江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。
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(第四八首) 巻之二十 常陸国防人梁田郡ノ上かみの丁よほろ大田部おほたべの三成歌 奈尓波刀乎、己岐泥美例波、可美佐夫流、伊古麻多可祢 尓、久毛曽多奈妣久(四三八〇) なにはどを、こぎでゝみれば、かみさぶる、いこまたかねに、くもそたなびく
古は国の郡ごとに軍所をおかれて、良民の中よりとて(ママ)、軍事を習はしめ 事あれば、出たゝしむ、是を兵士といふ、其兵士が中より京へめすをは衛 士といふ、年ことたちかはらしむ、太宰府を遣はさるゝを防人さきもりといふ、三年 にて替らしむるなり、是は筑紫の海の崎々に備えて、異国のあだ守 るもの故にさきもりといふを、防人とは書たり、さて其太宰府へは、遠 江国より、東の兵士をやらる、古は常陸より立て難波まては、陸を行、此 津より舟たちして、筑紫へは行めり、其本国にて別を悲しみ、或は道の〔三九ウ〕 さまかしこにての歌も此集に多し 防人、此舟出しては、いよ〳〵国遠くなるをなげく歌ともの有によりて、 此山すら雲かくるゝをかなしむ心よりよめるにや、ともおぼゆれど、猶此只うら みたるさまならんかし○なにはどは難波水門にて、即御み津つをいふ、 ○神さぶるとは、此歌にてかう〳〵しきといふ意也、此語の本は神経てふ 意なるを、転りて馴て、かう〴〵しき事にも、年へふるびたる事にも用ふ、 ○伊駒嶽は大和国平群郡に有て、ことに高ければ難波津沖より遥に みゆるといへり 《上欄》伊駒山はもと/大和なから/河内へもかゝ/らんは伊勢/物語に河内/よりみるさ/ま故に河内/の国ともいへ/り