江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。
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万葉新採百首解巻之中〔三四オ〕 羇旅 (第四二首) 巻之一 大行天皇幸フ《二》吉野宮ノ時歌 宇治間山、朝風寒之、旅尓師手、衣應借、妹毛有勿久尓(七五)〔三四ウ〕 うちまやま、あさかぜさむし、たびにして、ころもかすべき、いもゝあらなくに
此大行天皇は、天皇神さりましゝ後、まだ諡奉り給はぬ間ほとの御称 なること和漢ともに同じ、しかるを此歌よりは首はしめにもしか書り、今考 るに、是は慶雲三年六月に文武天皇崩かんさりまして、同十一月に御諡奉 り給へり、其また御在世のほどに吉野の御幸有しをりの歌を、右 の六月崩御ましてより、十一月までの間ほとにきゝて大行天皇と記し置 たる家集などのこゝに混したる成べし、右の如くにては、此集の例に たがひ且大行天皇の幸てふ事こと理わりも無ことなり、惣じて此巻の此 あたりは甚みだれたれは本集に委く云り、歌の左に長屋王とあり、こは続 日本紀をみるに、天智天皇の皇み孫まこにて高たけ市ち皇子の御子後佐さ保ほの左大臣と申き 《上欄》大行天皇を/新勅撰集に/持統天皇と/書たりしかと/必持統の御/時なるまし よしのは高山多くて、山の朝風旅の衣手にさむければ、いとゝしく都 の妹こひしくて読給へる也、こともなくかくいひて調へすゞしく姿高き かいできがたき也○宇う治ち間ま山は、此同し度にみよしのゝ、山下風の 寒けくに、はたやこよひも、わかひとりねん、てふ歌につきて挙たれ ば、吉野の中の一の山の名成べし○妹か衣をかすてふは、集中にわきも こに、衣かすがとも、まつち山、こゆらん君に、きぬかさましを、とも詠るが如し 巻十五に、我旅は久しくあらし、許こ能の安あ我か家か流る、妹が衣のあかづく見れば、 ともよめり