江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。
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(第六〇首) 巻之一 大宝二年、壬寅、太上天皇幸ス《二》三河国ニ《一》時ノ歌 引馬野尓、仁保布榛原、入乱、衣尓保波勢、多鼻能知師尓(五七) ひくまのに、にほふはきはら、いりみたれ、ころもにほはせ、たびのしるしに
文武天皇、大宝二年の紀に、冬十月己未朔、甲辰太上天皇、幸ス《二》三河国ニ《一》云々 と見えたるこれなり、此太上天皇は持統を申す 《上欄》紀の己未は/出御の日なり/壬寅は其夏/いつにても此歌よめる日/をいひつ はぎの花咲引馬野に入みだりつゝ、衣をにほはせよ、まことに旅衣と見ゆ るはかりにと也、此巻に草枕旅行君としらませば、きしのはにふに、にほは さましを、とよめるによるに、そのかみ旅には専摺衣を着たる故に、旅の しるしにともよみしならん、且萩の花を分くれば衣色づく事既に見えつ、 ○こは十月の半過べければ秋萩はあらじ、はりの木の事成べしといふ説も あれど、遠江国などはいと暖にて、冬に雪ふる事だにまれなれば、十月の 末にも、はぎの花猶あることめづらしからず、其上御幸につけては、隣国ま〔四八ウ〕 で課役など催すとて、官人のはやく秋の中に行至りてよめる歌なる も知べからず、且榛は皮をとりてこそ染具とはせれ、野を分るのみにて、 色の衣にうつるものにあらず、古はさるいたづらに誤たることはよまぬ也 ○引ひく馬ま野のは、此端の詞により三河にありといふべけれど、遠江国浜松の宿 を、昔は引馬のすくといひし事、阿仏尼か記にも見え、所の人今も其宿 の北なる阪を、引馬坂といひならひて、阪の上は今は三み方かたが原といへるが、是 引馬野なりと、古き人のいひつれば、遠江国敷智郡にあるなり、げに難波 の幸と記して、和泉河内の歌あるが如く、御幸につきては其経給ふ国々(ママ) みならず、隣の国々へも官人いたりて事を役すへければ、必しも端の 詞にのみ泥まじき也、ことにかの野は、東西三里ばかり有て、西北はやかて 三河に近ければ、いよ〳〵疑ひなし○歌の左に、右一首長岡忌いみ寸き奥おき麿と 有末に於伎麿と有リ伝はしらず〔四九オ〕