江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。
目次を開く 目次を閉じる
(第三八首) 巻之六 大納言大伴卿和こたへ歌【二首の中】 丈夫跡、念在我哉、水茎之、水城之上尓、泣将拭(九六八) ますらをと、おもへるわれや、みづぐきの、みづきのうへに、なみたのこはん
これは太宰府より、京へ上らるゝ時、ある娘子の贈る歌にこたへたる〔三〇ウ〕 なり、其娘子が歌の左に云、右太宰ノ帥大伴ノ卿兼-《二》任シ大納言ニ《一》向テ《レ》京ニ上ル道ニ 此ノ日駐《二》馬ヲ水城ミツキニ《一》顧-《二》望府家ヲ《一》于《レ》時送《レ》卿府史ノ之中ニ有《二》遊行ノ女婦《一》其字ヲ曰フ《二》児 嶋《一》也於《レ》是娘子傷《二》此易《レ》別嘆《二》彼難ヲ《一レ》会拭《レ》涕ヲ自吟《二》振《レ》袖之歌《一》【此娘子の歌は略せり】 この帥は旅人卿なり 大伴卿の祖は、大おほ押おし日ひの命みことにて、天孫の御前に立て、天降り其末日ひ臣おみ 命は、神武天皇東征の御時、また御さきとして大功ある武臣の裔 なれば、世々武を以て忠をつくし来り給へり、此卿専らしかり、且其 常志のさまは、家持卿の喩ノ《レ》族反歌、陸奥より帰京せし時の長 歌にみゆ、然ればこゝにますらをと思へるわれと、よまれたるは、大かた の人のいふが如くのみならず、実にしかあるべし、さてさるたけき心な〔三一オ〕 から、此別には堪ずして泣をこそ、のごはんすらめ、とよまれたるも其 ひとゝなり見るが如し○水みつ茎くきの水みつ城きは筑前国御笠郡にありて、天智紀 云、筑紫築テ《レ》堤ヲ貯フ《レ》水ヲ名テ曰フ《二》水城《一》さて水茎の茎はかり字か、風土記にこゝ に岫門くきてふ所あり是なるべし、此所のこと下の天きらひ日方吹らし てふ歌に委しく云べし