の表現が見られるのは、これがニニギの発話であるという口頭語性に加えて、呪言の様式性がその原因となっているのだろう。「真来通」をどう訓読するにしても、「笠紗之御前」を一方の極として国土の範囲を定めるという文脈を形成しているという見通しは立てられる。その場合「通」は『出雲国風土記』に多用される「~の方に通じている」という意味を表す用字だと考えられる。
 続いて「朝日の直刺す国 夕日の日照る国」の措辞についても検討しておこう。真福寺本は「真刺」に作るが、兼永筆本が「直刺」に作り「タダサス」と傍訓するのに従っておく。また「刺」は「入日刺奴礼」(万葉2―一三五)と同じく日射の意と見てよい。「朝日さす」「入日さす」という表現は万葉歌等にも多く見られ、「直刺」とは日照が遮るものなく直射する意に解しうる。この「朝日」と「夕日」を対にする措辞に「国」を讃美する働きがあることは文脈上からも明らかだが、雄略記の天語歌にも「纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮  夕日の日がける宮」(記九九)という類似の句があり、さらに範囲を広げれば『延喜式』の「龍田風神祭祝詞」には「吾が宮は 朝日の日向かふ処 夕日の日隠る処の 龍田の立野の小野に 吾が宮は定め奉りて」ともあるので、諸注はこれを国ぼめの常套句(フォーミュラ)として理解している。それはその通りだが、これらの用例を見ればこれらのフォーミュラが特に「天皇の宮」に対して用いるものであったと限定できる。天語歌が「日代の宮」の讃美であることからも明らかなように、太陽神アマテラスの末裔であるがゆえに「日の皇子」「天つ日継」と称される天皇の居住地には、完全なる日照を受けることができる場所こそが最もふさわしいとする神話的な論理があり、それが「朝日」と「夕日」の讃美表現を要請している。
 この「朝日の直刺す国 夕日の日照る国」という措辞は、朝から夕まで太陽が出ている時間の長さを表す意味があるが、そればかりではなく「朝日」は東を、「夕日」は西を表し、太陽の運行に沿って東から西まで空間が広がっていることを表す意味も担っていたのではないか。だとすれば、「向韓国、真来通笠紗之御前而」が南北の「日緯(日横)」軸を表しているのに対して、「朝日の直刺す国 夕日の日照る国」が東西の「日経(日縦)」軸を表していると見ることができよう。つまり当該の詔詞は、東西南北すべての方向に王権の空間が開けていることを述べるものであったということになる。さらにそこに「底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて」という地下から天上までを貫く垂直軸をも加えてみれば、ニニギの支配領域が四方と上下の全ての方向に立体的に開けているということを、古事記の当該場面は語ろうとしていたと考えられる。朝鮮・中国を視野に置きつつ、隼人の支配領域も包摂しつつ、天上からのアマテラスの光に祝福されて、新たな地上の王権が確立したことを頌したのが、当該のニニギの詔詞であったと見ておくことにしたい。
〔土佐秀里 日本上代文学〕

故尒、詔天津日子番能迩〻藝命而、 天之石位、押分天之八重多那此[二字以音]雲而、 伊都能知和岐知和①弖[②伊以下十字以音]、 天浮槗宇岐士摩理蘓理③多〻斯弖[自宇以下十一字以音]、 降坐④竺紫日向之髙千穂之久士布流多氣[自久下六字以音]。 故尒、天忍日命天津久米命二人、 ⑤天之石靭 佩頭椎之大刀 持天之波士弓 挟天之真鹿兒矢 御前而仕奉。 故、其天忍日命〔此者大伴連等之祖〕、 天津久米命〔此者久米直等之祖也〕。 於是、詔之「此地者、向韓國 ⑦通笠紗之御前而、 朝日之⑦刺國、夕日之日照國也。 故、此地甚吉地」、詔而、 底津石根宮柱布斗斯理、 髙天原氷椽多迦斯理⑨而坐也。 【校異】
①底本「知和岐知和弖」。道祥本・春瑜本・訂正古訓古事記・校訂古事記に従って「知和岐知和岐弖」に改める。
②底本「曰」。道祥本以下諸本に従って「自」に改める。
③底本「蘓理蘓理」。兼永本以下諸本に従って「蘓理」に改める。
④底本「亍」。道祥本以下諸本に従って、助字「于」に改める。
⑤底本「屓」。兼永本・前田本の傍訓「ヲヒ」および曼殊院本以下諸本に従って「負」に改める。
⑥ 底本「真米」。従来、道祥本・春瑜本などに拠って「真来」とされてきたが、「真」と「直」の誤写とみて、ここは「直来」に改める。詳しくは語釈参照。
⑦底本「真」。兼永本以下諸本に従って「直」に改める。
⑧ 底本「斯理○而」とあり、挿入符の右傍書に「於髙天原水椽之多迦斯理」。道祥本・春瑜本・訂正古訓古事記・校訂古事記を参考に「於髙天原氷椽多迦斯理」に改める。

そこで(天照大御神高木神は)天津日子番能迩々芸命に(天から降るように)仰って、 (迩々芸命は)高天原の堅固な神座から離れて、天に数多く重なってたなびく雲を押し分けて、 荘厳に道を区別して選んで、 (その途中で、)天の浮橋にすっくとお立ちになって、 筑紫の日向の高千穂のクジフルタケに天降りなさった。 そこで、天忍日命天津久米命との二人が、 堅固な靫を背負い、 頭椎の大刀を腰に下げ、 天のはじ弓を手に持ち、 天のまかこ矢を手に挟んで持って、 (天孫の)先頭に立ってご先導申し上げた。 さて、その天忍日命は〔これは、大伴連らの祖先である〕、 天津久米命は〔これは、久米直らの祖先である〕。 そうして、(迩々芸命は、)「ここは、朝鮮に向かって、 笠沙の岬にまっすぐに道が行き通っていて、 朝日のまっすぐ射す国、夕日の照らす国である。 それゆえに、ここは大変よい地だ」と仰せられ、 地の底にある岩盤に宮殿の柱を太く立て、 高天原に届くまでに千木を高くそびえさせてお住まいになった。

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