江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。
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(第五首) 同し巻 野遊 たゞかゝる題にてよめるにはあらず 百磯城乃、大宮人者、暇有也、梅乎挿頭而、此間集有(一八八三) もゝしきの、おほみやびとは、いとまあれや、うめをかざして、こゝにつどへり〔七オ〕
集中に大宮人はいとまなくとよみて、仕ふる人の常なるを、こゝは春の 野に梅の花かざしつヽ遊ふ日なれば、暇いとまあるやとよめる、まことに此一首 にてのとやかに心ゆく野遊やゆふのさましられて面白し○百もゝ磯し城きの大 宮の冠まくら辞ことは万葉にさま〴〵書たれと此歌と又百もゝ石し城きと書たるは、 正字なり、多くの磐はん石しやく以もて堅かためたる皇城てふ意にて侍ヘり、崇神紀に立《二》 磯堅城神籬ヲ《一》また神武紀に太フトシク-《三》立タテ宮-《二》柱於底ソコツ磐イハ根ネニ《一》云々、御門祭祝詞に、 五イ百ホ津磐ツイハ石乃加塞坐【御門を守/る事なり】此外いはを以て、皇宮の堅固をほめ 申せること数少すくなからず、百とは数多きを云のみ、古事記に百もも城き入いり彦ひこ 百もゝ石いは木き媛ひめ、百もゝ枝え槻つき、百もゝ樹き百もゝ津つ磐いは、八や百ほ丹に杵き築つきなどいふ多し、後世の説に 百官の坐を敷しくてふ事なりと云るは、例の拠なきなり、凡此説は古事記 に雄略天皇の御歌に、色も々ゝ志し紀き乃の淤お冨ほ美み夜や比ひ登と波は云々とあるに古初 めてみえたり、此時未いまた百官の坐を敷てふほどの式はありとも見えず、〔七ウ〕 其上此大御歌の様さまはじめてよませられしともきこえず、さればそれ よりいと上世の語と見ゆ、猶冠辞考に委し○集の字は日本紀にも つどふとよみて、凡つといふは物の集る事にて、大津、船津、の津の如 し○此歌後世にいとまあれや、桜かさしてけふもくらしつと直して、赤 人の歌とするは誤なり、其ひとつは暇いとま有あれや此類泉あま郎な有れ哉やなど書たる 多けれど、仮字にあれや、なれやなどはなし、古の語例を思ふに、暇あるや あまなるやとよむへし【古今集今本にあまなれやと/書たれと後人の筆なるへし】其二には梅を桜とし、こ こにつどへりを、けふもくらしつとせる此歌の文字いかでかくよむべきや、詞を 後世にしたがへては古人の歌にあらずなれり、時世の語をもて、其時の人 の心をも、ありさまをもしりて、うつり行ゆく代よ々ゝをも明あきらむべきを、い かなる意にてなほされけん、信して古を好むとは、古の聖ひしりもの たまへり、いかなるむくつけ人の、昔をばなみするやは其三には此巻は皆〔八オ〕 読人不《レ》知を是セとして集あつめたるものを、何の証しるしありて、赤人のよめる などいふにや、歌はすなほにて人の心をも慰なくさめ神もめて給ふを、など あとなしことをばいふならん 《上欄》これのみに/あらす万葉/の歌を後に取/たるは皆詞を/直し作者なと/も違へり後/の人わろきと/て直せし詞を/古の人の見は/又いかにいやし/とや見んせま/しとや思はん/後の人の直/せるは、人麻呂/赤人よりも/自らすくれ/たると思ふ/らんか