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出雲大神

読み
いづものおほかみ/いずものおおかみ
ローマ字表記
Izumonoōkami
別名
大国主神
大穴牟遅神
葦原色許男神
葦原色許男大神
宇都志国玉神
八千矛神
登場箇所
垂仁記・本牟智和気の御子
他の文献の登場箇所
紀 出雲大神宮(崇神天皇六十年七月)
旧 出雲大神宮(天孫本紀、天皇本紀)
梗概
 大国主神の別名。出雲大神(葦原色許男大神)は垂仁天皇の夢に現れ、自分の神殿を天皇の宮殿のように整えたならば、話すことができない本牟智和気(垂仁天皇の御子)は言葉を話せるようになるだろう、と告げた。
諸説
 「出雲」は地名。「大神」については、中巻以降の歴代天皇の時代において示現する神世(高天原・出雲)の神は天照大神と大国主神だけであり、天照大神の「大神」とならぶ神であるために呼称されているという。出雲大神(または葦原色許男大神)と呼ばれているのは、大国主神の名が国土の主宰神の意味であるため、国譲りを終えた後に属する歴代天皇の時代ではこの国土に現れる神の名として相応しくないためと論じられている。
 本牟智和気が言葉を話すことができないのが出雲大神に祟りによることから、この説話は大和に対する出雲勢力の反抗の反映だという見解もあるが、肥長比売との一夜婚も含め、この説話は全体的に出雲祭祀と関わっているとされる。梗概に記した出雲大神の要求は、国譲りの際に建造を要求した自身の神殿を天皇の宮殿の如く整える意と捉えられるが、「修理固成」の「修理」(ツクル)の意、および後の「神の宮を造らしむ」という一文との対応から、新たに神殿を造ったと解する説もある。また、垂仁紀では出雲大神は登場せず、誉津別命(本牟智和気)は鵠を弄んで言語を得たとあるように、元来は本牟智和気と関係なかったという見解もあるが、『古事記』の本牟智和気は、発声の要因となった鵠を捕捉してもなお物言わない御子であり、後に出雲の大神を参拝することを通して、本牟智和気が話すことが可能になった。そのため、この説話は出雲の神の祭祀の問題を解決して、天下が安定したことをいうことを語るのが目的であったとする説がある。祟り神として垂仁天皇の前に姿を現した出雲大神については、祭祀が中央により開始されたことによって、朝廷の守り神へと変貌したとする説もある。
 本牟智和気と品陀和気命(応神天皇)は、名称の類似や地方の神を参拝しに行く点などから多く先行研究で比較されている。出雲大神を排除した本牟智和気から天照大御神の託宣により誕生した品陀和気命という天照大御神を中心とする秩序への説話の転換は、神代記の国譲りに引き続く天孫降臨という流れに対応しているという説がある。
 先述したように、『日本書紀』に出雲大神は登場せず、鵠との関連による説話となっているのは、鳥取造の祖である天湯河板挙の功績を叙述し、鳥取造の賜姓および鳥取部・鳥養部・誉津部の由来を述べることに比重がおかれているからと論じられている。
 『延喜式』神名帳には出雲神社の名称がいくつか見える。このうち、丹波国桑田郡にある出雲神社については、出雲太神宮の称をもちながらも、祭神について諸説があり、大国主神(出雲大神)は後の付加とみる説もある。
 ほか、「大国主神」「葦原色許男神」の項も参照。
参考文献
倉野憲司『古事記全註釈 第五巻 中巻篇(上)』(三省堂、1978年4月)
『古事記(日本思想大系)』(青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注、岩波書店、1982年2月)
西郷信綱『古事記注釈 第五巻(ちくま学芸文庫)』(筑摩書房、2005年12月、初出1988年8月)
川副武胤「大神考」(『古事記の研究』至文堂、1967年12月、初出1966年5月)
『式内社調査報告書 第十八巻 山陰道1』(式内社研究会編、皇学館大学出版部、1984年2月)
松本弘毅「垂仁記の祭祀――出雲大神の『祟』―」(『国文学研究』144、2004年10月)
岡本恵理「垂仁記と出雲―「葦原色許男大神」を中心に」(『上代文学』98号、2007年4月)
駒木敏「ホムチワケ(本牟智和気)御子の物語―『古事記』における天皇の祭祀」(『同志社国文学』78、2013年3月)
吉田修作「ホムチワケとホムダワケ―垂仁記・仲哀記の「御子」表記をめぐって―」(『日本文学』65、2016年3月)
吉田修作「オホナムチ・オホクニヌシ・出雲大神―国譲りと祟り神―」(『古代文学』60、2020年3月)

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