万葉新採百首解ビューアー

江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による
『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。

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(附記)
附て記す〔七八オ〕
或人いはく、われ歌の道しれるてふ人に、古今集のある様をとひけるに、
其人の云こはいにしへの事にて、今は明らかならずさる古き事はさて置ねと、
又ある人云、今より五百年のさきには三代集をもとゝして是になすらふる
に、今となりてははた其五百年の頃の歌をむねとすべしと、然るに
万葉をしも唱ふるは、益なきわさにあらずやと、こたふ天竺のさか
ほとけからの孔子ひじりなど、そのかみの事を述給ひしとかそれが伝
はれるふみを、今とき学ふなるはさらにもいはず、其から国のうたは
聖の撰み給ひしを始て、世々にも撰み伝へきて唐てふ世までなるを、め
てたしとてかしこにてもこゝにても、それに似はやとつとむる也けり、から国の
みかとはあまたゝびたちかはりて、物ことにあらためらるれど学ひの道は
いく千とせともなく古きによりぬ、物ことに古の人のいへるはよろし
くて、いつれの世に用ふるにもめてたけれは也、然るを我皇御国の後〔七八ウ〕
の世にのみ古の学ひをすてゝ下れる時のしかも誤れるわさに従ふべき
理ある物にや、えしり侍らず、掛巻も畏き天皇の神祖より、ひとつ御すゑ
を伝へ給ふまゝに、万の道も古を伝へ侍るとぞ、他のみかとにもおくゆかしみ
ほめかしこみ奉るものを、歌のみなかれたるふしをよしとせん事もある
べからぬわざ也、思ふに此問るゝ語はよき人のいひ出給へるにはあらで、しれ人
のわたくしにおもへる意なるべし、もしよき人のことならば、すへら御
国のはぢなるべし、さないひそひとのきくに
又或歌法師の歌は、其家を定めおかせらるればよりてこそつたへ
め、はた時の姿をこそよまめとこたふ、天の下の道々はいにしへよりおほ
やけの定めなさせ給ふ道也、たゞ歌のみと思ふにや、さるをいつれの道か其
一つ二つの家によりてのみ、天の下の人の伝へよてふ仰はいまだ承り侍
らず、たとへばそこの行ふ仏の道も多く宗はあれど、皆いにしへの仏の〔七九オ〕
とかれし条々をわけ信じて唱ふるならん、さて御時によりてこと
に信せさせ給ひて、新宗をも立らるれど必それにのみよれ、古き宗にはよ
ることなかれてふ仰はなくて、宗は意に任せよてふ仰さへ侍り、しかれば古
き宗を信する事もはた今の仰なり、此歌も世々に様かはれど古き御代の書
ともをは捨よてふ仰はなく、物ごとに古きを伝へらんをはほめさせ給ふこ
とも多かりしかば、古きによるもはた今の仰の中也、後の世にももし人まろ
赤人貫之躬恒などの出たらば、それにこそよらせ給はめ、さる人の出こねば
やむことを得ずして、大かたの人の家と申す、仰もあるならずや、しかれば
古き世と中頃まての事を挙て、古き心詞の例をもて私を用ひすとい
ふ時は、古の道を伝へて今にもそむかぬわさならんとそ覚ゆるは、尚ひ
がことにや、よくいにしへ今の書にねもころにして、わきまとはさる説あら
ば、ぬかづきて従ふべし私に過たる詞はいふにたらず、文学ひはおほやけの〔七九ウ〕
物にてよしあしは古き書にのせてあるを、みる人の才によりて明らむ
る故に、古は家をたてず勝れたる人あれば用ひ給ふのみ、且伝受
秘事てふことも聞えず、其伝へしことのわろくて、伝へぬひとの
語のよきも常なり、たとへば唐国のふみの秘伝らねど、かしこに
明らめぬことを此国にてよく解も多きが如し、しれ人は古きふ
みを見ずして、後の人の私にいふをよしあしもわかず、信するは
心を人にあづけたらんが如し、さればあめつちに従ふ古へのことを心
によく得て、我和魂をさだめて後末の世のならはしをも思はゞ、古
の事とても撰むまじきにあらず、後とても捨べからぬこともあることを、
おのづからさとるへし、さてこそ神ろきより伝へたまへる、おほんさ
ためにそむかぬわさなるべくぞ覚え侍る
又問さらば古へのことを学ひて、古こともて歌はよむへきにやと〔八〇オ〕
こたふ、しかはあらず歌は唯意なりすかたなり、心やさしけれど姿
わろくてはあるべからず、すがたよけれど心のわろきはいよゝわろし、此二の
中に心のことはたやすういひがたし、此百くさにいへるをよく見て
意得給へ、姿はことばなり、古き詞の中に正しくもみやびかにも憐
にも面白くもあらんを選みもて、其物につきて直き一つ心をよみ
出るのみ、ひとつこゝろなる時は短歌にても思ふこといはるゝなり、さ
れど後の世にはよろづに心みたれて、よこしまにはたらきなれ、詞
も器に物多くおしこめたらんが如くいひなれつれば、たやすくは一つの
心を、ゆるやかなることはにてつらぬるやうには、なしかたかるべし、これは
此百くさをよく心得ん時に、心より思ひ得べし古の心はいとやす
らかにのみあるなり
凡世の風俗のうつれる様をおもふに、神武天皇よりして後に成務〔八〇ウ〕
天皇の御時に到りてなりける、さて神功三韓を討給ひしより、もの
繁多になりて一変せり、しかありて後に推古の御時又少しことに成
来て、孝徳の御時にまた時につけて定るべかりしを、程なく崩した
まへば、ことなることなし、天智天武文武の御時に及びて、制度甚こと
になりて奈良七代は大方似たり、桓武の今の京にうつり給ひて
後に嵯峨の御時より又かはりて、延喜の頃に及ぶ、かゝれと天智の御時
なとより大様は似たり、たゞ朱雀の御世の頃より王威漸うすく、臣
権専らになりたれば、又一変にて一条三条の御時におよへり、か
くて後は王威いよゝつよからず、乱を催せるものなり、其後後白
河の御時王臣の威ともに鎌倉にうつりて、是より後今に同し大
かたをいはゞ、古より(ママ)明孝徳のほどまでを一同とし、天武文武より
奈良までを一同とし、嵯峨より延喜までを一同とするともよし、か〔八一オ〕
かれば後白川よりこなたは、凡人情も世事もことならず、かくうつり
ゆく代々を見る時はまどはじ、さて此百年あまり天下大ひに
をさまりたること、古へにはちず故によろづの道もおのつから
いにしへにかへること多し、かゝる御時の人かの五百年の前
乱れかはれる世の時を学ふへき理りあらんものかは

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