万葉新採百首解ビューアー

江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による
『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。

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(第一四首)
巻之二十 歌の左云、右歌六首、兵部少輔大伴宿祢家持、独懐《二》
《一》《二》拙懐《一》《レ》

宮人乃、蘇泥都気其呂母、安伎波疑尓、仁保比与呂之伎、多
加麻刀能美夜(四三一五)〔一五オ〕
みやびとの、そてつけごろも、あきはぎに、にほひよろしきたかまどのみや


続日本紀を考るに、此人孝謙天皇、天平勝宝
六年四月為《二》兵部少輔《一》同十一月為《二》山陰道巡察使《一》しかれば此年の秋
の頃よめるなり○凡万葉の裏書、傍書、などには後俗の註もあれど
右の如きは自註明らけし、仍て凡て家持ぬしの集めし物なりと
定むれど、巻の一などは、天皇の御代々々を挙て撰みたるにて、此人の
手に出たるものならず、夫につぎて末の巻々にも古撰ならんと見ゆるも
交り、又自の家集もひとつになして大成せんの志にや有けん、今こま
にみれば自ら家々の集なる趣侍る、此等の自註になづみて一概に思ふへからず
そ有ける

宮人の心やらんとて、高円たかまとの野を分れば、袖はさなから萩が花すりと
なりて、えもいはぬ此所の秋の興をおもふ也○宮人は奈良の宮人
をいへり、何となれば、巻二十に天平宝字二年の歌に高円の離宮
はあれたるよしあれば、此天平勝宝六年の頃離宮へみゆきなどは
あるべからぬなり○そでつけ衣は、今いふはた袖の如く、一幅ひとはゝを附
てことに宮人の長袖なるをいふ、続日本紀に袖口の幅八寸以上一
尺まてなる製あり、長さには製見えねど古の袖はせまく長かり
けん、別に考あり、さて後世の歌に袖続衣とよめるはわろし、気の字
古はけの仮字にのみ用ひて、きと唱ふる事なし、又濁語にもあらず、
巻十に袖着衣としも読り○秋はぎに云々こは巻十に吾きぬをすれ
るにはあらず高松の、ゆきしかば、はぎのすれるぞ、又殊さらにころもは〔一五ウ〕
すらじ女郎花をみなへし、さく野のはぎに匂ひてをらん、此外にも多し、今は萩の
色の衣にうつりて色なるを云なり○たかまと山は、春日の地中に有、こゝに
其先きのの御家ありしと也、巻二に此皇子霊亀二年七月薨
たまへる時の歌ども有に、詞にも見え且宝亀元年に此皇子をおしたつと
て、かすかのみやの天皇と謚奉りしもその故也、又万葉巻二十に天平宝字
二年二月依《レ》興各〳〵《二》高円離宮《一》歌五首あり、それに高円のおの
への宮はあれぬとも云々又わかおほきみのことはわすれじ、なとよめり
紀をみるに此年月近くかはることもなければ、先に元正天皇の離宮や有けん

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