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底度久御魂

読み
そこどくみたま
ローマ字表記
Sokodokumitama
別名
猿田毘古神
登場箇所
上・猿女の君
他の文献の登場箇所
旧 底度久御魂(皇孫本紀)
梗概
 猿田毘古神の別名の一つ。猿田毘古神が阿耶訶(あざか)にいた時、漁をしていて、比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれてしまい、海に沈み溺れた。その際、底に沈んでいた時の名を底度久御魂といい、海水が粒立った時の名を都夫多都御魂といい、泡の弾けた時の名を阿和佐久御魂という。
諸説
 「底」は水底、「度久」は着くの意で、沈んで水底に着くことを表すとする説がある。
 阿耶訶は伊勢国壱志郡の地名である。猿田毘古神が溺れて三つの魂の名を持ったという話は、黄泉国から帰還した伊耶那岐神が禊をして、水底・水中・水上で底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の三神や、底箇之男命・中箇之男命・上箇之男命の三神を生み出した話と酷似することが指摘されている。そこで、この神話は、伊耶那岐神と同様、水中で儀礼を行って神格を誕生させる偉大な神として猿田毘古神が尊崇されていたことの反映だとする説もある。
 この話に基づき、阿耶訶を猿田毘古神の本貫地とする説もあるが、この三魂を元来は猿田毘古神とは別の、阿耶訶で信仰されていた土着の漁撈神とする見解もある。海人が潜る際に身の安全を祈ってエビス神の名などを唱える風習のように、古代伊勢の在地の漁民らに信仰されていた守護霊が、三魂の原型だとする説もある。
 猿田毘古神が比良夫貝に手を食われて海に溺れたという話は、動物の猿が貝を好み、しばしば手を挟まれることがあるという習性を反映しているという見方がされている。また、溺れるという動作を一種の舞踊や模倣的動作と解し、漁撈民が釣りや網漁のまねを演じて大漁を祈念する儀礼に基づく神話ととる説もある。なお、手が挟まれた「比良夫貝」については、現在のどの種類の貝に当たるか不詳とされる。
 海幸山幸神話で語られる隼人舞の起源譚との共通性も指摘されている。『古事記』では、火遠理命が兄の火照命を塩盈珠・塩乾珠の力で溺れさせて懲らしめた結果、火照命が弟への忠誠を誓うこととなり、以来今日までその溺れた時の様々な態を演じて奉仕するようになったとある。『日本書紀』第十段一書四には、弟への「俳優」の奉仕を誓って、溺れ苦しむさまの物真似をしたとあり、その挙動の詳細な描写が記述されている。これが、火照命を祖とする隼人族の王権への服従を意味することになぞらえて、猿田毘古神の海溺れも、この神を奉斎した宇治土公やその配下の伊勢の漁民の磯部らが服従したことを語る神話と解する説がある。一方、火照命の神話が飽くまで歌舞の奉仕の起源を語っているのとは違って、海溺れの神話は海人の贄の献上の起源を語るものであり、飽くまで漁撈そのものの、水中に潜って浮き上がるまでの動作を神話的に表現したものと解する説もある。また、猿女君を、伊勢の漁民らの祭祀を司った一族とみて、彼らがおこなった猿田毘古神復活の神事を神話化したものと捉える説もある。
 『古事記』では、猿田毘古神が溺れた話の後には次のような神話が続いている。猿田毘古神を送って帰還した天宇受売命が、あらゆる大小の魚を集めて、天孫に仕えるかと問うた。魚らは皆、仕えますと返答したが、海鼠(「こ」。ナマコのこと)だけ返答しなかったため、天宇受売命がその口を小刀で切り裂いた。現在、ナマコの口が裂けているのはこのためである、といい、また、代々「島の速贄」が献上される際に猿女君らにそれを下賜するのは、これが由来である、と述べている。「島の速贄」は、志摩から献上される初物の海産物を指すとされる。