江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。
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(第三首) 同し巻 春雑歌 子等名尓、関之冝、朝妻之、片山木之尓、霞多奈引(一八一八) こらかなに、かけのよろしき、あさづまの、かたやまぎしに、かすみたなびく
朝つまてふ山の山ぎはに、霞棚引たる初春のけしきをいふのみ、且その 朝つまといはん料に一二の句は冠らせて一首をかされり、さて朝妻とは 此上にけさゆきて、あすは来なんとしかすかに、あさ妻山に霞棚引、と〔五ウ〕 よめるを、まづ解に今朝かへりて又明日の朝来んてふ妻は、朝ごとに逢 に即あさづまといふべし、夜に逢を夜妻といふ類なり、是によるに朝妻 は右の如くにて、さて夜つまてふは忍ひ夜妻ゆゑに、心くるしきを人の はゞからて朝まてもみるはよろしければ、こらか名にかけのよろしき、朝つ まとは、つゞけたる成べし、子等は女子なり、吾妹子わきもこを略していへる也○関かけの よろしきとは其名に掛負するがよきてふなり、巻一に珠たまだすき、懸かけの冝よろし く遠とほつ神かみ云々巻三に拷たく領ひ巾れの、かけまくほしき妹いもが名を、この勢せ能の山 に懸かけばいかゞあらん、これらに同し関の字はあつかるてふ意にてかけともよむ 又闕の字して訓をかりたるにもあらんいつれにも今本に開と書るは 誤れり、凡万葉はもと草書なりしを、楷書に改めたる時に誤たる也、 ○朝妻は大和にありて高市郡なるべし、新撰姓氏録に太秦宿祢うづまさのすくねの 先祖を、大和国朝津間あさつまの腋上わきかみの地に居らしむとあり、神武紀に腋上〔六オ〕 の秀間丘ほゝまのおかに登りて、国くに望みし給ふとみゆれば、高き山なり、其山岸に霞 の棚引たるがよきけしきゆゑに、しかよみしもしらず、仁徳紀にあさ づまのひるのを阪云々允恭天皇を雄を朝あさ妻つま稚わか子こ天皇と申すなど 皆大和によれり、右の歌香かく山やま向むく弓ゆ槻つきなどつゞきたるも此故也、近江の 朝妻にまがひ誤は後人のうとき也○山木之は、山岸きし也水岸ならてもきしと詠る例あり