江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。
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(第二八首) 同し巻 寄木 白菅之、真野榛原、心従毛、不念君之、衣尓摺(一三五四) しらすけの、まのゝはりはら、こゝろゆも、おもはぬきみが、ころもにすりぬ
此歌はさま〳〵に意得らる、其ひとつは、はぎが花の衣にいろづく如く、 思ひもかけぬ人になるゝといふか、又ひとつには、吾を心より思ふともなき 君に、なるゝをたとへしにも有べし、又はぎ原のみならで、はぎと云たる は、巻十に、吾衣、すれるにはあらず高松の、野辺行されば、萩のすれるぞ、 といふが如く、此萩原を分れば、おもほえず衣ころもの色づくをおほほえぬ、 人にあふにたとへたらんか、これら好みにまかせて有なん○或人お〔二四ウ〕 もへらく、集中に、花咲はきを芽子といふ、今はんの木てふ木をば、榛 と書て、此詠寄《二》榛ノ木ニ《一》などの題してよめるは其榛也、此榛の木皮も て衣にするなりと、今考るに是こは一わたりの意得なり、凡およそ秋はぎに 二種あり、其一種はいと長くたれて、冬はかれ、春は生る有、こは古今集 にいふ、から萩にてから国よりや来りけん、又一種野に自おのつから生おふるあり、これ は、其本もとからの木はかれず、年毎に古ふる枝えよりわか枝を生出せり、古 今に古枝にさける花とも、もとあらの木こ萩ともいふ、是にて小木の類ひ なり、此木はきを、今山城の京に或人うへしに、高さ九尺斗大さ六寸 めくりはが(ママ)りに成侍りし、此事を友に語りしが、野辺よりひき来りて、 植うゑ養やしなひつるに、二年にして、高さ七尺より廻り四寸ばかりになれり、明 る年その末より枝多く出て、花のさけることえもいはず、去年こぞよりもた かくふとく成ぬ、此行末さこそあらめ、然ばこは木のたくひなれば〔二五オ〕 寄《レ》木とて歌あり、後にしるす時、はぎてふ字のなければ暫榛の 字をかりたるのみならん、かのはんの木は皮をとり製してこそすらめ、 自おのつから野のを分るに色のうつらんやは、且其皮は黄色してなつかしき色な らぬを、妹か為に真ま野ののはぎ原手折てゆかん、とよむべきなり、巻十 詠《レ》榛とて、思ふ子の、衣すらんに、匂ひせよ嶋の萩原、秋たゝずとも、是 花咲はぎならで、いかゝ心得んや、又巻一に引馬のに匂ふはぎはら入 みたれ、衣にほはせ、旅のしるしに、これ榛と書たれども字につきて は入みたれつとも、いかで色つかんや、古は物の当然をこそよめ、製しなは色 つかん物とてやかていつはりにいはんや、此外委しく榛の字を用たる数べからず、 《上欄》藤の花を夏/もよめる類也/引馬野の歌/は持統天皇/十月に三河へ/行幸の時の/歌なれは萩/の散なるへしと/いへれと三河/遠江駿河な/とは暖国な/れは年により/十月に萩の/ありしも有へ/し且友人のこ/とにつきて/遠にまてわ/たりたる時/によめるとみ/ゆれは十月/の幸の役に/九月にもま/つ行へしし/かれはいよ〳〵/しかり