江戸時代中期の国学者・賀茂真淵による『万葉新採百首解』(京坂二書肆版)の翻刻テキスト。
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(第七〇首) 巻之一 天皇幸ス《二》于吉野ノ宮ニ《一》時御製歌 淑人乃、良跡吉見而、好常言師、芳野吉見与、良人四来三(二七) よきひとの、よしとよくみて、よしといひし、よしのよくみよ、よきひとよくみつ
この上に明あす日か香清御原御宇天皇代とあげ標して、さて天皇御〔五五ウ〕 製とあれば、天武の大御歌なり【此巻の此所に覚束なき/事あり本集に委く云つ】御製歌の三字は おほみうたと訓べし、古事記に大おほ御み神かみ大御食けなどよみ、此集にも大御歌 と書る所もあれば也、且おほみうたを、音便にておほんうたと唱ふは、きしち にひみいりゐの、韻は語の中に有時は、多くはねて唱ふる例なり、かみな りのつほを、かんなりのつぼちりひちを、ちりんぢといふ類なり 《上欄》皇朝はもとは/語を本とし/て字を仮と/せしゆゑに/文字をさま/さまに書た/れはよみは/同しきか多/きなり 吉野は、山川のたゞすまひ、世にことによき所也とて、古のよき人の心して、 よく見てよしといひよみ来りし吉野也、今も心有よき人は、君にこそ あれ、能見給へよとのたまへり、大かたの人の、大かたに見てよしあしをいふは いふにたらず、よき人のしかもよく見て、定めたるこそ物はよけれ、何のうへにも おもふべき也けり○淑よき人ひととは、初て吉野の離宮を建たまへることは、〔五六オ〕 孝徳紀に見えたれど、此天皇をさし給ふとも覚えず、巻七に妹か 結ゆふは川内かふちを古いにしへの淑よき人ひと見みきとこれをたれしる【淑を今本に/并に作る】此ゆふは川も 即よしの川なり、巻九に古いにしへの賢かしこき人ひとの遊あそびけん、吉野の川原、みれどあか ぬかも、こは人まろの家集中にのする歌也、と裏書に見ゆるに、古の云々と よみたれば、いとも上つ代のよき人をのたまふ也けり【薬師寺仏足石の歌に、釈迦仏/をもよき人とよみ給へり】 《上欄》浜成式てふ/ものに此歌/を文字をか/へて書たる/はそら覚の/誤なり