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是ここを以もちて、高たか御み産巣日むすひの神かみ・天あま照てらす大おほ御み神かみ、また諸もろもろの神かみ等たちを問ひしく、 「葦原中国に遣はせる天菩比神あめのほひのかみ、久しく復奏かへりことまをさず。 また何いづれの神を使はさば吉よけむ。」ととひき。 尒しかくして、思おもひ金かねの神かみ答へ白まをししく、 「天あま津つ国くに玉たまの神かみの子、天若日子あめわかひこを遣はすべし」とまをしき。 故尒くして、天あめ之の麻ま迦か古こ弓ゆみ・天あめ之の波は々は矢やを以もちて天若日子に賜ひて遣はしき。 是ここに、天若日子其の国に降くだり到る、 即すなはち大おほ国くに主ぬしの神かみの女むすめ下した照でる比ひ売めを娶めとり、 また其の国を獲えむと慮おもひて、八や年とせに至るまで復奏さず。 故尒くして、天照大御神・高御産巣日神、また諸の神等を問ひしく、 「天若日子久しく復奏さず。また、曷いづれの神を遣はしてか、 天若日子の淹ひさしく留とどまる所ゆ由ゑを問はむ」ととひき。 是に諸の神と思金神と、答へて白さく 「雉きぎし、名は鳴なき女めを遣はすべし」とまをす時に詔のらししく、 「汝なれ行ゆきて天若日子に問はむ状かたちは、 『汝いましを葦原中国に使はしし所ゆ以ゑは、 其の国の荒ぶる神かみ等どもを言こと趣むけ和やはせとぞ。 何なにとかも八年に至るまで復奏さぬ。』と問へ」とのらしき。 故尒くして、鳴女天あめより降くだり到りて、 天若日子が門かどの湯ゆ津つ楓かつらの上うへに居ゐて、 言ことの委曲つばひらけきこと天神あまつかみの詔命みことのりの如ごとし。
○天津国玉神 天津国は天上界の国土。従って高天原の神霊(国土霊)の意を持つ神。大国主神の亦名に「宇都志国玉神」がある。『日本書紀』九段正文に「天国玉の子天稚彦」が「顕国玉の女子下照姫」を娶るとあるので、天国玉と顕国玉とが対となる神であると説かれることが多い。しかし厳密には「天」と対になるのは「国」であって、「顕」ではないので、天国と顕国とで対応していると捉えることには問題がある。最初に派遣されるアメノホヒは天照大御神の二番目の男子に相当し、三番目に派遣される神は伊耶那岐命が火神カグツチを斬った際の剣・血・石から化生した神であるところに、派遣神として選ばれる所以があると見られるのに対し、天若日子の派遣神としての正当性を示す要素として天津国玉神の子という位置づけが求められたのかも知れない。 ○天若日子 神名は、天上界の若者の意。アメノワカヒコとも訓まれるが、「天之」と表記される例が無いという新編全集頭注の説に従って、アメワカヒコと訓む。神や命などの尊称が付かない点については、この神が結果的に反逆者となって死を賜ることに由来するとみる説がある。オホゲツヒメやカグツチなど殺される神は他にも見られるが、「死」と表現されるのはアメワカヒコの他には天石屋神話の天服織女のみである。その天服織女もやはり神・命などの尊称は付かない。そこに関連があるとするならば、反逆者であるからというよりも、「死」ぬ存在であるから、ということが関係しているのかも知れない(注釈(十七)「天の石屋」語釈参照)。 〇天之麻迦古弓・天之波々矢 下文に、「天之波士弓」「天之加久矢」とある。天孫降臨条には「天之波士弓」「天之真鹿児矢」がみえる。『日本書紀』九段正文に「天鹿児弓・天羽羽矢」、一書一に「天鹿児弓・天真鹿児矢」。「鹿児」は鹿等の獲物を捕る弓・矢の意とされるが、「迦古」「加久」については「光輝く」意とするもの(新編全集)もある。