江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。
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(第四九首) 巻之三 柿本朝臣人麻呂、従《二》近江ノ国《一》上来時至《二》宇治河辺ニ《一》作歌一首〔四〇オ〕 物乃部能、八十氏川乃、阿白木尓、不知代経波乃、去辺白不母(二六四) ものゝふの、やそうぢかはの、あじろきに、いざよふなみの、ゆくへしらすも
こは大和国、藤原の都へ上るとて、宇治を経る也、さて此人近江大津の宮の 時、そこに生れたる成べし、よりて大津の宮のふるされしを悲しめる 歌も多きならん、且こゝに初めて上るにはあらで、藤原の都に仕るほど 帰寧の暇か告暇などにて、下りて今のぼるならんとみゆ 宇治川のあじろわたり興あるまゝに、こゝに至りてながめをるに、其あ じろ木にせかれてたゞよへる波の、ゆくえ(ママ)もしらすなるも、人の世にある ことも、しかのみぞと思ひとれる也、巻七に【人麻呂家/集とあり】巻まき向むくの、山辺ひゞきて、 ゆく水の、三名沫みなわのごとし、世の人と吾あは、てふは挽歌なれば意い少しこと なるべし○ものゝふとは、古へ皇み朝くにには武を貴みて、大伴ノ久米、其外 皆武人なりしかば、諸の官人を惣てものゝふと云ること、万葉の歌〔四〇ウ〕 にかた〳〵みゆされば八十やそとはよめり、且武は借字にて、物のふの、八十 稜威みいづといひかけたるなり、委しき理ことはりは冠辞考に記しつ○網あ代しろは 古き絵をみるに、早川の中に上を広く下をせまく、左右にくひをひ まなく打て、下のせばき所に床を水とひとしく作りたれば、其の 内へ流れ入る、氷ひ魚をの床の上へのぼるを、とるなり、其のありさま網あみを ひろげたらんが如くなれば、あじろといふ、さてのひまなければ、白波の いざよふなり、且山城の宇治川、近江田上川の網代は、九月に始て十二月晦 日まで氷魚を貢ると、延喜式にみゆ、かく人まろの歌にしもよめれば、 いと上つ代よりの事なりけり