江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。
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(第四六首) 同しく八首の中 天離夷之長道従恋来者、自明石門、倭嶋所見(二五五) あまざかる、ひなのながちゆ、こひくれば、あかしのとより、やまとしまみゆ
西の国より、大和の京へ帰るに、播磨の明石のせどをこぎ入て、やかて 大和の山のみゆるをよめる也【此所より膽駒山の/みゆるをいふなり】さて此倭嶌とは、只大和 国といへり、古事記に生いく大和やまと豊とよ秋あき津つ嶋しまと有を始として、此国をやまと しまねとも、秋津嶋とも云る也、此上に、ともしびのあかしのせとに、入日かな、 こぎわかれなん、家のあたりみず、とよみしは西国へ往ときの名残を〔三八オ〕 おもひたる歌ながら、意は相むかへてしらる、且此家のあたり、とよめる も即大和の故卿(ママ)をいふ也○京へのぼる時を後にして、其下るを前に あるは、かの筑紫へ下府にて、やがてまたのほる時の同し度なればな るべし、石見の任の時ならば、上るを先に有べき也○天あま離ざかるとは、京よ り夷へを望めば、天とゝもに遠ざかりて見ゆるをいふ、夫に離の字集中 には放罷などの字なとをよみたり、即よみも天あま謝さ加か流るなど書たれば、 佐を濁り加を清べし、俗に加を濁りて低で(ママ)といふは誤なり、委は冠 辞考にいへり○明石門とはあかしの海門を云、海にも川にも、或は山のさき など、左右にあるか人の門に似たれば、うなとみなとまた、門とのみもいへり、右 に引、あかしの大門は、大きなる海門の事、橘の小門は、せまき海門の事也、 さて大を略きて、於おといひ少をは遠をといふにむかへて、明らけし、天皇の 御名に於計おけと申は御兄にて、大計の意、弘計をけと申すは御弟にて、小〔三八ウ〕 計の意なり、いにしへは仮字にて事をわけたり 《上欄》やまと嶋みゆ/るを播磨の/一島の名と思/へはわろし又/次に引たる/家のあたり/みすとあるを/も家嶋なり/と思ふもわろ/し家嶋のこと/集中にもよ/みたれと今の/意にはあらす/巻三に越前/の国角鹿津/にて金村詠/る長歌にかけ/て忍ひつ大和/島ねをと有は/大和国也又十/五に新羅使/の豊前の国/の海辺にてよ/める歌に海原/の沖へにとも/すいさり火は/あかしてともせ/大和しまみん/とよめるも是/大和国なり/此時の京は/大和国藤原/なり 《上欄》とわたる舟/とわたる千/鳥なとは皆/海門をわたる/意也門渡と/書たるをや