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五瀬命

読み
いつせのみこと
ローマ字表記
Itsusenomikoto
別名
-
登場箇所
上・鵜葺草葺不合命の系譜
神武記・東征
神武記・五瀬命の戦死
他の文献の登場箇所
紀 彦五瀬命(十一段本書・一書一・三・四)/五瀬命(十一段一書二、神武前紀戊午年四月、同五月、同十二月)
旧 彦五瀬命(皇孫本紀)
梗概
 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命が叔母の玉依毘売命を娶って生んだ四神の第一子。弟の神倭伊波礼毘古命とともに高千穂宮で議し、天下の政を治めるべき地を目指して東征をおこなった。楯津(河内国)で登美能那賀須泥毘古と交戦した際に矢傷を手に受けたことから、日神の御子は日に向って戦うべきではないとして、日を背に負って戦うことを誓った。その誓いに従って南に迂回する途上、手の血を洗った場所は血沼海と呼ばれるようになった。さらに迂回して紀伊国の男之水門に至ったとき、賤しき奴から手傷を負って死ぬことを雄叫びながら崩じた。崩じた水門は男水門と名づけられたという。陵は紀伊国の竃山にある。
諸説
 神名のイツは「厳」「斎」、セは「稲」(シネの転化)ないし「神稲」(サの転化)の意とされる。鵜葺草葺不合命から生まれた四神は、いずれも稲または食物に因んだ名をもっており、ことに長子の五瀬命が「神稲」の名を負うことは、天照大御神の子孫として天つ日継を継承する資格と地位を示したものとする見解がある。
 『日本書紀』でも、神日本磐余彦とともに東征し、長髄彦との戦いで負った傷によって没する点は共通する。ただし相違点も存在しており、矢を受けた地が盾津より大和国に近い孔舎衛坂であること、没した地が雄水門ではなく竈山であることなどがあげられる。また神日本磐余彦は兄弟たちと議さずに東征を宣言し、長髄彦に敗れたことで迂回を決断するのも神日本磐余彦となっている。このように『古事記』と比べて『日本書紀』の彦五瀬命の活躍は控えめであり、その死も『古事記』では天皇の死を意味する「崩」と表記されるのに対して、『日本書紀』では親王等の死を意味する「薨」となっている。これらのことから、記紀以前に五瀬命を東征の主人公とする伝承が存在し、そこに『古事記』では熊野から北上する神倭伊波礼毘古命の説話が加えられ、さらに『日本書紀』では五瀬命の業績も神倭伊波礼毘古命に吸収されてしまったとの見解もある。
 五瀬命を祭る代表的な神社としては、「延喜式神名帳」紀伊国名草郡に記載の「竈山神社」があり、同社は現在も和歌山県和歌山市に所在する。また「延喜諸陵寮式」には、彦五瀬命の墓として「竈山墓」とあるが、寛政六年(1794)に本居大平が訪れたときには所在不明となっていた。竈山神社の北に位置する現竈山墓は、明治九年(1876)に治定されたものである。
参考文献
倉野憲司『古事記全註釈 第四巻 上巻篇(下)』(三省堂、1977年2月)
西郷信綱『古事記注釈 第四巻(ちくま学芸文庫)』(筑摩書房、2005年10月、初出1976年4月)
『古事記(新潮日本古典集成)』(西宮一民校注、新潮社、1979年6月)
『古事記(日本思想大系)』(青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注、岩波書店、1982年2月)
『日本書紀 上(日本古典文学大系)』(坂本太郎 他 校注、岩波書店、1967年3月)
中西進「神武天皇」(『中西進著作集2 古事記をよむ二』四季社、2007年3月、初出1973年9月)
薗田香融「大和政権と古代の和歌山」(和歌山市史編纂委員会編『和歌山市史 第1巻 自然・原始 古代・中世』和歌山市、1991年)

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