「波々」は、宣長等は「羽張矢」の意とするが、『古語拾遺』に「古語に、大蛇を羽々と謂ふ」とあるのを参考に、大蛇の意ととるもの もある(新編全集『日本書紀』)。【補注解説一】参照。 ○其の国 葦原中国。後に建御雷神と天鳥船は出雲国の伊耶佐の小浜に降臨し、以後、葦原中国平定神話は出雲を舞台として描かれているように読めるが、天菩比神と天若日子派遣の場面までは葦原中国とあるのみで、具体的な場所は提示されていない。それ故、天若日子派遣の話までは、舞台を出雲に限定することは出来ない。 ○下照比売 大国主神の系譜条には、大国主神と多紀理毗売命との間に生まれた阿遅鉏高日子根神の妹高比売命の亦名として「下光比売命」の名が記されており、この女神に該当する(注釈(三十三)参照)。 ○娶 初出は須賀の宮②(注釈(二十四)参照)。婚姻を表す語のうち、「娶」は主として系譜記述に用いられる。男系系譜に使用されるものであり、基本的に天皇系譜において用いられるが、須佐之男命から始まる出雲系の系譜においても使用されている。吉井巌の指摘により、『古事記』においては二箇所のみ物語叙述の中で使用されている点が問題とされているが、ここがその一箇所にあたる。もう一箇所は中巻・神武記で、神武天皇皇子のタギシミミが、神武崩御後に、継母にあたる神武皇后イスケヨリヒメと結婚する記述の箇所である。帝紀・旧辞といった原資料の問題として見ることも出来るかも知れないが、作品内部の問題として見た場合、この二つの婚姻が正式に、公的に認められた婚姻であることを示していると見ることもできる。 ○雉、名は鳴女 『日本書紀』に「無名雉」とあり、宣長は「無」は「鳴」の借字であるとして、これも「鳴名雉」で「ナナキ」であるとするが、一方で「名無女」の意とするのも悪くはないとしている。いずれにせよ「ナナキ」がこの鳥の呼び名であるとして、後文にただ「鳴女」とある箇所も「ナナキメ」と訓んでいる。「雉は使者としてよく登場する鳥」(新編全集『日本書紀』)と言われるが、「雉」という漢字が「矢」+「隹」であるところから、矢で射られる使者として選ばれたとする説がある(松田浩「雉はなぜ射られたか―アメワカヒコ神話の想像力と言語遊戯と―」『古代文学』48号、二〇〇九年三月)。下文の天若日子の葬儀の場面には「雉を哭女と為」と見え、「鳴」「哭」の相違はあるが、いずれも「ナク」ことと関連している。 ○湯津楓 湯津は「神聖な」の意。火神被殺段に「湯津石村」(注釈(八)参照)、黄泉国段に「湯津々間櫛」(注釈(九)参照)、の他、「由都麻都婆岐」(記57歌・100歌)などが見える。楓は、火遠理命の海神宮訪問段には「湯津香木」とあり、「訓香木云加都良。木。」とあるのと同じものとみられること、『日本書紀』の該当箇所(九段正文。九段一書一には「湯津杜樹」とある)に「湯津杜木」とみえ、「杜木、此には可豆邏と云ふ。」との訓注があることにより、カツラと訓まれている。 ○言の委曲けきこと 「委曲」の訓については、「マツブサニ」(記伝)(全註釈)(西郷注釈)「ツバラカニ」(修訂)(新版)などの訓がある。『万葉集』巻一・一七「委曲毛」(ツバラニモ)、巻九・一七五三「委曲尓」(ツバラカニ)等の例がある。しかし『日本霊異記』中巻五縁「委曲」の訓注に「ツ波比良計苦」という確例が見えることもあり、ここでは新編全集・新校に従って「ツバヒラケキ」と訓んだ。