『万葉集』に「御食つ国 志摩の海人」(6・1033)、「御食つ国 神風の 伊勢の国」(13・3234)と、「御食つ国」(みけつくに=天皇の食物を献上する国)と呼ばれているように、古来、伊勢や志摩から海産物が天皇に貢納されていた。この一連の神話の解釈には、海の世界の天皇支配を猿田毘古神が先導し、天宇受売命が海産物の服従を確認することによって、伊勢の海の海産物が天皇の支配を受け、それが代々天皇の食膳に供される贄として捧げられるようになることの端緒を語っているとする説がある。また、島の速贄の神話は、元は天宇受売命でなく猿田毘古神が主人公の神話であったと推定する説もある。
 この三魂を祭ったと考えられる神社として、『延喜式』神名帳・伊勢国壱志郡の「阿射加神社三座」がある。『続日本後紀』以下の国史にも度々神階が進められていることが見え、伊勢国の有力な神社であったことが知られる。これに当たる現在の神社の候補には、三重県松阪市の大阿坂と小阿坂にそれぞれ鎮座する同名の両社が挙げられるが、どちらが本来の社であるかは確定しがたく、両社をともに三座のうちの二座に当てる説もある。
 平安時代初期編纂の『皇太神宮儀式帳』の神宮鎮座伝承には、垂仁天皇の治世、倭姫命が天照大御神を奉戴して各地を巡行する中で、「阿佐鹿の悪神」を平定した阿倍大稲彦命という人物が見える。鎌倉時代編纂の『倭姫命世記』では、同じ神宮鎮座伝承を載せているが、垂仁天皇十八年に、阿佐加の峰で荒ぶる神が道行く人を殺していたので、阿佐加の山の峰に社を作って鎮めたと記す。これらは、阿佐加の峰が南伊勢の難関であったことを反映した伝承と言われている。『倭姫命世記』の内容については『皇太神宮儀式帳』の内容に基づく後世の作為も疑われているが、これらの伝承に基づいて、この悪神・荒ぶる神を阿射加神社の本来の祭神とする説もある。また、その上で、行く手に立ちはだかる境界神という性格の類似性などから、この神を猿田毘古神と同一視する説もある。
参考文献
西郷信綱『古事記注釈 第四巻(ちくま学芸文庫)』(筑摩書房、2005年10月、初出1976年4月)
倉野憲司『古事記全註釈 第四巻 上巻篇(下)』(三省堂、1977年2月)
『古事記(新潮日本古典集成)』(西宮一民校注、新潮社、1979年6月)
松村武雄『日本神話の研究 第三巻』(培風館、1955年11月)第15章
守屋俊彦「島の速贄」(『記紀神話論考』雄山閣、1973年5月、初出1960年5月)
岡田米夫「猿田彦大神とその海神的性格」(『神道教学論攷(神道宗教 第75~79号)』神道宗教学会、1975年3月)
三谷栄一「古事記の成立と稗田阿礼」(『古事記成立の研究―後宮と神祇官の文学―』有精堂、1980年7月)
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勝俣隆「猿田毘古神の解釈について 」(『古事記年報』28号、1986年1月)
倉塚曄子「伊勢神宮の由来」(『古代の女―神話と権力の淵から―』平凡社、1986年6月)
猿田正祝「『古事記』における猿田毘古神の位相」(『古事記の神々(古事記研究大系)』5-1、1998年6月)
吉田敦彦「ヌボコによる海の攪拌の意味と、サルタビコが海で溺れたわけ」(『東アジアの古代文化』98号、1999年2月)
柴田実「猿田彦考」(『日本書紀研究 第八冊』塙書房、1975年1月)
『式内社調査報告書 第七巻 東海道2』(式内社研究会編、皇学館大学出版部、1977年3月)
藤澤友祥「猿女の君―『古事記』文脈での位置づけ―」(『古事記年報』52、2009年1月)
吉田修作「古代王権と芸能伝承―「わざをき」「あそび」「舞」―」(『古代王権と恋愛』おうふう、2018年4月)
吉田修作「天石屋戸と天孫降臨―アメノウズメとサルタビコ―」(『文学・語学』224号、2019年5月)

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