万葉新採百首解ビューアー

江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による
『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。

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(第九三首)
巻之五 聊述私懐オモフロ(ママ、「コ」カ)ヽロヲ 阿麻社迦留、比奈尓伊都等世、周麻比都々美夜故能提夫
里、和周良延尓気利(八八〇)〔七二オ〕
あまざかる、ひなにいつとせ、すまひつゝ、みやこのてぶり、わすらえにけり


述私懐なと書たるを、其本によれは唯こゝの語に暫唐文字を借
たるなり、故にもとにかへりてこゝの語もてよむべし其時又借たる
文字につきて訓とすは、こゝの語にあらずこゝの語を思ひすゑて、後に字
にはさのみかゝはらで訓べきなり、惣て古き文よむべき意皆しか
なり、此度三首の歌は、天平二年十二月、太宰帥大伴旅人卿の、大納言
になりて京へ帰らるゝ時、筑前国司山上憶良のよみて贈れる也、其中
にあかぬしのみたまたまひて春さらば奈良の都にいさきたまは
ね、などいひたる歌あり今挙る歌にかけて見るべし

遠き筑紫の国にしも住て、ひなのことわざにのみかゝつらひつゝ、五年を
さへへぬれば、今はなれにし都の風俗もわすれはつるまでになりたり
となり老て遠き国の任に年へぬるおもひさこそ侍らめ、家持主も
越中より登る時に、しなさかる越に五年、すみ〳〵てと、よまれしなり
○みやこのてぶりは京の風俗をいへり、古事記に、ミヤフリ夷振ヒナフリ、古今集に
あふみぶりなど云は歌典の風俗なり、語のもとは共に同しき也、手とは手
の舞手つきなどいふが如し其姿をいふ也○和周良延は良へ返し例な
れば忘れをのべたる語なり

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