天若日子は高天原の使者として葦原中国に降るときに、天のまかこ弓(天のはじ弓)・天のはは矢(天のかく矢)を賜る。神話では、高木神(高御産巣日神)の返し矢によって天若日子が討たれるため、内容的に弓矢が必要となることからの描写とみることができる。しかし、他の高天原の使者(天菩比命・建御雷神)は、天照大御神らから何らかの物を賜ることがないため、使者の中で天若日子のみが弓矢を賜るという点に意義を見出そうとする向きがある。天若日子や神話の解釈にも関わるため、このことについて少し整理してみたい。 はじめに、松村武雄『日本神話の研究』第三巻(培風館、一九五五年十一月)は天若日子のみ天のはは矢を授かった疑問に対し、「天稚彦だけが返矢で殺されるのであるから、その伏線として、天稚彦だけが矢を携行したと説かれたのである」と返矢との関連から授受が行われたとした上で、「更に突き込んで言へば、天稚彦は、天神から矢を授からなくても、本來自分のものとしての矢を持つてゐたとすべき人物であつたといふのが、より正しい解答である」と指摘している。返矢説話との関連から説く松村と異なり、吉井巌「天若日子の伝承について」(『天皇の系譜と神話』二、塙書房、一九七五年六月)では次のように述べている。
是以、髙御産巣日神・天照大御神、亦問二諸神等一、 「所レ遣二葦原中國一之天菩比神、久不二復①奏一。 亦使二何神一之吉②」。 尒、思金神答白、 「可レ遣二天③津國玉神之子、天若日子一」。 故尒、以二天之麻迦古弓[自麻下三字以音]・天之波々 [此二字音]矢一賜二天若日子一而遣。 於レ是、天若日子降二到其國一、 即娶二大國主神之女下照比賣一、 亦慮レ獲二其國一、至二于八年一不二復④奏一。 故尒、天照大御神・髙御産巣日神、亦問二諸神等一、 「天若日子久不二復奏一。又遣二曷神一以、 問二天若日子之淹留所由一」。 於レ是諸神及思金神、答白、 「可レ遣二雉、名鳴女一」時詔之、 「汝行問二天若日子一状者、 『汝所三以使二葦原中國一者、 言二趣和其國之荒振神等一之者也。 何至二于八年一不二復奏一』」。 故尒、鳴女自レ天降到、 居二天若日子之門湯津楓上一而、 言委曲如二天神之詔命一。 【校異】 ①真「拇」。道祥本以下に従って「復」に改める。 ②真「告」。延佳本・記伝以下の諸注釈に従って「吉」に改める。 ③真ナシ。道祥本以下に従って「天」を補う。 ④真「護」。道祥本以下に従って「復」に改める。
そういう次第で、高御産巣日神と天照大御神は、再び諸々の神たちに尋ねたことには、 「葦原中国に派遣した天菩比神は長いこと報告をして来ない。 今度はどの神を派遣すれば良いだろうか」と尋ねた。 そこで、思金神が答え申し上げたことには、 「天津国玉神の子である天若日子を派遣するのが良いでしょう」と申し上げた。 そうして、天のまかこ弓と、天のはは矢を天若日子に授けて派遣した。 さて、天若日子は葦原中国に降り着くや否や、 すぐに大国主神の娘神である下照比売を妻とし、 そうして葦原中国を自分が獲ようと考えて、八年たっても高天原に報告をしないままで居た。 それで、天照大御神と高御産巣日神は、また改めて諸々の神たちを集めて尋ねたことには、 「天若日子は長い間、全く何も報告をして来ない。今度はまたどの神を派遣して、 天若日子が長い間地上に留まっている理由を尋ねさせれば良いだろうか」と尋ねた。 ここで、諸々の神たちと思金神とが答えて申し上げたことには、 「雉、名は鳴女を派遣するのが良いでしょう」と申し上げた時に、(天照大御神と高御産巣日神とが)仰ったことには、 「お前が地上に行って、天若日子に尋ねる内容は、 『あなたを葦原中国に派遣した理由は、 その国の荒ぶる神どもを言向けて従わせることであるぞ。 それなのにどうして(派遣してから)八年にもなるのに、何の報告もしないのか』と尋ねよ」と仰った。 それで、鳴女は、天から降り着いて、 天若日子の居るところの門にある神聖なカツラの木の上に留まり、 (天若日子に)詳しく伝えた言葉は、天神が命じられた詔の内容そのままであった。