國學院大学 「古典文化学」事業
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墨江之三前大神
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墨江之三前大神
読み
すみのえのみまへのおほかみ/すみのえのみまえのおおかみ
ローマ字表記
Suminoenomimaenoōkami
別名
墨江大神
登場箇所
上・みそぎ
仲哀記・仲哀天皇の崩御と神託
仲哀記・神功皇后の新羅親征
他の文献の登場箇所
紀 住吉大神(五段一書六、天武紀朱鳥元年七月癸卯)/向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(神功前紀仲哀九年十二月)/住吉神(継体紀六年十二月)
備前風 住吉明神(逸▲)
摂津風 住吉大神(逸)
播磨風 住吉大神(賀毛郡)
万 住吉乃荒人神(6・1021)/墨吉乃吾大御神(19・4245)/須美乃延能安我須売可未(20・4408)
拾 住吉大神(神功皇后)
神名式 住吉坐神社(摂津国住吉郡)/住吉神社(陸奥国磐城郡、播磨国賀茂郡、筑前国那珂郡、壱岐島壱岐郡、対馬島下県郡)/住吉坐荒御魂神社(長門国豊浦郡)
梗概
伊耶那岐神の禊の段で、中つ瀬で禊をした際に生まれた底箇之男命・中箇之男命・上箇之男命の三神を指す。鎮座地の墨江(住吉)による呼称。
仲哀記において、建内宿禰が神託を請うと、仲哀天皇の后、息長帯日売命(神功皇后)に神がかりし、天皇に対して、帰服させるべき西方の国(新羅国)の存在を示すが、天皇は虚言として信じず、祟りを受けて崩御する。建内宿禰が再び託宣を請うと、その国は神功皇后の身ごもった男子(応神天皇)が治めるべきことを告げる。その際、神の名前を請うと、自分は底箇之男・中箇之男・上箇之男の三柱の大神であると、初めて名前を明らかにした。
やがて、外征に際して御魂を船の上で祀るよう教え、神功皇后の新羅親征を守護した。新羅を服従させると、神功皇后は、杖を国王の門につき立てて、墨江大神の荒御魂を「国守神」として鎮座させた。
諸説
住吉大社(大阪府住吉区住吉)の祭神であり、古来航海の守護神として篤く信仰されている。住吉大社は『延喜式』神名帳・摂津国住吉郡に「住吉に坐す神社四座」と見え、筒之男三神と神功皇后の四座を祭神とする。住吉の地名は、古くはスミノエと呼ばれ、「住吉」「墨江」「清江」などと表記されたが、平安時代以降、スミヨシとも呼ばれるようになった。
住吉大社は、上町台地の南西端に鎮座し、現在の地理では海岸線から7kmほど東に位置しているが、古代の上町台地は半島で、社地のすぐ近くに海岸線が及んでいた。時を経て河川の土砂の堆積により陸地化が進み、特に近代以降は開発によって景観が甚だしく変化している。
この神社は、「遣唐使時奉幣」の祝詞にあるように、八世紀以前より外交にまつわる航海の守護神として国家的な祭祀をうけてきており、王権にとって特別な意義を有する神社であった。遣唐使の発遣に際しては、まず当社に祈願がなされたが、その様子は『万葉集』や六国史などにうかがわれる。王権にとって対外的な拠点となる重要な港津は「大津」と呼ばれたが、その役割が難波津に移ったと考えられる六世紀前半までは、住吉津が担っていたとされる。住吉神と王権との結びつきの古いことが知られるが、その始まりの時期については、五世紀頃、宮都が、大津であった住吉津に近接する南河内に営まれていた時期に求める説がある。
この神社の鎮座伝承は、『日本書紀』神功皇后紀などに見える。仲哀天皇九年、神功皇后は、崩御した仲哀天皇に代わって、表筒男・中筒男・底筒男の三神の神託に従い、新羅国の征討を決した。出帆に際してその神の荒魂(あらみたま)を軍の先鋒に、和魂(にきみたま)を王船の鎮守として新羅に渡り、征服に成功する。その際、三神の神意、及び、踐立(穴門直の祖)と田裳見宿禰(津守連の祖)の勧めにより「穴門の山田邑」に神社を建て、踐立を三神の荒魂を祀る神主とした。翌年、凱旋の途次、麛坂王・忍熊王の謀反に遭った際、神意によって務古水門で神々を祀り、三神の和魂が「大津の渟中倉の長峽」に祀られた。前者は、神名帳・長門国豊浦郡「住吉に坐す荒御魂神社三座」(現・住吉神社。山口県下関市)に当たり、後者が住吉大社に当たるとされる。
