江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。
目次を開く 目次を閉じる
(第四五首) 巻之三 柿本朝臣人麻呂、羇旅歌【八首中】 粟路之、野嶋之前乃、浜風尓、妹之結、紐吹返(二五一) あはちの、ぬじまのさきの、はまかぜに、いもかむすびし、ひもふきかへず
人麻呂ぬしは其はじめ、草壁皇子尊の舎人成けん、巻之一に持〔三六オ〕 統天皇の朱鳥三年に此皇子の薨給へる時の歌に見えたり、其後 石見の国に位して下り、大帳史、朝集使、などの節にや、京に登りて また下れるほどの歌もみゆ、終には石見にて身まかりし事もみゆ、 其外(死ヵ)は巻二の藤原宮御宇と標しるせる歌の末に有て、且此臨《レ》死とき の歌、妻の悲める歌、また他人の追て悼める歌等の次に、寧な楽らの宮みや と標せしを以てみるに、文武天皇慶雲三年の比まで在し人 にて、奈良へは及ぬこと明らけし、位を古今序に正おほき三みつの位くらゐなるよしあ るはひがこと也【考にこれらの詞は、其節に好事の人の/傍書せる也けり、委しくは其書にいふ】万葉二に二所まて死と 云たれば、五位にいたらぬ人也けり、三位以上に薨といひ、四位五位に卒と いひ、六位以下庶人に至りて死といふこそ、令、律、古史万葉等一同なり、 且三四位に至らば、史にみゆべきを日本紀、続日本紀、其外正紀にみ えず、只万葉中にのみ見えて、六位以下なる証は右のごとし、さて〔三六ウ〕 石見の国官は、守正六位上、介従六位下、掾正八位上、目大初位上なり、 人麻呂ぬしは、何ばかりの官にや考がたし○凡此人の歌、四時恋な どの意なるは、少くて、只羇旅と挽歌と、世に類なきも多く、ことに 長歌はいよ〳〵たくび(ママ)なし 《上欄》尊の字をは/皇子の下に/書は皇太子/の御事なり/舎人は大舎人/成へし内舎人/は事からおもき/なり 《上欄》続日本紀に/此人のみゆる/と砂石集に/あるは誤なり/此記の人麿/てふ人は他姓/の人まろ也 こはたゝ旅行のときのさまなるに、妹が結びしといへる少しすこしの詞にてえ もいはぬ心も侍るぞかし【古今にわぎも(ママ)こか、衣のすそを、吹かへし、うらめづらしき、/あきのはつかぜとよめるもこの歌をやとりけむ】 夫の衣の紐は、妻のむすぶことに、古へはありけり、古事記、垂仁天皇の 条に、問《二》其后ニ曰汝所《レ》堅ノ之美み豆づ乃の小を佩ひも者雖《レ》解云々此集中にも、妹が 結びし紐とかじ、とも読る多し○右に小佩と書、また集中に下したひも ともいへるしたの帯なるべし、今はうへの帯のはしの垂たる〔三七オ〕 を、かぜの吹をいふならん、これもわかるゝ時妻の結へるしるしいはまく も恐多けれど、皇すめらきの御名に、日本やまと足たらし、息おき長なか足たらしなど申す、足たらしに帯の字を 借て、たらしとよむも、帯は必結びたらせばなり、集中に古の倭文しづは た帯をむすび誰やも人も、君にはまさじ、とよめるなど合せてしらる、 又巻十に、妹が紐とくも(ママ)結ぶも(ママ)、立田山云々旅にても表(ママ)なく(らヵ)ば(ママ)やことわきも、 子が、結びし紐は、なれにけるかもまた独のみ、きぬる衣の、ひもとかば、誰か もゆはん家遠くして十四に、吾妹子か慕にせよと、つけし紐、糸になると も、わかとかしとよ、此外いと多し○粟あは路ぢこれは、あはちのと四言によむ なり、古歌に四言の句多きは、うたふ時声を引て、五言の調をもなすと みゆ○此八首をつらねてみるに、難波の御津より船出して、淡路の方へ よりて船泊、そこより播磨の門を漕出て、西の国にゆくなり、しかれば 此歌は淡路の、野嶋の嵜に疑ひなし、後世此粟路之を、あはみちの〔三七ウ〕 とよみ誤りてより、またみちのとも転したり、淡路は、神代記に吾あ 耻はちの意と見えて、古より阿あ波は路ぢと三言にこそいへど、かく後世人はみだり に侍るなり○野嶋をはぬしまとよむべし、野の農のなどの字、古へはぬの仮 字に用ひたり 《上欄》又天武紀を/みるにうへの/きぬの肩に/紐を着て結/ひつけもせ/しことあり/妹かわさの/ことなれは/妹か結ひし/ともよむへし 《上欄》千載集の旋/頭歌にて顕/輔朝臣あはち/の野島か崎の/はま風にわか/紐ゆひし妹/かかほのみ俤/にみゆこれ全/其人まろの/歌にそへたる/のみなれは此/時既にあはみ/ちとよみ誤り/たり且旋頭/歌は万葉には/皆五七七を上/の句としてよ/めり此顕輔朝/臣のぬ(ママ)き句」法はなきこ/となり