『摂津国風土記』(逸文)の伝承では、神功皇后の時代に住吉大神が住む場所を探し求めたところ、住吉大社の社地に当たる「沼名椋の長岡の前」を見出し、「真住(ます)み吉(え)き住み吉き国」と称讃したので、神社がこの地に定められ、現在一般にこの地を「須美乃叡(すみのえ)」と呼んでいる、と伝える。また、住吉大社に秘蔵として伝えられてきた『住吉大社神代記』(天平三年上進と称する)の神功皇后征討の記事には、次のようにある。三神が神功皇后に、「大津の渟中倉の長岡峡国」に鎮座させれば往来の船を見守ろう、と告げたが、そこは手搓足尼(田裳見宿禰)の土地であった。そこで、大神が胆駒山(生駒山)の嶺に登った際、神功皇后は甘南備山を代わりに寄進したが、手搓足尼がその居地を大神に奉ったので無事その地に鎮座することができた。大神の住む所が神意の通りになったので、その地の名を「住吉(すみのえ)国」と改めて大社を定め、そうして手搓足尼がその神主に任じられた、という。
以上の諸伝によると、記紀編纂当時の伝承では、住吉大神は、元から住吉の地で祭られていたのではなく、神功皇后の時代に初めてこの地に祭られるようになったと伝えられていたことがわかる。一方、記紀を中心とした神功皇后伝承が、どれほど史実を伝えているかに疑いを持つ見解も多く、神功皇后の時代の鎮座とされたのは後世のことで、古来当地で信仰されていた港の神が中央の伝承に結びつけられて権威づけられたものとする説がある。
この神の神格は、古来、航海の守護神とされている。一方、記紀や『住吉大社神代記』の伝承の中では、天皇を守護する神託をも告げていて、軍神や鎮護国家、天皇の守護神としての性格もうかがわれる。しかし、文献中の神功皇后伝承が、後世に形成されたものだとすると、その中の住吉神の伝承にも、住吉神の権威を由緒づけるための造作が含まれている可能性があり、当初からそのような神格として祭られていたかどうか、疑問が持たれる。したがって記紀以前の住吉神の祭祀の起源や原初の神格を、記紀などの伝承とは別に求める考えも諸説提示されている。
神格の歴史的な変遷も考えられており、『住吉大社神代記』に、住吉神が生駒山地を領有していたことが記されていることから、元来の住吉神を、生駒の甘南備山に天降りした神で、摂津や河内の地域の生産の神であったとし、それが大和川の水運を見守る船の守護神となって、やがて、難波津に祭られて港津を守る航海の守護神になり、神功皇后伝承の形成とともに航海・戦勝の神になった、とする説がある。また、皇居の守護神である座摩神を住吉神とみて、地主神としての性格を持っていたとみる説もある。
『播磨国風土記』(賀毛郡河内里条)や『住吉大社神代記』には、農業に関わったことも記されていて、農耕神としての性格もうかがわれる。他にも、禊祓の神や、人の姿で顕現する現人神としても古くから信仰されたことが上代の文献に散見される。さらに、平安時代以降は、祈雨の神や和歌の神としても信仰されるようになった。以上のように、古来、この神は多様な側面を見せており、航海の守護という神格を軸としながら、様々な神徳を持つ神として幅広い崇敬を集めてきたことが認められる。
住吉大社の祭祀を古来担ってきたのは津守氏であるが、記紀では同時に生まれた綿津見三神を阿曇連の祖神と記しているのに対して、墨江之三前大神には奉斎氏族が記載されていない。津守氏の氏神は、住吉大社の摂社で神名帳・摂津国住吉郡に「大海神社二座〈もとは津守安人神と名づく〉」とあるのがそれと推定されるが、津守氏は元々、住吉神を祖神とする氏族ではなく、職掌として神主の立場を担っているにすぎないと考えられる。津守氏が住吉神を祭祀した理由については、津守氏は元来、王権に仕える伴造で、港津を管理することを職掌としていたため、その一環として住吉神に奉仕したとする説がある。住吉神の元来の奉斎氏族についても諸説あり、元々特定の氏族に祭られた神ではなかったとする説や、六世紀以前、大阪湾岸で海神を祭った阿曇氏が祭っていたとする説や、住吉の鎮座以前、北九州の阿曇氏が祭っていたとする説、南九州の隼人族が祭っていたとする説などがある。
参考文献
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古市晃「住吉信仰の古層」(『続日本紀と古代社会』塙書房、2014年12月)
小野諒巳「墨江之三前大神」(『古事記學』2号「『古事記』注釈」補注解説、2016年3月)
川畑勝久「津守氏から見た古代の住吉信仰について」(『神道史研究』64巻1号、2016年4月)
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